小説 『牛氏』 第一部
62:左平(仮名)2003/07/13(日) 19:31
三十一、

(ほほぅ…。さっそく、いい機会が訪れたな)
董卓にとっては、願ってもない状況であった。自分の眼前で、牛輔の、将としての力量をみられる機会が転がり込んできたのである。
いつもなら、「賊が現われた!」となれば真っ先に腰を上げる彼が、今日は動かない。動きたくはあるのだが、ここはこらえた。ここで自分から動いては、牛輔の力量をみる事はできない。
(さて、伯扶はどう反応するかな?)
ほんの少しだけ意地悪い目で、彼は牛輔の方を向いた。

「なにっ!賊だと!」
董卓が動かないのをみた牛輔は、さっと立ち上がった。董卓が動かない以上、ここは、自分から動かなくてはなるまい。それが、軍団を預かった者としての務めである。
不安ではある。しかし、戦うのは全くもって初めてというわけではない。やるしかないのである。
「者ども!」
「はっ!」
「直ちに賊の討伐にかかる!支度にかかれ!」
「はっ!」
李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、新たな長となったばかりの牛輔の命に、すぐさま応じてみせた。彼らからすると、自分などは経験の乏しい、頼りない長であるに違いない。しかし、董卓に仕込まれた彼らにとっては、長の命令は絶対である。
(いま、彼らが私の命令に従うのは、義父上の威厳があってこそ。その事を忘れてはなるまい。…おっと。賊はいかなる相手か。それを探らない事には、戦いようがないな。偵察を出さねば)
そういう事を考えられる牛輔は、自身が思うよりは、将帥としての力量があったと言えよう。

「誰かおるか!」
牛輔は家人を呼んだ。『孫子』には『彼れを知り己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す』とある。敵の状況を把握しない事には、いかなる名将であっても勝利は覚束ない。ましてや、自分はほとんど実戦経験がない。敵の事は、知りすぎるほど知っておく必要がある。
「はっ、ここに! 殿、いかがなさいましたか!」
現われたのは、最近雇ったばかりの、盈という青年であった。大柄で力も強いが、その見た目に似ず、実に敏捷で頭も目もいい。その出自を語らないところが少しひっかかるが、偵察という、重要な役目にはうってつけの人材である。
「うむ。盈か。賊が現われたそうだな」
「はい。その様に聞いております」
「他の者数人とともに、賊の状況を急ぎ探ってまいれ」
「はっ!」
そう言うや否や、盈は偵察へと向かっていった。

出撃の支度が始まった。盈達が戻ってくるまでは相手の状況が分からないだけに、できる限りの準備を整える必要がある。邸内は、急に慌しい雰囲気に包まれた。
「おい、今度の相手はどういうやつらだ?」
「よくは分からんが、賊だってよ」
「ほう。ま、賊なら叩き潰すまでよ」
そんな雰囲気の中、蓋はいつもと変わらず元気に動き回っている。乳離れして間もないのであるが、飯もよく食べる。
「こんな中でも動じないとは。こりゃ先が楽しみですな」
家人達は、しばし手を止め、そう言い合ったりもした。
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