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小説 『牛氏』 第一部
37:左平(仮名)2003/04/20(日) 20:30
乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。
「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」
董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。
前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。
騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。
省24
38:左平(仮名)2003/04/27(日) 20:49
十九、
「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」
「黙れ! その事は口にするでない!」
「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」
「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」
省37
39:左平(仮名)2003/04/27(日) 20:51
「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」
その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。
数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。
しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。
「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」
省25
40:左平(仮名)2003/05/04(日) 02:15
二十、
考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。
そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。
義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。
省35
41:左平(仮名)2003/05/04(日) 02:19
「ん? なんだ、伯扶か」
そっ、その声は!
「ち、義父上ではありませんか! こんな夜更けに何をしておられるのですか!」
「あぁ、ちょっとな」
そういう董卓の顔は、いつもとは少し違って見えた。そこはかとなく厳粛さが感じられるのである。これから凱旋する将には見えない。
省31
42:左平(仮名)2003/05/05(月) 21:21
二十一、
話?一体、どの様な話があるというのだろうか。羌族は文字を持たぬはず。口伝で何かしらの説話があるにせよ、これといった話があるとは考えにくいが…。
「そなた、羌族とはいかなるものだと思う?」
えっ?いかなるものか? 牛輔には、その問いの意味が分からなかった。
「いかなるものと急におっしゃられても…。我ら漢人にとっては、しばしば叛乱を起こす厄介な存在としか思えませんが…」
省40
43:左平(仮名)2003/05/05(月) 21:24
「そなたがこの話を信じぬのは、漢人の文字を重く見て羌族の口伝を軽んじるからであろう。まぁ、それならばそれで良い。しかしな、それならばなぜ『羌』と『姜』の字の類似をも軽んじる?」
「それは…」
そう言われると、何とも言い様がない。
「まぁ、どこまで事実かは分からぬがな。だが…」
董卓の表情が、また変わった。その顔には、紛れもない哀しみの色が浮かんでいた。
省37
44:左平(仮名)2003/05/11(日) 22:51
二十二、
「義父上…」
「ん?どうかしたか?」
「もしや…泣いておられるのですか?」
「さぁ、どうであろうな…。少なくとも、わしは哭するという事はせぬ」
省37
45:左平(仮名)2003/05/11(日) 22:53
確かに、今の漢朝は乱れている。数々の怪異現象、相次ぐ天災、中央の政変、地方での叛乱…。この国の事を愁う心有る者ならば、何らかの行動に出たくもなるであろう。
(今上陛下【霊帝】は、まだお若い。成長なさり、光武皇帝の如き英明さを発揮していただければ…)
かすかではあるが、今はそれに希望をつなぐしかあるまい。
そんな事を考えているうちに、あたりが少しずつ明るくなってきた。夜明けである。やがて、東から日が昇るのが見え始めた。
省40
46:左平(仮名)2003/05/18(日) 21:19
二十三、
年が明けて、正月。
「あぁ、正月だ。新たな年が始まったんだな」
牛輔は、昇る朝日を眺めながら、そんな事を呟いた。もう二十回以上も経験したはずの正月が、妙に新鮮なものに感じられたのである。
(そぅか…。去年の今頃と今とでは、何もかも違うんだったな。正月も、違ってて当たり前か)
省33
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