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小説 『牛氏』 第一部
72:左平(仮名) 2003/08/18(月) 00:01 三十六、 帰還後、董卓の転任と戦勝祝い、それに賈ク【言+羽】の歓迎を兼ねた宴が催された。 めでたい事が二つも三つも重なったのである。皆、上機嫌であった。ただ一人、歓迎される立場である賈ク【言+羽】を除いては。 (伯扶殿には何も言われなかった。しかし…) 人一倍鋭敏な感覚を持つ彼には、周囲の目というものがひどく気になり、素直に歓待を喜ぶという事はできなかったのである。 この涼州の地では、男は、知識よりも腕力が問われる。若くして孝廉に推挙されたという点は他の面々に比べまさっているものの、ろくに抵抗もできぬまま賊に捕われ、ほうぼうの体で解放されたなど、情けない事この上ない。この事は、生涯の負い目となるであろう。 (これから、俺はどうすれば良いのであろうか…) 漢朝に失望したとはいえ、確たる見通しがあって官を辞したというわけではない。しかし、中央とは縁を切った以上は、否応無く、この地で生きるしかないのである。 とはいえ、体も細く、非力である自分にいったい何ができるのであろうか。 (かつて閻氏【閻忠】は、俺の事を留侯【張良。漢高祖の謀臣】・献侯【陳平。同じく、漢高祖の謀臣】の如き奇才があるなどと言ってくれたが…どうなんだか) 今まで自分を支えてくれたこの言葉さえ、空しく感じられる。 「どうした、文和。酒が進んでおらんが。…そなた、ひょっとして下戸か?」 賈ク【言+羽】の様子に気付いた董卓が、そう尋ねた。 「えっ?文和が下戸? とんでもない。こいつ、飲もうと思えば相当飲めますぜ。…おい、なに遠慮してんだよ。今日の主役はおまえだぜ。しっかり飲めよ」 「あっ、ああ…」 「ささっ。ぐい−っと飲み干せよ」 張済にそう勧められ、賈ク【言+羽】は杯の酒をくっと飲み干した。いつもなら旨いと感じられるのであるが、一杯くらいでは、どうもそういう気にならない。 「おぉ。飲めるではないか。なら、もう一杯いけ」 「はぁ…では…」 勧められるまま、さらに何杯も何杯も酒をあおった。酔っ払って、せめて一時だけでも憂さを晴らしたかったのである。だが、酔いは感じたものの、いつもの様な心地良さは感じられない。 そんな彼の思いにはお構いなしに宴は盛り上がり、そして終わった。殆どの者が酔いつぶれ、ぐうぐういびきをかいて寝てしまった為、自動的にお開きになったのである。 賈ク【言+羽】も酔っ払い、横になった。だが、どうにも眠りが浅い。しばらく、夢うつつの中にいた。 (ん…。朝か…) ふと薄目を開けると、もう日が昇り始めていた。まだ特に急ぐ用事もないとはいえ、ここは自宅ではない。そろそろ起きた方が良さそうである。 (起きるか…) そう思い、起きようとして頭を上げると、軽い痛みが走った。まだ酔いが残っている様だ。 (参ったなぁ。ちと飲みすぎた) 心の中でそうぼやきつつ、ふらふらと起き上がった。 あたりを見ると、董卓も、李カク【イ+鶴−鳥】も郭レも、張済も、まだ寝入ったままだ。 (やれやれ。俺が一番早起きか) 董氏はともかく、自宅でもないのに、まったく呑気なもんだ。そう思いはするが、一方で、今の自分はどうかと省みると、偉そうに言う事もできない。 (ま、まだ早いし…もう少し横になるか) そう思い、腰を下ろしたところで、ふっと気がついた。 (あれっ? 伯扶殿は?) 確かに、自分が横になるまでは董氏の横にいたのであるが、姿が見当たらない。それに、あたりも、昨晩に比べ幾分片付いている様な。
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