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小説 『牛氏』 第一部
56:左平(仮名) 2003/06/22(日) 21:34 二十八、 結局、勝は、牛輔邸に一晩泊まる事になった。翌日。 「じゃ、気をつけてな。義父上によろしく伝えておいてくれよ」 「はい、承りました」 義兄達に見送られて、勝は帰っていった。 「父上、ただいま戻りました」 「おぉ、お帰り。勝よ。向こうの様子はどうだったかな?」 「ええ。義兄上も姉上も、お元気でしたよ。蓋殿も」 「そうか。そりゃ何よりだ」 「ほんと、仲の良い夫婦で…」 「なに顔を赤くしてるんだ。ははぁ…。隣で『あの』声でも聞かされたか」 董卓がそう言うと、勝は、ますます顔を赤くした。なりは大きくても、そのあたりはまだ少年である。その様子をみた董卓は、急に威儀を正してみせた。 「勝よ」 「はい、父上」 「年が改まれば、そなたも字を持ち、大人として扱われる事になる」 「はい」 「そなたは、大人になるという事がどういう事だと思っておる?」 「それは…」 そう言われると、どう答えれば良いのであろうか。勝は言葉に詰まった。 「なに、そう難しく考えずともよい。要するに、自分の今ある立場をわきまえ、それにふさわしく振る舞えばよいのだ」 「あっ、なるほど…」 父の一言により、難問はたちまち氷解した。そんな勝は、実に理解力のある少年である。 「もちろん、年が経てばおかれる立場も変わるから、それに合わせて自分も変わる必要があるのだがな」 「『君子は豹変す』ですね。父上のお言葉、しかと留めておきます」 「うむ。…まぁ、厳しい事もあるが、そればかりでもない。…そなたも、そろそろ女というものに興味が出てきた頃であろう。違うか?」 今度は、急にからかう様な口調に変わった。董卓の、このあたりの切り替えは実に素早い。 「…」 勝の顔が、また赤くなった。 「そろそろ、縁談を考えておる、姜の時もそうだったが、そなたの意に沿わぬ相手であれば、無理をする事はないからな」 「はい!」 父と子の、穏やかな日常の一こまであった。 そうして、しばしの時が流れた。そんな、ある日のこと。 「おう、伯扶。元気にしておるか」 牛輔邸に、何の前触れもなく、董卓が姿を見せた。 「ち、義父上!いかがなさったのですか!」 董卓の急な来訪に、牛輔達は驚きを隠せなかった。いつもなら事前に連絡してくるのに、今日は一体、どうしたのであろうか。
57:左平(仮名) 2003/06/22(日) 21:36 「どうした?驚いておるのか?」 「驚きますよ!来られるのでしたら連絡くらいしてください!何の支度もできないではありませんか!」 「ほほう。わしが来た事自体は大した驚きではなさそうだな」 「義父上ではありませんか。来られる事には驚きませんよ」 「それを聞いて、ちと安心したよ」 「は?」 「堂へ行こう。実は、そなたに重要な話があるのだ」 「重要な、ですか…」 (はて、何の事だろうか。羌族の叛乱ではないのは確かだが…。まさか鮮卑?しかし、いくら何でも、并州を無視してここ涼州を攻めるとは考えにくいが…) 自分なりに持っている情報を整理するが、思い当たるふしはない。 「まぁ座れ」 「はい」 「わしの言う、重要な話とは何だと思う?」 「う−ん…。羌族も鮮卑も、今のところ目立った動きはありませんから、戦いという事ではなさそうですが…。私にはさっぱり見当がつきません。一体、いかがなさったのですか?」 「ははは…。『重要な話』というのは悪い話ばかりではないのだぞ」 「えっ?」 「そなたも、その様子では気苦労が多いだろうな。だが、その心構えは悪くない」 「おっしゃる事の意味が分かりませんが…」 「実はな、わしはこのほど、并州は広武県の令となったのだ」 董卓、牛輔の出身地が涼州である事は前述したが、并州はその東隣である。その中心地は晋陽といい、春秋時代からその名が知られているが、そのさらに北に、雁門(広武)という邑がある。董卓は、そこの県令になったのである。 広武という県の規模はよく分からないが、中程度の県の令でも六百石の官(大きい県の令だと千石の官)というから、前職の郎中(比三百石の官)よりも俸禄は高い。俸禄が高いという事一つとっても、董卓の地位が上がった事が伺える。 「令という事は…昇任ではございませんか! 義父上、おめでとうございます!」 「うむ。ただ、一つ問題がある」 「何でしょうか?」 「県令になるという事は、その地に赴任せねばならぬという事でもある。広武県は并州の中でも北方に位置するだけに、ここにちょくちょく立ち寄るというわけにはいかぬ」 「そうですね。と、なりますと…」 「そう、我が軍団をどうするかという問題が生じるのだ」 「いったん解散して、義父上の復帰を待つというわけには…」 「そうはいかん。兵というものは、いったんなまってしまうと、なかなか元には戻らんものだからな」 「確かに」 「そこで、だ。しばらくの間、そなたに我が軍団を託そうと思うのだ」 「なんと!」 牛輔は、驚きを禁じ得なかった。
58:左平(仮名) 2003/06/29(日) 13:40 二十九、 この軍団は、長年にわたって董卓自らが育ててきたもの。それを、一時的に、娘婿にとはいえ、他人に渡すとは…。自分が信頼されている事は嬉しいが、若干の戸惑いもある。義父の真意はどこにあるのだろうか。 「私でよろしいのですか?第一、勝、いや、伯捷殿がおられるではありませんか」 「確かに。いずれは、勝に継がせるつもりではあるがな。ただ…」 「ただ?」 「勝には、わしとは異なる道を歩んでもらおうと思っておる。ゆえに、いま軍団を預ける事はできぬ」 「異なる道、ですか…。それはいったいどういう事ですか?」 何か考えがあっての事の様だ。ならば、その考えを聞いておこう。 「うむ。わしは軍事には自信があるが、政治の事についてはいま一つよく分からん。出自の事もあるから、よくて地方の太守あたりになれればといったところであろう」 「はぁ…」 「だが、わしが言うのも何だが、勝はよくできた子だ。あれには、もっと上を目指してもらいたい。そうなると、軍事のみに携わるのではなく、政治というものを知っておく必要が出てこよう」 「という事は…。伯捷殿を広武に同行させ、政治の何たるかを学ばせようという事ですか」 「そうだ」 「おっしゃる事は分かりました。ですが、それでしたら、なぜ叔穎(董旻。董卓の弟)殿ではなく、この私なのですか?」 「不満か?」 「いえ、私は構いません。ですが、姓の異なる私が、義父上の弟である叔穎殿をさしおいて軍団を預かるというのは、いささか問題があるのではないかと思うのですが」 「ふむ。そなたはそう思うか」 「はい」 「なかなかよく考えておるな。だが、気遣いは不要だ。旻には旻の務めというものがある」 「叔穎殿には叔穎殿の務め、ですか。それでしたら、私があれこれ言う事もありませんな」 「まぁな。そなたが励んでおる事は姜から聞いておる。そなたであれば、大過なくこの務めを果たしてくれるであろう、とな」 「分かりました。それでしたら、喜んでお引き受けいたしましょう」 「うむ。我が軍団を、頼むぞ」 「はい」 「そうそう、今日は、そなたの配下となる者達を連れて来ておるのだ」 「私の配下、ですか」 「そうだ。いくら何でも、そなたが全てをみるわけにはいかんからな。今から紹介しよう。おい、入れ」 「では、失礼します」 そう言うと、三人の男達が入ってきて、それぞれ席についた。董卓に従って戦場を駆けてきたせいか、皆、堂々たる体躯の持ち主である。だが、年の頃は自分とさほど変わらないであろうと思われる。 「ん?一人足りんな。どうした?」 「あぁ、新入りのあいつですか。まだ来てない様なんですよ」 「何だ、まだか。まぁ、都から帰ったら来いとしか言わんかったからな。まぁ良い。そいつは後だ」 「そうですね。では、私から自己紹介を」 「そうだな。始めるか」 そう言うと、その男は牛輔の方を向いた。
59:左平(仮名) 2003/06/29(日) 13:43 「初めてお目にかかります。私は、姓名を李カク【イ+鶴−鳥】、字は稚然と申します。北地郡の出です。どうぞよろしく」 「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」 字があるという事は、それなりの家の出であろう。その字が稚然という事は、兄弟が多いのだろうか(長幼の序列を示すのに伯仲叔季という字がよく用いられるが、稚というのはそのまた後に用いられる事がある。したがって、彼には四人以上の兄がいた可能性がある。実際、史書にも兄がいた事は記されている)。 挨拶の仕方もきちんとしているし、変に肩肘張ったところはない。頭の方も、まずまずといったところか。なかなか、頼りになりそうである。 続いて、二人目の男が口を開いた。 「わ、私は、郭レと申します。張掖郡の出です」 こちらは、やや緊張している様だ。ただ、悪い感じはしない。ちょっと前の自分をみる様で、微笑ましいくらいである。 「あれ?字はないのかい?」 「それが…。まだ加冠してないもので、字は…」 「そうか…」 「どうだ、伯扶。そなたが字をつけてやったらどうだ」 「えっ?私がですか?」 「そうだ。勝の字もそなたが考えたのだし、これからこいつらの長になるのだからな。ちょうどよかろう」 「急に言われましても…。あの時は、あれこれと書物を引っぱりだしてようやくでしたから…」 「なに、仮のもので良いのだ。今、この場で思いつくものを挙げてみよ」 「う−ん…。しかし、私は彼の事を何も知らないわけですし…」 「ちなみに、こいつは次男だ」 「次男となれば『仲』とつくでしょうが、もう一文字が…」 (名が「し」だからなぁ…「し」の字は、えぇっと…) この時、牛輔はちょっとした勘違いをしていた。郭レの名は『レ』が正しいのであるが、何がどうしたのか『侈』と聞き間違えたのである。 (『侈』ってのは、『おおい』って意味だから…そうだ!) 「仲多、なんてどうでしょうか」 それを聞いた途端、董卓と李カク【イ+鶴−鳥】は大笑いし始めた。 「『ちゅうた』!? ははは、そりゃいいや。まるで鼠だな、おい」 「ほんとに。いかにも、ちょろちょろしてるこいつらしい字ですね」 「えっ?」 二人の笑い声を聞いて、牛輔は勘違いに気付いた。 「まっ、間違えました!もう一度、考え直します!」 「いやいや、それで決まりだ。レよ、そなたの字は『仲多』だ。いいな」 董卓は、笑いながらそう言った。しばしこの地を離れるとはいえ、この軍団の主の言葉は絶対である。 「はっ、はぁ…」 郭レも、照れ笑いを浮かべながら了解した。
60:左平(仮名) 2003/07/06(日) 21:15 三十、 「さて、最後はそなただな」 笑い終わった董卓は、もう一人の男に声をかけた。 「えぇ」 男は、愛想なしに一言そう答えた。先の二人に比べると、いささかもの堅い感じがする。我が強そうだ。悪い男ではなさそうだが、いささか扱いにくそうにも見える。 「私は、張済と申します。武威郡祖q県の出です(彼自身の出身地は不明。ただし、史書には『(張済の族子の)張繍は武威郡祖q県の人』とあるから、同じではないかと考えられる)」 「そなたも、字はないのかい?」 「ええ、ありません」 「年は?」 「二十を少し過ぎました」 「そうか。では、ちょっと待ってくれないか。そなたの為に字を考える事にしよう」 「いえ、その必要はありません」 「えっ?」 虚をつかれた牛輔は、一瞬きょとんとした。 (さっきのがまずかったかな) 確かに、あんな字をつけられてはたまったものではあるまい。とはいえ、張済は既に二十歳を過ぎているという。未成年であった郭レはともかく、成人している張済に字がないというのは、ちょっとまずいのではなかろうか。 「義父上、彼はこう申しておりますが」 「ああ。こいつには字をつける必要はないよ」 「なぜですか?」 「なぜって言われてもなぁ…。こいつは、以前から字をつけようとはしないんだよ。本人が『いらない』と言ってるのを無理につける事はあるまい」 「まぁ、そうなのですが…」 さっきまでとは違い、いささか堅い雰囲気になった感がある。 その、気まずい雰囲気を察したのか、張済は、自ら重い口を開いた。 「不愉快な思いをさせてしまった様ですね。その事については深くお詫びします。ですが、それでも、私は字をつけるつもりはございません。この事はご理解頂きたく存じます」 「いや、詫びる事はないよ。こういうものは、無理強いするものではないし。…ただ、どうして字をつけようとはしないんだい?教えてくれないかな」 「そうですね。お話しいたしましょう」 そう言うと、一呼吸おいてから、彼は自らの事を語り始めた。 それは恐らく、董卓や李カク【イ+鶴−鳥】・郭レにとっても初耳なのであろう。皆、張済の方を向き、その言葉にじっと耳を傾けている。 これから直属の上司となる牛輔が、彼の言葉を一語一句聞き逃すまいとしたのは言うまでもない。
61:左平(仮名) 2003/07/06(日) 21:17 「私の生まれ育った武威郡という所は、都からみれは、いよいよもって辺境の地です。それゆえ、周りには羌族が多くおります。いや、羌族の中に漢人が点在しているという具合です」 「ふむ。そうであろうな」 「私も、幼い頃から羌族とよく遊んだものです。我が一族の中には、羌族と姻戚である者も多くおります。彼らには、我が一族が漢人であるという意識が薄いのです」 「そうか。…そういえば、羌族には字という考え方がないな」 「そうです。それゆえ、私が字をつけるのはまずいのです」 「そこが分からないのだが。どうして字をつけるのがまずいんだい?」 「こう言うと自慢になりますが、私は、あの辺りでは少しは知られているのですよ。腕っ節が強いという事で。その私が字を持ったとなれば、我が一族が漢人であるという事を知られてしまいます」 「知られると、一族の身に危難が及ぶ。そういう事か」 「まぁ、直ちにそうなる事はないでしょうが…。何かと気まずい思いをするでしょうね」 「そうか」 「それに、私の出自からすると、とても字を名乗る様なものではありませんからね」 「それなら気にする事はない。これから手柄を立てて立身すれば良い事だ」 「そうですね。立身し、一族を迎えられる様になれば、字をつけても良いでしょう。しかし、それまでは、このままでいたいのです」 「そうか…。それならば、私が無理強いする事はない。そなたの思う様にすると良い。まぁ、字をつけようと思ったら、いつでも相談してくれ。共に考えよう」 「はい。ありがとうございます」 「ただ、何と呼べばいいかな?」 「お気遣いは不要です。ただ名の『済』と呼んでいただければ結構です」 「そうか。分かった」 「どうやら、話は済んだ様だな」 董卓が、おもむろに口を開いた。やはり威厳がある。 「では、稚然、仲多、済!」 「はっ!」 「これより以後、牛伯扶がそなた達の長となる!彼の命を我が命として従え!」 「はっ!」 こうして、牛輔は義父・董卓の軍団を預かる事になった。話が終わった、その直後。 「殿!近くに賊が現われましたぞ!」 家人がそう叫んでいるのが聞こえた。
62:左平(仮名) 2003/07/13(日) 19:31 三十一、 (ほほぅ…。さっそく、いい機会が訪れたな) 董卓にとっては、願ってもない状況であった。自分の眼前で、牛輔の、将としての力量をみられる機会が転がり込んできたのである。 いつもなら、「賊が現われた!」となれば真っ先に腰を上げる彼が、今日は動かない。動きたくはあるのだが、ここはこらえた。ここで自分から動いては、牛輔の力量をみる事はできない。 (さて、伯扶はどう反応するかな?) ほんの少しだけ意地悪い目で、彼は牛輔の方を向いた。 「なにっ!賊だと!」 董卓が動かないのをみた牛輔は、さっと立ち上がった。董卓が動かない以上、ここは、自分から動かなくてはなるまい。それが、軍団を預かった者としての務めである。 不安ではある。しかし、戦うのは全くもって初めてというわけではない。やるしかないのである。 「者ども!」 「はっ!」 「直ちに賊の討伐にかかる!支度にかかれ!」 「はっ!」 李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、新たな長となったばかりの牛輔の命に、すぐさま応じてみせた。彼らからすると、自分などは経験の乏しい、頼りない長であるに違いない。しかし、董卓に仕込まれた彼らにとっては、長の命令は絶対である。 (いま、彼らが私の命令に従うのは、義父上の威厳があってこそ。その事を忘れてはなるまい。…おっと。賊はいかなる相手か。それを探らない事には、戦いようがないな。偵察を出さねば) そういう事を考えられる牛輔は、自身が思うよりは、将帥としての力量があったと言えよう。 「誰かおるか!」 牛輔は家人を呼んだ。『孫子』には『彼れを知り己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す』とある。敵の状況を把握しない事には、いかなる名将であっても勝利は覚束ない。ましてや、自分はほとんど実戦経験がない。敵の事は、知りすぎるほど知っておく必要がある。 「はっ、ここに! 殿、いかがなさいましたか!」 現われたのは、最近雇ったばかりの、盈という青年であった。大柄で力も強いが、その見た目に似ず、実に敏捷で頭も目もいい。その出自を語らないところが少しひっかかるが、偵察という、重要な役目にはうってつけの人材である。 「うむ。盈か。賊が現われたそうだな」 「はい。その様に聞いております」 「他の者数人とともに、賊の状況を急ぎ探ってまいれ」 「はっ!」 そう言うや否や、盈は偵察へと向かっていった。 出撃の支度が始まった。盈達が戻ってくるまでは相手の状況が分からないだけに、できる限りの準備を整える必要がある。邸内は、急に慌しい雰囲気に包まれた。 「おい、今度の相手はどういうやつらだ?」 「よくは分からんが、賊だってよ」 「ほう。ま、賊なら叩き潰すまでよ」 そんな雰囲気の中、蓋はいつもと変わらず元気に動き回っている。乳離れして間もないのであるが、飯もよく食べる。 「こんな中でも動じないとは。こりゃ先が楽しみですな」 家人達は、しばし手を止め、そう言い合ったりもした。
63:左平(仮名) 2003/07/13(日) 19:33 しばらくして、盈が戻ってきた。まだ、こちらの支度もできていないというのに、もう偵察を終えたのであろうか。 「ずいぶん早いな」 「そうですか?きちんと賊は探ってまいりましたよ」 「そうか。ならばよい。して、賊の状況は?」 「はい。数は二、三百といったところです。やつら、どうやらテイ【氏+_】族ですね」 「テイ【氏+_】族?」 「はい」 テイ【氏+_】族とは、羌族と同様、このあたりに居住していた異民族である。羌族に比べると農耕化が早かったという事もあってか、漢朝との大規模な戦いなどは殆どなかったという(後には中原に王朝をうち立てる事もあったが、この物語にはあまり関係ない)。 匈奴や羌族に対しては、統御管轄する為の官(護羌校尉などがそう)が設けられていたが、テイ【氏+_】族を対象とする官職は見当たらない事からも、それは伺える。 (なにゆえテイ【氏+_】族が?…いや、そんな事を言ってる場合ではないな) 「他に分かった事は?」 「はい。どうも、都からこちらに向かっていた数十人の漢人が捕らえられた模様です」 「なに!彼らの安否は?」 「そこまでは分かりかねます。しかし、恐らくは…」 「…そうか」 彼らがいかなる理由で賊となったかは分からない。しかし、無辜の人々を殺戮したというのであれば、容赦する事はない。 「殿!支度が整いましたぞ!」 李カク【イ+鶴−鳥】達が牛輔を呼んだ。出撃の時である。 「そうか。よし!者ども!」 「おう!」 「相手はテイ【氏+_】族の賊、約三百!容赦はいらぬ。徹底的に叩き潰せ!」 「おう!!」 戦は二度目であるが、牛輔自身が将として戦うのは、これが初めてである。兵力差からみても、決して難しい戦いではないが、失敗は許されない。ただ、牛輔には前ほどの緊張感はなかった。 (余裕ができたからであろうか。いや、それだけではなさそうだ…) 行軍中、牛輔はそんな事を考えていた。 (…そうか、相手が違うからか。羌族とは違い、テイ【氏+_】族には何の思いもないからな。あるのはただ、漢人を殺戮した者を討伐するという意識のみ…) 義父の様に、敵に思いを持ちつつもなお苛烈に戦うという事は難しそうだ。自分は自分なりの道を歩むしかないという事か。 (さて、伯扶はどう戦うかな) 牛輔の後をゆっくりと進みながら、董卓はそう考えていた。
64:左平(仮名) 2003/07/20(日) 20:55 三十二、 (ここは…一体…。俺は、どうしたのだろうか…) 男は、微かな意識の中、その記憶を辿っていた。自分の身に何が起こったのか、まだ把握できていなかったのである。 (頭が…痛い…。腕が…動かない…。足も…。目も…見えない…こ、これは…) (俺は…死んだのか…。いや、頭が痛むという事は、生きているという事ではないのか…) (落ち着け、落ち着くのだ…。何があったかまず整理しよう…) (俺は…。病を理由に官位を捨て、郷里に帰ろうとしていたんだったな…。帰ったら、董氏のもとを訪ねる予定だった…) (昨晩までは、何事も無かった…。で…) (ケン【シ+幵】のあたりで、怪しい集団にでくわして…) (薄汚い、妙なやつらだった…。 !!) 思い出した!思い出したぞ! (やつら、賊だったんだ!俺達を見ると急に襲い掛かってきて…。俺は…。そうか、頭をぶん殴られて気を失ったのか…) (と、なると…。この状況は、まずいな…。目隠しされてるから周りが見えないし、第一、手足の自由が利かん。これでは、下手に動くわけにもいかん) (それに、他のやつらはどうしたのだろうか。どうも気配が感じられんが…。あの状況からして、俺一人捕らえられたという事はないよな…) (ま、まさか…) 最悪の事態が頭をかすめる。 (財物を奪い、皆殺しか!) 全身に戦慄が走った。血の流れが逆流する様な気がした。しかし、ただ恐怖に怯えるだけでは思考は止まってしまう。つらい事だが、さらに考えを進める。 (しかしだ。それなら、どうして俺はまだ生きているのだ?) (俺に、まだ利用価値があるとでもいうのだろうか?どうも分からん…。ともかく、しばらく様子をみるしかなさそうだな…) ひとたび目覚めると、男の頭脳はめまぐるしく動き始めた。ただ一つの目的の為に。 『生き延びる為には、何をすべきか』。 こういった状況においては、誰もが考える事である。しかし、この男ほど、その能力に長けた者はいない。実際、後にはこれ以上の危地をいくたびもくぐり抜けていったのである。もっとも、彼自身、自らのその能力にはまだ気付いていないのであったが。 急に足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってくる様だ。 (やつら、俺の様子を見に来たのか) ケン【シ+幵】のあたりで襲われたという事は、ここは、その近くにあるであろう賊の隠れ家に違いない。はっきり言って、漢朝の救援は、期待薄である。 いかに一介の郎官に過ぎなかったとはいえ、彼自身、朝廷の内実はよく知っているつもりである。たかだかもとの孝廉一人が賊に襲われたところで、ここは辺境。皇帝も、高官達の誰も、関心を持つ事はあるまい。 (くそっ!こんな所で俺は…) 賊の手にかかって落命するのか。そう叫びたくなった。しかし、ここで叫んだところで何にもならない。そう思う彼の頭のどこかに、まだ希望が残っている。
65:左平(仮名) 2003/07/20(日) 20:58 「おい、こいつ、目を覚ましたらしいぜ」 男の声が聞こえた。どうやら、賊の一味らしい。やや独特の訛りが感じられる。 (そうか、テイ【氏+_】族か) 漢人ではないらしい。この事に、何か意味を見出せないだろうか。もっとも、そんな事を考える間もなかった。 「起きたんなら、こっちに来な」 賊は、男の体をつかみ、軽々と持ち上げると、そのまま仲間のところに向かった。 (はぁ…情けないもんだな) 噂に聞く董氏の様な体躯であったなら。この時ばかりは、自分の痩身が恨めしく思えた。 数十歩ほどで、いきなり地面に投げ出され、目隠しが外された。あたりには、屈強な男達が揃っている。賊の面々である。もはやこれまでなのか。 (もう、腹を据えるしかあるまい。今の俺は俎上の肉【まな板の上の鯉というくらいの意味】だ) そう思うと、妙に落ち着いてきた。 「おい、おまえ」 賊の頭目とおぼしき人物が口を開いた。 「随分といい身なりをしてるじゃねぇか。え?」 何か聞き出したいのだろうか。 「おっしゃる事がよく分かりませんが…」 「そういうなりだ。さぞかし、家は裕福なんじゃねぇのか?え?」 (ははぁ、そういう事か…。そういえば、俺が一番上物の衣冠をまとっていたな。こいつら、俺を人質にして身代金をせしめようって算段か) 相手の腹が読めてきた。少し落ち着きを取り戻してあたりをうかがったが、仲間の姿は見当たらない。皆、殺されたのか。その事については何も言わないが、連中の様子からすれば、十分考えられる。 (よし、どうせ殺されるんなら、いっちょはったりをかましてみるか) この様な場面でそんな事を考えるというあたり、彼はただ者ではなかったというべきであろう。 「えぇ、家は裕福ですよ。なにしろ、我が外祖父は段公(前出の段ケイ【ヒ+火+頁】の事。字は紀明。この頃、大尉の要職に就いていた)ですからね」 もちろん、全くのでたらめである。が、その言葉は、凄まじい威力があった。 「な、なに?もう一度、言え」 頭目の顔色が、明らかに変わった。まわりの連中も。『段ケイ【ヒ+火+頁】』という名に対する西方諸民族の怯え様は、これほどのものであったか。思わず、彼の口元がほころんだ。 (この好機を逃してはならぬ!) 「そうだ。わしは段公、すなわち段紀明の外孫だ。おまえたち、わしを殺したなら、必ず他の者とは分けて埋葬しろよ。段公が我が屍を確認できる様にな。我が一族が、そなた達に充分な礼を施すであろう。…おっと。段公がわしの死に気付かぬとでも思うなよ。わしは、毎日書簡を公のもとに送っておる。わしがどこで足取りを断ったかくらい、すぐにお見通しなのだ。隠したところで、無駄だ」 もはや、立場は逆転していた。さっきまで威張り散らしていた賊どもが平身低頭するとは、痛快である。 「めっ、滅相もございません!私共があなた様に危害を加えるなど!どうか、この事は段公にはご内密にしてはいただけませんか」 「そうまで申すのであれば、よかろう、今回に限り許してやろう」 「はっ、ははっ!」 こうして彼は、無事に賊の魔手から脱する事ができたのである。賊は、ご丁寧に盟約まで結んだ。 (ふふっ。こんな盟約など何の意味もないというのに。…ともかく、一刻も早くこの場を離れないと) そう思い、西に向かって歩く彼の目の前に、突如、騎馬の軍団が現われた。
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