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小説 『牛氏』 第一部
117: 左平(仮名) 2004/03/21(日) 22:47 「こちらへ」 「うむ。…ほぅ、これはまた随分な扱いだな」 彼がいざなわれたのは、牢獄であった。特別な設備などは何も無く、一般の囚人が入るそれと変わらない。これは、現職の−この時点では罷免する旨の詔勅はまだ出ていない−太尉に対する扱いとは思えない。 (こやつ、王中常侍ばかりでなく、わしをも罪人とするつもりか) 牢獄自体は、かつて戦った辺境の地の過酷な気候を思えば何という事はないが、この扱いには承服し兼ねるものがある。さすがの彼も少しばかり不機嫌な表情になった。 「いかがなされた?」 「なに、蓐【しとね】に入る事がなかった昔の事を思い出したまでの事よ」 「ほぅ…」 (いつまでそう言ってられるかな) ここまで来ればこちらのものだ。いかに太尉とはいえ、ここでは司隷校尉である自分に絶対の優位がある。長く戦場で鍛えられたとはいえ相手はもう七十過ぎの老人。過酷な尋問の果てに、この男が矜持を失い無様に取り乱す様を見たいものだ。陽球はそんな事まで考えた。そう考えるだけで、心が踊るのである。 「太尉…いや、段紀明殿。しばらくここにおられよ。わしは、王甫の尋問にあたらねばならぬのでな」 そう言い残すと、陽球はさっさと別室に向かっていった。その足取りは、妙に軽やかであった。 「早く吐かんかっ!」「この奸賊めがっ!」 罵声とともに、王甫父子に対し容赦なく杖や鞭が振り下ろされる。まだ尋問が始まってからさほど時間も経っていないというのに、父子の体は既に痣だらけになっていた。肉が破れ、あちこちから血が滲んでいる。 いや、痣や血ばかりではない。時々する鈍い音からみて、何箇所か骨も折られている様である。 「わ、分かった…。話すから…止めてくれ…」 「我ら父子は既に罪に服しておるではないか。せめて父上だけでも大目に見てはもらえぬか」 たまりかねた王甫達はそう哀願した。しかし、それにも構わず、さらに杖が振り下ろされる。 「早く話せ!『全て』話し終わったら止めてやっても良いぞ!」 その様を見つめる陽球の目には、どこか異常な光さえ感じられた。そこにあるのは、敵意などといった生易しいものではない。 (ま、まさかこやつ…) その目に気付いた王萌の背に、寒気が走った。 (こやつ、京兆での疑獄の解明なぞはどうでも良くて、ただ俺達を殺したいだけなのではないか…) 「方正!そなた、我ら父子に何か怨みでもあるのか!」 「怨み?何の事かな?これは尋問であって私的な怨みをどうのこうのと言うものではないが」 「とぼけるでない!我らが関与したという疑獄の件を解明したいのであれば、話そうとしているのになに故間髪も入れずに杖を振り下ろし続けるのだ!これでは体がもたん!」 「ほう、気付いたか。長く要職にありながら、鈍いやつらだな。まぁ、王甫の養子というだけで官位にありついたのだから当然か」 「気付いただと!?まさか!」 「ふん。なんじらの罪は、たとえ死んだところで免れるものではないわ。この期に及んで、まだ大目に見ろだと?ふざけるのもたいがいにしろ!」 「何だと!なんじは、以前は我ら父子に奴僕の如く仕えていたではないか!奴僕が主に背くとは何事だ!この様な事をすれば、いつか己の身にかえって来るものだぞ!分かっているのか!」 王萌は力の限りを振り絞ってそう叫んだ。しかし、それはかえって陽球の気に障った。というか、彼の中の何かが切れた。
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