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将軍位について
3: 2002/11/02(土) 15:54 惟新 2002年07月26日金曜日 14時42分 「遷」は「移る」と同義ですからね。何やら微妙な言い回し。 少し、私も考察して見ました。 まず鎮東将軍就任に関してですが、その当時はまだ呉との間がゴタゴタしていたでしょうし、なんだかんだ言ってまとまりの悪い蜀のこと、呉や魏に近い東方面は政情的に不安であったことが十分考えられます。ゆえに歴戦の将趙雲にそれなりの役職を与え、東方の安定を図る目的があったのではないでしょうか。 ではなぜすぐにそうせず、一旦中護軍・征南将軍を与えたかといえば、諸葛亮の軍権掌握の意図が考えられます。北は漢中の鎮北将軍魏延、東は永安の中都護李厳が掌握しています。残る南・西・近衛の軍を諸葛亮は掌握する必要があったのでしょう。そう考えれば、趙雲の任命も、陳到の征西将軍任命も合点が行きます。趙雲に掌握させた後、自らが直轄にするに当たって彼を東方に回したのでしょう。自分のところは大丈夫だから、と。 ではなぜ征東将軍ではなく鎮東将軍であったかといえば、蜀の東には呉があります。呉を征服するかのような官職を設けることはできなかったからでしょう。鎮東将軍であれば防衛軍の意味合いが強いですから、問題はないはずです。 また、その代わりに上級の位を与えなかったのは、李厳(ひいてはいわゆる益州閥)に対する配慮があったからかもしれません。李厳は中都護とはいえ、将軍位は輔漢将軍とそう高くはなかったようです。その彼を差し置いて孔明側の人間である趙雲を四将軍にでも任命すれば、いらぬ諍いを招きかねないとの配慮があったのかもしれません。もちろん、趙雲がそれほど評価されていなかった可能性も十分考えられます。 以上のように、役割に応じて将軍位が変わった、というのが真相だと愚考いたしました。もす様がおっしゃるとおり四征将軍と四鎮将軍との間にはさしたる差もなかったようなので、その辺は特に問題はなかったのかもしれませんね。 そう考えると「昇進」というのが違和感ありますが。
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