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小説 『牛氏』 第一部
79:左平(仮名) 2003/09/07(日) 23:32 数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。 輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。 「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」 その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。 「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」 役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。 「誰も申してはおりませんが、そうではないのですか。役に立つ者であれば、どうして後方なぞに配置しましょうか?」 (そういう事か。非力ゆえに前線に出られない事が、かくも不満なのか) 何とかなだめるしかない。 「どうして後方配置が役に立たんなどと申す?そなた、いやしくも孝廉であろう。相国(蕭何。前出の張良と並ぶ漢建国の功臣)の事くらい知っておるであろう?」 「それは、まぁ…」 「相国の功績とはいかなるものであるか。申してみよ」 「相国は…高祖が項羽と戦っていた際、本拠の関中にあり…丞相として全ての政務をこなすと共に、漢の法制を定め…前線への補給を途絶えさせる事無く続け、兵達を飢えさせる事はなく…」 「そうだ。そして、高祖は相国の功を第一とした。輜重とは、かくも重要なものだ。それを任せるというのに、役に立たんなどという事はなかろう」 「はぁ…」 確かに、その通りである。 「それに、時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良いのだぞ」 「好きな様に、ですか?」 「あぁ。わが家人と立ち合いをするのもよいし、遠駆けをしてもよい」 「そっ、その様な…」 相国の故事を持ち出したり、空き時間を好きに使って良いなどとは、新入りの自分には過ぎた厚遇ではないか。そう思った。しかし、かくも自分の事を気遣ってくれるとは。何よりも、その事が嬉しかった。 「私は、そなたの才は相当なものと見ておる。しっかりと務めてくれよ」 「はい!」 こうして、軍団に一人の智嚢(知恵袋)が誕生した。とはいえ、それが明らかになるのは、後の事である。
80:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:19 四十、 それから数ヶ月が経った。 さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。 「ふむふむ…」 しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。 (この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。 「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」 「はい!こちらを!」 すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。 「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」 「は、はいっ!」 確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。 「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」 「はい!こ、こちらを!」 実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。 その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。 属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。 孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。 「またえらい方が任に就かれたもんだ…」 皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。 董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。 だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。 (随分と無駄があったもんだな…) 賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。 とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。 地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。 しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。 (とにかく、この非力なのを何とかせねばな) あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。 彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。 (これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか) その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。
81:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:20 (あいつ、また落ち込んでるのか?) 牛輔も、その様子には薄々気付いてはいたが、声をかけるのはためらわれた。その原因は、だいたい見当がつくからである。 (もう少し、様子を見ないとな) ただ、しばらくすると、どうやら落ち着きを取り戻した様に見えた。 落ち着きを取り戻したのであれば、それで良い。それ以上は気にとめる事もなかったのであるが… 「殿。ちょっと気になる事があるのですが」 そう言ってきたのは、今や牛輔の腹心とも言うべき存在になった盈である。 以前の、テイ【氏+_】族との戦いの時もそうであるが、彼は何をどうやっているのか、実に多くの情報を持って来る。しかも、その情報は実に有益なのである。いまだに自身の事を語らないのが少し引っかかるとはいえ、その態度は至ってまじめなものであり、咎めるべき誤りもない。 今回は、一体なんであろうか。気になるところである。 「おお、盈か。そなたが気になる事、とな?一体どういう事だ?」 「はい。実は、文和殿の事なのですが…」 「文和がどうかしたのか?」 「それがですね…」 盈の声が小さくなった。どうも、重要な話の様だ。
82:左平(仮名) 2003/09/21(日) 22:51 四十一、 「ん?文和がしょっちゅう遠駆けに出ているというのか?」 「はい。時には、帰りが翌朝になる事もあります」 「そうか」 「そうか、で済む事なのですか、これが。配下の一人が勝手に外出しているのですよ!」 普段は温厚な盈が、少し昂奮している様だ。確かに、監督不行き届きとみられてもおかしくはない事なのであるから、主を思えばこういう態度になるのも無理はない。 「良いのだ。私が『時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良い』と言ったのだからな。それに、文和は仕事をおろそかにしておるわけではなかろう?」 「それはそうなのですが…」 盈にしては、どうも、歯切れが悪い。 「何だ?まだ何かあるのか?」 「それならそれで、なぜ朝帰りなどなさるのかが引っかかるのですが…」 「そうか?外に惚れた女の一人でもいるのではないか?あいつも、私とは同年代だ。時に、女を抱きたくてならぬ事があるのだろう。そう気にするものでも…」 そう言いかけると、盈は、急に語気を強めた。 「衣服に異様な乱れがあってもですか!」 これには、少々驚いた。どうしたんだ、一体。 「異様な乱れ?一日中着続ければ衣服はおのずと乱れるではないか。それに、いったん脱いだりしてもやはり乱れるもの。何が異様だというのだ?」 「あれは、単に一日着続けたとか一度脱いだという程度の乱れではございません。そういう時の文和殿の衣服は、どう考えても、屋外で一晩を過ごしたとしか考え様のないほどに汚れておるのです」 「ふむ…」 なるほど、確かに異様ではある。女に逢うというのであれば、屋外に一晩中いるとは考えにくい。 (しかし、なにゆえに?) そのあたりが、どうも分からない。ただ、放置しておけば、自分にとっても、周りにとっても、よろしからぬ影響を与えてしまいそうではある。 (ともかく、調べてみねばな…) 「分かった。今度文和が遠駆けに出た時には知らせてくれ。後をつけてみよう。…よいか、この事は、くれぐれも内密にな。よいな」 「はっ!」 数日後−。 「盈よ。文和の様子はどうだ?」 「はい。この何日かは、あまり出られませんし、出られても日没までには帰ってきておられます。朝帰りをなさるのは、だいたい旬日(十日間)に一回程度ですから…今日、明日にもそうなさるのではないかと思われます」 「そうか。では盈よ。馬を用意しておいてくれ。私も遠駆けするとしよう」 「はっ」 そう言い渡すと、牛輔は外出の支度を始めた。ここのところ、賈ク【言+羽】と共にずっと文書の処理に追われていたから、久しぶりの外出である。
83:左平(仮名) 2003/09/21(日) 22:54 「姜。ちょっと出かけてくるよ」 「はい。どちらへお出かけですか?」 「どことも言えんのだ。私にもよく分からんのだから」 さらりとそう言ったのが、かえって彼女の癇に障った様である。 「分からないって、あなたご自身の事ですよ。…まさか!わたしに言えない様な所じゃないでしょうね!」 蓋を産んでからというもの、姜もそれなりに母親らしい落ち着きを持ちつつある。とはいえ、こういうところは、まだまだ嫁いできた当時のままだ。普段はそれが愛嬌なのであるが、この時ばかりはちょっとやりにくい。 「違うって。ぶらりと出てくるだけだからどこに行くか分からないって事だよ。日没までには帰るし、そなたが勘繰る様な所へは行かぬ。誓ってもよい」 「本当ですね?」 「ああ」 「約束ですよっ」 「ああ。分かったからそんなにうらめしい顔をしないでくれよ」 (まさか、文和の様子を探ってくるなんて言えんしなぁ…) いくら妻とはいえ、話せない事もある。 幸い、姜はそのあたりのわきまえは持っている様なので、その点は一安心なのではあるが…。変にやきもちを焼かれるとちょっと後が怖いので、事後処理はきちんとしておかねばならない。 (文和の様子はどうあれ、今日は日没までには帰らんとな…。あと、今夜はたっぷりと相手してやらんと…) そんな事を考えると、妙に気恥ずかしくなる。何を考えてるんだ、一体。これは遊びではないというのに。 「殿。文和殿が出られましたぞ」 盈が密かに報告してくる。盈の真剣な様子を見ると、ふっと気が引き締まった。 「うむ。で、どちらに向かった?」 「西の方に」 「西の方か…。ここより西となると…。どこぞの邑に寄るというわけでもなさそうだな…」 「そうなのです。邑に寄るというのでしたら、誰かに会うとも考えられるのですが…」 「ふむ。確かに気になるな。これは、私一人では難しいやも知れぬな。盈よ。そなた、ついて来てはくれぬか?」 「えっ?私がですか?」 「そうだ。そなたとなら、文和を見失ったり道に迷ったり事もあるまい。それに、武術の腕もありそうだしな」 「まぁ…できるだけの事はいたしますが…」 「なら、話は早い。そなたも馬を用意しろ」 「はい」 盈も、外出の支度を始めた。彼の支度はすぐに終わり、二人はそれぞれの馬に乗った。
84:左平(仮名) 2003/09/28(日) 22:12 四十二、 門が開いた。ほぼ同時に、全速で二騎が駆け抜けていった。牛輔と盈である。 「殿!どちらへ!」 あまりの急ぎ様をみた門番が、思わずそう呼びかける。何か重大な事があったのだろうか。そう思うのも無理はない。 「どことは言えんが、日没までには帰る!私が帰るのを待っておれよ!」 「はっ、はいっ!」 砂塵を立てつつ、二騎は平原を駆ける。 「文和は西に向かったのであったな!」 「はいっ!まだ出られたばかりですから、十分に追いつけるはずです!」 「うむ!向こうに気づかれてはならぬのであるが、何か手はないか!」 「ございません!」 ともに馬上にあるせいか、二人ともやけに声が大きくなる。それにしても、「(手が)ございません!」とこうもあっさりと言い切る事もなかろうに。 「…おい、それはまずいだろうが」 思わず興奮から醒めた牛輔は、そう言うと馬を停めた。慌てて盈も馬を停める。 「まぁ、そうなのですが…このだだっ広い平原を行くのですよ。隠れ様もありませんよ」 「うぅむ…そこなんだよな…」 先ほどまでの全力疾走から一変、二人はしばしその場にたたずんでいた。 「…まぁ、何だ」 しばらくの沈黙の後、牛輔はおもむろに口を開いた。 「何も今日でなくてはならんというものでもないのだしな…。盈よ」 「はい」 「文和が何をしているのかは探らねばならぬが、焦る事はなかろう?」 「そうですね。私も、何ら確証をつかんでおりませんし…」 「それに、余りぴりぴりしてると、文和に見つかった際に、かえって怪しまれてしまう」 「確かに」 「…そうだ。今日は、私が自身の気晴らしの為に遠駆けをしているという事にしよう。それで文和に会ったら会ったでよし。会わないなら会わない時だ。盈よ。そなたも、今日一日は務めを忘れて楽しむがよい」 「はい。では、お言葉に甘えて」 「よし、決まりだ。思いっきり駆けようではないか」 「はい!」 「よ−し、いくぞ−」 二騎は、再び猛烈に駆け始めた。馬術自体は盈の方が上回っているが、競争しているわけではないので、ほぼ併走の状態である。 (こんな風に、何も考えずにただ駆ける事って、そんなにないな…) ふっとそんな事を思った。牛氏の嫡男として、また董氏の軍団の幹部として、常に責任ある立場にいる彼にとっては、珍しいひとときであるには違いない。 心身とも、すこぶる爽快であった。体にあたる風が、滑らかで心地よい。 しばらく駆けていると、林が見えてきた。このあたりに林があるという事は、地下水が湧き出ているのであろう。となれば、泉の一つもあるのではないか。少し喉の渇きを覚えたところである。ちょうど良い。 「盈よ。あの林で一休みしようではないか」 「そうですね。そうしましょう」
85:左平(仮名) 2003/09/28(日) 22:13 さして大きな林ではなかったが、思ったとおり、泉があった。泉には、清澄な水がたたえられている。 (そういえば、こういう所で父上と母上が会われたんだったな…) 前述のとおり、牛輔には母の記憶はない。しかし、緑と静寂に包まれたこの場所に、どこか懐かしいものを感じずにはいられなかった。 「盈よ。私は、ここで産まれたのかも知れぬな」 何の気なしにではあるが、そんな言葉が出てきた。別段深い意味はないのだが、盈には甚だ意外な言葉である。 「えっ?殿は牛氏のご嫡子ではないのですか?なにゆえ、この林で産まれたなどと…」 「なに、言葉のあやというものよ。実はな。昔、この様な場所で父上と母上が会われ、そして結ばれたそうなんだよ。ひょっとしたら、ここかも知れぬなぁ…と思ってな」 「その様な事があったのですか」 「あぁ。そして、母上は羌族の族長の娘であったという」 「…」 盈は黙ってしまった。別に禁句というわけではないのだが、この話は、周囲の者にとってはまだまだ衝撃的なものの様だ。 「ちょっと横になるか。日没までにはまだ間があるしな」 さして疲れていたわけではないが、牛輔は、そう言って話をやり過ごした。 「でしたら、このあたりがよろしいでしょうね」 盈も、あまり深く立ち入りたくはない様子である。意識的に、主と目を合わせない様にしていた。 二人は、草の上にごろりと横になった。空を見上げると、雲が流れてゆくのが見える。空を飛ぶ鳥の姿も、はっきりと分かる。穏やかな、夏の一日であった。 しばらくそうしていると、不思議と眠たくなってくるものである。いつしか、うとうとと夢うつつの中に入っていく。 そんな中、不意に何かの気配を感じた。獣のそれとはちと違うし…いったい、何だろうか。
86:左平(仮名) 2003/10/05(日) 23:01 四十三、 「殿。何か物音がしませんでしたか?」 盈が半身を起こし、小声でそう聞いてきた。大型の獣だとすれば、横になったままでは危険である。 「あぁ、聞こえた。だが、そう大きい音ではなかったな。我々の身が危ないというわけでもなさそうだ」 眠気のせいもあったが、牛輔は割と冷静にそう判断した。 「えぇ。ですが、妙に気になるのです」 「うむ。そなたが気になるというのであれば、私も気になるな。焦る事はなかろうが、ちょっと様子を探るか」 二人はゆっくりと立ち上がった。 周囲には草が生い茂っているので、余り急に動くと目立ってしまう。二人は慎重に、草をかき分けつつ進んだ。 「盈。何か見えたか?こちらには何もいないぞ」 「いえ、何も…。いや、ちょっと待ってください」 「なにっ?どうした!」 「お静かに!聞こえてはまずいですよ!」 盈は小声でそう制した。こういう場面では、主といえども言うべき事は言わねばならない。 「あっ、あぁ…。で、何か見えたのか?」 「はい。あちらを…」 盈が指さしたその方向にいたのは… 「!」「!」 声は出さなかったが、二人とも、驚きを禁じ得なかった。あれは、賈ク【言+羽】ではないか! こんな所で、一体何をしているのであろうか。 「あいつ、ここに来ていたのか…」 「どうも、ここには何度も来ている様ですねぇ…」 「そなたにはそう見えるか」 「はい」 「なぜそう思う?」 「いや、何となくとしか」 「そうか。まぁ良い。何をしようとしているのか探るのが先だ」 「そうですね」 二人は賈ク【言+羽】の様子を凝視した。ここから伺う限りでは、誰かと待ち合わせているというのではなさそうだ。しかし、何かを探している様にも見える。二人は首をひねった。その意図が全く見えないのである。 「あいつの意図するところが、どうも分からんな…」 「殿。孝廉という方々は、ああいうものなのですか?」 「私に聞かれてもなぁ。なってもいないものの事は分からんよ。どうしてそう思うんだ?」 「あの、腰にぶら下げた袋は一体…」 ふと気づくと、空に数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。賈ク【言+羽】は、しばしその鳥を見つめていた。 二人も、つられて鳥の方を見つめた。 「シュッ!」 不意に、何かを切り裂く様な音がした。と思うと、次の瞬間、一羽の鳥が地面に落ちていくのが見えた。 「ん?何が起こったんだ?」 「いえ、私にもさっぱり」 一瞬の出来事に、二人ともわけが分からぬまま呆然としていた。しかし、次の瞬間、先ほどと同じ音がしたかと思うと、また一羽、鳥が落ちていった。 「一体何が…」 一羽なら、急な発作とか一陣の突風とでも説明できるだろうが、二羽続いてとなると、偶然とは考えにくい。しかし、一体何が起こったのであろうか?まるで見当がつかない。
87:左平(仮名) 2003/10/05(日) 23:04 二人は、賈ク【言+羽】と鳥の、どちらを見れば良いのかと一瞬迷った。しかし、迷う必要はなかった。 「殿!あれを!」 「あ!あれは!」 二人とも、思わず声をあげていた。後で考えると、よく気づかれなかったものである。 賈ク【言+羽】は、片手を腰の袋に入れ、中から二、三個の石ころを取り出していたのである。 しばらくその感触を確かめ、じっくりと鳥の行方を見定めたかと思うと、腕を巧みに折り曲げ、手首に捻りをかけて、その石ころを鳥に向かって投げた。 手から離れた石ころは目にも留まらぬ速さで飛び、鳥の体に命中した。鳥は、さっきの二羽と同様、まっさかさまに地面に落ちていった。 表情が変わらないところを見ると、あれはまぐれではない。いや、確実に撃ち落とせるという自信さえ感じられる。 「盈よ。見たか、今のを」 「はい。しかと」 「文和がしょっちゅう遠駆けに出ていたのはこの為であったか…」 牛輔にはおおよその見当がついた。肉がつかず、腕力では他の者達にかなわぬと思い知ったがゆえ、自分に褒められた俊敏さを生かそうと鍛錬を積んでいたというわけか。そして、いつの間にかこれほどの腕前に…。 「たいしたやつだな」 そう、関心せずにはいられなかった。 「まったくです」 盈も、同感とばかりにうなづいた。 「おっ、夕焼けか…。あっ!しまった!」 「殿!大声を出してはならないと…」 「すまんすまん。姜と約束してたんだ。今日は日没までには必ず戻るって。…急がんと間に合わんぞ」 「ですが、文和殿の様子を探るにはまだ不十分かと」 「それはそうなのだが…。すまん、盈よ。そなた、ここに残って様子を探ってはくれんか?」 「えっ?それは、まぁ、構いませんが…」 「では、頼むぞ」 そう言うやいなや、牛輔は馬の方に走り出していた。 (妻を怖がっていると思われるかな…) ちょっと情けなくはある。が、姜の怒った顔を見たくないという思いは、その情けなさにまさっていた。 「頼むぞ。全速で走り切ってくれ」 戦場においても、これほど馬をせき立てる事はない。そう思うほどに駆け続け、ようやく自邸の門にたどり着いた時、日はまさに地平線の下に消える寸前であった。 「ま、間に合った…」 なかば倒れこむ様にして、牛輔は邸内に着いた。 「お帰りなさいませ」 「あぁ。結局、盈と一緒に遠駆けしただけだから、何もなかったが…」 「いいんですよ。その様な事は」 そう言って出迎える姜は、笑みを浮かべていた。自分との約束をきちんと守ってくれた事が、何より嬉しかった様である。その笑顔を見た事で、ほっと人心地ついた。 「さ、今晩は…」 甘えた声を出したかと思うと、姜は牛輔にもたれかかってきた。いつの間にか、帯も緩んでおり、艶っぽい素肌が垣間見える。 「分かってるよ。たっぷりと…」 牛輔も微笑を浮かべた。もう慣れてはいるが、惚れた女の媚態である。悪い気はしない。
88:左平(仮名) 2003/10/12(日) 23:33 四十四、 翌日、賈ク【言+羽】と盈が戻ってきた。幸い、二人であの様子を見ていた事は気づかれなかった様だ。 「盈よ。どうであった?」 「はい。あれからずっと見ていたのですが、他には妙なところはございませんでした」 「そうか…。ともあれ、一安心だな」 「そうですね。…しかし殿、ああいうところで大声を出さないでくださいよ。文和殿に気づかれない様にするのにえらく苦労したんですから」 「はは…。すまんかったな」 (配下に注意されるあたり、威厳という点では私もまだまだだな) 牛輔は、そう思い、苦笑した。 −数年が過ぎた。 皇帝の愚昧、宦官の跳梁跋扈、そして、それらを批判し正すべき士大夫層の無力化…。様々な理由により、中央政府はろくに機能していない状態にあった。 それを嘲笑うかの様に、北方においては、檀石槐率いる鮮卑族による寇掠が繰り返されていた。 幸い、鮮卑の脅威に晒され続ける幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏ではある。 (しかし、それはとりあえずの幸運に過ぎぬ。ひとたび檀石槐の如き傑物が現れたなら、今はおとなしくしている羌族やテイ【氏+_】族もまた…) 羌族による、かつての大乱を知る人々はまだ多い。それだけに、いつ来るか分からない脅威に対する危機感は強かった。その危機感の故、董氏や牛氏がその勢力を蓄える事をよしとする雰囲気がある。まだ父の後を継いだわけでもないというのに、牛輔の家産と家人が増えつつあるのが、その証と言えよう。 穏やかな秋の陽気の中、一人中庭に立った牛輔は、静かに彼方の空を見上げた。 「羌族なくして、今のわしはなかった…」 秋の澄み渡った空を仰ぎ見ながら、牛輔はふっと、義父・董卓がある時しみじみとそう話していたのを、思い起こしていた。 「そうではないか。わしの父は、数十年にわたって漢朝に忠勤を励み、数々の功を為したというに、県の尉にしかなれなかった。我が兄もまた、豊かな才を持ちながらも、その地位は上がらず…幼子を残して夭逝してしまった…」 「…」 「わしは、ただ膂力に優れていただけでまとまった学問をする事はなかった。普通ならば、到底立身など適うまい。しかるに今、かつて夢想だにしなかった高位にある…。不思議だとは思わんか?」 「しかし…。義父上は、漢朝の為に大いに働かれたのですから、高位に就くのも当然では…」 「そうか?ならば、なにゆえ我が父、そして兄は高位に就けなかったのか?二人には功がなかったのか?」 「それは…」 「理由は一つしかない。父や兄には、富がなかったからだ」 「富?では、義父上はいかにして富を得られたというのですか?」 「それよ。あれは、もう二十年以上も前の事になるかな…。羌族の集落で世話になった礼に、耕牛を殺して少しばかりの酒肉を振る舞った事があったのだ。すると、その答礼に大量の牛馬を頂いてな。それを人に貸したり売り払ったりして、相当の財を得たのだ」 「その様な事があったのですか」 「そうだ。あの財によって、わしは立身の足がかりを得たのだ」 「なるほど…」 「そればかりではなく、かわいい女もついてきた、と」 「それって、ひょっとして義母上…」 「そうだ」 「なんともまぁ…」 その様な結ばれ方があるのか。何とも微笑ましい話で、思わず顔がほころんでしまう。だが、現実における、自分達と羌族の関係は…。
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