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小説 『牛氏』 第一部
64:左平(仮名)2003/07/20(日) 20:55
三十二、
(ここは…一体…。俺は、どうしたのだろうか…)
男は、微かな意識の中、その記憶を辿っていた。自分の身に何が起こったのか、まだ把握できていなかったのである。
(頭が…痛い…。腕が…動かない…。足も…。目も…見えない…こ、これは…)
(俺は…死んだのか…。いや、頭が痛むという事は、生きているという事ではないのか…)
(落ち着け、落ち着くのだ…。何があったかまず整理しよう…)
(俺は…。病を理由に官位を捨て、郷里に帰ろうとしていたんだったな…。帰ったら、董氏のもとを訪ねる予定だった…)
(昨晩までは、何事も無かった…。で…)
(ケン【シ+幵】のあたりで、怪しい集団にでくわして…)
(薄汚い、妙なやつらだった…。 !!)
思い出した!思い出したぞ!
(やつら、賊だったんだ!俺達を見ると急に襲い掛かってきて…。俺は…。そうか、頭をぶん殴られて気を失ったのか…)
(と、なると…。この状況は、まずいな…。目隠しされてるから周りが見えないし、第一、手足の自由が利かん。これでは、下手に動くわけにもいかん)
(それに、他のやつらはどうしたのだろうか。どうも気配が感じられんが…。あの状況からして、俺一人捕らえられたという事はないよな…)
(ま、まさか…)
最悪の事態が頭をかすめる。
(財物を奪い、皆殺しか!)
全身に戦慄が走った。血の流れが逆流する様な気がした。しかし、ただ恐怖に怯えるだけでは思考は止まってしまう。つらい事だが、さらに考えを進める。
(しかしだ。それなら、どうして俺はまだ生きているのだ?)
(俺に、まだ利用価値があるとでもいうのだろうか?どうも分からん…。ともかく、しばらく様子をみるしかなさそうだな…)
ひとたび目覚めると、男の頭脳はめまぐるしく動き始めた。ただ一つの目的の為に。
『生き延びる為には、何をすべきか』。
こういった状況においては、誰もが考える事である。しかし、この男ほど、その能力に長けた者はいない。実際、後にはこれ以上の危地をいくたびもくぐり抜けていったのである。もっとも、彼自身、自らのその能力にはまだ気付いていないのであったが。
急に足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってくる様だ。
(やつら、俺の様子を見に来たのか)
ケン【シ+幵】のあたりで襲われたという事は、ここは、その近くにあるであろう賊の隠れ家に違いない。はっきり言って、漢朝の救援は、期待薄である。
いかに一介の郎官に過ぎなかったとはいえ、彼自身、朝廷の内実はよく知っているつもりである。たかだかもとの孝廉一人が賊に襲われたところで、ここは辺境。皇帝も、高官達の誰も、関心を持つ事はあるまい。
(くそっ!こんな所で俺は…)
賊の手にかかって落命するのか。そう叫びたくなった。しかし、ここで叫んだところで何にもならない。そう思う彼の頭のどこかに、まだ希望が残っている。
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