下
小説 『牛氏』 第一部
9:左平(仮名)2003/01/13(月) 21:09
「では、琳さん。私は帰らないといけないので」
「あの…。朗さん」
「何でしょうか?」
「また…お会いする事はできませんか?」
「えっ? いや…その…」
意外な言葉であった。彼女の方も、自分に気があるのだろうか?だとすれば、願ってもない。
「そうだ、来月には、またここに来ると思います。その時に、ここで」
「はいっ!」
喜色を全身に表す彼女の顔が、輝いて見えた。その笑顔が、彼の脳裏に鮮やかに焼き付けられた。
それからの一ヶ月は、毎日が異様に長く感じられた。早く狩りの日が来ないものか、そればかりが待ち遠しかった。
「どうした、朗。最近、えらく落ち着きがないが」
そう聞いてくる者もあった。
「いや、次の狩りが楽しみで楽しみでたまらないんです」
「おかしなやつだな。こないだの狩りの時は、ちっとも楽しそうじゃなかったくせに」
「まぁ、あの時はあの時という事で」
彼は、そうとぼけるのであった。
そして、次の狩りの日が来た。その日は、まずまずの収獲であった。が、彼の目指すものは、そういうものではなかったのは言うまでもあるまい。
(琳さんは来てくれるだろうか)
そう思いながら、記憶を辿りつつその泉に向かっていた。一月経っているので、草の生え具合も多少異なっている。が、この泉に間違いあるまい。
しばらく待っていたが、彼女の姿は見えない。
(やっぱり、そんな簡単に来てくれるわけがないか)
そう、諦めかけたその時である。
草をかき分け、人影が現われた。忘れもしない、琳である。その後ろには、羊たちがついて来ている。こないだは気付かなかったが、そういえば、あの時も羊がいた様な…。
(羊を連れている…。琳さんは、ひょっとして羌族の女?)
そんな疑問がわいてきたが、すぐに意識から消えた。何より、想い続けた人の姿が目の前にあるのだから。その姿は、やはり美しかった。彼は、自分の想いが強まっている事を感じた。
「お久しぶりです、琳さん。来てくださったのですね?」
「えぇ。…お会いできて、嬉しゅうございます」
そう言う彼女の瞳が、潤んでいる。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきたかと思うと、いつの間にか、彼女の顔が目の前にあった。
「りっ、琳さん…」
体が、思う様に動かない。言葉を発しようとするが、然るべき言葉も出ないし、口も動かない。ただ…両腕を伸ばし、彼女の体をこちらに引き寄せる事を除いては。
二人の体が、密着した。牛朗が、琳を抱きしめたのである。
彼女の温もりが、息遣いが、匂いが、鼓動が伝わってくる。その全てが、彼の心を激しく躍らせる。いや、彼ばかりではない。彼女もまた、彼の全てに心を躍らせているのが分かる。
(このまま…こうしていたい…)
二人とも、同じ事を考えていた。
上前次1-新書写板AA設索