小説 『牛氏』 第一部
55:左平(仮名)2003/06/15(日) 21:03AAS
「そういう事か。それなら、喜んで相談に乗るよ。しかし、そなたを見ると、私が偉そうに教える事もなさそうだがな」
「まぁ、いくらか書を読んではおりますが…。私一人で決めるのも不安なもので」
「そういうものか。…分かった、ちょっと待てよ。その類の書を持ってくるから、二人でじっくりと考えようではないか」
そう言うと、牛輔は席を立った。

「う−む…。こんなものかな」
自室に戻った牛輔は、書を収めた箱を開け、中身を確認しつつ、数冊選び取った。この当時、字義の解説書としては「爾雅」などがあった(当時、「説文解字」は既に世に出ていたが、どの程度普及していたかは不明)が、それだけを見たわけではなかったであろう。複数の経書も参照したのではなかろうか。

「さて、勝殿。ゆっくりと考えましょう」
牛輔の自室から運ばれた、木簡やら巻物の束が、二人の間に置かれた。汗牛充棟とまではいかないものの、なかなかの蔵書量である。
「えぇ…。しかし義兄上、多いですね。こんなに多くの書を読まれるのですか?」
「いや、それほど読んでいるというわけではないが…。何かの時、役に立つという事もあるだろ?」
「こんな時に、な」
「はは…。そうですね」
「さて、読むか。とはいっても、あてもなく探すと時間ばかりかかってしまうな」
「そうですね。いかがいたしましょうか?」
「まぁ、今回は、勝殿の字を考えるわけだからな。名の『勝』に似た意味の字に絞ろう」
「『勝』というのは、『かつ』という意味がありますね。『かつ』という意味を持つ字となると…」

二人の間にしばしの静寂が訪れた。といっても、深刻なものではない。互いに、書に目をやっているので、話しようがないのである。そうして、ようやく幾つかに絞れてきた。
「『克』か『捷』、それに『戡』といったところですね」
「そうだな」
「このうちのどれかという事になるのでしょうが…。さて、どれにしたものやら」
「もう少し、意味を詳しくみてみようか?」
「そうですね」

「う−ん…。『戡』は勇ましい感じではあるが…」
「いくら『かつ』とはいえ、ちょっと血なまぐさい様な…(『戡』には『ころす』などの意味がある)」
「では『克』は…」
「確かに『かつ』ですが、どこか苦しんでる感じが…(『克』には『たえる』などの意味がある)」
「と、なると…」
「『捷』ですね…」
「『捷』か…。他に『はやい』とかの意味もあるな。ただ、ちょっと軽い感じがしないか?」
「そうですか?でも、悪い意味はないでしょ?」
「そう。悪い意味はない。じゃ、この字にするか」
「はい」

「もぅ、勝ったら。字一つ決めるのにいつまでかかってるのよ」
長いこと待たされた姜は、少し不機嫌そうであった。
「あっ、姉上。こりゃどうも…」
「まぁまぁ、姜よ。そう言うなよ。字といえば一生ものなんだから。じっくり考えさせてやれよ」
「もぅ、あなたまで。待たされてうんざりしてたのはわたしだけじゃないんですからね」
待ちくたびれたのであろうか。蓋は、すうすうと寝息を立てている。気がつくと、外は既に薄暗くなっていた。
「今日はうちに泊まりなさい。蓋と遊んでもらうまでは帰しませんからね」
「えぇ。そうさせてもらいますよ」
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