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小説 『牛氏』 第一部
46:左平(仮名) 2003/05/18(日) 21:19 二十三、 年が明けて、正月。 「あぁ、正月だ。新たな年が始まったんだな」 牛輔は、昇る朝日を眺めながら、そんな事を呟いた。もう二十回以上も経験したはずの正月が、妙に新鮮なものに感じられたのである。 (そぅか…。去年の今頃と今とでは、何もかも違うんだったな。正月も、違ってて当たり前か) あらためて、結婚の持つ意味の大きさを思う。 「あなた− 早くいらして下さいよ」 姜が呼んでいる。彼女がいるだけで、世の中が明るく見えるのであるから、不思議なものだ。 「あぁ、すぐ行くよ」 現代の我々は、正月とは掛け値なしにめでたいものとして捉えている節があるが、古代の人々にとってはそうとばかりはいかなかった。 数え年という概念もそうであろうし、なにしろ、いろいろ煩雑な儀礼がある。ご馳走を食べつつ、ただただのんびりと過ごすというわけにはいかない。 ここ牛家も例外ではなかった。なにしろ、主人夫婦がまだまだ若いのに加え、家人達も皆不慣れである。年末年始はひどく慌しいものとなった。 そんな騒ぎがひと段落する頃には、姜の腹はますます大きくなっていた。来るべき授乳を控え、胸の膨らみも大きくなっているのであるが、腹の膨らみ具合が余りに大きいので、それが目につかない。 確実に母親になる日が近付いているというのに、胸の膨らみが意識されない為、かえって幼く感じられるというのも、どこか不思議なものである。 「それにしても、こうも大きくなるものかなぁ」 牛輔は、姜の腹を撫でながらそう呟いた。男にとって、妊娠・出産というのは、どうにもよく分からないものである。 「そうですねぇ。何をするにも大変です」 「だろうな。腹で足元が見えないからな。そういえば、もう少しで生まれるんだったよな」 「えぇ。あと数日の様です」 「義父上へは連絡したかい?」 「はい。先ほど」 「姓は異なるとはいえ、初孫だからな。さぞや喜ばれるであろう」 「えぇ」 姜の顔には、愛する夫の子を産む事に対する喜びがある。それは、牛輔にとっても喜ばしい事であるが、彼にはまだ不安があった。 なにしろ、牛輔の母は、彼を産んですぐに亡くなってしまったのである。今もそうであるが、衛生状態・栄養状態が(現代と比べて)劣悪だった当時においては、出産とは大きな危険を伴うものであった。 (どうか、母子ともに健やかである様に) そう、祈らずにはいられなかった。
47:左平(仮名) 2003/05/18(日) 21:22 数日後。董卓とその家族が訪れ、一族が揃った頃、姜は産室に入った。庶民の場合は、産婦が一人で身の回りの処理をする事もあった様だが、地方豪族たる牛氏の妻ともなれば、そういう事はなかったであろう。とはいえ、産みの苦しみ自体は、どうする事もできない。 (無事に産まれてくれよ) もう、気が気ではない。夫である牛輔は、席が温まる暇もなく、立ったり座ったりを繰り返せば、父の董卓も、落ち着いている様に見せてはいるものの、時々せわしなく体を揺らしている。 こういう時には、男達は何の役にも立たない。その能力とはかかわりなく。 「伯扶殿、その様にそわそわなさっていても何にもなりませんよ」 さすがに何度も出産を経験している義母の瑠は落ち着いている。 「分かっております。分かってはいるのですが…。なにしろ、姜は初産ですし」 「あの子はわたしの娘ですよ。この程度の事で根をあげたりはしません」 「はぁ…」 そんな状態が数刻も続いた。 先の戦いの時もそうだったが、こういう時の時間の進み方は、どこか不思議なものである。 早いと感じる瞬間があれば、遅いと感じる瞬間もある。そして、過ぎ去っても「過ぎてみれば短かったな」とは思えない。 悶々とした時間がこのままずっと続くかの様な、そんな感覚に襲われたその時、産室の方で声があがった。 「産まれた!」 最初に気づいたのは、瑠だった。牛輔はといえば、緊張が続いた事に疲れたのか、心ここにあらずといったふうである。董卓に至っては、席に座ったままうとうとしている。 「あなた、伯扶殿、何をぼんやりなさっているのですか! 産まれましたよ!」 「えっ? あっ、はぁ…」 「んっ? そっ、そうか…」 なかば叩き起こされる様な感じである。勇将・董卓も、愛妻の前では形無しといったところか。 そそくさと産室に向かう瑠に対し、男二人の動きは、ゆっくりとしたものであった。落ち着いているのではない。精神的な疲労のせいで、やけに体が重いのである。 「おい、伯扶」 「何でしょうか」 「もう少し、しゃきっとしたらどうだ。初めて我が子に会うのにそんなくたびれた姿をさらしてどうする」 「義父上こそ。初孫ですぞ」 「まぁな」 そんなやりとりをしている間に、二人は産室の前に立っていた。
48:左平(仮名) 2003/05/25(日) 21:25 二十四、 「伯扶よ。どっちが先に入る?」 「えっ?そっ、それは…」 二人とも、早く赤子の顔を見たいのではあるが、どこかためらいがある。 本来の出産儀礼においては、夫といえどもそうそう産室に入れるものではないのである。先の婚礼の時とは異なり、そのあたりの事にはあまりこだわりはないものの、出産という女の領域には、どこか入り難いものがある。 (伯扶よ、そなたが先に入ったらどうだ) (義父上こそ、お先に入られたらどうですか) 産室の前に突っ立ったまま、そんな状態がしばらく続いた。大の男が二人して戸の前にいる様は、何とも珍妙なものである。 「このままここに立っててもしょうがない。一緒に入るか」 「そうしますか」 初めからそうすれば良さそうなものであるが、こういう場面では、存外気がつかないものである。 「じゃ、いくぞ」 「えぇ」 「では−」 二人は一斉に足を踏み出した。その時。 「お待ちください!!」 「!?」 二人は、足を踏み出しかけたところを急に止められたので、思わず転びそうになった。声の主は、先に産室に入った瑠である。 「いま、産湯を使っているところです。もうしばらくお待ちください」 「でも、もう産まれたのであろう? なにゆえ、我らが入ってはならぬ?」 「あなた、お忘れですか? 姜が産まれた時の事を?」 「あっ!…」 そう言われて何か思い出したのであろうか。董卓は急に向きを変え、室に戻っていった。 あわてて、牛輔もあとを追う。 「義父上、以前に何かあったのですか?」 義父が、一言言われただけでこうもあっさり引き下がるのは珍しい。何かよほどの事があったのだろうか。あまり話したい事ではないだろうが、聞かずにはおれない。 「いやな。あれは、姜が産まれた時の事なのだが…」 董卓にとっては、あまり格好のいい話ではないのであろう。どこか気恥ずかしげに話し始めた。 「姜が産まれた頃は、我が家はまだ富貴ではなかった。当然、この様な産室などはなくてな。瑠は、筵などで仕切りを設けて、そこで出産したのだ。当時は兄夫婦と同居しておったから、何かと手助けはしてもらえたがな」 「はい」 「わしにとっては、初めての子だ。そりゃもう、嬉しくってな。産声があがるや、筵を払いのけて赤子と対面したのだ。だが…」 「だが?一体どうなさったのですか?」
49:左平(仮名) 2003/05/25(日) 21:28 「…そなた、赤子がどこから産まれるか知っておるか?」 「えっ?」 「知らぬか」 「はぁ…」 「ここだよ」 そう言って董卓が指し示したのは、自分の股間であった。 「ここ?」 「そうだ。まぁ、男と女とでは付いてるものは違うがな。…赤子が産まれるのだ。そなたも、姜のここを見た事があろう?」 「まぁ…」 「凄いとは思わぬか? そなたの陽物でさえ入るかどうかという陰門から、赤子が出てくるのだぞ」 「…」 「その時、わしは見てしまったのだよ。子を産んだばかりの、瑠の陰部をな。…あれは、男が見るものではない。幾度となく戦場を駆け、血にまみれ、死線をかいくぐってきたわしも、あれには血の気が引いた」 出産とはそんなに凄まじいものか。そんな事を、あの姜が…あの華奢な体にそんな力が…。にわかには信じ難い事であった。だが、事実である。 「瑠が産褥から起き上がっても、わしは、しばらくあいつを抱けなかった。あれが頭から離れなくてな…。子育てやら何やらであいつが忙しかった時に、思う様に慰めてやる事ができなかったのが、今もって悔やまれるのだ」 「そんな事があったのですか…」 「ま、今はそんな事はなくなったがな。実は、昨日も抱いてやったところだ」 それでこそ義父上。思わず笑みがこぼれる。董卓も、つられて笑う。 「わしでさえそういう有様だったからな。ましてや、繊細なそなたではどうなるか。そなたがいかに姜をいとおしく思っていても、そんな光景を目の当たりにしたが最後、二度と抱けなくなるやも知れぬ。瑠はそれを恐れたのであろう」 「そうでしたか…」 妻の出産の場面に耐えられないであろうとみられたとは、いささか情けなくはある。しかし、義父でさえそうであるのだから、さして気にする事ではあるまい。 「どれ、もうよいかな」 話している間に、いくらか時間も経った様だ。そろそろ、産湯も片付けも済んだであろう。 「おぅ−い、瑠。産湯は済んだか−」 「はぁ−い。もぅ入ってもよろしいですよ−」 「では、行くか」 「はい」 いよいよ、我が子との対面である。瑠の声からして、母子ともに無事である事は間違いなかろう。 (いったい、どんな子であろうか) 早く後継ぎが欲しいから、男子である方がいい。とはいえ、二人ともまだ若いのである。女子であっても、いっこうにさしつかえない。
50:左平(仮名) 2003/06/01(日) 22:55 二十五、 二人は、産室に向かった。 先ほど、あれほどためらわれたのは何だったのだろうかというほど、今度はすんなりと入れた。 産室は、どこか異質な雰囲気を漂わせている。室そのものには、何も特別な装飾などは施されてはいないのだが、どうもそういう気がしてならない。 (どうしてだろうか?) ふとそんな事を考えた。もっとも、考えても、男には分かりそうもない。 室内に入った瞬間、血の臭いがした。見ると、何かは分からないが、血に塗れた物体(へその緒とか胎盤とか)がある。あれも、出産に伴って生じたものであろうか。 (それはそうと、姜は? 赤子は?) 一瞬、その物体に気をとられはしたが、今は、そんなものに構っている場合ではない。 目を下に向けると、そこに、子を産んだばかりの姜がいた。相当体力を消耗したのか、顔は、産室に入る前に比べやつれており、また、全身に汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、決して安産ではなかった事が伺える。 ただ、その顔は、安らかである。ひと仕事を終えたという充実感がそうさせるのであろう。 「姜…」 「あ…あなた…。子供は…無事に…」 「あぁ、分かってる…。大変だったな。ゆっくり休めよ」 よくやってくれた。そんな姜が、いとおしくてならない。 「まぁ。二人とも、じっと見つめあっちゃって。仲がいいこと」 「そうだな」 「伯扶殿。夫婦仲がいいのも結構ですけど、赤子を忘れちゃいませんか」 「あっ…そうでした」 「ほら。こちらがあなた達の和子ですよ。男の子よ」 瑠は、そう言って、産着にくるまった赤子を手渡した。 「こ…これが我が子ですか…」 牛輔が赤子を見るのは、これが初めてというわけではない。弟達が産まれた時、その様子を見たはずなのである。しかし、もう十数年も前の事であるから、そういう記憶は、もうおぼろげでしかない。 「赤いでしょ? どうして赤子って言うか、分かった?」 瑠は、明るくそう言う。牛輔の緊張をほぐそうとしているのであろう。 「はぁ…」 そうは言われても、緊張はほぐれそうにない。 泣き声をあげる赤子は、彼からみても、小さく、たよりなさげなものである。 (だが、この子は、まぎれもなく我が夫婦の子、そして、義父上の孫) 男であるそうだが、一体、どの様に育つのであろうか。将か、相か。それとも他の何者かか。 「伯扶殿。ぼんやりしている場合ではありませんよ」 瑠の声に、思わずはっとした。 「えっ?」 「この子の名は、いかがなさるのですか?」 「そ、それは…」 一応、考えてはいたのだが、そう言われると、一瞬慌てた。
51:左平(仮名) 2003/06/01(日) 22:57 「慌てる事はありませんが、きちんと考えておいてくださいね」 「え、えぇ…」 「それと、あれを片付けてくださいね」 「え? あれってのは?」 「ほら、あれですよ」 そう言って瑠が指差したのは、さっき見た、血に塗れた物体であった。 「えっ? 私がですか?」 「そうですよ。それも夫たる者の務めです」 この間、董卓はほとんど何も言わなかった。産室の中では、女の方が強いという事であろうか。その事が、ちょっと可笑しかった。 「はい、分かりました」 そう答える牛輔の声は、至極明るいものであった。 「義母上。ところで、これは何ですか?」 片付けが終わると、皆、産室から出た。 姜も別室に移った。産後の肥立ちが悪ければ、直ちに命にかかわってしまう為、しばらくは養生しなければならない。 名門の家ともなると、通常、乳母が必要になる。とはいえ、同じ頃に子を産んだ女など、すぐに見つかるものではない。それまでの間は、姜自らが乳を与える事になる。 姜が乳房を出し、子に吸わせる。子は、ひたすらに吸い、乳を飲んでいる。のどかな景色である。 しばらく後、命名の儀礼が行われた。 名は、「諱(いみな)」とも呼ばれる様に、外に向かってはあまり用いられるものではない。主に家族の内で用いられる。 とはいえ、名と字の間には、通常、何らかの関連性があるから、変な名をつけるわけにはいかない。 正式な命名は、家廟に告げる時なのであるが、実際のところはどうであろうか。 「伯扶よ。子の名は決まったかな?」 「えぇ。…それにしましても、名をつけるというのも大変なものですね。字義だの何だのと、いろいろ考えないといけないのですから」 「そうか? わしなどは、余り悩まなかったがな」 「それは…何と言いますか…」 「で、何と名付けるつもりだ?」 「はい。『蓋』と名付けようかと」 「『蓋』?どういう意味があるのだ?」 「はい。『天蓋』からとりました。地を覆う、天の如く大きくなってもらいたいという思いを込めて」 「天蓋、か…。こりゃまた、大きい名であるな」 「お気に障りましたか? 義弟の名との釣り合いが気になるのですが…」 「いやいや、大いに気に入ったよ。そうか、天蓋か…」 董卓は、満足げにうなづいた。
52:左平(仮名) 2003/06/08(日) 22:22 二十六、 当時の中国人は、宇宙の構造を「天は円(まる)く地は方形」であると捉えていた。半球状の天が、方形の地に覆い被さる形とみていたのである。この様な考え方を「蓋天説」という。実際、地から天を眺めると、巨大なド−ムの中にいる様な感じがしないではない(そう思えるのは、現代の我々が地球は丸いという事を知っているがゆえの事かも知れないが、実のところはどうであろうか。円屋根の建物もあったらしいので、一概には言えない)。 後には、より精緻な「渾天説」が登場するが、一般的には、なお「蓋天説」が信じられていた。 牛輔が長子につけた「蓋」という名には、その様な大きな意味が込められていたのである。 ただ、董卓が満足げにうなづいたのは、それとはいささか異なるところにあった。彼が反応したのは、「天蓋」の「天」というところに対してである。 「天」−。それは、単に天空のみを示すのではない。 そもそもは、人の頭頂部を示す(『脳天』などがそう)この言葉は、やがて、原義とは全く異なる意味を持つに至った。 「天」に、原義と異なる意味を与えたのは、周王朝であったと考えられている。 国家にしろ、会社にしろ、いかなる組織も、その存立の基となるのは、その組織が存在する理由、即ち「正当性(レジティマシ−)」の存在である。 当時、周が打倒しようとしていた商(殷)王朝には、「帝」という、強力な正当性の根拠があった。商王の権威は、無形の神である「帝」によって正当づけられていた為、他の勢力が打倒しようとしても、できなかったのである(形のないものは破壊できない。その為、たとえ商王を殺したとしても、商王朝の正当性を破壊し否定する事ができず、真の意味で滅ぼす事ができない。そう考えられた)。 そこで周は、「帝」に対抗できる概念として、「天」を持ち出した。 「天」に与えられた新たな意味。それは、多分に唯一神としての性格を持つものであった。ただ、いわゆる一神教と異なるのは、全ての人の為のものではなく、また、人々の運命に対して直接の影響を与えるというわけではないというところである。 それは、帝王一人の為のものであった。 天は、徳のある人に天命を授け、天下に君臨させる。帝王のことを「天子」ともいうのは、その為である。天命は、周にあって商にはない。周は、そう喧伝する事によって、正当性において商を圧倒し、ついに滅ぼすに至ったのである。 ただ、「天」の思想は、いわば諸刃の剣であった。というのも、帝王に徳がなくなった、少なくともそうみなされた場合、とって替わる事が(その成立の経緯上)可能となるからである(「革命」という言葉は、正確には「易姓革命」。「姓を易【か】え天命を革【あらた】める」という意味)。 それゆえ、天を祀る事は、帝王のみがなしうる事とされた。他の人間が「天」についてふれる事は、本来、あってはならない事なのである。 普通の人であれば、「天」についてふれる事は恐れ多いと考え、あえて意識の外に置くところであろう。だが、董卓はそうではない。 この時点では、まだ漢朝に対して叛旗を翻そうという気はないが、尊崇しようという気も薄い。それゆえ、天という概念に対しても、何ら臆する事はなかったのである。 赤子が産まれて三月の後、家廟にこの事を告げる儀礼が行われた。赤子が正式に家族の一員となるのはこの時であるとされる。「蓋」という名も、正式にはここからのものである。
53:左平(仮名) 2003/06/08(日) 22:24 子が産まれた事で、牛輔夫婦の生活にも、相当の変化が生じた。 赤子には何もできないし、言う事を聞かせる事もできない。躾をしようにも、ある程度育たない事にはどうにもならない。どうしても子が中心の生活となる。 また、若者が多いこの邸内では、子育てに慣れた者は少ない。実家から、経験豊かな家人達を呼び寄せたりしながら、何とかやりくりしている状態であった。 それゆえ、夫婦の間にも、多少の波風が生じた。 二人とも互いに強く相手を意識しているのではあるが、ともに初めての子育てであるので、どうしても子に目が向きがちであった。その為、しばらく疎遠になっていたのである。 ある日、蓋が寝静まった後の事である。 「ねぇ、あなた…」 姜が、甘えた声を出してきた。母親になって以来、こういう声を聞くのは久しぶりである。 「ん?どうした?」 牛輔は、横になったままそう答えた。何が言いたいかくらいは、よく分かっている。 「もぅ…。分かってらっしゃるでしょ」 「あぁ…。ただ、どうにも眠たくってな…」 「それは分かります。わたしも眠いんですもの。でも…」 「でも…何だい?」 「わたしも、もう産褥から出ました。確かに今は蓋の母ですけど、女でなくなったわけではないのですよ」 「分かってるよ」 「分かってらっしゃるのでしたら…」 「そうか。じゃ…」 そう言うと、牛輔は姜の床にもぐり込み、彼女を抱いた。 子を産んだその体は、以前よりもやや丸みを帯びていた。子育てに忙しかった為、少し疲れの色は見えるものの、抱いた時の心地良さは変わらない。いや、むしろ良くなっているくらいである。 彼自身、多少の疲れはあったが、ひとたび抱くと、猛烈に求めずにはいられなくなった。 二人は、数ヶ月ぶりに、激しく交わった。 「はぁ…。やっぱりいいもんだな」 「でしょ?」 「しかし…。どうしたんだ?そなたから求めてくるなんて」 「だって…。あなたったら、今度来た乳母の事をじっと見てらっしゃるんですもの。わたし、つい嫉妬しちゃって…」 「あれは、蓋がきちんと乳を飲んでるかどうか見てたんだよ」 「そうなのですか?」 「あぁ。私が彼女に劣情を催したとでも思ったのかい?」 「若い女が夫の前で乳房をあらわにしてるんですよ。いくら授乳の為とはいえ。そんなところを見せられると、つい…」 「そうか。そう見られるとは、私もまだまだ人間ができてないって事か」 「いえ、そういうつもりでは…」 「そなたを責めているわけではないよ。…すまなかったな。子育てにかまけていて、そなたに構ってやれなくて」 「あなた…」 「そんな顔をするなよ。何だか、また催してきちゃったよ」 「えぇ。喜んで」 波風といっても、若い二人のそれは、この様なたぐいのものであった。
54:左平(仮名) 2003/06/15(日) 21:01 二十七、 忙しくはあったが、子育ての日々は、概ねこの様に平穏なものであった。 蓋は、普通の赤子よりも大柄で、乳もよく飲む。十分に栄養をつけた彼は、すくすくと育っていた。 そんなある日、牛輔邸に一人の来客があった。 「連絡したかと思いますが…。義兄上にお会いしたく、参りました」 「あぁ、若様。これはどうも。殿でしたら、ご在宅でいらっしゃいますので、どうぞこちらへ」 「では、上がらせてもらいましょう」 来客というのは、董卓の嫡子・勝であった。牛輔からみると義弟にあたる彼は、ほどなく志学(十五歳)になろうかという年頃である。 ちょうどその頃、牛輔は姜と一緒に、蓋をあやしているところであった。 「なに? 勝殿が参られたとな?」 「はい。堂にてお待ちしておられます」 「そうか。分かった、すぐに行く。蓋の様子を見に来られたのかな。姜よ」 「はい」 「しばらく勝殿と話をする。頃合いを見て、蓋と一緒に参れ」 「はい」 これが初対面というわけではないが、じっくりと話をするのはほとんど初めてと言ってよい。 (はて、どんな顔だったかな) 少し首をひねりつつ、牛輔は堂に向かう。 堂に入ると、数人の従者とともに、一人の少年 −いや、風貌は既に青年と言ってもよい。それくらい落ち着いて見える− が立っていた。 (これが勝殿か) 牛輔が見る義弟・勝は、義父・董卓ほどではないとはいえ、堂々たる体躯の持ち主であった。 「義兄上、お久しゅうございます」 勝は、うやうやしく拱揖の礼をとった。その仕種は実に自然なものである。これなら、礼に厳しい人にまみえたとしても、失礼であると咎められる事はあるまい。その立ち居振舞いから、彼がいかにきちんと身を修めているかが伺える。 また声は、高くもなく低くもなく、抑揚は滑らかであり、耳に不快感を与えない。心身ともに健やかに育っているという事であろう。 容貌は、義父とは異なり、穏やかな笑顔が印象的である。体格は父親に、顔は母親に似ている。 人からみると、妬ましいくらいによくできた義弟と言えるであろう。もっとも、彼をみると、そういう妬みの類の感情も生じさせない様である。 「おぉ、勝殿か。久しいな。まぁ、ゆっくり座って話そうではないか」 年下という事もあるが、勝には、人を威圧させる様なところはみられない。それゆえ、牛輔も割と気楽に話しかける事ができた。 「はい。では…」 義兄が座るのに呼応する形で、勝は席についた。その間の取り方一つとっても、礼にかなっている。 「今日来るとは伺っていたが、いかがいたしたのかな?」 「いや、大した用件ではないのですが…」 「気にするでない。我らは兄弟ではないか。何なりと申せ」 「はい…。年が明けると、私も志学になります」 「うむ。それで?」 「そろそろ、字をつけようかと思うのですが、どの様な字を用いれば良いか、義兄上に相談に乗って頂こうかと思いまして」
55:左平(仮名) 2003/06/15(日) 21:03 「そういう事か。それなら、喜んで相談に乗るよ。しかし、そなたを見ると、私が偉そうに教える事もなさそうだがな」 「まぁ、いくらか書を読んではおりますが…。私一人で決めるのも不安なもので」 「そういうものか。…分かった、ちょっと待てよ。その類の書を持ってくるから、二人でじっくりと考えようではないか」 そう言うと、牛輔は席を立った。 「う−む…。こんなものかな」 自室に戻った牛輔は、書を収めた箱を開け、中身を確認しつつ、数冊選び取った。この当時、字義の解説書としては「爾雅」などがあった(当時、「説文解字」は既に世に出ていたが、どの程度普及していたかは不明)が、それだけを見たわけではなかったであろう。複数の経書も参照したのではなかろうか。 「さて、勝殿。ゆっくりと考えましょう」 牛輔の自室から運ばれた、木簡やら巻物の束が、二人の間に置かれた。汗牛充棟とまではいかないものの、なかなかの蔵書量である。 「えぇ…。しかし義兄上、多いですね。こんなに多くの書を読まれるのですか?」 「いや、それほど読んでいるというわけではないが…。何かの時、役に立つという事もあるだろ?」 「こんな時に、な」 「はは…。そうですね」 「さて、読むか。とはいっても、あてもなく探すと時間ばかりかかってしまうな」 「そうですね。いかがいたしましょうか?」 「まぁ、今回は、勝殿の字を考えるわけだからな。名の『勝』に似た意味の字に絞ろう」 「『勝』というのは、『かつ』という意味がありますね。『かつ』という意味を持つ字となると…」 二人の間にしばしの静寂が訪れた。といっても、深刻なものではない。互いに、書に目をやっているので、話しようがないのである。そうして、ようやく幾つかに絞れてきた。 「『克』か『捷』、それに『戡』といったところですね」 「そうだな」 「このうちのどれかという事になるのでしょうが…。さて、どれにしたものやら」 「もう少し、意味を詳しくみてみようか?」 「そうですね」 「う−ん…。『戡』は勇ましい感じではあるが…」 「いくら『かつ』とはいえ、ちょっと血なまぐさい様な…(『戡』には『ころす』などの意味がある)」 「では『克』は…」 「確かに『かつ』ですが、どこか苦しんでる感じが…(『克』には『たえる』などの意味がある)」 「と、なると…」 「『捷』ですね…」 「『捷』か…。他に『はやい』とかの意味もあるな。ただ、ちょっと軽い感じがしないか?」 「そうですか?でも、悪い意味はないでしょ?」 「そう。悪い意味はない。じゃ、この字にするか」 「はい」 「もぅ、勝ったら。字一つ決めるのにいつまでかかってるのよ」 長いこと待たされた姜は、少し不機嫌そうであった。 「あっ、姉上。こりゃどうも…」 「まぁまぁ、姜よ。そう言うなよ。字といえば一生ものなんだから。じっくり考えさせてやれよ」 「もぅ、あなたまで。待たされてうんざりしてたのはわたしだけじゃないんですからね」 待ちくたびれたのであろうか。蓋は、すうすうと寝息を立てている。気がつくと、外は既に薄暗くなっていた。 「今日はうちに泊まりなさい。蓋と遊んでもらうまでは帰しませんからね」 「えぇ。そうさせてもらいますよ」
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