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小説 『牛氏』 第一部
24:左平(仮名) 2003/03/09(日) 21:48 十二、 その後、牛朗と董卓は、しばし談笑した。董卓にとっては、やはり隴西の方が気楽である様だ。ときおり、弘農の人間に対する愚痴もこぼれる。 「ははは…。まぁ、そうおっしゃられるな。もう一杯、いかがですかな?」 「えぇ。では、頂きます」 「しかし…。それならば、何故に弘農に移られたのですかな?」 「それはまぁ…。やはり、中央で高位を望もうとすれば、都の近くにいる方が何かと好都合ですからな」 「でしょうな」 「我が家は、代々の名族ではありませんからな。そちらと釣り合おうとすれば、多少の無理はやむを得ないのです」 「そういうものですか…」 「あら。父上ではありませんか」 そばを通りかかった姜が、声をかける。 「おっ、姜か。ほぅ…。しばらく見ぬ間に、また随分と女らしくなりよったな。伯扶殿に、たっぷりとかわいがってもらっておる様だな」 「もぅ、父上ったら。お義父様やお義母様もおられる所で、そんな事を言わないで下さい」 「ははは。これはすまんかったな。だが、当たっておろう」 「もぅ…」 姜がその場を離れると、また二人の話が続いた。 「ところで、一つお聞きしたい事があるのですが…」 「何でしょうか?」 「貴殿のご令室についてですが…」 「あぁ、瑠ですか。あれが、どうかしましたかな?」 「確か、羌族の族長の娘、と伺いましたが、間違いございませんね?」 「えぇ。…いかがなさいましたか?まさか、今になってこの婚儀を無かった事に、などとおっしゃるのではありますまいな」 「いやいや。その様な無礼な事はしませんよ。そうではなくて、ご令室のご家族について、お聞きしたいのです。これは、個人的な事です」 「はぁ…。まぁ、わしの知っている範囲でしたら何なりと」 「では…。まず、ご令室には、姉君がおられますかな?」 「いた、と聞いております。何でも、早くに亡くなったとか」 「その姉君は、漢人の男に恋し、子を成した。違いますかな?」 「えっ? 確かにそうですが、なぜその様な事をご存知なのですか?」 「その姉君の名は、琳、ですね?」 「たっ、確かに…」 董卓は、一瞬ぞっとした。別に内緒にしている事ではないが、かと言って、おおっぴらに話しているわけでもない。なぜそんな事まで知っているのであろうか。見当がつかない。 「驚かれましたか」 「あっ、当たり前です!我が家を探られたのですか?」 「そうではありません。こちらも驚きましたよ。姜殿の顔を見た時には」 「えっ?姜の顔を?」 「そうです。やはりそうでしたか…」 「おっしゃる事がよく分からぬのですが、どういう事です?」 「いやね。姜殿の顔を見た時、一瞬、琳と見紛うたのですよ。なるほど、伯母と姪でしたら、似てるわけですね…」 「伯母と姪?と、いう事は…」 「そうです。今は亡き我が妻・琳と貴殿のご令室・瑠殿とは、実の姉妹であろうかと」
25:左平(仮名) 2003/03/09(日) 21:50 「確かに、その通りの様ですな…。ここまで話が一致するとなれば、そうとしか考えられません。…と、なると…。伯扶殿と姜とは、従兄妹同士という事ですか」 「恐らく」 「こりゃまた…」 「まぁ、大した事ではありますまい。輔と姜殿は、姓が異なりますからな」 「それはそうですが…。名族・牛氏としてはそれでよろしいのですか?」 「えぇ。構いません」 「まぁ、それならそれでよろしいのですが…」 中国(及び朝鮮半島)には「同姓不婚」という原則がある。同じ姓(朝鮮の場合は、本貫【一族の始祖の出身地】も考慮する必要がある)の男女は結婚してはならないという事である。 一般的には、近親婚の禁止という意味でとらえられており、事実、だいたいの場合はそうなのであるが、時に、この様な事例も発生する。 現在の感覚でいうと、この場合も近親婚といえるのであるが、二人の姓が異なる為、問題にはならないのである。 翌日、董卓は帰っていった。彼が帰るのを見届けた牛朗は、さっそく牛輔・姜夫妻を自室に呼んだ。 父の表情は、いつもにも増して固い。義父との話は、思っていた以上に重要なものであった様だ。牛輔にはそう感じられた。だが、その内容までは、うかがい知る事はできない。 「父上。話とは、一体…」 「まぁ、そうせかせるでない。話は、二つある」 「二つ?」 「そうだ。その前に、姜に聞こう。そなたには、伯母上がおられたな。違うか?」 「はい。母上がまだ小さい頃に亡くなられたと聞いておりますが…」 「うむ。そして、その伯母上の名は、琳、ではないか?」 「はい…。ですが、なぜその事を?」 「実はな。琳は、輔の母なのだよ」 「えっ!? と、いう事は…」 「そうだ。そなた達は、血を分けた従兄妹同士という事になる」 全く予想もつかない話に、二人は茫然とした。では、自分達は近親婚をしたというのか…。
26:左平(仮名) 2003/03/16(日) 21:37 十三、 「おいおい。そう驚くなよ」 「おっ、驚かないわけがないでしょ! 従兄妹同士が交わったなどとは…。それでは、私達は禽獣以下という事ですか!」 「わっ、わたし、もぅ…」 二人とも、泣き顔になっている。こんな事が明るみになれば、人から何と言われるだろうか。その事を考えると、前途には絶望しかない。 「だから、驚くなと言っとるだろうが!よく考えろ。輔よ。そなたの姓は何だ?」 「牛です」 「では、姜の姓は?」 「董、ですが…」 「ほれ。二人は、姓が異なるであろうが」 「あっ…。そういえば…」 「孝恵皇帝(劉盈。劉邦の子で、前漢の二代皇帝)は、実の姪である張氏(恵帝の姉・魯元公主の娘)を皇后に迎えられたというし、孝武皇帝(劉徹。前漢の武帝)は、従兄妹である陳氏(陳氏の母・館陶公主は、武帝の父・景帝の姉)を皇后になさったではないか。その事で、何か非難されたか?」 「そっ、そういえばそうですね…」 「帝室においてもそうなのだ。ましてや、臣下たる我らの間でそういう事があっても不思議ではあるまい。姜が取り乱したのはまぁしょうがなかろう。しかしな。輔よ、そなたも一緒に慌ててはいかんな」 「はい…。気をつけます」 (いかんいかん。俺ももう結婚してるのだし、もっとしっかりしないと。…それにしても、父上はどうしてこうも落ち着いておられるのだ?) ちょっと引っかかるものはあったが、その話はそれっきりであった。まぁ、もう過ぎた事だ。 「で、もう一つの話だが…。こちらの方が本題なのだが…」 「はい」 いきなりあれほどの衝撃的な話を聞かされたのだ。もう、大抵の事には驚かない。 「董郎中殿がな、そなた達を別邸に迎えたいとおっしゃったのだ」 「はぁっ!?」 驚かないつもりであったが、やはり驚かざるを得なかった。董郎中殿は、なぜその様な事をおっしゃったのか? 確かに、先の話ほどの衝撃ではないものの、冷静に考えると、その意味はより重いものがある。 「何でもな。『我が家は、武門である。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事があろう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのだ』という事であった」 「私に、その耳目になれという事ですか?」 「そういう事だ」 「はぁ…」 「この件については、わしからは返事をしておらん。そなたと姜の気持ち次第だ」 「…分かりました。明日には、返事をいたします」 そう言うと、牛輔は席を立とうとした。その顔は、固いままであった。
27:左平(仮名) 2003/03/16(日) 21:39 董氏の別邸に移るという事は、何を意味するか。それくらいは、別段深く考えずとも分かる。姓は牛のままであるにしても、事実上、董氏の人間になるという事だ。 父は返事をしなかったと言う。結論を出すのを自分達に任せたという事だが、本心ではどうお考えなのだろうか。私の事をどう思っておられるのか。そのあたりの事を考えると、気持ちがもやもやする。こんな事なら、父から答えてもらい、「こういう事になった」と結果だけ告げらける方が気楽である。 (それなら、義父上がおっしゃる様に董氏の別邸に移った方が良いか…) 移ったなら移ったで、その前途は、決して楽なものではあるまい。しかし、このままもやもやとした日々を過ごすよりはましであろう。 冷静を装ってはいるが、心のどこかで投げやりになっているのが分かる。だが、ひとたび気持ちがそうなってしまった以上、自分ではどうにもならない。 (やはり、輔の心中に疑念が生じているか…。このままでは、いかなる結論を出すにせよ、輔にとってはよろしくないな。なれば…) 父の目は、牛輔の動揺を正しく捉えていた。その上で、とるべき方策を考え、一つの答えを導き出した。 「輔よ」 「はい」 「わしはな、そなたがいかなる結論を出すにせよ、これを機に、隠居する事にしたよ」 「えっ!?なぜですか?」 突然の事に、牛輔は驚いた。父はまだ若く、これといって病に罹っているわけでもない。隠居する理由が見当たらないのである。 「そなたも結婚した。その様子だと、じきに子にも恵まれよう。…わしも、もう古い世代になっておるという事だよ。これは、良い機会だ」 「しっ、しかし…。それでは、私がここを出た場合、いかがなさるのですか?この家は弟が継ぐにせよ、まだ若過ぎますし…」 「おいおい。この家を継ぐのは、嫡男であるそなただぞ」 「えっ?」 「分からぬか。これからは、そなたが牛氏の当主という事だ。よって、そなたのいるところが牛氏の本宅という事になる」 「…」 牛輔は、無言のまま父の居室を後にした。 (父上は、どうして今隠居するなどとおっしゃったのか…) それが何を意味するのか。よくよく考える必要がありそうだ。 自室に戻った後も、牛輔は黙りこんだままであった。 明日、回答を出すとは言ったが、彼の中では、既に一応の結論は出ていた。董氏の別邸に移る。その事については、迷いはない。その覚悟はできているつもりである。 だが。父の真意を捉えられない事には、どうもすっきりとしない。それが何であるかを考えている間に、いつしか外は暗くなっていた。
28:左平(仮名) 2003/03/23(日) 21:59 十四、 「あなた。もう遅いですよ。そろそろお休みにならないと」 既に寝支度を整えた姜が、床の中から心配そうに言う。いつもならば、寝支度が整ったとなると、飛びつく様に床に入り、自分を抱きしめるというのに。父が言い出した事で、夫が悩み苦しんでいるのであろうか。だとすれば、やりきれない。 「やはり、迷われているのですね」 「ん?」 「董氏の別邸に移るという事は、あなたが董氏の一員になる。少なくとも、世間はそうみなす。そういう事なんですよね」 「まぁ、そうであろうな」 「牛氏は、董氏よりも家格が上。その嫡男が、董氏の下風に立つのはいかがなものか。迷われるのも、無理はありません。…父は、いったんこうと決めたら後先考えずに行動するところがあります。難しいと分かれば無理はしませんから、そう気を使われる事はありませんよ」 「いや、その事については、迷ってはおらんよ。私は、董氏の別邸に移ろうと思う」 「えっ?なぜですか?」 「私が董氏の婿であるというのは事実だ。父上も反対していない以上、婿が義父に従うのは当然であろう。それに、そなたにとっても、ここよりも我が家の方が過ごしやすいはず。…我が母は、父上と結婚する為に家族から引き離されたという。母が若くして亡くなったのは、そのせいかも知れぬと父上はおっしゃっていた」 「でも…。わたしは、伯母上…いえ、お義母様と違って家族と引き離されたわけではありませんよ。本当に幸せです。それに体の方も、ほら、こんなに元気ですし」 確かに、姜の顔色は良く、病の気などみじんも感じさせない。 「まぁな。しかし…」 (んっ?) そう言いかけた牛輔の頭に、ふっとある事が浮かんだ。 (そういえば、私と姜が従兄妹ではないかという時に、なぜ父上はかくも冷静だったのだろうか?) 姓が異なるから世間にとやかく言われるものではないというが、血のつながりがあるかも知れないというのは事実である。にもかかわらず、父は、この事については一切問題視しなかった。問題ないというどころではない。むしろ、望ましいとさえ思っていたのではないか。そんな気がする。 では、なぜ望ましいと思ったのであろうか。 (私も、姜も、ともに母は羌族の娘だ。二人の母が姉妹だったというのは、さすがに意外であったろうが。…つまり、二人は羌族の血を引く者。二人の間に生まれるであろう子もまた、羌族の血を引く者となる…) (であれば、何にせよ、羌族とのつながりを否定する事はできない。我が牛氏は、代々羌族と対立してきたが、そうもいかなくなっているというわけだ。なにしろ、私自身、羌族の人間でもあるわけだから…) (そんな私が牛氏の跡目を継ぐ事になれば…。牛氏のあり方が、今までと大きく変わるという事になる。また、そうならざるを得ないだろう。弟が継いだのでは、そうはならないが) (父上は、そうなる事を見越して、あの様な事をおっしゃったのであろうか。そなたが牛氏のあり方を変えよ、という事なのか。私が董氏の別邸に移るのに反対しないというのも、そうせよという婉曲な意思表示なのか…?) (だとすれば、私は父と義父から、えらく期待されている事になるな…。そんなに期待されても、応えられるかどうか分からないってのに…) (まぁ、移る事自体はもう決めたから、返事はできる。その時にでも、父上に聞けばいいか) 自分の中で、一応の結論が出た。そうなると、急に気が軽くなった。
29:左平(仮名) 2003/03/23(日) 22:02 「姜。何か分かった様な気がするよ」 「何か、って何ですか?」 「まぁ、それはまたゆっくり話すよ。…明日からは、引越しの支度で何かと忙しくなるぞ」 「では、董氏の別邸に移られるのですね」 「あぁ。この部屋でそなたを抱くのも、もうあと少しだ」 そう言うが早いが、姜に抱きついた。 「もぅ、あなたったら。今度は、わたしの部屋でいっぱい抱いてくださるんでしょ」 「まぁな」 あとは、いつもの二人であった。 翌日−。 「で、輔よ。決まったか?」 「はい」 「ふむ。どうするつもりかな?」 「董氏の別邸に移る事にいたしました」 「そうか。ならば、その様にするがよい」 「はい」 父は、それ以上は何も言わなかった。顔を見ても、不満の色は感じられない。反対はしていない様だ。となれば、自分が推定した通りという事か。 「父上。一つお聞きしたい事がございます」 「何かな?」 「なにゆえ、私と姜が従兄妹かも知れぬという時に、父上はかくも冷静だったのですか?」 「なぜかって?そうさなぁ…」 「わしにも、よく分からぬのだ。ただ、不思議と驚かなかった。それだけだ」 「そうなのですか?私は、何か思われるところがあっての事と考えたのですが…」 「それは考え過ぎというものであろう。ともかく、二人の姓は異なるのだからな。ただな…」 「ただ?何でしょうか?」 「姜の母が羌族の女であるというのは事前に知っておった。そしてその事は、わし個人としては、むしろ望ましいとさえ思った。牛氏の当主としては、変な考えなのかも知れぬが…」 「…」 何となくではあるが、父の思いが分かってきた様な気がした。 父は、かつて羌族の娘を愛し、周囲の反対を押し切ってまで結婚した人だ。その結果として、今こうして自分がいる。 牛氏と羌族との関係がこのままでは、何かと問題になろう。どうして、敵の血を引く者が一族の中にいるのか、と。その事で、どこかから糾弾されるやも知れぬ。そうならない様、両者の関係を良好なものに変えたかったのだ。そしてそれは、かつて愛した人を弔う事でもある。 だが、牛氏の当主である以上、先祖の方針を変える事は難しい。そこで、董氏の婿でもある嫡男の自分に、その意思を託したのであろう…。 「父上。父上の思いが分かった様な気がします」 「そうか」 「父上は、牛氏と羌族との関係を良好なものにしたいとお考えなのではありませんか?そして、それができるのは、ともに羌族の血を引いた我が夫婦である、と」 「うぅむ…。そうかも知れぬな」 「私如き非才の者には重いやも知れませぬが…。父上の思いに応えられる様、精一杯努めます」 「そうか。その気持ちを忘れるなよ」 「はい!」
30:左平(仮名) 2003/03/30(日) 21:37 十五、 その日から、引越しの作業が始まった。牛氏にとっては、かつて羌族の叛乱の際に避難した時以来の、大規模な引越しであった。 なにしろ、姜を迎える際に持ち込まれた家財道具に加え、牛輔の身の回りの品、さらに、夫婦と共に移る家人達の持ち物もあるのだ。仕分けをし、車に積み込むだけでも一仕事である。 「これはこっち!それはあっちだ!それは…って、こりゃ持ってくもんじゃねぇだろうが!」 「あ−っ!それ、あたしの−!返してよ−!」 「これは…。こんなところにあったのか…」 「おい、ぐずぐずするな!さっさと運べ!後がつかえてるんだ!」 「へっ、へい!」 「まったく!今時の若いやつらは…」 作業を仕切る年長の家人が愚痴をこぼす。長らく牛輔の世話にあたってきた彼であるが、今回の引越しには同行しない。これが、牛輔の為にする最後の仕事である。 「まぁまぁ、そう怒るなよ。あいつらも、よその屋敷に移るってんで舞い上がってるんだろうからさ」 「若様、そうはおっしゃいますがね。あんなざまじゃ、牛氏の家人として恥ずかしいじゃありませんか。それにしても…。どうして若いのばかり選ばれたんですか?私ら年寄りはお嫌いですか?」 今回、牛輔夫妻に数人の家人が従う事になったが、その殆どは、牛輔と同年代の若者であった。牛氏と董氏とではしきたり等が違うだろうから、適応しやすい若者の方が良いと考えての判断である。また、若い主に年長の家人だと、守り役をつけられている様で、格好悪いという事もある。 「いや、そういうわけじゃないんだ。向こうには、董氏の家人がいるだろ?私は、いずれ牛氏を継ぐにしても、董氏の婿だ。婿がぞろぞろと家人を連れて来て、あまりでかい顔をするわけにはいかんだろ?」 「まぁ、そうなんですが…」 「そなた達の事を、嫌ったりするものか。…今まで、私の為によく働いてくれたな。感謝しておるよ。父上を、母上を、弟達を、よろしく頼むぞ」 「はい…」 「おいおい、泣くなよ。何も永久の別れというわけでもあるまいに。これから移る董氏の別邸というのは、この近くだ。来たくなったら、いつ来ても良いのだぞ」 「よろしいのですか?」 「あぁ」 全ての作業が終わったのは、数日後の事であった。 董氏の別邸には、親迎の儀礼の際に一度来ているものの、じっくりと内部を見たわけではない。あらためて見ると、想像以上に大きいのが分かる。 (別邸でこれだからな…) 特に豪奢なつくりというわけではないが、実用本位に作られたこの邸宅は、なかなか快適である。中でも、姜の居室は、女の寝起きする所らしく、こまやかな気配りが行き届いている。 (こういうところにも、義父上の人となりが表れているという事か…) こうして、新たな生活が始まった。 牛輔は、まだ牛氏の跡目を継いではいない。さすがに、子が生まれていない段階で跡を継ぐのは時期尚早という事で、父には現段階での隠居を思い留まってもらったのである。
31:左平(仮名) 2003/03/30(日) 21:39 とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。 (父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな) ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。 (とにかく、早く慣れないと…) いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。 自分も大変ではあるが、姜は、もっと大変であろう。婦人としての修練もそこそこに、主婦になったのであるから。自分はまだ無官であるから、男としての仕事はまだ僅かであるが、彼女は女として一通りの仕事をせねばならないのである。 「無理するなよ。俺は、そなたがいてくれるだけでいいんだから」 夜、彼女を抱きしめながら、そういたわってやるのがせいぜいである。 「そう言っていただけると嬉しいです…」 そう言う声が、どこか弱々しく感じられる。気のせいか?忙しくて疲れているのか?ならいいのだが、やはり心配である。 「そろそろ冷えてくるからな。俺が暖めてやるよ」 「はい…」 数日後の事である。 自室で書を読んでいると、何だか外が騒がしい。ふと見ると、家人達が慌しく走り回っている。 「若様!…いえ、お館様!たっ、大変です!」 「どうした!騒々しいな、何事だ!」 「そっ、それが…。奥方様が、気分が悪いとおっしゃって…」 「なっ、何っ!姜が!」 「いかがいたしましょうか」 「と、とにかく、一刻も早く診てもらえ!」 「はい!」 (やはり具合が悪いのか…) 「ふむふむ、ほぅほぅ…。なるほどな…」 「で、いかがですか」 「なに、心配ご無用。ご懐妊ですよ」 「か、懐妊!それは、間違いないでしょうね!」 「えぇ。間違いないです。ご気分が悪かったのは、つわりのせいですな。ま、奥方様は初産になられるのですから、お体には十分ご注意なさる様にして下さい」 姜が懐妊…。という事は、もう何ヶ月かで、自分は父親になるという事か。いずれこういう日が来るのは分かっていたが、まだ、いま一つ実感はわかない。 「姜、具合はどうだ?」 「あっ、あなた。すみません…心配させてしまって…」 「いいんだよ。ゆっくり養生するといい。そなたの体は、今やそなただけのものではないんだから。無理はするなよ」 「はい」 「しかし…。ここから赤子が出てくるというのが、何とも不思議なもんだなぁ…」 「そうですね…。わたしも、よく分からないです」 「不安か?」 「確かに不安ですが…。でも、嬉しいです。確かに、今、あなたとの子供がここにいるんですから」 「そうだな…」
32:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:16 十六、 その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。 「なに?姜が懐妊したとな?」 「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」 「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」 そう言う董卓の顔は、ほころんでいた。無理もない。自分自身がまだ十分若いうちに、早々と孫の顔が見られるというのだから。当時に限らず、子孫が増えるのを喜ばぬ者はいない。 だが、一方で、気になる事もあった。娘婿である牛輔の力量については、まだ未確認のままなのである。果たして彼は、将として、また、自分の補佐役として、ふさわしい人物であろうか。 いずれ彼は牛氏の跡目を継ぐであろう。そうなってから万一の事があっては大変である。今のうちに、その力量を見極めておかないと、えらい事になりかねない。 (と、なると…。そろそろ、伯扶にも戦を経験してもらわぬとな。それも、今年のうちに) 董卓の顔から喜色が消え、鋭い表情となった。それは、紛れもなく、将としての顔であった。 董卓が牛輔邸を訪れたのは、それから間もなくの事であった。 「なに?義父上がお見えになったとな?」 「はい。ただ今、堂にてお待ちになっておられます」 「そうか…」 「分かった。すぐに堂に行く。酒肴を支度しておいてくれ。頃合いを見てお出しする様にな」 「はい。直ちに支度します」 (姜の懐妊を祝いに来られたのであろうが…。どうも、今回はそれだけではなさそうな気がする) よく分からないままではあったが、ともかく、服装を整え、義父の待つ堂に向かった。 堂では、董卓と姜が談笑していた。 「おぉ、伯扶殿か。姜が懐妊したと聞いてな、こうして祝いに参ったよ」 「はい…。それはかたじけないです」 牛輔は、うやうやしく拱揖の礼をとった。董卓からすると、娘婿のそういう態度には多少改まったものを感じないでもないが、まだ何度も会っているわけではないだけに、まぁ、こんなものであろう。 将として牛輔という人物を見ると、多少線の細さを感じないではないが、人としては悪い感じはしない。これなら、鍛えれば何とかなりそうである。 「まぁ、そう堅くならずともよい。…ところで、そなた、わしに何か聞きたい事があるのではないか?」 「は?」 「顔を見れば分かるよ。わしがここに来たのは、単に姜を祝いに来ただけではないと考えておろう?」 「はぁ…」 図星である。言い返し様もない。 「思った事がすぐ顔に出る様ではまだまだだが、まぁ、今はよかろう。そなたの思っている通りだよ」 「えっ!?」 「驚くでない。そなたにも分かっておろう」 「まぁ…。まだおぼろげではありますが…」 「なら、話が早い」 そう言うが、董卓は座り直した。父もそうだが、こういう姿勢をとった時は、だいたい真剣な話である。 さっきまで談笑していた姜も、その言わんとする事を察したのか、顔つきが変わった。さすがは董卓の娘である。その顔には、凛としたものが感じられる。
33:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:18 「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」 「はい」 羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。 「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」 「…」 その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。 もとの護羌校尉・段ケイ【ヒ+火+頁】は、褥で眠る事がないと言われている。辺境に身を置き、異民族との戦いに明け暮れる者の有り様とは、そういうものなのかも知れない。だが…。自分には、そうなる自信はない。義父は、自分にどこまで求めるのであろうか。 その様子に気付いたのか、董卓の口調は穏やかなものに変わった。 「そんなに深刻な顔をするでない。今は、我らがごちゃごちゃ考えててもしょうがない事だ。…近く、羌族の討伐を行う。それに、そなたも従軍してもらおう」 「はい」 否応も無い。既に予想していた事である。姜も、そういう覚悟はしていたのであろう。特に驚く様子は見られない。 邸内が、また慌しくなった。引越し、奥方の懐妊に続き、今度は主人の出征である。加えて、来年には長子の誕生もひかえている。 「やれやれ、忙しい事だな」 家人達は、そう微苦笑した。若者が多く、経験も乏しいだけに、手際は良くない。ただでさえ忙しいというのに、よくもまぁ次々といろんな事が起こるものだ。ただ、そうはぼやきつつも、彼らの表情は明るい。いずれも凶事ではないからだ。これで主人の名が上がれば、より高位に就く事もあるだろう。それは、一家の繁栄につながるのである。 牛氏としては、戦いに赴くのは、久しぶりの事である。年配の家人の中には、自分が従軍するかの様に興奮する者もいる。 「腕が鳴りますなぁ。わしがもう少し若ければ、若…いや、殿の為に手柄を挙げてみせますものを」 そんな周囲の喧騒の中、牛輔もまた、気持ちを昂ぶらせていた。
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