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関羽>徐晃? ちくま和訳
6: 2002/11/02(土) 13:29 クェン 2002年04月10日水曜日 01時11分 関羽と徐晃に関しては色々思うところがあります。 では岡本さんに対抗してあくまで徐晃サイドからのみ語らせてもらいます。ちなみに徐晃ファンです。関羽は普通に好きです。 年齢差について >中国では±5才くらいの年代なら、相手のことを仮に自分より年下でも”兄”と呼ぶそうです。 話を振っておきながらなんですが、実は、私的にはどちらが年上なのかはあまり重要で無かったりします。私にとって重要なのは、徳間書店が言っている「年のせいで関羽が負けた」かどうかです。まあ、±5才程度ならば年のせいで負けたとはいえないので、徐晃が年下でもかまいません。 それと関羽が徐晃を尊称である「兄」と呼んでるのも個人的に見逃せません。これって、少なくとも吉川のように徐晃が一方的に関羽を尊敬している関係ではないことを示してると考えていいですよね? 戦術について 関羽との直接対決以外の部分も含め、徐晃の一連の行動を戦術として評価しました。 >荊州陥落の情報が菫昭の策で関羽陣営に伝わり、関羽陣営の士気が地に落ちてから交戦しています ここからが徐晃の腕の見せ所な気がします。まず囲頭の屯営を攻撃すると宣伝しておきながら四冢を攻め、それに気がついた関羽を打ち破った。これこそ戦術だと思うのですが。 >戦術というより機を見るのに敏だったというべきでしょう。 兵法で「初めは処女の如し、後には虎の如し」というのありませんでしたっけ?うろ覚えなので、細部は違うかもしれませんが、徐晃はまさにこれだったと思います。 >状況を考えるとこのような状態で軍が完全に崩壊せずに総勢3万のうちの数千だけでも確保して自ら徐晃に相対して被害を極力減らそうとした 徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やはり精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そうすると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モードであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょうか。だからこそ、奥の手である関羽御大直々の戦闘に負けたため、この直後からなすすべも無く包囲網を破られたのだと思います。 >関羽が「徐晃ごとき」に敗れた戦 ファンである私から見ても、徐晃は曹操の手下その1ですからねえ… どうしても関羽のが英雄としての格は上に見えます。
7: 2002/11/02(土) 13:29 もす 2002年04月10日水曜日 21時01分 全く話を逸らしてしまいますが・・・ ⇒ぐっこさん >まあ地勢を計算しない戦バカの失敗ですけど… 初めて行く所で特殊な気候・風土を知るのは、ほぼ不可能ですって・・・(;^_^A 曹操が赤壁で失敗したのにしても、元寇での退却にしても、責めるのは非常に酷ッス。。 霍去病なんて、匈奴を撃つ時に『寒い』事すら知らず、率いる兵に防寒具を与えなかったワケですし(笑) 日本人にとって、アメリカにおける竜巻ですら"実感"が非常に難しいように、 彼らに同様の事を求めるのは・・・と思いますよ(^^ゞ
8: 2002/11/02(土) 13:30 玉川雄一 2002年04月10日水曜日 22時24分 おお、アタシが爆睡してる間に面白い話題に。 私の関羽の評価はあくまでも「将帥としては一流」なんで、そういう意味では徐晃と同レベルです。そのレベルではむしろ、徐晃の方が評価は上かも。 正史の記述だけで比べるのも酷でしょうが、少なくとも徐晃は軍の総帥としての実績が直接的に残されています。関羽はいまいちそれが掴みづらいのです。文中で下されている評価から推測できる程度で。いざ「戦闘」となったら、徐晃の方が場数を踏んでるんではないかしら? ただ、関羽は単なる将軍以上の役を負っていましたので、そういうレベルまで含めると徐晃と単純に比べるわけにはいかないでしょうね。将軍というレベルなら徐晃が勝っても不思議はありませんが、実際には関羽は背負う物が大きかった分ハンデはあったでしょう。ただ、関羽はまさにその背負ったもの(荊州総督)のお陰で敗れたわけですが。 関羽と徐晃の戦術的な対決の部分では、素直に徐晃を褒めてあげます。
9: 2002/11/02(土) 13:30 岡本 2002年04月11日木曜日 20時18分 うむむむ...旗色が悪いですね。 魏・呉と比較して蜀勢は記述が少ない人が多いですから自然と対抗勢力の記述から推測するほか無いわけで...。 私は関羽ファンの呪縛から解き放たれていないようですから、以下の議論はかなり眼鏡に色がついていると、ご了解ください。 クェン様 >徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益>陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やは>り精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この >「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そう>すると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モー>ドであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょ>うか。 1軍の指揮官が”将軍”であると仮定して、三国期の1軍は3000強ぐらいだったようですから(于禁の7軍は2〜3万、1軍=5000だと3万強)、5千が関羽の好んだ兵数であったというのには異論はありません。延津の文醜軍が数千でしたから、1指揮官の統率兵数が普遍的にこれくらいだった可能性もあります。 関羽瀬の故事 単刀赴会前後の呉・蜀の軍事行動に関してはまた意見があるのですが、いつ魏が攻めてくるか分からない以上積極交戦は避けようと考えていたと思います。大体、攻撃目標をおおっぴらに宣伝していたわけですから。呉の出方を見よう、あわよくば渡河しようぐらいではなかったでしょうか。 ”雌雄を決する”ですが、私観では、この時点の関羽の考えていた戦略はこうだったように思います。 1.樊・襄陽を抜く。 2.樊入城後、攻囲陣を解いて野戦陣に切り替える。 3.徐晃の援軍はこの時点で退却するか、退却しないようであれば 一戦交えて、撃退する。 4.関中方面の劉備本隊が長安を取る、もしくは涼州を取るまで積 極交戦は控え、宛に圧力を掛けるのにとどめて勢力を固める。 参考になるのは白馬の戦いの顔良軍の行動です。このときは攻囲軍の方が篭城軍と救援軍の総兵力より多かったと思いますので、単純に比較は無理ですが。 本題に戻りますと、攻囲陣を敷いている以上積極的な野戦は避けようとするだろうということです。野戦では軍の勢いと総兵力が大きく効きます。それに、野戦に振り向けられる兵力も限られます。また、城内の軍と挟撃されるのを最警戒しますから。徐晃と悠長に会話をしていたことを考えると、関羽としては、徐晃を撃破するよりも樊城攻囲に全精力を向けている状態では樊城の落ちるまで交戦は避けるつもりだったと思います。上庸の孟達・劉封が来ていれば...。ですから、自身向かうことで抑止力を働かせようとしたと解しています。勢いで全部持っていかれる可能性がありますので(結局は樊が落ちず、徐晃、曹仁が適切すぎる行動を起こしたわけですけど)。あの状態で士気・兵力ともに上の軍に攻められたら、誰でも負けると思いますが。 そういう意味も含めて、”被害を最小にしようとした”行動と解した訳です。 軍の配置、兵糧の手配、捕虜の処理、各地の豪族との連絡と一人で多数の役目を背負っていた関羽と敵を破ることだけ考えていればよかった(しかも、後方から曹操の援軍がゾロゾロ来る)徐晃は立場がまるっきり違っていたと思いますが...。 脱線させた張本人ですが、別スレッドにしたほうがよいですかね。
10: 2002/11/02(土) 13:33 ぐっこ 2002年04月12日金曜日 00時05分 >もす様 うぐぅ…。私は根っからの于禁擁護派なので、個人的にはそう信じたいんですって(;^_^A ただ前から思ってたんですが、于禁って赤壁当時の所在が全くの不明なんですよね〜。徐州なり汝南なりでお留守番してたかもしれませんが、荊州まで進軍してたとしたら、漢水上流あたりの気候(半雨季と乾季)もキャッチしてないとおかしいですし…。 土地の支配者がしばしば樊水の決壊に悩まされてたコト(※ソース不明。「関羽伝(今泉恂之介)」あたりにサラッと)を考えると、于禁は遠征軍の総帥として、せめて布陣の位置くらい考えておくべきだった、と彼のために惜しむものであります。 >岡本様 そうですねえ…(^_^;) そういえば和訳スレでしたっけ… しかしここまで完璧に論を展開されると手も足も出ない…降参ぎみ。
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