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*単刀赴会前後の呉・蜀についての質問*
1: 2002/11/02(土) 13:51 岡本 荊州問題は三国志中でもかなりドロドロした問題であり、詳細な記述は無いか”江表伝”(呉ファンの諸兄には悪いですが、呉びいきのきらいがある)が多いという悩ましい議題です。これについて論じるのは地雷原に突貫するのに近いものがありますが、敢えて問題提起させていただきます。 まず、誰しも色眼鏡はあるでしょうから、どの派閥かを教えてください。(くだらない質問ですが、蜀=ショッカー、呉=ゴッキー、ですが魏は?) まず、隗よりはじめさせていただきます。 派閥=蜀 なお、呉ファンの諸兄には、過激な意見がでるやも知れませんので、前もってお詫びします。 呉・蜀の争点となった郡は、南郡・江夏郡・長沙郡・桂陽郡・零陵郡・武陵郡の6郡です。(厳密には、各郡の各地で三国が入り乱れていて正確にどの郡がどの国と色分けできないのですが、便宜上区分します。また、分割してできた宜都郡もありますが省きます。) 第一期:赤壁後 周瑜が曹仁等と江夏郡・南郡を争っている間に、劉備が荊南4郡を押さえます。あくまで4郡制覇は蜀の自力です。が、呉としては赤壁、南郡と2回にわたって魏の主力と戦っている間に漁夫の利をせしめられた感があり面白くなかったでしょう。しかも、南郡・江夏郡は魏と直接接することになり、矢面になります。 第2期:劉備、荊州都督となる ここで問題なのは、どこの借用を劉備は孫権に依頼したかです。 正確な情報をお持ちの方に是非とも伺いたいのですが、呉・蜀両書とも明確には記述していないと思います。蜀側は劉キを荊州牧にしていますが、荊州の豪族対策であったとみるべきで、演義のような諸葛亮が魯粛に仕掛けたペテンのようなものではないと思います。 前後で厳密に貸し与えられたのは南郡のみ。 私観では、 蜀側=借用は南郡のみ。南郡は対魏戦線の一角であるのでこれでイーブン。4郡は、呉の気持ちは分かるが自力で取った以上譲れない。ただ、攻められないように保険は掛ける。 呉側=赤壁・南郡の戦いで呉が矢面に立った以上、勝利の果実として6郡全て呉のもの。ただ、現実にとったのは蜀側であるので、曹操との対抗する必要上、対魏戦線の一角(=南郡)は担ってもらいその便宜として4郡の借用を認めよう。 という意識だったと思います。 この借用契約自体がそもそも不明瞭だった(呉、蜀の領土的野心からでしょうが)のがその後の問題をはらんでいたのではないでしょうか。 この時点での勢力は 蜀=南郡・長沙郡・零陵郡・桂陽郡・武陵郡 呉=江夏郡 第3期:劉備、益州制覇。単刀赴会 劉備の益州制覇後、呉は三郡の返還を求めます。 3郡=長沙・零陵・桂陽 流れは、孫権の送り込んだ役人を関羽が追い返す。実力行使で 陸口に魯粛が布陣、長沙・桂陽・零陵を呂蒙が降し、呂岱が後を固める。公安に劉備が着陣後、益陽に関羽は進出。”単刀赴会”で魯粛・関羽会談す。魏の漢中進出の報で講和が結ばれる。 ここで疑問なのは講和後の境界線引きです。 蜀=南・武陵・零陵 呉=江夏・長沙・桂陽 呉書では、零陵を返したとあるのですが、なんとしても荊州が欲しかった孫権が、しかも劉備から(漢中対策で)請われた講和で譲歩した理由が明記されていません。状況から見て、劉備側が譲歩したはずです。蜀誌にも例によって記述はありません。 私観では、関羽が魯粛・呂蒙と小競り合いをしているときに取ったはずの3郡がほとんど取換えされかかったのではないかと考えています。根拠は、 A.劉備が対魏戦線の公安へ来訪した後、関羽は益陽に布陣したが、地図を見ると益陽は3郡の全てに面した。言い換えると3郡の威圧が可能な位置にある。 B.呂岱は長沙を抑えた後、頻発する反乱を抑えたとある。逆に言うと積極交戦は無かったものの、反乱が興りえるくらい関羽に魯粛・呂蒙は押されていたもしくは関羽の調略の手が伸びていたことになる。
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