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小説 『牛氏』 第一部
131: 左平(仮名) 2004/10/11(月) 01:16AAS
「ねぇ、あなた。いったいいかがなさったのですか?ここのところ随分ごぶさたですし、室からもあまりお出にならないし…」
謹慎?し始めてから数日が経ったある日、瑠がそう切り出してきた。もう二十年以上も連れ添ってきた妻でさえ、今回の彼の沈黙に対する戸惑いは隠せないのである。
「瑠か。いや、それがな…。どういうわけか、何もする気が起こらんのだよ」
そう答える董卓の声は、相変わらず張りが乏しい。気のせいか、顔色もすぐれない様に見える。
「何もする気がしない?どういう事ですか?」
「それはわしにもよく分からんのだ。普段なら、こんないい天気だ、狩りにでも出るか、それでもって、鹿の一頭も仕留めてやるか、と張り切るところなのだがなぁ…」
「それは…。あなた、ひょっとして、どこかお悪いのではないですか?ここのところ、気疲れなさっていた様ですし…」
「そうだな…。段公の事があったからなぁ…」
「段公の事は…。お気持ちは分かりますが、いつまでもあなたが気落ちなさっていても…」
「うむ…」
「一度、診ていただいた方がよろしいのではないですか?」
「そうだな。鍼でも打ってもらって楽になるか」
「そうですよ。そうなさってください」
「ふむふむ…」
診察は、思ったよりも長いものとなった。もちろん、診察が済みもしないのに鍼を打つという事はない。
「いかがですか」
「これは…ちょっと難しいですな」
「む、難しいとは?治らないとでも?」
「いや、そういうのとは違います。…ご存知のとおり、私が扱っておりますのは鍼です。お体に何かしらの病巣があるというのでしたら、それが膏肓(こうもう:心臓の下、横隔膜の上。鍼灸では手の打ち様がない所)にでもない限りは、何とか致しましょう。しかし、今の殿様の患いには形を持った病巣はございません。ですので、私にはどうにも出来ないのです」
「病巣は無い、とな…。では、どうして気分がすぐれぬのだ?」
「それは、ご自身がよくご存知でしょう。ほら、『病は気から』という事ですよ。近頃、気落ちする様な出来事はありませんでしたか。ありましたよね。そのせいです」
「気、か…。確かに、覚えはある…」
「ですから、何か気晴らしをなさるのがよろしいかと。今のところ、私からはそれくらいしか申し上げられません」
「分かった」
(気晴らし、か。では、やはり狩りにでも出るか…)
いま一つ気乗りがしないが、今の彼にとっての気晴らしは、それくらいしかない。
「皆の者。明朝、晴天であったら狩りに出るぞ。支度をしておけ」
「はっ、承知致しました」
(これで殿がよくなってくだされば良いのだが…)
家人達にとっても、主君の体調は気がかりなのである。
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