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小説 『牛氏』 第一部
85:左平(仮名) 2003/09/28(日) 22:13 さして大きな林ではなかったが、思ったとおり、泉があった。泉には、清澄な水がたたえられている。 (そういえば、こういう所で父上と母上が会われたんだったな…) 前述のとおり、牛輔には母の記憶はない。しかし、緑と静寂に包まれたこの場所に、どこか懐かしいものを感じずにはいられなかった。 「盈よ。私は、ここで産まれたのかも知れぬな」 何の気なしにではあるが、そんな言葉が出てきた。別段深い意味はないのだが、盈には甚だ意外な言葉である。 「えっ?殿は牛氏のご嫡子ではないのですか?なにゆえ、この林で産まれたなどと…」 「なに、言葉のあやというものよ。実はな。昔、この様な場所で父上と母上が会われ、そして結ばれたそうなんだよ。ひょっとしたら、ここかも知れぬなぁ…と思ってな」 「その様な事があったのですか」 「あぁ。そして、母上は羌族の族長の娘であったという」 「…」 盈は黙ってしまった。別に禁句というわけではないのだが、この話は、周囲の者にとってはまだまだ衝撃的なものの様だ。 「ちょっと横になるか。日没までにはまだ間があるしな」 さして疲れていたわけではないが、牛輔は、そう言って話をやり過ごした。 「でしたら、このあたりがよろしいでしょうね」 盈も、あまり深く立ち入りたくはない様子である。意識的に、主と目を合わせない様にしていた。 二人は、草の上にごろりと横になった。空を見上げると、雲が流れてゆくのが見える。空を飛ぶ鳥の姿も、はっきりと分かる。穏やかな、夏の一日であった。 しばらくそうしていると、不思議と眠たくなってくるものである。いつしか、うとうとと夢うつつの中に入っていく。 そんな中、不意に何かの気配を感じた。獣のそれとはちと違うし…いったい、何だろうか。
86:左平(仮名) 2003/10/05(日) 23:01 四十三、 「殿。何か物音がしませんでしたか?」 盈が半身を起こし、小声でそう聞いてきた。大型の獣だとすれば、横になったままでは危険である。 「あぁ、聞こえた。だが、そう大きい音ではなかったな。我々の身が危ないというわけでもなさそうだ」 眠気のせいもあったが、牛輔は割と冷静にそう判断した。 「えぇ。ですが、妙に気になるのです」 「うむ。そなたが気になるというのであれば、私も気になるな。焦る事はなかろうが、ちょっと様子を探るか」 二人はゆっくりと立ち上がった。 周囲には草が生い茂っているので、余り急に動くと目立ってしまう。二人は慎重に、草をかき分けつつ進んだ。 「盈。何か見えたか?こちらには何もいないぞ」 「いえ、何も…。いや、ちょっと待ってください」 「なにっ?どうした!」 「お静かに!聞こえてはまずいですよ!」 盈は小声でそう制した。こういう場面では、主といえども言うべき事は言わねばならない。 「あっ、あぁ…。で、何か見えたのか?」 「はい。あちらを…」 盈が指さしたその方向にいたのは… 「!」「!」 声は出さなかったが、二人とも、驚きを禁じ得なかった。あれは、賈ク【言+羽】ではないか! こんな所で、一体何をしているのであろうか。 「あいつ、ここに来ていたのか…」 「どうも、ここには何度も来ている様ですねぇ…」 「そなたにはそう見えるか」 「はい」 「なぜそう思う?」 「いや、何となくとしか」 「そうか。まぁ良い。何をしようとしているのか探るのが先だ」 「そうですね」 二人は賈ク【言+羽】の様子を凝視した。ここから伺う限りでは、誰かと待ち合わせているというのではなさそうだ。しかし、何かを探している様にも見える。二人は首をひねった。その意図が全く見えないのである。 「あいつの意図するところが、どうも分からんな…」 「殿。孝廉という方々は、ああいうものなのですか?」 「私に聞かれてもなぁ。なってもいないものの事は分からんよ。どうしてそう思うんだ?」 「あの、腰にぶら下げた袋は一体…」 ふと気づくと、空に数羽の鳥が飛んでいるのが見えた。賈ク【言+羽】は、しばしその鳥を見つめていた。 二人も、つられて鳥の方を見つめた。 「シュッ!」 不意に、何かを切り裂く様な音がした。と思うと、次の瞬間、一羽の鳥が地面に落ちていくのが見えた。 「ん?何が起こったんだ?」 「いえ、私にもさっぱり」 一瞬の出来事に、二人ともわけが分からぬまま呆然としていた。しかし、次の瞬間、先ほどと同じ音がしたかと思うと、また一羽、鳥が落ちていった。 「一体何が…」 一羽なら、急な発作とか一陣の突風とでも説明できるだろうが、二羽続いてとなると、偶然とは考えにくい。しかし、一体何が起こったのであろうか?まるで見当がつかない。
87:左平(仮名) 2003/10/05(日) 23:04 二人は、賈ク【言+羽】と鳥の、どちらを見れば良いのかと一瞬迷った。しかし、迷う必要はなかった。 「殿!あれを!」 「あ!あれは!」 二人とも、思わず声をあげていた。後で考えると、よく気づかれなかったものである。 賈ク【言+羽】は、片手を腰の袋に入れ、中から二、三個の石ころを取り出していたのである。 しばらくその感触を確かめ、じっくりと鳥の行方を見定めたかと思うと、腕を巧みに折り曲げ、手首に捻りをかけて、その石ころを鳥に向かって投げた。 手から離れた石ころは目にも留まらぬ速さで飛び、鳥の体に命中した。鳥は、さっきの二羽と同様、まっさかさまに地面に落ちていった。 表情が変わらないところを見ると、あれはまぐれではない。いや、確実に撃ち落とせるという自信さえ感じられる。 「盈よ。見たか、今のを」 「はい。しかと」 「文和がしょっちゅう遠駆けに出ていたのはこの為であったか…」 牛輔にはおおよその見当がついた。肉がつかず、腕力では他の者達にかなわぬと思い知ったがゆえ、自分に褒められた俊敏さを生かそうと鍛錬を積んでいたというわけか。そして、いつの間にかこれほどの腕前に…。 「たいしたやつだな」 そう、関心せずにはいられなかった。 「まったくです」 盈も、同感とばかりにうなづいた。 「おっ、夕焼けか…。あっ!しまった!」 「殿!大声を出してはならないと…」 「すまんすまん。姜と約束してたんだ。今日は日没までには必ず戻るって。…急がんと間に合わんぞ」 「ですが、文和殿の様子を探るにはまだ不十分かと」 「それはそうなのだが…。すまん、盈よ。そなた、ここに残って様子を探ってはくれんか?」 「えっ?それは、まぁ、構いませんが…」 「では、頼むぞ」 そう言うやいなや、牛輔は馬の方に走り出していた。 (妻を怖がっていると思われるかな…) ちょっと情けなくはある。が、姜の怒った顔を見たくないという思いは、その情けなさにまさっていた。 「頼むぞ。全速で走り切ってくれ」 戦場においても、これほど馬をせき立てる事はない。そう思うほどに駆け続け、ようやく自邸の門にたどり着いた時、日はまさに地平線の下に消える寸前であった。 「ま、間に合った…」 なかば倒れこむ様にして、牛輔は邸内に着いた。 「お帰りなさいませ」 「あぁ。結局、盈と一緒に遠駆けしただけだから、何もなかったが…」 「いいんですよ。その様な事は」 そう言って出迎える姜は、笑みを浮かべていた。自分との約束をきちんと守ってくれた事が、何より嬉しかった様である。その笑顔を見た事で、ほっと人心地ついた。 「さ、今晩は…」 甘えた声を出したかと思うと、姜は牛輔にもたれかかってきた。いつの間にか、帯も緩んでおり、艶っぽい素肌が垣間見える。 「分かってるよ。たっぷりと…」 牛輔も微笑を浮かべた。もう慣れてはいるが、惚れた女の媚態である。悪い気はしない。
88:左平(仮名) 2003/10/12(日) 23:33 四十四、 翌日、賈ク【言+羽】と盈が戻ってきた。幸い、二人であの様子を見ていた事は気づかれなかった様だ。 「盈よ。どうであった?」 「はい。あれからずっと見ていたのですが、他には妙なところはございませんでした」 「そうか…。ともあれ、一安心だな」 「そうですね。…しかし殿、ああいうところで大声を出さないでくださいよ。文和殿に気づかれない様にするのにえらく苦労したんですから」 「はは…。すまんかったな」 (配下に注意されるあたり、威厳という点では私もまだまだだな) 牛輔は、そう思い、苦笑した。 −数年が過ぎた。 皇帝の愚昧、宦官の跳梁跋扈、そして、それらを批判し正すべき士大夫層の無力化…。様々な理由により、中央政府はろくに機能していない状態にあった。 それを嘲笑うかの様に、北方においては、檀石槐率いる鮮卑族による寇掠が繰り返されていた。 幸い、鮮卑の脅威に晒され続ける幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏ではある。 (しかし、それはとりあえずの幸運に過ぎぬ。ひとたび檀石槐の如き傑物が現れたなら、今はおとなしくしている羌族やテイ【氏+_】族もまた…) 羌族による、かつての大乱を知る人々はまだ多い。それだけに、いつ来るか分からない脅威に対する危機感は強かった。その危機感の故、董氏や牛氏がその勢力を蓄える事をよしとする雰囲気がある。まだ父の後を継いだわけでもないというのに、牛輔の家産と家人が増えつつあるのが、その証と言えよう。 穏やかな秋の陽気の中、一人中庭に立った牛輔は、静かに彼方の空を見上げた。 「羌族なくして、今のわしはなかった…」 秋の澄み渡った空を仰ぎ見ながら、牛輔はふっと、義父・董卓がある時しみじみとそう話していたのを、思い起こしていた。 「そうではないか。わしの父は、数十年にわたって漢朝に忠勤を励み、数々の功を為したというに、県の尉にしかなれなかった。我が兄もまた、豊かな才を持ちながらも、その地位は上がらず…幼子を残して夭逝してしまった…」 「…」 「わしは、ただ膂力に優れていただけでまとまった学問をする事はなかった。普通ならば、到底立身など適うまい。しかるに今、かつて夢想だにしなかった高位にある…。不思議だとは思わんか?」 「しかし…。義父上は、漢朝の為に大いに働かれたのですから、高位に就くのも当然では…」 「そうか?ならば、なにゆえ我が父、そして兄は高位に就けなかったのか?二人には功がなかったのか?」 「それは…」 「理由は一つしかない。父や兄には、富がなかったからだ」 「富?では、義父上はいかにして富を得られたというのですか?」 「それよ。あれは、もう二十年以上も前の事になるかな…。羌族の集落で世話になった礼に、耕牛を殺して少しばかりの酒肉を振る舞った事があったのだ。すると、その答礼に大量の牛馬を頂いてな。それを人に貸したり売り払ったりして、相当の財を得たのだ」 「その様な事があったのですか」 「そうだ。あの財によって、わしは立身の足がかりを得たのだ」 「なるほど…」 「そればかりではなく、かわいい女もついてきた、と」 「それって、ひょっとして義母上…」 「そうだ」 「なんともまぁ…」 その様な結ばれ方があるのか。何とも微笑ましい話で、思わず顔がほころんでしまう。だが、現実における、自分達と羌族の関係は…。
89:左平(仮名) 2003/10/12(日) 23:35 「ですが、義父上も私も、漢朝の人間であり、羌族とはしばしば戦っております」 「そう。その、羌族の血によって、わしの地位はますます上がりつつある…」 董卓の眉間に深い皺が寄った。彼には、明らかに羌族に対する同情がある。にもかかわらず、漢朝に仕えている以上、否応なしにこういう現実に向き合わねばならない。豪壮と言われる董卓の内面にある、この苦悩のほどは、余人にはなかなか理解できまい。 (かく言う私にも、一体どの程度分かっているのであろうか…) 義父に対する敬意があるが故に、何と言えば良いのか迷うところである。 「だが、他に手段がないのだ」 「手段?何のですか?」 「勝ならば、その才知と徳量によって、漢人と羌族の融和を為す事ができるであろう。しかし、その力量があったところで、高位に就かぬ事には、それも適わぬ。いかにきれい事を言ったところで、家柄が伴わない事には、なかなか立身はできぬのだ…。勝を立身させる為には、まずわしが相当の地位に就かねばならぬ。…わしは一介の武人に過ぎぬ。わしにできる事は、たた戦って功をあげる事のみだ。そして、その相手となるのが、羌族…」 「…」 何と皮肉で哀しい事であろうか。想いとは裏腹に、まだまだ羌族の血を流さねばならないのである。 「幸い、わしの想いを勝はよく分かってくれておる様だ。先が、楽しみだよ」 そう言うと、董卓は微笑を浮かべた。 その様な事を思い出したのは、先ほど、勝の妻が懐妊したという知らせを受けたからであった。 一緒に字を考えてから、もう数年が経つ。既に加冠も済ませた彼は、妻を娶り、そろそろ仕官しようかというところである。それに加えて子も授かるとなれば、紛れもなく吉報であろう。 (このまま、何事もうまくいってほしいものだ) そう、思わずにはいられなかった。
90:左平(仮名) 2003/10/19(日) 23:47 四十五、 「あなた」 ふと気づくと、後ろに姜が立っていた。いつも明るい彼女であるが、今日はまた一段と機嫌がいい様である。 「ああ、姜か。どうした?何かいい事でもあったか?」 「分かりますか?」 「そりゃそうだよ。私はそなたの夫だぞ。いつもより表情が明るいのだからな、すぐ分かるよ」 「まぁ」 そう微笑む彼女を見ていると、心の底から安らかになる。その笑顔が、どれほど自分を助けてくれているか。今まで考え事をしていただけに、そう、強く感じる。 「実はですね…また授かったのですよ」 「授かった?何を?」 見当はついているが、わざととぼけてみせると、姜はすねた様に軽く体をよじらせてみせた。その仕草がまた愛らしい。 「分かってらっしゃるくせに。赤子が授かったのですよ」 「おお、そうだったか」 軽く微笑みながら、そう返事をする。先の初産の時とは異なり、二人とも落ち着いたものである。 「はい。産まれるのはもう半年余り先だそうです」 「ともかく、元気で良い子が産まれて欲しいものだな」 既に牛輔夫婦には蓋という男子がいるので、今度の子が男であろうと女であろうとどちらでも良い。現に、蓋の次の子は女であったが、牛輔も、董卓も、相当な喜び様であった。今回も、同じである。 「ええ。ただ、何となくなのですが…今度の子は、きっと男の子です。そうに違いありません」 女の勘というものであろうか。こういうのは、案外当たるものである。 「そうか。そなたがそう思うのであれば、この子は男だな。となると、蓋に劣らぬ名を考えてやらんと」 事実、それからしばらくの間、牛輔は盛んに書を読み漁った。なにしろ、蓋の名の由来は「天蓋」である。いい加減な名をつけるわけにはいかない。 見上げる空が、ひときわ青い。 「今年もまた、羌族が暴れるのであろうか…」 涼州の人々は、憂いを持ってそう語り合っていた。先に『幽州、并州に比べると、ここ涼州は比較的平穏』と書いたが、それはあくまでも相対的に平穏という程度のものである。確かに大規模な叛乱こそないものの、全く何もなかったというわけではない。収穫物を狙った小規模の寇略は時々あったのである。ただ、自分の評価が下がるのを恐れた官僚達はこの事を中央に報告したがらなかった為、よほどのものでない限り史書には記載されず、あたかもなかったかの如くなっているが。 『天高く馬肥ゆる秋』という言葉がある。我々日本人にとっては、酷暑が過ぎてしのぎやすい季節であると共に収穫を祝うという安らかな季節である秋だが、この地の人々にとっては、羌族をはじめとする騎馬遊牧民の寇略が待っているという、呪わしい言葉であった。 「盈よ。羌族に新たな動きは?」 牛輔は偵察から戻ってきた盈にそう問いかけた。名門・牛氏の一人として、いま彼が背負っている責任は重い。この地の安寧の為にも、一度たりとも敗北は許されないのであるから、無理もない。 彼は決して非凡な将帥ではない。自身、その事はよく認識している。それゆえ、決して奇想に走る事はなく、堅実な戦を心がけている。十分に偵察を行い、常に敵を上回る様に兵を配備する。敵が寡兵であろうと侮らず、全力をもって戦う。今までに、もう何度戦ってきたことであろうか。今のところ、それはうまくいっている。 「まだはっきりとはしませんが…近いうちに動くでしょう。ここ数年、羌族は強壮な戦士を多く失っております故、力は弱っているのではあるのでしょうが…」 盈の口調は、どうもはっきりしなかった。何か予感するところがあったのかも知れない。しかし、この時の牛輔は、その予感に気づく事はなかった。そして、その事が思いがけない事態を招く事になった。
91:左平(仮名) 2003/10/19(日) 23:49 「殿!羌族が動き始めましたぞ!」 季節が秋から冬に向かいつつあったある日、盈がそう言いながら駆け込んできた。それは間違いなく急報であり、事態が切迫している事を感じさせる。 「そうか、来たか。で、兵力はいかほどだ?」 「完全にはつかめておりませんが…およそ千ほど」 「千か…」 牛氏・董氏の両軍団の兵員を総動員すれば、数の上では十分に上回る。三千も用意すれば十分であろう。もう何度となく戦いを重ねているので、このあたりの計算は慣れたものである。 「よし!出撃するぞ!直ちに支度にかかれ! 盈、さらに敵の様子を探っておけ!」 「はっ!」 家人達に指示が飛び、支度が整えられ、そして、出撃となる。それは、もう見慣れた光景でさえあった。数日後の凱旋を、誰も疑いもしない。確かにきちんと偵察はしているし、兵力も相手を上回っているのであるから、そう考えるのも無理はないのであるが…。 「来たか、牛氏よ」 牛輔の出撃の知らせを受けた羌族の将は、そう言うと不敵な笑みを浮かべた。 知らせによると、敵兵力は約三千との事である。確かに数では劣っているし、兵の質も近頃ではどうかというところであるが、どうにもならないという程の差ではない。 何より心強いのは、敵の出方が全くいつも通りだという事である。となれば、こちらの兵力はともかく、戦法などは考慮しておるまい。 (見ておれよ。いつもいつもやられっ放しではおるものか) 彼は、これまで何度も董卓や牛輔と戦い、そのたびに手痛い敗北を喫してきた。多くの仲間を失いもした。しかし、苦難は確かに人を成長させるし、力で劣る様になれば、おのずと知恵を使おうという気にもなる。 今まで相手が使ってきた知恵−陣形とか伏兵といった戦術−をこちらも使おうというのである。 出撃時の様子から推察するに、相手はまだこちらの考えに気づいていないのであろう。それならば、勝機は十分にある。 「大将!敵が見えてきましたぜ!」 「そうか。分かった、すぐそちらに行く」 そう言うと、その将は口元の笑みを消した。 (死んでいった仲間達の復讐が、これから始まる) そう言い聞かせていた。
92:左平(仮名) 2003/10/26(日) 23:32 四十六、 羌族の兵の動きは、ほどなく牛輔達の知るところとなった。 「殿!あれを!」 「む、あれは…。間違いなく、羌族の兵だな」 「いかがなさいますか?」 「慌てる事はない。数ではこちらがまさっているのだから、じっくりと攻めていくとしよう」 「はっ!では、その様に!」 すぐさま伝令が走る。そうして、牛輔の指示に従い、兵達が隊列を整え陣を組み始めた。これも、いつも通りの手順である。ここまでは何も問題はない。兵達も、自信を持ってはいるが、過信しているというわけでもなさそうだ。 (ここまで、何も問題はない。しかし、どうも何かが気になってならぬ…) 盈の心中には、言い様のない不安感がもやもやとくすぶり続けている。しかし、それが何なのかが分からないので、言い出しかねていた。 同様の感覚を持っていた男が、もう一人いた。賈ク【言+羽】である。 牛輔のもと、輜重の管理及び各種報告の整理作成という後方業務に携わっていたのであるが、その精勤ぶりが認められ、今回は戦場に同行する事が許されたのである。 「この経験は、必ずそなたの為になる。そなたの活躍如何では、義父上に推挙してしかるべき位階に就ける様に計らってみるつもりだ」 戦に赴く前に牛輔からそう言われていたので、本来であれば、心浮き立つところである。彼とて、立身はするに越した事はないと思っているのであるから。しかし、戦場に近づくに連れ、例え様のない不安感が襲い掛かってきた。 (何だ、この感覚は?俺は戦を怖がっているとでもいうのか?…いや、自分で言うのも何だが、今更血を見るのが恐ろしいなどという事もあるまい。そういうのとは少し違う様だ。…しかし、一体何だ?何かひっかかるな…) 彼もまた、それが何であるか分からないままであった。 後で考えると、ここで牛輔が賈ク【言+羽】を連れて来ていたというのは、実に重要な事であった。 「突撃−っ!!」 その掛け声とともに、双方の兵が、一斉に衝突した。その衝撃によって砂塵が舞い上がり、あたりはやや薄暗くなった。 激戦である。ここでは、双方何の工夫もない。ただ力の限り戦い、相手を打ち倒すのみである。 やはり数でまさるせいか、しばらくすると、勢いの差というものが見えてきた。羌族の兵達が、じわじわと後退し始めたのである。 「敵は既に逃げ腰だぞ!追え!追え!」 誰からともなくそういう声があがる。この状況では、そう思うのも当然であろう。 「追う前に、馬蹄の後をしかと確認せよ!」 兵達の逸る気持ちを戒める様に、牛輔は大声でそう叫んだ。この敵の後退は、果たして壊走なのか佯北(ようほく:負けたふりをして逃げる事)なのか。将としては、それを見定めずして追撃を命ずる事はできないからである。 馬蹄の足並みが乱れているのは、統制なく逃げているのであるから壊走である。こういう場合は追撃しても良い。いや、むしろすべきであろう。しかし、足並みがそろっていれば、意図的に逃げているのであるから佯北である。恐らく罠や伏兵が待っているであろうから、そういう場合は追撃はすべきでない。それは、兵法の基本である。 「うぅん…。敵の足並みは乱れております。佯北という事はありますまい」 地面をしばし見つめた何人かが、口をそろえてそう言うのを聞いて、初めて追撃命令が下された。闘志の塊ともいうべき兵団は、一斉に追撃体制に入り、猛然と敵を追い始めた。一方、馬術に長けた羌族の兵達も、懸命に逃げていた。 (ん?何かおかしくはないか?) 牛輔がその事に気付いたのは、追撃命令を出して、しばらく経ってからである。 (敵は算を乱して壊走しているはずだが…個々の兵を見ていると、どうもそういう感じではない。どういう事だ?) 敵兵は、時々思い出した様に反転したかと思うと、二、三回攻撃を仕掛け、そしてまた背中を向けて走り出す。単に逃げるだけであれば、一部を殿軍に残してひたすら走りそうなものであるが、そうはしない。 (何を考えているのだ…?) 答えが出ない中、ひたすら敵を追い続けていたが、もう日が暮れそうな頃になって、ふっとある事に気付いた。そしてそれは、この戦いの帰趨に関する、重大な問題であった。
93:左 2003/10/26(日) 23:35 (我らは、知らぬ間に窪地に入っているではないか!) そして、ふと見上げると、羌族の騎兵の姿が映った。それも、一騎、二騎ではない。 (我らは包囲されたのか!) こうなると、形勢は完全に逆転してしまう。 周囲は、崖とは言わないまでも駆け上るにはやや苦しい坂になっている。ここで包囲されたりしたら、いかに数にまさるとはいえ、勝てるという保証はない。急いで脱出せねばならないが、ここを抜けるには、前進か後退しかない。しかし、もうあたりは薄暗くなっている。このままではまずいが、かといって、前後の状況が分からないのでは手の打ち様がない。 (我らがいるのは囲地【いち:狭隘な道のみで外界とつながっている様な地形】か死地【しち:囲地に加え、大敵がいる様な状況】か…。どうする?どうすればいい?) 初めて立つ苦境に、牛輔は、しばし言葉を失った。 (このままでは…我が方は敗れる。そうなれば、私も含めて多数の死傷者が出る…) これまで何度も戦ってきたが、自身の事はともかくとして、『敗戦』という言葉が頭をよぎったのはこれが初めてである。しかも、厄介な事に、ひとたびそういう思いが頭をよぎると、どんどん悲観的になっていく。自分でも、それではいけないと分かっているのに、どうしてもそういう方向にしか思考ができなくなってしまうのである。 (多くの兵を失ってしまえば…長年にわたって培ってきた董氏の威勢は損なわれる…義父上の望みも叶わなくなってしまう…) (私は…牛氏の、また董氏の名誉を損ねてしまうのか…) 父の、義父の、そして姜の顔が、脳裏に浮かんでは消える。自分の僅かな判断の誤りによって、いとしい者達を悲しませてしまうのか。そう思うとやり切れなくなる。 それだけは何としても避けたい。たとえ自分が死んだとしても。しかし、その為の方策はさっぱり思いつかない。 (あれだけ兵書を読んできたというのに、肝心な時に出てこないなんて…) 自分自身の無能が、呪わしく感じられた。そうしているうちに、日は落ち、あたりは次第に暗くなっていった。あたかも、彼の心の中の様に。 「殿」 すっかり日も暮れ、皆その場に座り込んだ中、二人の男が牛輔に近づいてきた。盈と賈ク【言+羽】である。 「おお、盈に文和か。どうした?」 そう言う牛輔の声は、まだ二十代の青年とは思えぬほど張りがなかった。この時、精神的にすっかり参ってしまっていたのである。 「はい。この状況をみて、文和殿が一つ申し上げたい事があるとの事です」 「言いたい事?いったい何だ?」 牛輔には、賈ク【言+羽】が何を考えているかもさっぱり分からなかった。 「一言で申し上げます。いま、我が方は不利に陥っていますね?」 「むっ…。残念ながら、その通りだ。どうやら周囲を羌族に包囲されているらしい。まだ兵達はこの事に気付いていない様ではあるが…」 「明朝になれば、兵達も気付く事でしょう。盈殿の報告には間違いないですから、兵力自体は現在も我が方が上回っているはずです。にしても、この様子では、兵達は恐慌をきたし士気が続かないでしょう。士気が続かなければ…」 「明日には、我が方は敗れる…」 「となれば、一刻も早く手を打たねばなりません。兵書にも『囲地ならば即ち謀り、死地ならば即ち戦う』とあるではございませんか」 「私にも、それは分かっておるのだ。しかし、あたりの様子が分からぬ事にはな。この状況の打開策が思いつかない」 「それなのですが…私に、一つ策がございます」 「策?いかなる策だ?」 「はい。それは…」 賈ク【言+羽】は牛輔の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。
94:左平(仮名) 2003/11/02(日) 21:44 四十七、 「話は分かった。しかし、それだけの兵があれば良いのか?」 「はい。私が率いる部隊は、あくまでも陽動部隊です。ですから、この程度の人数で十分です」 「しかし、それならそれで、どうしてその様な者達を使うのだ?必要ならば、もっと精鋭を引き連れても良いのだぞ?」 「お言葉は嬉しいですが、この策を成功させるのには、この者達こそが最適なのです。少なくとも、私はそう判断しました」 「そういうものか」 よくは分からないが、でまかせというわけでもなさそうだ。それに、このまま手をこまねいていても、状況は好転するはずもない。ここは一つ、賈ク【言+羽】の言う策に賭けてみるしかあるまい。 「分かった。その策を実行してくれ」 「私がお話ししたのは策の概要だけですが…詳しくお聞きにならなくてよろしいのですか?」 「良い。そなたの策だ、きっとうまくいく事であろう。それに、うまくいって生還すれば、詳細などいくらでも聞けるしな」 「確かに。失敗して私が死ぬ様でしたら、所詮その程度の策という事ですしね。それでしたら聞くには値しませんし」 「そうだな」 「では、私からの合図が出ましたら、頭上に注意しつつ一斉に前後に突進して窪地から脱出してください。窪地を出ましたら二手に別れ、左右から敵を挟撃する形をとります。よろしいですか、兵達が上の様子に気付かぬうちに、素早く動くのです」 「分かった」 牛輔は、この作戦の実行を了承した。そして、全軍にその旨の指示が知らされた。 明日の朝、日が昇ろうかという頃には、全てが決まる。 少し眠っておこう。そう思うものの、やはり目がさえて眠れない。地面の上に横になると、微かに星が瞬いているのが見えた。今日は雲が多いので、微かな星明りを除くと、あたりは漆黒の闇の中にある。 双方の兵がすっかり深い眠りにいる中、賈ク【言+羽】の率いる部隊が密やかに動き始めた。 牛輔が不思議に思ったのも無理はない。何騎かの精鋭はいるものの、この部隊の大半は、ろくに武器も持った事のない者達なのである。彼らのほとんどは輜重に携わる人夫であり、賈ク【言+羽】はその一人一人の人相から性格までに至るまで掌握しているというのがせめてもの取り柄といったところではあるのだが。 「おら達、一体何しに集められたんだ?」 「さぁ、分かんね」 「隊長は、あの孝廉様だな。あの方、兵を率いた事があったっけ?」 「いや、ねぇはずだぞ。おらが知ってる限りでは」 「んじゃ、これって脱走か?」 「いや、殿様直々のご命令だってよ」 「どうしようってのかな。分かんねぇな」 「ああ。それに、こりゃ何だ?戦うんだから戟とか戈を持つのは分かるけど」 よく見ると、各々の得物の刃先には、皆袋がかけられている。 「暗闇の中で光ったらまずいって事じゃねぇか?」 多少知恵の回る者がそんな事を言う。 「んじゃ、何でこんなに膨らんでるんだ?」 「さ、さぁ…。そこまでは分かんねぇな」 彼らには、まだ詳細な指示は与えられていない。この様な役目は、隠密行動が鉄則だから。 「皆、揃ったか」 この小部隊の長である賈ク【言+羽】が姿を現した。痩身である為か、初めての指揮である為か、兵達からすると、その甲冑姿はやや心もとなく見える。しかし、その顔には確かに自信のほどがうかがえるのも、また事実である。 「孝廉様。おら達は何をすりゃいいんですか?」 皆、先を争う様にそう問うてきた。 「それを、これから説明するのだ。よいか、私がどの様な指示をしようとも、必ず従うのだぞ。よいな」 「そのくらい分かっておりやすよ。軍律に背いたら斬られても文句は言えないって事でしょ?」 「そうだ。では説明しよう」
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