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小説 『牛氏』 第一部
103:左平(仮名)2003/11/30(日) 22:53AAS
「では、話しておこう。まず、そなたの字は『伯陽』だ」
「『伯陽』、ですか?それには、一体どの様な意味があるのでしょうか」
「『伯』という字はそなたも承知しておろう。これには、三つの意味を込めている」
「三つの意味、ですか」
「そうだ。まず、『おさ(長)』という意味。そなたはこの家の大事な跡取りだからな。字にもそれを示しているのだ」
「はい。父上の字もそうなんですよね」
省42
104:左平(仮名)2004/01/01(木) 00:15AAS
五十二、
牛輔にとってみれば、この頃は、おおむね幸せな時期であった。
羌族との戦いがしばしばあったので平穏とは言い難いものの、これまでのところ大きな犠牲もなく済んでいるし、何より、姜をはじめとする家族にも恵まれている。
父も弟達も至って健やかであるし、義父・董卓も順調に位階を進めており、刺史や郡太守といった地位も考えられるところまできていた。
これならば、次代を担うであろう勝は、より高い位に就けるはずである。そう、牛輔の願い通り、全てがうまくいっていたのである。
省30
105:左平(仮名)2004/01/01(木) 00:15AAS
ことの起こりは、劉カイ【小+里】という人物の素行がよろしくなかった事にあると言えるかも知れない。少々長くなるが、その経緯を記しておく。
劉カイ【小+里】は、先帝(桓帝。諱は志)の弟である。兄の志が、質帝の崩御をうけて帝位に就く(本初元【西暦147】年)と、その翌年、蠡吾侯から一躍渤海王に昇格した。
今上帝の弟という事を考えると、この昇格自体は別段不思議な事ではない。しかし、傍系の皇族として、一県程度の食邑しか持たない貧しい侯であった(しかも、兄がいるのだからその嫡子ですらない)のがいきなり郡規模の食邑を持つ富貴な王になったのである。自由に使える財貨も増えるし、配下の人数も後宮の規模も、格段に大きくなる。彼自身にとっては、望外の喜びであったろう。
しかし、そこに落とし穴があった。
桓帝が即位したのが十五歳の時というから、その弟である彼は、当時、まだ十歳そこそこといったところであったろう。人格を練る事もなく、そんな年でいきなり富貴を得たらどうなるかは、我々の身近にもまま見られるところである。
省16
106:左平(仮名)2004/01/12(月) 22:33AAS
五十三、
劉カイ【小+里】は、王甫に銭五千万を渡す必要がないと考えたのである。自分から約束しておきながら、どういう事かと疑問に思うところであるが、彼の中ではそれなりの理由があった。
実は、劉カイ【小+里】が渤海王に復位するのとほぼ同時に、桓帝は崩じたのである(ともに十二月の出来事であった。享年三十六)。先の質帝の様な不審の残る死(梁冀によって毒殺されたとされる)ではなかったから、彼には、自分の命が尽きようとしている事を悟り、遺詔を残すだけの時間があった。この遺詔は、紛れもなく桓帝自身の意思によるものである。
省20
107: 左平(仮名)2004/01/12(月) 22:33AAS
もう一つは、彼を復位させたのが「遺詔」だったという事である。最大の庇護者であった兄、桓帝はもはやこの世におらず、そのあとを継いだ今上帝(霊帝)は、桓帝・劉カイ【小+里】兄弟との血縁は薄い(桓帝の祖父と霊帝の曽祖父が同一人物【章帝の子・河間王の開】。二人は【共通の祖先から見ると】おじとおいという関係になるが、ともに帝位に就く前は地方の諸侯に過ぎなかったので、関係は疎遠であったと思われる)。
桓帝の御世においては皇弟であった彼も、霊帝即位後は、単なる一皇族に過ぎないのである。
いや、それだけではない。「先帝の弟」ともなれば、桓帝が男子なく崩じた(実際そうであった)後、そのあとを継ぐという可能性もあったわけだし、それを主張するだけの正当性も充分にある。その様な存在は、新たに皇帝となって間もない霊帝にとっては決して快いものではなく、むしろ疎ましくさえあったろう。劉カイ【小+里】という個人に対しては別段どうという感情はないにしても、彼が、自らが帝位に就く事の正当性を主張したりすれば、国論は分裂し、大変な事になるかも知れないのであるから。
そういった点に思いを馳せておれば、いったん約束しておきながら、王甫に銭五千万を渡さないという事が、どれほど危険であるかというのは分かり得たはずである。王甫が、実際に復位の為に動いたかどうかは関係ない。劉カイ【小+里】が渤海王に復位できたのは事実なのであるから、約束した銭は、渡すだけは渡しておいた方が無難というものであった。
省19
108:左平(仮名) 2004/01/25(日) 23:22AAS
五十四、
厄介な事態になった、というのは、こういう事である。
劉カイ【小+里】の事件が起こる前の年−建寧四(171)年−の七月に、皇帝の元服をうけて皇后が立てられていた。
彼女は、当時執金吾の位にあった宋鄷という人物の娘である。宋氏は、前漢の時代まで遡れるという名家であり、曽祖父の世代では、章帝に寵愛された貴人を出している。(彼女がとある事件により自殺を余儀なくされた為に)その皇子・慶は太子の位を廃されたものの、その子の祜が安帝として即位し、安帝・順帝・沖帝と続いている。
省25
109:左平(仮名)2004/01/25(日) 23:25AAS
(ただ…皇帝陛下は、皇后にはさして思い入れがなさそうではある…となれば…)
王甫がとる手段は、一つしかなかった。皇后を失脚させる事である。それは、少なからず皇后とその一族の滅亡にもつながる事なので、またも悲劇を引き起こす可能性があるのだが、王甫にはどうでもいい事である。
(いささか気の毒ではあるが…わしが生き延びる為だ。消えていただくしかないな。ただ…寵愛されていないとはいえ、特に過失があるというわけでもないし…どうしたものかな…)
相手はいやしくも皇后陛下である。それを廃位するのは、過去にも幾つか例があるとはいえ、決して容易なことではない。
幸い、今、皇帝には何氏という寵愛を受けている貴人がいる。既に皇子の辯(後の少帝)を産んでいる事からして、宋氏を廃して何氏を皇后に立てる事については、皇帝は黙認するであろうと思われる。
もちろん、宋氏も今後男子を産む可能性がないとは言い切れないし、何氏は、皇后になるには身分的にも性格的にもいささか問題のある女性ではあるのだが、それは何とかなるだろう。問題は、いかにして宋氏を廃するかである。
省31
110:左平(仮名)2004/02/09(月) 00:13AAS
五十五、
「皇后の事なのだが…」
段ケイ【ヒ+火+頁】にとっては、いささか予想外の話である。宮中のきな臭い話とはあまり関わりたくないというのが本音ではあるが、他ならぬ王甫の話である。聞くだけは聞かねばなるまい。
「皇后陛下が…いかがなさったのですかな?」
省29
111: 左平(仮名) 2004/02/09(月) 00:15AAS
しばらく後−王甫邸に、王萌・王吉、二人の姿があった。ともに、王甫が呼んだ理由までは分かっていない。
「二人ともよく来てくれた。実はな、話というのは…」
「何と!」
これには二人とも驚くしかない。とはいえ、この謀の成否は自分達の生存に関わってくる。慎重に考えねばならない。
「中華の歴史は長い。その中では、こういった事もままあったはず。そうだな?」
「はい」
省36
112:左平(仮名) 2004/02/22(日) 21:29AAS
五十六、
今回の皇后廃位は、皇帝は自分の意思によると思っているであろうが、王甫の差し金によるという事は公然の事実であった。それは、王甫の実力を知らしめる事になる一方で、敵を増やす事にもつながった。なにしろ、彼だけではなく、養子の王萌・王吉もまた、要職にあって権勢を振るう一方で、あちこちに敵をつくっていたのであるから。
史書によると、二十歳そこそこで沛国の相となった王吉は、性残忍であり、在任期間五年でおよそ一万余りの人を殺したという。沛は漢高祖・劉邦の故郷にして大国であったから、人口も多くそれだけ犯罪も多かったろうが、この数は異常である。当然、多くの無辜の民が殺戮されたであろうから、それだけ人々の恨みを買っていたはずである。
(党錮といい、皇后廃位といい、萌・吉の振る舞い様といい…どうもわしが矢面に立つ格好になっておるな。備えをしておかんと)
省30
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