小説 『牛氏』 第一部
15:左平(仮名)2003/02/02(日) 22:46
そう言うと、父は座り直した。なるほど、長い話になりそうである。
「そなたの名である『輔』という字にどういう意味があるかは分かるか?」
「はい。そもそもの意味は、車輪を補強する為のそえぎ、ですね。で、それ故『たすける』という意味になる、と学んでおります」
「そうだ。では聞こう。そなたは、この家の嫡男である。そのそなたに、何故『輔』という名をつけたと思う?」
「えっ?」
そう言えば、そうだ。嫡男である自分が、一体何を「たすける」というのだろうか?
「私の上に、兄がいた、という事ですか?」
それくらいしか思いつかない。いや、普通はそうであろう。それとも…。今になって、そなたは嫡男にふさわしくないと思っておった、とでも言うのであろうか? だとすれば、どうして今まで嫡男として扱われたのか? 
「いや、そうではないのだ。…そなた、覚えておるか? 昔、『母上はどこにおられるのですか』とわしに聞いた事があったろう」
「はぁ…そう言えばそんな事があった様ですね」
「そなたも分かっておろう。そなたを産んだ母上と、今の母上とは違うという事が」
「はい。はっきりと聞いたというわけではありませんが…。しかし、それとこれと、一体何の関係があるのですか?」
「それが、あるのだよ。まぁ、聞きなさい」
そう言う父の声は、いつもと違って聞こえた。こんなに優しげな声を聞くのは、いつ以来であろうか。

「あれは、もう二十年以上も前になるか…」
父の話は、牛輔にとっては初耳であった。この邸宅内には、当時を知る者も何人かいるが、その様な話は聞いた覚えがない。家内における父の威厳は非常に強く、この様に微妙な話題について口を滑らせる者はいなかったのである。
(私の母上は、羌族の族長の娘だった…? しかも、父上と相思相愛だった…? 羌族と牛氏は、激しく対立しているというのに、そんな事が…!)
あの謹厳な父が、かつてその様な激しい恋をしたとは、どうにも信じ難い。だが、本人の口から語られている以上、事実であろう。

「あの時、わしには琳が全てであった。あいつがいてくれれば、何もいらなんだ。…だがあいつは、そなたを産んですぐに死んでしまった。どんな名前にしようか?って聞く間もなく、あっけなくな。遺されたわしは、全てを失ったと感じた。生きる意味もないとさえ感じた。しかし…後を追うわけにはいかなかった」
「私がいたからですか?」
「そうだ。死んだあいつが、想い出以外にわしに遺してくれた唯一の存在。それが、そなただ」
「では、私の名は…」
「そう、何よりも、わしを『輔(たす)』けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ」
「そうでしたか…」

牛輔の脳裏に、父との日々が思い出された。
父は、いつも厳しかった。何か悪戯をしようものなら、容赦なく叱られたものだ。それは、名族の嫡男であるからとばかり思っていたが、それ以外の意味もこもっていたのか…。
彼も、ただ部屋にこもっていたわけではなく、それなりに学問もしてきている。それによって培われた理性は、父の思いをしっかりと理解した。

「これからは、わしばかりでなく、董郎中殿もそなたの義父(ちち)となるのだ。ふたりの父を、しっかりと『輔』けてくれよ」
「はいっ!」
(父上が厳しかったのは、私の事を大事に思っていたが故なのか…)
親迎を前にして、少し、気が軽くなった気がした。自分は、誰かに必要とされる存在である。それは、妻となる姜にとっても同じであろう。それで良いではないか。その思いが、彼の心を明るくしてくれた。
1-AA