関羽>徐晃? ちくま和訳
9:2002/11/02(土) 13:30AAS

岡本 2002年04月11日木曜日 20時18分

うむむむ...旗色が悪いですね。
魏・呉と比較して蜀勢は記述が少ない人が多いですから自然と対抗勢力の記述から推測するほか無いわけで...。
私は関羽ファンの呪縛から解き放たれていないようですから、以下の議論はかなり眼鏡に色がついていると、ご了解ください。

クェン様
>徐晃伝によると関羽はこの時5千を率いたそうです。かつて益>陽で関羽が3万を率いて魯粛1万と戦うことになった時、やは>り精兵5千を率いて甘寧と対峙したことがありました。この
>「5千」は関羽のもっとも好む兵数なのかもしれません。そう>すると、被害を減らそうとしたのではなく、これこそ本気モー>ドであり、これで雌雄を決するつもりだったのではないでしょ>うか。
1軍の指揮官が”将軍”であると仮定して、三国期の1軍は3000強ぐらいだったようですから(于禁の7軍は2〜3万、1軍=5000だと3万強)、5千が関羽の好んだ兵数であったというのには異論はありません。延津の文醜軍が数千でしたから、1指揮官の統率兵数が普遍的にこれくらいだった可能性もあります。

関羽瀬の故事
単刀赴会前後の呉・蜀の軍事行動に関してはまた意見があるのですが、いつ魏が攻めてくるか分からない以上積極交戦は避けようと考えていたと思います。大体、攻撃目標をおおっぴらに宣伝していたわけですから。呉の出方を見よう、あわよくば渡河しようぐらいではなかったでしょうか。

”雌雄を決する”ですが、私観では、この時点の関羽の考えていた戦略はこうだったように思います。
1.樊・襄陽を抜く。
2.樊入城後、攻囲陣を解いて野戦陣に切り替える。
3.徐晃の援軍はこの時点で退却するか、退却しないようであれば
 一戦交えて、撃退する。
4.関中方面の劉備本隊が長安を取る、もしくは涼州を取るまで積
 極交戦は控え、宛に圧力を掛けるのにとどめて勢力を固める。

参考になるのは白馬の戦いの顔良軍の行動です。このときは攻囲軍の方が篭城軍と救援軍の総兵力より多かったと思いますので、単純に比較は無理ですが。

本題に戻りますと、攻囲陣を敷いている以上積極的な野戦は避けようとするだろうということです。野戦では軍の勢いと総兵力が大きく効きます。それに、野戦に振り向けられる兵力も限られます。また、城内の軍と挟撃されるのを最警戒しますから。徐晃と悠長に会話をしていたことを考えると、関羽としては、徐晃を撃破するよりも樊城攻囲に全精力を向けている状態では樊城の落ちるまで交戦は避けるつもりだったと思います。上庸の孟達・劉封が来ていれば...。ですから、自身向かうことで抑止力を働かせようとしたと解しています。勢いで全部持っていかれる可能性がありますので(結局は樊が落ちず、徐晃、曹仁が適切すぎる行動を起こしたわけですけど)。あの状態で士気・兵力ともに上の軍に攻められたら、誰でも負けると思いますが。
そういう意味も含めて、”被害を最小にしようとした”行動と解した訳です。

軍の配置、兵糧の手配、捕虜の処理、各地の豪族との連絡と一人で多数の役目を背負っていた関羽と敵を破ることだけ考えていればよかった(しかも、後方から曹操の援軍がゾロゾロ来る)徐晃は立場がまるっきり違っていたと思いますが...。

脱線させた張本人ですが、別スレッドにしたほうがよいですかね。
1-AA