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小説 『牛氏』 第一部
100:左平(仮名) 2003/11/24(月) 22:52 五十、 そんな中、年が改まった。 室から外を見ると、地には、雪が積もっている。空は、さっきまでの曇り空が嘘の様に晴れ渡り、日の光が燦々と降り注いでいる。日の光が雪に反射され、きらきらと光る様は、何ともいえず美しいものである。 (伯捷が子の名に『白』とつけたのも、分からないではないな…。この、光の織り成す景色の美しさたるや、何物にも代え難い、崇高なものさえ感じさせるのだからな) 雪景色を見ながら、牛輔は、ぼんやりとそんな事を考えていた。 今、彼は、これから産まれて来る我が子につける名を考えているところである。だいぶ以前から考えていたのだが、戦やその後の処理などがあった為、なかなか考えをまとめられずにいた。 長男の名が『天蓋』からとって『蓋』なので、次の子には何か地にちなんだ名を、と考えているのだが、これがなかなか難しいのである。 (単に地を示すというだけでは、兄の名と釣り合わないしな…。ん?『つりあう』か。う−ん…) (「つりあう」…「均衡」…ん?「きん」?これで何か良い字はないものかな…) (そうだ、「白」には【五行思想における】金という意味合いもあるんだったな…。義父上からすればともに孫だ。あの娘との釣り合いも考えないと…) (おっ、そうだ!) 脈絡なく考えているうちに、ようやく、それらしい字が思い浮かんできた。 金扁の字は幾つもあるが、『天蓋』に比べられる様な意味合いを持つ字句は、そう多くない。しかし、一つだけあったのである。 (『鈞』だ!!) 『鈞(きん)』。この字には、「ひとしい」という意味がある。それに加え、重量の単位とかろくろという意味合いも含んでおり、ろくろから転じて、造物主とか天の意をも示すという。 そして何より、この字のついた語句に『天蓋』に比べられる様な意味合いを含むものがある。 『鈞臺【きんだい】』−。それは、古の夏王朝の王・啓が、父の禹より王位を禅譲された益との争いに勝って王として即位した時に、諸后(諸侯)をもてなしたという地の名である。 諸后が鈞臺にいる啓のもとに集まったというその事実によって、夏王朝は成立したとみなす事ができるのだが、それは、中華の歴史に大きな一歩を記す出来事であった。 「左伝(春秋左氏伝)」にも、「夏啓有鈞臺之享。 商湯有景亳之命。周武有孟津之誓」という一文があり、これが、王朝成立にかかわる重大な出来事として考えられていた事がうかがえる。 それゆえ、夏王朝の時代にあっては、そこは一種の聖地であり、また、地の中心であると考えられもしたそうである。 (兄の名が天蓋を表し、弟の名が地の中心を表す…。なかなかうまい具合になるな。うん、これでいこう) こうして、その子の名は決まった。 子供の名前が決まったのを待っていたかの様に、姜が陣痛を訴え始めた。いよいよ、出産の時である。 産婦である姜に続き、手伝いの者達数名が産室に入っていった。 もう三人目であるから、初産の時の様に慌てる事はない。しかし、そうはいっても、なかなか慣れるものでもないのもまた事実。 牛輔にとって、出産が無事終わるまでの数刻は、またしても長い長いものとなった。そうこうしているうちに、いつしか日も落ちてゆく。 「父上ぇ〜。母上はぁ〜?」 子供達が母親の様子を案じてか、しきりに牛輔に寄りかかってくるのである。 「母上はな。いま、そなた達の弟を産もうとなさっているところなのだよ」 もう夜も遅い。そろそろ寝かしつけないといけないのだが、そう言ってむずがる子供達をなだめるのが精一杯である。いかにいっても、子供達は母親に懐く傾向が強く、父親にはさほど懐くものではない。それゆえ、こういう時の扱いには苦労する。
101:左平(仮名) 2003/11/24(月) 22:53 はい。それは知ってます。でもぉ…。どうして、わたし達が母上のところに行ってはいけないのですかぁ?」 「それはな…」 (出産というものがどれほど壮絶なものか、口で話しても分かるのだろうか…。とはいえ、直に見せるのも何だしな…) なかなか、うまい具合に説明できるものではない。 「ねぇ〜、どうしてぇ〜?」 「と、とにかく、だ。いま、母上は大変なところなのだ。そして、こればかりは、私も、そなた達も、何もしてやれないのだよ」 「そばにいるのもだめなのですかぁ?」 「そうだ。分かったら、おとなしく寝てなさい」 「でもぉ〜」 「そなた達が母上の事を思っているのはよく分かった。それを聞けば、母上もさぞ喜ばれる事であろう。明日の朝には産まれているはずだから、その時、母上をしっかりとねぎらってやるのだ。夜更かししたりすれば、母上も喜ばれないぞ。よいな。さっさと寝なさい」 「はぁ〜い」 やや不承不承ながら、そう言うと、ようやくそれぞれの寝所に入っていった。 「はぁ…。子守りってのも、なかなか大変なもんだ」 慣れない事がひと段落ついたせいか、どっと疲れを感じた。 子供達を寝かしつけたとはいえ、牛輔自身は眠れない。姜の身を最も気遣っているのは、他でもない、夫である彼自身なのだから。母子ともに無事に産まれるまでは、気が気ではない。 一睡もしていないのだから、心身ともにひどく疲れている。しかし、姜の疲れはそんなものではないはずだ。 (男だろうが女だろうが構わないから、とにかく無事に産まれてくれよ) そう祈るのが精一杯であった。そんな時間が過ぎる中。 「殿!産まれましたぞ!!」 家人達の声が聞こえた。 「そうか!で、姜は!」 家人達の声には、不吉なものは感じられなかったが、念のため、そう聞き返した。 「ご心配なく!奥方様もお子様も、ともに至って健やかですぞ!!」 「そうか!よくやったぞ!!」 その言葉を聞いて、ようやく人心地ついた。ほっと胸をなでおろすと共に、安堵したせいか、ふっと体から力が抜ける。
102:左平(仮名) 2003/11/30(日) 22:51 五十一、 「おっと、一刻も早く姜をねぎらってやらんと」 そう思い返した牛輔は、ゆっくりと立ち上がった。自分としては、一家の主らしくすっくと立ち上がりたいところなのであるが、なにせ、眠い。思う様には体が動かないのである。 足元に多少のふらつきを見せつつ、産室に向かう。 近づくにつれ、出産に伴う独特のにおいがする。血やら胎盤やら羊水といった様々なものから生じるそのにおいは、決して良いにおいというわけではないが、妻への想いの故か、母子ともに健やかであるという安堵感のためか、不思議と意識する事もない。 「姜。入るよ」 そう一声かけ、一呼吸おいてから、産室に入った。初めてではないのだが、男が産室に入るのには、多少の覚悟がいる。 そこには、お産を終えたばかりの姜が横たわっていた。難産であったらしく、顔はやつれ、髪もひどく乱れている。呼吸も荒い。その姿を見るにつけ、牛輔は何とも言い難い気持ちになった。そんな気持ちが顔にも表れ、笑顔とも泣き顔ともつかない、不思議な表情になる。 「よくやったぞ。本当に」 そう優しく声をかけ、彼女に寄り添うと、首筋に手を回し、頬をすり合わせた。そんな夫のねぎらいを受け、疲労の極にある姜の顔に、笑みが見えた。まだ意識は朦朧としているものの、その笑顔は心からのものである。 「あぁ、あなた…。ごらんください。ほら、男の子ですよ」 そう言われて振り返ると、産湯につかり、むつきにくるまれた赤子がいるのが見える。赤子は、あの時の蓋に比べるとやや小さい様に思えるが、泣き声は大きく、盛んに手足を動かすその姿は元気いっぱいである。むつきをめくり、股間を見ると、男である事を示す『もの』もついている。なるほど、確かに男の子だ。 「そうか。そなたの言ったとおりになったのだな」 「はい…。名前は…いかがいたしますか…」 「明日、この子の名前を話す。楽しみにしておいてくれ。ゆっくり休もう」 「はい」 翌朝− 牛輔は、嫡男の蓋と向かい合って座っていた。普段は仲の良い親子であるが、この場については、やや改まった雰囲気が漂う。 「蓋よ」 「はい」 「来てもらったのはほかでもない。昨日産まれた、そなたの弟の名を告げるためだ」 「はい」 「この子の名は−『鈞』。牛鈞だ。よいな」 「鈞、ですか…。わたしの名の『蓋』と何らかの関連があるのですね」 「そうだ。そなたの名は天蓋、すなわち天にちなんでおり、この子の名は鈞臺、すなわち夏の御世の人々が考えた地の中心である鈞臺にちなんでいる。どうだ?」 「素晴らしい名です。わたし達兄弟がその様な名をいただいて良いのかと思うくらいに」 「うむ。この何に込めた私の想いを、無駄にせぬ様に努めるのだぞ」 「はい。わかりました」 「それとな。実は、そなた達の字も考えたのだ。実際に字を用いるのは、まだだいぶ先の事だか…」 「字ですか?それは、一体どの様な字なのですか?」 「聞きたいか?」 「それはもう」
103:左平(仮名) 2003/11/30(日) 22:53 「では、話しておこう。まず、そなたの字は『伯陽』だ」 「『伯陽』、ですか?それには、一体どの様な意味があるのでしょうか」 「『伯』という字はそなたも承知しておろう。これには、三つの意味を込めている」 「三つの意味、ですか」 「そうだ。まず、『おさ(長)』という意味。そなたはこの家の大事な跡取りだからな。字にもそれを示しているのだ」 「はい。父上の字もそうなんですよね」 「そうだ、よく分かっているな。そして、もう一つは、『伯夷』だ」 「伯夷というと、弟の叔斉とともに、周の粟を食む事を拒み、ついに餓死したというあの義人ですか」 (父上は、わたしに対し、その様な人物をも意識せよと。そうおっしゃるのか…) まだ幼い蓋ではあるが、『伯夷』のもつ意味の重さは承知しているつもりである。思わず、背筋が伸びる思いがした。 余談であるが、かの水戸黄門こと徳川光圀は、若い頃は素行が悪かったという。しかし、十八歳の時に『史記』の『伯夷列伝第一』を読んで感動して更生し、名君としてその名を残している。傍目には愚者とも見える伯夷・叔斉の兄弟ではあるが、節義に殉じたその姿勢が、人々の心を打つのであろう。 「あれっ?父上、それでは二つの意味ではないのですか?」 「いや、三つだ。『伯夷』に二つの意味があるからな」 「二つの意味?」 「そうだ。一つは、そなたの申した義人・伯夷。もう一つは、そなたもその血をひく羌族の神・伯夷の事を指すのだ」 「伯夷には、その様な意味もあるのですか」 「そうだ。伯夷は帝舜に仕え、典刑をつくったという」 「これはまた…。父上がそこまで考えておられるとは。そうしてみると、わたしはたいへんな字を持つわけですね」 「確かに、容易な事ではないな。しかし、孟子もおっしゃっているではないか。『王の王たらざるは、是れ枝を折ぐるの類なり(王が王者になっていないのは、目上の人に腰を曲げておじぎをする事のたぐいである。つまり、物理的にできないのではなく、単にする気がないのに過ぎない)』と。大抵の事については、要は、自らの有り様次第なのだ。よいな」 「はい、分かりました。伯夷の如くなれる様、努めてまいります」 「そうだな。是非そうなってもらいたい」 「ところで、『陽』は?」 「『陽』は、天の中心たる太陽にちなんでのものだ。名と字にはそれぞれ関連した字を用いる事となっているからな」 「なるほど」 「さて、鈞の字だが。こちらは『仲泰』だ」 「『仲泰』、これにはどの様な意味が?」 「『仲』は、『なか(二番目、または真ん中)』という意味だ。次男だからな」 「では、『泰』はさしずめ『泰山』の事を指すのですか?」 「よいところに気付いたな。その通りだ。そなたは賢いな」 「父上にそう言われると、何か照れますね」 「五岳(中華を代表する五つの山。東の泰山、西の華山、南の衡山、北の恒山、中央の嵩山)の一つである泰山は、古くから羌族の信仰の対象であったというから、羌族の血をひく鈞の字にふさわしい。それに、まことの帝王のみに許される封禅の儀式が行われるという事を考えると、泰山もまた、地の中心であると考えられるからな。名と字に関連がある、とまぁこういうわけだ」 「なるほど…」 「この字、気に入ったかな?」 「気に入るも何も…。名と同様、素晴らしいとしか言い様がございません」 「では、そなた達が志学(十五歳)になったら、この字を使う事としよう。よいな」 「はい!」 −この後この兄弟は、乱世の中、文字通り激動の生涯を歩む事となる。幾多の苦難の中、彼らの最後のよりどころとなったのは、この、父から賜った名と字、そしてその由来であった−
104:左平(仮名) 2004/01/01(木) 00:15 五十二、 牛輔にとってみれば、この頃は、おおむね幸せな時期であった。 羌族との戦いがしばしばあったので平穏とは言い難いものの、これまでのところ大きな犠牲もなく済んでいるし、何より、姜をはじめとする家族にも恵まれている。 父も弟達も至って健やかであるし、義父・董卓も順調に位階を進めており、刺史や郡太守といった地位も考えられるところまできていた。 これならば、次代を担うであろう勝は、より高い位に就けるはずである。そう、牛輔の願い通り、全てがうまくいっていたのである。 その『事件』が起きるまでは。 …さて、この当時の時代状況を知るよすがとなるのは、何といっても史書の記録であろう。陵墓などの遺跡から発掘される文物も重要なのだが、時代の全体像を考える上では、史書の記述を無視するわけにはいかない。 牛輔や董卓が生きたこの当時は後漢の霊帝の時代にあたるので、その当時の事を調べる為に『後漢書 孝霊帝紀第八』をひもとくと、作者の様な漢文の素人でも、すぐに目に付く事がある。 やたらに『大赦』が目立つのである。 西暦でいうと、霊帝の在位期間は168年〜189年なので、足かけ二十二年となる。その中で、何と十九回の大赦(うち二回は霊帝が崩じた後なので、霊帝在位中の大赦は十七回)が実施されている。一年ちょっとで一回という頻度である。 『大赦』とは、国家的にめでたい事(帝王の即位、立太子、成婚、瑞祥など)があった際に罪人の刑を減免する事であるので、本来であれば、一人の帝王の在世中にそう何回も出すものではない。第一、霊帝の時代には、さしてめでたい事があったわけでもない(怪異現象ならいくつか記されているが)。 では、何ゆえ、かくも多くの大赦が乱発されたのであろうか。 簡単な事である。当時の政治が、全くもっていい加減なものであったが為に他ならない。 先にもちらりと触れたが、建寧二(169)年にいわゆる『(第二次)党錮の禁』が発生し、宦官勢力に反発した多くの名士達が、処刑されたり投獄されたりしている(『後漢書』には彼らの記録をまとめた『党錮列伝』がある事からも、その凄まじさがうかがえよう)。その死者だけでも百人を超えるといわれ、さらに、その一族や関係者も、禁錮や辺境への移住を強いられているのであるから、その影響は甚大なものがあった。 人々に与えた精神的な衝撃という点もさる事ながら、現実の政治の運営にも大いに影響するところがあったのである。 先帝(桓帝)の御世に、跋扈将軍・梁冀の勢力が滅ぼされるという事があったのだが、その時、その関係者という事で多くの現役閣僚も巻き添えを食った為、朝廷は空になったといわれる。この時も、それに似た事態が発生したものと考えられる。 そう、実際の政治に携わる者がごっそりといなくなってしまったのである。 政治に空白が許されない以上、欠員となった席には誰かが入り、形ばかりでも空席が埋められる。そこに入ったのは、当然、宦官勢力に近い人々であった。 本来ならばその地位にふさわしくない者までも取り立てられたのであるから、当初から彼らの評判は芳しくなかったものと思われる。もちろん、中には、それなりの志というものを持っていた者もいたかも知れないが、基本的には、宦官達の意に沿う事を第一としているのであるから、政治の何たるかという事は顧みられなかった。 この様な状態においては、当然の様に賄賂が横行するなど、政治秩序に著しい乱れが生じる。人間というものの本性を考えると、利益を求めるという姿勢は分からないではないが、政治に関わる者が、賄賂という形で利益を求めるのはどうであろうか。権力というものについての理解があれば、その様な態度はそうそうとれないはずである。『韓非子(外儲説右下篇)』にある、魯の宰相・公儀休の話(彼は魚好きであったが、人から魚を贈られても決して受け取らなかった。魚を受け取って借りを作ると、その借りの為に、後々問題が生じるからというのがその理由)はその一例と言えよう。 凶作、叛乱、外寇…。政治がきちんとしていたとしても、これらの禍は完全に防げるとは限らない。しかし、いい加減に対処していると、その被害はますます大きくなり、しかも、さらなる禍の芽を残す。 その解決には相当な努力が必要なのであるが、この様な有様で、そんな事が出来ようはずもない。結果、その場しのぎの対策に留まる。乱発された大赦は、その様な、当時の状況を知らせる良い例なのである。 そして、そんな中で、まともに政治が行われていれば考えにくいであろうその『事件』が起こった。長い歴史の中では、ごくありふれた事件である。しかし、牛輔達にとっては、それは一族の命運にも関わる、大変な出来事であった。
105:左平(仮名) 2004/01/01(木) 00:15 ことの起こりは、劉カイ【小+里】という人物の素行がよろしくなかった事にあると言えるかも知れない。少々長くなるが、その経緯を記しておく。 劉カイ【小+里】は、先帝(桓帝。諱は志)の弟である。兄の志が、質帝の崩御をうけて帝位に就く(本初元【西暦147】年)と、その翌年、蠡吾侯から一躍渤海王に昇格した。 今上帝の弟という事を考えると、この昇格自体は別段不思議な事ではない。しかし、傍系の皇族として、一県程度の食邑しか持たない貧しい侯であった(しかも、兄がいるのだからその嫡子ですらない)のがいきなり郡規模の食邑を持つ富貴な王になったのである。自由に使える財貨も増えるし、配下の人数も後宮の規模も、格段に大きくなる。彼自身にとっては、望外の喜びであったろう。 しかし、そこに落とし穴があった。 桓帝が即位したのが十五歳の時というから、その弟である彼は、当時、まだ十歳そこそこといったところであったろう。人格を練る事もなく、そんな年でいきなり富貴を得たらどうなるかは、我々の身近にもまま見られるところである。 皇弟というのは、大変な地位である。皇帝である兄に万が一の事があれば、直ちに次の帝位に就くかも知れないのであるし、何より、皇族の模範として、最も忠実な藩屏である事が求められる。何事にも慎重に振る舞い、小心翼翼としておらねばならないのである。しかし、彼にはそうする事はできなかった。 「不逞の輩を集め、酒や音楽にうつつを抜かしている」。延熹八(165)年、彼にかけられた嫌疑は、ごくごく簡単に言うとこういったものであった。単に酒や音楽にうつつを抜かしているというだけなら、王朝にとってさしたる実害はない(皇帝とその直系の子孫以外の皇族については、あまりに優秀であってもまた問題になり得るのである)。しかし、皇弟の邸宅に不逞の輩が出入りしているとなれば、話は別である。彼は罰せられる事になり、オウ【疒+嬰】陶王に降格された。この措置により、収入が大幅に減少したのは、言うまでもない。 場合によっては賜死を余儀なくされたかも知れないのであるし、第一、もともとは一諸侯でしかなかったのである。降格されたとはいっても、なお以前の侯より上の王位にある。元に戻ったくらいに捉える事ができていれば、それで話は済んでいたかも知れない。しかし、一度味わった富貴は、容易に手放せないものらしい。彼は、復位するべく、宮廷内部に働きかけた。 その相手となったのが、時の中常侍・王甫である。彼は、前述の(第二次)党錮の禁にも大きく関わっており、当時、宮中でも一、二を争うほどの実力者であった。その王甫を動かす事ができれば、復位も容易であろう。劉カイ【小+里】は、そう考えた。 「(渤海王に)復位した暁には、謝礼として銭五千万を出そう」 彼は、王甫にそう約束した。ちょっとした仲介で銭五千万の報酬。いかにあちこちから利得を得られる地位にあるとはいえ、これはなかなかに魅力的な話である。王甫がこれを受諾したのは、言うまでもない。 その甲斐あってか、降格の二年後、永康元(167)年に、劉カイ【小+里】は渤海王に復する事ができた。 となれば、当然、劉カイ【小+里】から王甫に銭五千万が渡されるところなのであるが…そうはならなかった。そして、それが事の発端となった。
106:左平(仮名) 2004/01/12(月) 22:33 五十三、 劉カイ【小+里】は、王甫に銭五千万を渡す必要がないと考えたのである。自分から約束しておきながら、どういう事かと疑問に思うところであるが、彼の中ではそれなりの理由があった。 実は、劉カイ【小+里】が渤海王に復位するのとほぼ同時に、桓帝は崩じたのである(ともに十二月の出来事であった。享年三十六)。先の質帝の様な不審の残る死(梁冀によって毒殺されたとされる)ではなかったから、彼には、自分の命が尽きようとしている事を悟り、遺詔を残すだけの時間があった。この遺詔は、紛れもなく桓帝自身の意思によるものである。 先にかけられた嫌疑については、史弼という剛直な人物が奏上した事であり、かつ裏付けもとれている事であるから、降格は誤りであってその訂正をしたという訳ではない。 この復位は、素行のよろしくない弟の行く末を案じた兄の、最後の思いやりといったところであると考えてよかろう。あるいは、実子が叶わぬなら、せめて自分に近い血縁の者を皇統を狙える位置に残しておきたいという意思表示でもあったかも知れない。 その思いはさておき、もともと、帝王の言葉とは重いものである。「綸言汗の如し」や「王に戯言無し」など、その重さを説く格言は幾つもあるという事からも、その事はうかがえる。ましてや、帝王がまさに崩じようとしている時の言葉である。もう二度と訂正はきかないのであるから、その意味は限りなく重い。 劉カイ【小+里】は、その重みを、自分に都合のいい様に解釈した。 (わしが復位するのは、陛下のご遺志であったのだ。帝王の遺詔は、何人たりとも介入できない聖域。王甫にどれほどの力があろうとも、陛下のご遺志はそれとはかかわりのない事である) 自分は良い兄を持った。そう思いはしたであろうが、彼は、重要な事実を見落としていた。それも、二つも。その事が、一連の事件につながっていくとは、気付くはずもなかった。 一つは、当然受け取れると思っていた報酬を反故にされた、王甫の怒りである。 銭五千万というのが、当時にあってはどの程度の価値であったかについては、現代との比較は難しいところである(良銭・悪銭の差、度重なる改鋳、通貨価値の激変などの理由により、定点がはっきりしない)が、二、三の事例を挙げてみよう。 @梁冀が滅んだ後、没収された財貨の額は、銭三十億余りに達し、それによって、天下の租税を半減させる事ができたという。…銭三十億が国家予算の半額ととれるので、その六十分の一である銭五千万は、国家予算の百二十分の一に相当する。現在の日本にあてはめると…(当時は国債というものはないので税収のみで考えると)…約三千七百億円相当となる。 A『史記』貨殖列伝には「封者食租税、歳率戸二百。千戸之君則二十萬(諸侯の、一戸あたりの税収は【銭】二百。食邑千戸の諸侯であれば、税収は【銭】二十万)」との記載がある。この当時(『史記』が書かれた頃)の一銭は、現在の日本円にして約百八十円くらいとの事なので、それで換算すると…約九十億円となる。もっとも、前漢末から後漢にかけての混乱を経て、貨幣の流通量は(例えば、皇帝から臣下へ賞賜された銭の数量が、後漢は前漢の約三分の一であるという様に)激減しているから、この頃にあってはその数倍の価値があったとみてよい。となれば、三、四百億円くらいになろうか。 B当時の渤海国の人口が約百十万人。当時の漢朝の全人口が約五千万人といったところなので、その約2%にあたる。そこからの税収(全てではない)が渤海王の収入となるわけだが、朝廷−地方王の取り分の比率が現在の日本の国−地方間の取り分の比率くらいと考えると…@と同様に現在の日本にあてはめた場合…約三千二百億円相当となる。 以上、実に粗雑な検証ではあるが、いずれにしても、一般の人間からすると大変な金額である事には相違ない。これほどの大金が絡むとなれば、ただで済むはずもないのは、今も昔も変わりない。 それに、王甫は宦官である。宦官は、性欲を充足させる事ができない分、権勢欲や金銭欲は常人以上に強いといわれる−事実そういう事例は多い−のであるが、その欲望を大いに損ねたのであるから、なおさらである。
107: 左平(仮名) 2004/01/12(月) 22:33 もう一つは、彼を復位させたのが「遺詔」だったという事である。最大の庇護者であった兄、桓帝はもはやこの世におらず、そのあとを継いだ今上帝(霊帝)は、桓帝・劉カイ【小+里】兄弟との血縁は薄い(桓帝の祖父と霊帝の曽祖父が同一人物【章帝の子・河間王の開】。二人は【共通の祖先から見ると】おじとおいという関係になるが、ともに帝位に就く前は地方の諸侯に過ぎなかったので、関係は疎遠であったと思われる)。 桓帝の御世においては皇弟であった彼も、霊帝即位後は、単なる一皇族に過ぎないのである。 いや、それだけではない。「先帝の弟」ともなれば、桓帝が男子なく崩じた(実際そうであった)後、そのあとを継ぐという可能性もあったわけだし、それを主張するだけの正当性も充分にある。その様な存在は、新たに皇帝となって間もない霊帝にとっては決して快いものではなく、むしろ疎ましくさえあったろう。劉カイ【小+里】という個人に対しては別段どうという感情はないにしても、彼が、自らが帝位に就く事の正当性を主張したりすれば、国論は分裂し、大変な事になるかも知れないのであるから。 そういった点に思いを馳せておれば、いったん約束しておきながら、王甫に銭五千万を渡さないという事が、どれほど危険であるかというのは分かり得たはずである。王甫が、実際に復位の為に動いたかどうかは関係ない。劉カイ【小+里】が渤海王に復位できたのは事実なのであるから、約束した銭は、渡すだけは渡しておいた方が無難というものであった。 そんな中、劉カイ【小+里】を擁立しようとする動きがあった。当時中常侍の地位にあった鄭颯や中黄門の董騰といった面々が、その為に動いていたのである。 その動きには「先帝の血筋により近い人物をたてるべきである」という一応の正当性はあったが、実のところはそんな奇麗事ではない。彼らは王甫と対立しており、自分達で皇帝を擁立する事で、優位に立とうとしていたのである。その、擁立する候補として挙がったのが、他ならぬ劉カイ【小+里】であった。 数回にわたって(使者が)行き交ったというから、彼自身も乗り気だったのかも知れない。 しかし、である。既に新皇帝(霊帝)が即位している今、その様な動きをし、それが発覚すればどうなるかは、言うまでもなかろう。 熹平元(172)年、ついにその事実が発覚した。王甫は素早く動き、政敵となった鄭颯を獄に下すと、尚書令の廉忠にその事を奏上させた。史書には「誣」の字があり、その点がややすっきりしないものがあるが、何分彼には、以前にも嫌疑をかけられたという前歴がある。 疑われてもおかしくはなかったし、探せば怪しい所の一つもあった。 廷尉が劉カイ【小+里】の前に現れた時、彼は、ようやく自らの軽率さを悔いたかも知れないが、既に手遅れであった。 同年十月、劉カイ【小+里】は自殺して果てた。ただ、謀反の疑いによるものであっただけに、事は彼一人の死では済まなかった。十一人の后妾、七十人の子女、妓女二十四人が投獄され、獄中で命を落とした。さらに、監督不行き届きの故をもって、王国の傅、相もまた誅殺された。 とはいえ、いささか軽率なところはあったにせよ、非道な事はしていなかったらしく、その死を庶民は憐れんだという。 かくして、王甫は銭五千万の怨みを晴らした。しかし、劉カイ【小+里】を死に追いやったところで、反故にされた銭が手に入ったわけではない。それどころか、さらに厄介な事態を招く事になったのである。牛輔達にも関わってくるその一連の『事件』は、まだ始まったばかりであった。
108:左平(仮名) 2004/01/25(日) 23:22 五十四、 厄介な事態になった、というのは、こういう事である。 劉カイ【小+里】の事件が起こる前の年−建寧四(171)年−の七月に、皇帝の元服をうけて皇后が立てられていた。 彼女は、当時執金吾の位にあった宋鄷という人物の娘である。宋氏は、前漢の時代まで遡れるという名家であり、曽祖父の世代では、章帝に寵愛された貴人を出している。(彼女がとある事件により自殺を余儀なくされた為に)その皇子・慶は太子の位を廃されたものの、その子の祜が安帝として即位し、安帝・順帝・沖帝と続いている。 沖帝が幼くして崩じ、質帝・桓帝・今上帝(霊帝)と傍系の皇族が立て続けに擁立された為、当時においては宋氏と今上帝との血のつながりはないが、帝室との関係は浅からずある一族でもある。 先の宋氏が自殺を余儀なくされたとはいえ、その孫が皇帝となっているのであるから、皇后が立てられた時点では宋氏に何の問題もなかった事は言うまでもない。王甫(及び宦官勢力)から見ても、それは同じであった(でなければ宋氏の娘が皇后に立てられるはずもない)。 しかし、劉カイ【小+里】の事件があった為、少なくとも王甫にとってはそうもいかなくなったのである。 なにしろ、獄中で死んだ劉カイ【小+里】の后は、新皇后の姑母(父の妹。日本でいう叔母)なのである。一族を半ば殺された形となる宋皇后が、その悲劇の張本人であるのが王甫と知ったらどうなるか。贅言は不要であろう。 劉カイ【小+里】を滅ぼし、溜飲を下げた後になって、王甫はその事に気付いた。 (まずい事になったな…) 一時の怒りに任せた結果、予期せぬ禍根を作ってしまったのであるから、良かろうはずはない。 なにしろ、相手は皇后陛下である。皇后というのは、単に皇帝の正婦というに留まらない。中常侍の彼にとっては、直接の上司にあたる存在でもあるのだ。これは、自らの地位を保つ上でも大問題である。 (さて、どうしたものか) しばし悩んだであろう事は、想像にかたくない。この時点では、彼には二つの選択肢があったと言える。 一つは、それこそ皇后の手足として忠実に働き、(姑母の死にかかわりがあると知られても)そうそう容易には排除できない様な重宝される存在になる事。もう一つは、策謀を弄して皇后を失脚させ、自分にとっての危険な芽を摘み取る事である。 もし前者をとる事ができていれば、宮中は、もう少し平穏な日々であったのだろうが…。王甫の、のみならず霊帝の人となりを考えると、それは所詮無理な相談というものなのかも知れない。 というのは、宋皇后の立場は、存外危ういものだったからである。 皇后が立てられた建寧四(171)年時点で、皇帝は数え十五歳。その正婦である宋氏は、おおよそ同年代であったろう。この世代の少年からみると、同年代の少女というのはまだ(性的魅力という点において)物足りなく思う事がままあるもの。ましてや、皇帝ともなると、後宮には全国から選りすぐった美女が溢れかえっているのである。 これで皇后に目を向けようとなると、皇后が絶世の美女(この時点では美少女か)であるとか皇帝に相当の自制心がある事が必要であるが…崩じた後、『霊』という諡号(最悪とまではいかないが、かなり悪い部類の諡号)をつけられる様な人物にそれを望む事は、ほぼ不可能というものであった。 それに、皇帝は、十二歳で即位するまでは貧しい辺境の一諸侯に過ぎなかった。史書に「扶風平陵人」とある事から、少なくとも当時の首都圏の出身であると確認でき、なおかつ名家の出である皇后とは、いま一つそりが合わなかったとしても不思議ではない。 その為、彼女は寵無くして正位(皇后の位)に居るという状態にあった。寵愛されない皇后が、やがて寵姫にとって代わられるという事はままあるから、現時点で、その地位が磐石のものであるとは到底言えないのである。
109:左平(仮名) 2004/01/25(日) 23:25 (ただ…皇帝陛下は、皇后にはさして思い入れがなさそうではある…となれば…) 王甫がとる手段は、一つしかなかった。皇后を失脚させる事である。それは、少なからず皇后とその一族の滅亡にもつながる事なので、またも悲劇を引き起こす可能性があるのだが、王甫にはどうでもいい事である。 (いささか気の毒ではあるが…わしが生き延びる為だ。消えていただくしかないな。ただ…寵愛されていないとはいえ、特に過失があるというわけでもないし…どうしたものかな…) 相手はいやしくも皇后陛下である。それを廃位するのは、過去にも幾つか例があるとはいえ、決して容易なことではない。 幸い、今、皇帝には何氏という寵愛を受けている貴人がいる。既に皇子の辯(後の少帝)を産んでいる事からして、宋氏を廃して何氏を皇后に立てる事については、皇帝は黙認するであろうと思われる。 もちろん、宋氏も今後男子を産む可能性がないとは言い切れないし、何氏は、皇后になるには身分的にも性格的にもいささか問題のある女性ではあるのだが、それは何とかなるだろう。問題は、いかにして宋氏を廃するかである。 「現状を考えると…最初から策を弄するのも何だな。まずは、正面からあたってみるか。これを諮るとなれば、さしずめ、太中大夫(光和元【西暦178】年当時は、段ケイ【ヒ+火+頁】がその任にあったと思われる)あたりかな」 そうつぶやくや否や、王甫は立ち上がった。 「車を出せ」 「どちらへ行かれるのですか?」 「段太中大夫のところだ。ちと相談したい事があってな」 「分かりました。すぐに支度いたします」 両者には、政治的に強い結びつきがあった。王甫が宦官であるのに対し、段ケイ【ヒ+火+頁】はれっきとした士大夫であるから、当時の政治情勢を知る人には、いささか意外に思うところではあろう。 だが、これは両者にとって益のある関係であった。段ケイ【ヒ+火+頁】は自らの富貴を維持する為、王甫をはじめとする宦官勢力に接近する必要があったし、王甫は敵対勢力を叩き潰すのに段ケイ【ヒ+火+頁】の勇武を必要としていたからである。 こう書くと、段ケイ【ヒ+火+頁】が権勢に擦り寄る悪党である様に思われるかも知れないが、事はそんな単純な話ではない。 段ケイ【ヒ+火+頁】は、董卓と同じく涼州の出身であるが、同時代に、彼を含めた三人の名士(皇甫規・字威明、張奐・字景明、段ケイ【ヒ+火+頁】・字紀明)がいた。彼らはその字に「明」という字が含まれていたので「涼州三明」と呼ばれていたのだが、段ケイ【ヒ+火+頁】は、三人の中で最も恵まれない立場にいた。というのは、他の二人は父が相当の官位にあったのでその恩恵を多分に受けられたのに対し、彼の父は史書に名が記されておらず(官位に就かずして亡くなったか就いていたにしても微官に留まったと考えられる)、その恩恵を受けられなかった為である。 段ケイ【ヒ+火+頁】は、対羌族戦において三人の中で最も苛烈な戦いを行ったのだが、それは、彼の性格によるというだけでなく、より目立つ功績を挙げる事で、二人との差を詰めたいという意識の現われであったかも知れない。 また、その結果得た富貴にしても、先祖代々の蓄積というわけではない。それを守る為にいささか無理をせざるを得なかったという事情もあったものと考えられる。 ともあれ、王甫にとっては、段ケイ【ヒ+火+頁】は頼れる人物であった。皇后廃位という大事を為そうとするにあたっては、一言相談しておくにこした事はない。 「これはこれは、王中常侍殿。いかがなされたのかな?」 本人は至って気軽に話しているのであろうが、さすがは歴戦の勇将。既に相当の年であるにも関わらず、慣れない人にはかなりの威圧が感じられる。それは、王甫にとっても同じである。政治的には近しいとはいえ、決して気安く話せる相手というわけではないし、何より武人である。長々とした挨拶などせず、手短かに話すのが良い。 「話がある」 「ほほぅ。どの様な話ですかな?」 「実はな…」 王甫の声が、いささか小さくなった。 (何か重大な話なのか) さすがの段ケイ【ヒ+火+頁】の心にも、緊張が走った。これが、自らの運命にも大きく関わろうとは、気付くはずもなく。
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小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50