下
小説 『牛氏』 第一部
68:左平(仮名) 2003/08/03(日) 21:53 三十四、 牛輔が目を開けた時、空一面に星が瞬いていた。まだ、真夜中である。だが、夜明け前に夜襲をかけるとなれば、決して早すぎるという事はない。 (よし、出撃だ!) もう賊の隠れ家は近い。昨日から馬に枚を銜ませているくらいであるから、大声を出すわけにはいかない。細かく伝令を発し、小声で命令を発するさまは、傍目には滑稽に見えるが、やってる当人にとっては真剣そのものである。 「どうやら、指示は行き渡った様だな」 頃合いをみて旗幟を掲げると、それに応えて兵達が得物をすっと上げた。大声は出せないから、これが合図となる。いよいよ、攻撃開始の時が来た。 漆黒の中を、千余りの兵が黙々と進んだ。これほど気を遣う行軍も、そうはあるまい。もっとも、その行軍自体はすぐに終わった。賊の隠れ家のそばに着いたからである。 「あれが、賊の隠れ家か」 二、三百人はいるというが、はなから襲撃される事など考えてはいないのであろうか。一応の囲いくらいはあるが、これといった備えはしていない様だ。打ち破るのはたやすかろう。とはいえ、ぐるりと包囲するには、兵が足りない。兵法には「十(倍)なれば即ち之れを囲い、五(倍)なれば即ち之れを攻め〜」とあるから、四、五倍程度では包囲殲滅という手段はとれそうにない。 (さて、どうしたものか) 考える猶予は余りない。夜が明けてしまっては、せっかく夜襲を試みた意味がないからである。 (そうだ。先の戦いでは使えなかった火計、使ってみるか) 前回は義父に止められたが、今度の相手は、羌族ではなく、テイ【氏+_】族の単なる賊に過ぎない。彼らが相手なら、義父も、火計を咎めたりはすまい。また、風についても問題はない。やってみる価値は十分にあると言えよう。 「弩兵は東に回り込み、用意が整ったら、一斉に攻撃を開始せよ。そなた達の攻撃が、他の者達への合図になる。心してかかれ」 弩兵達は、無言でうなづいた。 「やつらに、たんまりと火矢を食らわしてやれ」 「火の手が挙がったら、騎兵は喚声を発しつつ、一気に駆けて敵を蹴散らせ」 「長兵は逃走を図る敵を突き倒し、短兵は人質や女子供がいないか探しつつ敵を斬れ」 軸となる戦術が決まれば、後の流れは決まる。指示を受けた兵達は、一斉に配置についた。 全ての配置が終わったのは、予定通り、夜が白む前の事であった。 「者ども、撃て−っ!」 合図とともに、一斉に火矢が放たれた。乾燥したこの地では、いったん可燃物に火がつくと、実に簡単に燃え広がるのである。火は、瞬く間にあたりを覆っていった。 にもかかわらず、賊の反応は鈍かった。自分達が襲われるとは思いもよらなかったし、東の方から明るくなった為、気付くのが遅れたという事もあった。ともあれ、この遅れが、致命傷となった。 「なっ、何だ?」 「かっ、火事だ!」 「なっ、なんでだ!?」 「うわっ!」 「どうした? ぐえっ!」 火の手が挙がると同時に突入してきた騎兵達により、賊はあっけなく倒されていった。ようやく落ち着きを取り戻し、反撃を試みようとするも、今度は続々と来る長兵に圧倒され、動きがとれない。 戦いとはいえないくらいの、一方的な展開である。 夜が明ける頃には、賊はほぼ壊滅していた。一方、こちらの犠牲は殆どない。文句無しの完勝である。 (ほう。伯扶め、なかなかやるではないか) いかに兵力差があるとはいえ、この戦果は見事なものである。これには、董卓も十分に満足した。
69:左平(仮名) 2003/08/03(日) 21:58 「中の様子はどうなっておる」 「ただいま探っております」 攻撃がまだ続いている中、早くも戦後処理が始まった。むしろ、この方が重要だという雰囲気さえある。 「生存している人質がおれば、丁重に保護せよ。賊の妻子については、よほどの抵抗をする者を除き、なるべく生け捕りにするのだ。くれぐれも、余計な殺傷をするでないぞ。よいな」 「承知いたしました」 賊の妻子を殺さずにおくというのは、何も人道的な見地に立っての事ではない。内燃機関のないこの当時、人間の労働力は実に貴重なものであった。多くの人間を保持しているという事が、そのまま富の源泉となるのである。そう考えると、この指示は、至極当然の事であった。 また、その指示を受ける兵も、利害は一致している。辺境に暮らす男に嫁ぐ女は少ない。それゆえ、彼らは常に女に飢えている。彼らにとっては、ここは格好の嫁探しの場ともなるのである。 蛇足ながら−。この頃、隴西に馬平【字は子碩】という人物がいた。彼は官位を失った後、羌族の娘を娶ったという。家が貧しかったとの事なので、この兵達と似た様な事情があったのかも知れない。となれば、類似した環境にあったこの兵士の態度も当然のものであろう。 なお、彼と羌族の娘との間に産まれたのが、後に群雄の一人となる馬騰【字は寿成】。その子が、馬超【字は孟起】である。この馬氏は、後々董氏やその軍団と関わりを持つ事になる。 日が昇り、火の手が収まるのを待ち、本格的な捜索が行われた。だが、漢人の生存者も、テイ【氏+_】族の女子供も見当たらない。 「ちっ。やつら、ここには女子供は連れて来てなかったのか」 そんな声もあがる。 「まぁ、そんなに遠くではあるまい。こいつらが戻らないのを知れば、いずれ出てくるよ。その時に口説き落とせばよかろう」 「そりゃそうだが…」 「ここでものにしたところで、下手すりゃ一生『夫の仇』にされるかも知れんぞ。前向きに考えろや」 「はは。そうだな。…あっ!」 「どうした。あっ!」 二人が見つけたのは、明らかに漢人と思われる屍であった。それも、一人や二人ではない。賈ク【言+羽】と一緒に捕らえられた者達であろうか。 「殿!大変です!」 「どうした!」 「かっ…、漢人の屍です!それも、かなりの人数です」 「なにっ!…そうだ、文和を呼べ!身元を調べねばならぬ!」
70:左平(仮名) 2003/08/10(日) 21:09 三十五、 「お呼びでしょうか?」 食事をとり、一晩ゆっくり休んだ為、賈ク【言+羽】の血色は昨日に比べ格段に良い。だが、表情は固い。 「おお、文和か」 一呼吸おき、牛輔は言葉を続けた。 「実はな、漢人と思われる屍が見つかったのだ」 「えっ!と、いう事は…」 「そうだ。そなたと共に捕らえられた者達やも知れぬ。が、我らは彼らの顔も姓名も知らぬ。身元を確認できるのは、そなたしかおらぬのだ」 「そうなのですか…」 考えてはいたが、そうあって欲しくなかった事が、現実の事として眼前に現われたのである。二人とも、気は重かった。 「殿、こちらです」 「うむ」 牛輔と賈ク【言+羽】が着くと、既に屍は一箇所に集められ、安置されていた。体には目立った虐待の跡はなかったが、殆どの者の顔には、恐怖の色が残っていた。捕らえられた後、殺されたのは間違いない。 「文和、どうだ?」 「間違いございません。皆、私と共にケン【シ+幵】まで旅をした者達です」 「そうか。おい、これで全員か?」 「はい。この中にあった屍は、これが全てです」 「文和。他に、助かった者はおらぬのか?」 「…おりません。襲われた時に死ぬなり逃げるなりした者を除けば、ここにいる者が全てです」 「では、助かったのはそなた一人、か…」 暑いわけではないのに、賈ク【言+羽】の額から、汗が滲む。その後に続く言葉が何であるか、おおよその察しがつくからである。 (なぜ、そなた一人が助かったのか?) (賊に命乞いでもしたか?) (まさか、そなた、賊に通じていたのではなかろうな?) むざむざ賊に捕まった上、その様な疑念にさいなまれるのか。そう思うと、やりきれない。こんな思いをするくらいなら、いっそここで死んだ方が良かったのであろうか。 「この者達の身元は分からぬか?」 「はっ?」 牛輔の言葉は、予想外のものであった。 「屍を丁重に葬ってやろう。それに、家族にこの事を伝えねばならぬしな」 「はぁ…。全員は分かりかねますが、何人かは…」 「よし。後の事はそなたに任せよう。人手が必要であろうから、何人か残しておく。頼むぞ」 「はっ…はい!」 「よし、者ども!引き上げるぞ!」 「おぅ!」 こうして、史書には記載されない一つの戦いが終わった。 「なぁ、伯扶よ」 帰途につこうとしたその時、董卓が不意に問うてきた。 「何でしょうか、義父上」 「なぜ、文和に問わなかったのだ?」 「は?何をですか?」
71:左平(仮名) 2003/08/10(日) 21:12 いったい、他に何を聞けというのであろうか。時々義父は、思いがけない問いを発する。 「分からんか。他の者達が全て殺されたというのに、どうして文和一人が助かったのか。そなた、不思議だとは思わんのか?」 「はぁ…」 確かに、そうだ。そう言われると、急に気になってくる。 「…その事には、全く思いが及んでおりませんでした」 ここで嘘をついたところで何にもならない。素直に認め、教えを乞うた方が自分の為である。 「そうか。気がつかなんだか」 「はい…。義父上に指摘されるまで、全く。我ながら、情けない事です」 「そう気にするな」 こうも素直に反省されると、怒る気にはならない。 「いかに万巻の書を読んだところで、最初から全ての物事を理解できるものではない。大切なのは、その成否を問わず、経験からいかに学ぶかという事だ。聖人ですら、初めから何もかも上手くいくものではないのだからな」 「はぁ…。そのお言葉、しかと心に留めます」 「実はな。そなたがその事に気付かなかったという一点を除けば、今回は言う事なしだったよ」 「まことですか!」 「あぁ。こんな事で嘘を言ってどうなる。兵の統制はとれていたし、賊を壊滅させ、なおかつこちらの犠牲は殆どなかった。完勝ではないか。将として十分過ぎるほどの働きだぞ」 「えぇ。ですが…」 「もっと早く攻撃を開始していれば、あの者達は死なずに済んだのではないか。そう考えておるのか?」 「はい」 「ふむ。そういう事も考えておったか。それでこそ我が娘婿よ」 「果たして、私の判断はこれで良かったのでしょうか?」 「良かったに決まっておろう!」 董卓は急に大声を出した。怒声というわけではなかったが、あたりは一瞬びくっとなった。 「将たる者が、自らの下した判断を顧みるのは良い。だがな、ひとたび決断したなら、わずかでも揺らいではならぬのだ。ましてや、今回のそなたの判断は実に見事なものであった。そんな時にまで思い悩んでどうするのだ!それでは身が保たんぞ!」 「…」 「そなたの判断は全く正しかったのだ。もっと自信を持て。…実はな。そなたと文和があの場を離れた後、わしも殺された者達の屍を確認したのだ」 「それで、何か分かったのですか?」 「屍をみたところ、死斑が浮き出ておった」 「死斑?」 「そうだ。死斑があったという事は、殺されてからしばらく経っておるという事だ。それに、屍は硬かったであろう?」 「確かに、関節等は動かせなかったですね」 「なぜかはよく分からんが、生き物は死ぬと硬くなる。その程度から、いつ死んだかという事がある程度分かるのだ。わしの見立てでは…少なくとも、昨日の朝までには殺されていたな」 「昨日の朝…」 「となれば、そなたが攻撃を急いだところで間に合わなかったというわけだ。文和にしても、気がついたのは昨日になってからだというしな。あれも、他の者達を救う事は不可能であったというわけだ」 「では…」 「そうだ。そなたにも文和にも、何もやましいところはない。将としては、何事にも疑いを持ってかかる必要はあるが、変に気を惑わせる様な問いを発する必要もない。ゆえに、そなたが文和に問わなかったというのは、正しかったのだ。よいな」 「はい!」 牛輔は、また一つ、何かを得た様な気がした。
72:左平(仮名) 2003/08/18(月) 00:01 三十六、 帰還後、董卓の転任と戦勝祝い、それに賈ク【言+羽】の歓迎を兼ねた宴が催された。 めでたい事が二つも三つも重なったのである。皆、上機嫌であった。ただ一人、歓迎される立場である賈ク【言+羽】を除いては。 (伯扶殿には何も言われなかった。しかし…) 人一倍鋭敏な感覚を持つ彼には、周囲の目というものがひどく気になり、素直に歓待を喜ぶという事はできなかったのである。 この涼州の地では、男は、知識よりも腕力が問われる。若くして孝廉に推挙されたという点は他の面々に比べまさっているものの、ろくに抵抗もできぬまま賊に捕われ、ほうぼうの体で解放されたなど、情けない事この上ない。この事は、生涯の負い目となるであろう。 (これから、俺はどうすれば良いのであろうか…) 漢朝に失望したとはいえ、確たる見通しがあって官を辞したというわけではない。しかし、中央とは縁を切った以上は、否応無く、この地で生きるしかないのである。 とはいえ、体も細く、非力である自分にいったい何ができるのであろうか。 (かつて閻氏【閻忠】は、俺の事を留侯【張良。漢高祖の謀臣】・献侯【陳平。同じく、漢高祖の謀臣】の如き奇才があるなどと言ってくれたが…どうなんだか) 今まで自分を支えてくれたこの言葉さえ、空しく感じられる。 「どうした、文和。酒が進んでおらんが。…そなた、ひょっとして下戸か?」 賈ク【言+羽】の様子に気付いた董卓が、そう尋ねた。 「えっ?文和が下戸? とんでもない。こいつ、飲もうと思えば相当飲めますぜ。…おい、なに遠慮してんだよ。今日の主役はおまえだぜ。しっかり飲めよ」 「あっ、ああ…」 「ささっ。ぐい−っと飲み干せよ」 張済にそう勧められ、賈ク【言+羽】は杯の酒をくっと飲み干した。いつもなら旨いと感じられるのであるが、一杯くらいでは、どうもそういう気にならない。 「おぉ。飲めるではないか。なら、もう一杯いけ」 「はぁ…では…」 勧められるまま、さらに何杯も何杯も酒をあおった。酔っ払って、せめて一時だけでも憂さを晴らしたかったのである。だが、酔いは感じたものの、いつもの様な心地良さは感じられない。 そんな彼の思いにはお構いなしに宴は盛り上がり、そして終わった。殆どの者が酔いつぶれ、ぐうぐういびきをかいて寝てしまった為、自動的にお開きになったのである。 賈ク【言+羽】も酔っ払い、横になった。だが、どうにも眠りが浅い。しばらく、夢うつつの中にいた。 (ん…。朝か…) ふと薄目を開けると、もう日が昇り始めていた。まだ特に急ぐ用事もないとはいえ、ここは自宅ではない。そろそろ起きた方が良さそうである。 (起きるか…) そう思い、起きようとして頭を上げると、軽い痛みが走った。まだ酔いが残っている様だ。 (参ったなぁ。ちと飲みすぎた) 心の中でそうぼやきつつ、ふらふらと起き上がった。 あたりを見ると、董卓も、李カク【イ+鶴−鳥】も郭レも、張済も、まだ寝入ったままだ。 (やれやれ。俺が一番早起きか) 董氏はともかく、自宅でもないのに、まったく呑気なもんだ。そう思いはするが、一方で、今の自分はどうかと省みると、偉そうに言う事もできない。 (ま、まだ早いし…もう少し横になるか) そう思い、腰を下ろしたところで、ふっと気がついた。 (あれっ? 伯扶殿は?) 確かに、自分が横になるまでは董氏の横にいたのであるが、姿が見当たらない。それに、あたりも、昨晩に比べ幾分片付いている様な。
73:左平(仮名) 2003/08/18(月) 00:03 「おっ、文和。目が覚めたか」 後ろから、牛輔の声が聞こえた。ふと気付くと、あたりを家人達が忙しく動き回っている。どうやら宴の後片付けをしている様だ。 「こら。物音を立てるな。皆が目覚めてしまうであろう」 「へいっ!」 「大声も出すな」 「あっ、はい…」 「伯扶殿、お早いですね」 「まぁ、ここは我が屋敷だしな。主が客を気遣うのは当然の事だ。気にせずともよい。そなた、まだ寝ていてもいいのだぞ」 「いえ。せっかくですから…私も何か手伝いましょう」 「そうか。では、そちらの指示を頼もうか」 「はい」 他の者を起こしてはならないので、賈ク【言+羽】は小声で返事をした。 彼の指示は、なかなかのものであった。何年もつきあいがあるのかというくらい、家人の体格・性格などを的確に把握し、指図をする。 この事は、戦にも通じるであろう。 (ほう…。この男、他の三人とはちと毛色が違う様だな) 牛輔は、そんな賈ク【言+羽】に興味を覚えた。彼ほど痩せてはいないとはいえ、自分も、姜を娶り董卓の娘婿となるまでは、この様に非力な青年に過ぎなかったのだ。 そう思うと、どこか親近感さえ感じられる。 それは、賈ク【言+羽】も同じだった。自分に似て、非力そうに見えるこの人物が、どうして董氏の信頼を得ているのであろうか。単に娘婿だからというだけではない、何かがある。そう思えてならないのである。 (いい機会だ。このお方の人となりをじっくりと拝見しよう) 牛家の家人に指示を出しながら、そんな事を考えていた。
74:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:52 三十七、 もともとさして大規模な宴ではなかったから、しばらくするとあらかた片付いた。 その頃には、もう日もだいぶ高くなっていたから、眠りこけていた董卓、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、張済も目を覚ましており、あたりの様子に気付いた。 「んっ? 何だ、ずいぶん片付いておるな」 「そうですね」 「俺達が眠っちまった時には、だいぶ散らかってたはずですけど」 「いつの間に?」 四人は、一様に首をかしげた。 「義父上、お目覚めですか」 「おぅ、伯扶。いつの間に片付けたのだ?」 「えっ?いけなかったですか?」 「いや、いかんという事はない。ただ、目が覚めたら片付いておるから不思議に思っただけだ」 「いつの間にって。義父上や皆の者が眠っている間にですよ」 「それは分かる。しかし、気付かなんだぞ。いったいどう片付けたのだ?」 「どうっておっしゃられても…。あぁ、そうそう、実は文和に手伝ってもらったんですよ」 「なに? 文和に?」 「はい。いや、あの者、なかなかやりますな。わが家人を実によくみて使っておりましたよ」 「ほぅ、そうなのか」 「えぇ。いかがなさいましたか?」 「うむ。ちょっとな」 「あれっ?皆様お目覚めですか?」 「おお、文和か。ちょっとこっちに来い」 「はい…」 一体、何であろうか。昨日合流したばかりで、叱責されたり称揚されたりする様な覚えもないが。 「そなた、急ぎの用はないか?」 「は? …昨日帰ったばかりですよ。そんな用事はありませんが…」 「なら話は早い。そなた、しばらくここに留まれ」 「?」 「分からんか。しばらくここに住み込めと言うておるのだ」 「はっ、はぁ…。私は構いませんが…。ただ、伯扶殿は…」 「義父上がそうおっしゃるのだ、私の方は構わんよ」 「…そうですか。分かりました」 軍団の長の命令である。否応のあろうはずもない。 翌日、董卓は任地に向かっていった。それと同時に、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、それぞれの役目を与えられ、各部所に配置された。 ただ、賈ク【言+羽】のみはまだ無任所のままであった。 (義父上は、文和の配置については何もおっしゃらなかった…。これはどういう事なのであろうか…) (私が見る限りでは、文和は使える。ただ、あの者の事は何も知らんからなぁ…。どうやってその才智のほどを量ればよいものか…) 自室で書を読みつつも、その事で頭が一杯になっていた。 (とにかく、じっくりと話をせねばな) そう思っていた、その時である。
75:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:59 「殿。お話があるのですが」 気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。 「あれっ? そなた、いつの間に?」 「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」 「そうだったか?」 さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。 「それはすまんかったな。で、話とは何だ?」 「はい。実は、一つお願いがあるのです。いささか身勝手な願いではあるのですが…」 「構わん。話してくれ。ただし、辞めたいとかいうのは困るぞ」 「辞めるなど…。そんな事、つゆほども考えておりませんよ。実はですね…」 別にやましい話というわけでもないのに、なぜか彼の声は小さくなった。 「なにっ? 私と立ち合いたい?」 「はい」 「それは構わんが…なにゆえ私なのだ?立ち合うなら、他にいるではないか?家人では不満か?」 「いえ、家人の方々に不満がとかいうのではありません。ただ、どうしても殿と立ち合わせていただきたいのです」 「どうしても、か」 「はい」 「ふむ…」 牛輔は、自分の技量のほどはよく承知している。武術の腕前については、自分より上の者は掃いて捨てるほどいるからだ。となれば、家人では物足りないからというわけではない。 (いったい、何のつもりだ?) 少しいぶかしく思うが、賈ク【言+羽】のたっての望みである。彼の事を知る、よい機会ではないか。 「分かった。立ち合おう」 「ありがとうございます」 「で、いつ立ち合う?」 「殿のご都合がよろしければ、今すぐにでも」 「そうか。では、庭に出よう。誰かおるか!」 「はっ!殿、いかがなさいましたか」 「おお、盈か。適当な長さの棒を二本持ってきてくれ。文和と武術の立ち合いをする」 「はい」 「文和。棒を使うぞ。よいな」 「はい」 「殿。こんなものでよろしいでしょうか」 「おぉ、そうだな。それでよかろう」
76:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:14 三十八、 二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。 盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。 実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。 だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。 一つは、自らの長である、牛輔という人物を知る事である。 (一見したところ、伯扶殿はさして腕が立つ様には見えない。この涼州という地にあっては、それは男としては致命的な欠陥であるはず。しかし、董氏には篤く信頼されている様だ。単に娘婿だからか?いや、それ以外の何かがある。そう思えてならぬ…) それは、恐らく幾多の言葉を費やしても容易に分かる事ではあるまい。となれば、実際に体ごとぶつかって確かめるしかない。『彼れを知り己を知らば百戦して殆うからず』という。その『知る』という事は、何も敵に対してだけのものではない。 もう一つは、自らの中にあるもやもやを少しでも晴らす事である。 ろくに抵抗もできぬまま賊に捕らえられたというのは、いかにも情けなく、自分の力の無さをつくづく思い知らされる事であった。張済ならば、そういう時、賊を斬り血路を開く事ができたはず。それが、涼州の男というものであろう。 だが、眼前にいる牛輔はどうであろうか。部下の身でありながらこんな事を考えるのは甚だ失礼ではあろうが、『この方になら勝てるのではないか』。そう思える。ならば、この立ち合いで勝ち、少しでも憂さを晴らしておきたい。そうでもしないと、この先ずっと卑屈に生きるしか無い様に思えてならない。 そんな事を考えるほど、彼は、精神的に滅入っていたのである。 もちろん、そんな賈ク【言+羽】の胸中は、牛輔には知りようもない。ただ、受けて立つのみである。 「では!」 「おう、いつでもよいぞ!」 二人の声とともに、立ち合いが開始された。 「やぁ−っ!!」 賈ク【言+羽】は、足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり持ち上げ、いわゆる上段の構えをとった。戈を振り下ろす要領である。頭に食らえば、相当の衝撃があるから、一撃で決着がつく。 「それ−っ!!」 全身の力を込めて振り下ろす。これが当たれば、自分の勝ちだ。 「おっとぉ!」 牛輔は、それをさっとかわした。彼の方は、まだ棒を振る態勢にさえ入っていなかった。よけるしかない。 (文和め、なかなか素早いな) 賈ク【言+羽】の攻撃をよけながらも、牛輔は感心していた。長身の割には、彼の動きは敏捷である。それは、他の面々と比べても決して劣ってはおらず、むしろ優っているくらいであろう。単なる文弱の徒というわけでもなさそうだ。さすがに、涼州の男である。 だが、その彼の攻撃を、自分はかわす事ができた。日頃の修練が、少しは効いたのであろうか。 「おりゃ−っ!!」 (おっと、感心してる場合じゃないな。こいつ、もう次の態勢に入っている) 棒を握る手に、思わず力が入る。自分だって、負けたくはない。 (さて、どう攻めたものか。棒を振る速さは、あいつの方が上だし…。ん!) しばらく攻撃をかわしているうちに、ある事に気付いた。
77:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:15 (よし!勝てるぞ!) しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。 (棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか) よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。 (あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな) まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。 (となれば、だ。あいつが棒を振り上げた時こそ勝機!) そう思った牛輔は、棒を短く持ち直した。 「やぁ−っ!!」 再び、賈ク【言+羽】が振り下ろす構えに入った。 「今だ!!」 そう叫ぶとともに、牛輔は賈ク【言+羽】の懐に入り、その腕をしたたかに打った。 「ぐっ!!」 短いうめき声とともに、賈ク【言+羽】の手から棒が離れ、地面に落ちた。乾いた音がした。 「殿!お見事ですぞ!」 一部始終を見届けていた盈が声をかける。ともかく、長としての威厳は保たれたというところか。軽くうなづく牛輔の額には、汗が滲んでいた。 一方、賈ク【言+羽】は、うずくまったまま押し黙っていた。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50