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*単刀赴会前後の呉・蜀についての質問*
2: 2002/11/02(土) 13:52 魏を倒すことが目的だった魯粛は、蜀との交戦は極力避けようとしたでしょう。呂蒙伝にも、呂蒙自身の方針が魏を倒すことでなく、魏に対抗すること(正確には攻め込まれないこと)にあったのは記されています。 穿ちすぎかもしれませんが、周瑜の死後、対外侵攻戦争で魏に勝てる将がいないこと。及び孫権自身の対外親征でも負けが込んでることで、”野戦では魏に勝てない”と魏を倒すことは孫権の頭から抜け、荊州・揚州を押さえて魏に”対抗する”ことに方針が変わったのだと思っています。そう考えないと、魏を唯一倒せる勢力再編が起こりえる機会だった漢中制覇から関羽の樊侵攻で”後ろから刺す”に近い行動を取った理由が思いつかないからです。三国末期を考えると正解だったのかもしれませんが、さまざまな論議を巻き起こす結果になっています。 なお、周瑜・魯粛・呂蒙と3人が立て続けに若死にしていますが、この原因が荊州問題にあったと考えるのは考えすぎでしょうか。魯粛は、孫権との方針の違いから板ばさみにあったでしょうし、呂蒙は関羽との神経戦で消耗したと見るべきでしょう。関羽の評価も、関羽は生きていたことを考えると、悩むだけの神経を持ち合わせていなかったか、それとも緊張に耐え続けられるほどの強敵だったということになります。呉の3人は山越対策で悩んでいたとも思えますが、荊州制覇後の陸遜はその後長生きしていることを考えると、穿ちすぎとも思えませんが。 第4期:荊州陥落、関羽敗死 情報戦で蜀及び関羽が敗れていたのは認めます。呉の政策の真意が見抜けなかったわけですから。 蜀陣営は呉の真意が見抜けず、呉も魏を倒すことを目的としていると認識していたと考えると、この時点で蜀本国が荊州に警戒をしていなかったことは解けます。関羽自身の認識も、単刀赴会であった程度の侵入はあるかも知れないだったと思います。完全制覇(=関羽を殺す)ほど徹底したことを考えていたとは予想もしなかったでしょう。 湘関の米倉を破った、婚姻の申し入れを無礼な文句で断った等、関羽の態度に問題はありましたが、これに孫権が怒って荊州をとったという生易しいものではなかったでしょう。 呂蒙(そして孫権)ははじめから荊州を完全に取る気でしたから。 野戦では関羽に正面から勝てる将軍は呉にはいないので、確実に勝てるよう、出征期を狙ったのでしょう。 これを評して呂蒙は諸葛亮以上の軍略家と評する人もいますが、私は”近視眼的な見方しかできなかったんじゃ”と思っています。 断っておきますが、私は呂蒙のことはカン城攻囲戦の好判断、濡シュ口に砦を築いた慎重さ、荊州摂取後の領民への対応等からかなり優れた将帥とは思っています。ただ、荊州問題では零陵の取り方も含めて”やり口が汚すぎたんじゃ”とどうも好感情をもてないだけです(戦争にきれいも汚いもないですが)。もしかしたら、寿命が近く、焦っていたのかもしれません。 以上、長々を過激な発言で失礼しました。
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