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小説 『牛氏』 第一部
91:左平(仮名) 2003/10/19(日) 23:49 「殿!羌族が動き始めましたぞ!」 季節が秋から冬に向かいつつあったある日、盈がそう言いながら駆け込んできた。それは間違いなく急報であり、事態が切迫している事を感じさせる。 「そうか、来たか。で、兵力はいかほどだ?」 「完全にはつかめておりませんが…およそ千ほど」 「千か…」 牛氏・董氏の両軍団の兵員を総動員すれば、数の上では十分に上回る。三千も用意すれば十分であろう。もう何度となく戦いを重ねているので、このあたりの計算は慣れたものである。 「よし!出撃するぞ!直ちに支度にかかれ! 盈、さらに敵の様子を探っておけ!」 「はっ!」 家人達に指示が飛び、支度が整えられ、そして、出撃となる。それは、もう見慣れた光景でさえあった。数日後の凱旋を、誰も疑いもしない。確かにきちんと偵察はしているし、兵力も相手を上回っているのであるから、そう考えるのも無理はないのであるが…。 「来たか、牛氏よ」 牛輔の出撃の知らせを受けた羌族の将は、そう言うと不敵な笑みを浮かべた。 知らせによると、敵兵力は約三千との事である。確かに数では劣っているし、兵の質も近頃ではどうかというところであるが、どうにもならないという程の差ではない。 何より心強いのは、敵の出方が全くいつも通りだという事である。となれば、こちらの兵力はともかく、戦法などは考慮しておるまい。 (見ておれよ。いつもいつもやられっ放しではおるものか) 彼は、これまで何度も董卓や牛輔と戦い、そのたびに手痛い敗北を喫してきた。多くの仲間を失いもした。しかし、苦難は確かに人を成長させるし、力で劣る様になれば、おのずと知恵を使おうという気にもなる。 今まで相手が使ってきた知恵−陣形とか伏兵といった戦術−をこちらも使おうというのである。 出撃時の様子から推察するに、相手はまだこちらの考えに気づいていないのであろう。それならば、勝機は十分にある。 「大将!敵が見えてきましたぜ!」 「そうか。分かった、すぐそちらに行く」 そう言うと、その将は口元の笑みを消した。 (死んでいった仲間達の復讐が、これから始まる) そう言い聞かせていた。
92:左平(仮名) 2003/10/26(日) 23:32 四十六、 羌族の兵の動きは、ほどなく牛輔達の知るところとなった。 「殿!あれを!」 「む、あれは…。間違いなく、羌族の兵だな」 「いかがなさいますか?」 「慌てる事はない。数ではこちらがまさっているのだから、じっくりと攻めていくとしよう」 「はっ!では、その様に!」 すぐさま伝令が走る。そうして、牛輔の指示に従い、兵達が隊列を整え陣を組み始めた。これも、いつも通りの手順である。ここまでは何も問題はない。兵達も、自信を持ってはいるが、過信しているというわけでもなさそうだ。 (ここまで、何も問題はない。しかし、どうも何かが気になってならぬ…) 盈の心中には、言い様のない不安感がもやもやとくすぶり続けている。しかし、それが何なのかが分からないので、言い出しかねていた。 同様の感覚を持っていた男が、もう一人いた。賈ク【言+羽】である。 牛輔のもと、輜重の管理及び各種報告の整理作成という後方業務に携わっていたのであるが、その精勤ぶりが認められ、今回は戦場に同行する事が許されたのである。 「この経験は、必ずそなたの為になる。そなたの活躍如何では、義父上に推挙してしかるべき位階に就ける様に計らってみるつもりだ」 戦に赴く前に牛輔からそう言われていたので、本来であれば、心浮き立つところである。彼とて、立身はするに越した事はないと思っているのであるから。しかし、戦場に近づくに連れ、例え様のない不安感が襲い掛かってきた。 (何だ、この感覚は?俺は戦を怖がっているとでもいうのか?…いや、自分で言うのも何だが、今更血を見るのが恐ろしいなどという事もあるまい。そういうのとは少し違う様だ。…しかし、一体何だ?何かひっかかるな…) 彼もまた、それが何であるか分からないままであった。 後で考えると、ここで牛輔が賈ク【言+羽】を連れて来ていたというのは、実に重要な事であった。 「突撃−っ!!」 その掛け声とともに、双方の兵が、一斉に衝突した。その衝撃によって砂塵が舞い上がり、あたりはやや薄暗くなった。 激戦である。ここでは、双方何の工夫もない。ただ力の限り戦い、相手を打ち倒すのみである。 やはり数でまさるせいか、しばらくすると、勢いの差というものが見えてきた。羌族の兵達が、じわじわと後退し始めたのである。 「敵は既に逃げ腰だぞ!追え!追え!」 誰からともなくそういう声があがる。この状況では、そう思うのも当然であろう。 「追う前に、馬蹄の後をしかと確認せよ!」 兵達の逸る気持ちを戒める様に、牛輔は大声でそう叫んだ。この敵の後退は、果たして壊走なのか佯北(ようほく:負けたふりをして逃げる事)なのか。将としては、それを見定めずして追撃を命ずる事はできないからである。 馬蹄の足並みが乱れているのは、統制なく逃げているのであるから壊走である。こういう場合は追撃しても良い。いや、むしろすべきであろう。しかし、足並みがそろっていれば、意図的に逃げているのであるから佯北である。恐らく罠や伏兵が待っているであろうから、そういう場合は追撃はすべきでない。それは、兵法の基本である。 「うぅん…。敵の足並みは乱れております。佯北という事はありますまい」 地面をしばし見つめた何人かが、口をそろえてそう言うのを聞いて、初めて追撃命令が下された。闘志の塊ともいうべき兵団は、一斉に追撃体制に入り、猛然と敵を追い始めた。一方、馬術に長けた羌族の兵達も、懸命に逃げていた。 (ん?何かおかしくはないか?) 牛輔がその事に気付いたのは、追撃命令を出して、しばらく経ってからである。 (敵は算を乱して壊走しているはずだが…個々の兵を見ていると、どうもそういう感じではない。どういう事だ?) 敵兵は、時々思い出した様に反転したかと思うと、二、三回攻撃を仕掛け、そしてまた背中を向けて走り出す。単に逃げるだけであれば、一部を殿軍に残してひたすら走りそうなものであるが、そうはしない。 (何を考えているのだ…?) 答えが出ない中、ひたすら敵を追い続けていたが、もう日が暮れそうな頃になって、ふっとある事に気付いた。そしてそれは、この戦いの帰趨に関する、重大な問題であった。
93:左 2003/10/26(日) 23:35 (我らは、知らぬ間に窪地に入っているではないか!) そして、ふと見上げると、羌族の騎兵の姿が映った。それも、一騎、二騎ではない。 (我らは包囲されたのか!) こうなると、形勢は完全に逆転してしまう。 周囲は、崖とは言わないまでも駆け上るにはやや苦しい坂になっている。ここで包囲されたりしたら、いかに数にまさるとはいえ、勝てるという保証はない。急いで脱出せねばならないが、ここを抜けるには、前進か後退しかない。しかし、もうあたりは薄暗くなっている。このままではまずいが、かといって、前後の状況が分からないのでは手の打ち様がない。 (我らがいるのは囲地【いち:狭隘な道のみで外界とつながっている様な地形】か死地【しち:囲地に加え、大敵がいる様な状況】か…。どうする?どうすればいい?) 初めて立つ苦境に、牛輔は、しばし言葉を失った。 (このままでは…我が方は敗れる。そうなれば、私も含めて多数の死傷者が出る…) これまで何度も戦ってきたが、自身の事はともかくとして、『敗戦』という言葉が頭をよぎったのはこれが初めてである。しかも、厄介な事に、ひとたびそういう思いが頭をよぎると、どんどん悲観的になっていく。自分でも、それではいけないと分かっているのに、どうしてもそういう方向にしか思考ができなくなってしまうのである。 (多くの兵を失ってしまえば…長年にわたって培ってきた董氏の威勢は損なわれる…義父上の望みも叶わなくなってしまう…) (私は…牛氏の、また董氏の名誉を損ねてしまうのか…) 父の、義父の、そして姜の顔が、脳裏に浮かんでは消える。自分の僅かな判断の誤りによって、いとしい者達を悲しませてしまうのか。そう思うとやり切れなくなる。 それだけは何としても避けたい。たとえ自分が死んだとしても。しかし、その為の方策はさっぱり思いつかない。 (あれだけ兵書を読んできたというのに、肝心な時に出てこないなんて…) 自分自身の無能が、呪わしく感じられた。そうしているうちに、日は落ち、あたりは次第に暗くなっていった。あたかも、彼の心の中の様に。 「殿」 すっかり日も暮れ、皆その場に座り込んだ中、二人の男が牛輔に近づいてきた。盈と賈ク【言+羽】である。 「おお、盈に文和か。どうした?」 そう言う牛輔の声は、まだ二十代の青年とは思えぬほど張りがなかった。この時、精神的にすっかり参ってしまっていたのである。 「はい。この状況をみて、文和殿が一つ申し上げたい事があるとの事です」 「言いたい事?いったい何だ?」 牛輔には、賈ク【言+羽】が何を考えているかもさっぱり分からなかった。 「一言で申し上げます。いま、我が方は不利に陥っていますね?」 「むっ…。残念ながら、その通りだ。どうやら周囲を羌族に包囲されているらしい。まだ兵達はこの事に気付いていない様ではあるが…」 「明朝になれば、兵達も気付く事でしょう。盈殿の報告には間違いないですから、兵力自体は現在も我が方が上回っているはずです。にしても、この様子では、兵達は恐慌をきたし士気が続かないでしょう。士気が続かなければ…」 「明日には、我が方は敗れる…」 「となれば、一刻も早く手を打たねばなりません。兵書にも『囲地ならば即ち謀り、死地ならば即ち戦う』とあるではございませんか」 「私にも、それは分かっておるのだ。しかし、あたりの様子が分からぬ事にはな。この状況の打開策が思いつかない」 「それなのですが…私に、一つ策がございます」 「策?いかなる策だ?」 「はい。それは…」 賈ク【言+羽】は牛輔の耳元に口を寄せ、何事かをささやいた。
94:左平(仮名) 2003/11/02(日) 21:44 四十七、 「話は分かった。しかし、それだけの兵があれば良いのか?」 「はい。私が率いる部隊は、あくまでも陽動部隊です。ですから、この程度の人数で十分です」 「しかし、それならそれで、どうしてその様な者達を使うのだ?必要ならば、もっと精鋭を引き連れても良いのだぞ?」 「お言葉は嬉しいですが、この策を成功させるのには、この者達こそが最適なのです。少なくとも、私はそう判断しました」 「そういうものか」 よくは分からないが、でまかせというわけでもなさそうだ。それに、このまま手をこまねいていても、状況は好転するはずもない。ここは一つ、賈ク【言+羽】の言う策に賭けてみるしかあるまい。 「分かった。その策を実行してくれ」 「私がお話ししたのは策の概要だけですが…詳しくお聞きにならなくてよろしいのですか?」 「良い。そなたの策だ、きっとうまくいく事であろう。それに、うまくいって生還すれば、詳細などいくらでも聞けるしな」 「確かに。失敗して私が死ぬ様でしたら、所詮その程度の策という事ですしね。それでしたら聞くには値しませんし」 「そうだな」 「では、私からの合図が出ましたら、頭上に注意しつつ一斉に前後に突進して窪地から脱出してください。窪地を出ましたら二手に別れ、左右から敵を挟撃する形をとります。よろしいですか、兵達が上の様子に気付かぬうちに、素早く動くのです」 「分かった」 牛輔は、この作戦の実行を了承した。そして、全軍にその旨の指示が知らされた。 明日の朝、日が昇ろうかという頃には、全てが決まる。 少し眠っておこう。そう思うものの、やはり目がさえて眠れない。地面の上に横になると、微かに星が瞬いているのが見えた。今日は雲が多いので、微かな星明りを除くと、あたりは漆黒の闇の中にある。 双方の兵がすっかり深い眠りにいる中、賈ク【言+羽】の率いる部隊が密やかに動き始めた。 牛輔が不思議に思ったのも無理はない。何騎かの精鋭はいるものの、この部隊の大半は、ろくに武器も持った事のない者達なのである。彼らのほとんどは輜重に携わる人夫であり、賈ク【言+羽】はその一人一人の人相から性格までに至るまで掌握しているというのがせめてもの取り柄といったところではあるのだが。 「おら達、一体何しに集められたんだ?」 「さぁ、分かんね」 「隊長は、あの孝廉様だな。あの方、兵を率いた事があったっけ?」 「いや、ねぇはずだぞ。おらが知ってる限りでは」 「んじゃ、これって脱走か?」 「いや、殿様直々のご命令だってよ」 「どうしようってのかな。分かんねぇな」 「ああ。それに、こりゃ何だ?戦うんだから戟とか戈を持つのは分かるけど」 よく見ると、各々の得物の刃先には、皆袋がかけられている。 「暗闇の中で光ったらまずいって事じゃねぇか?」 多少知恵の回る者がそんな事を言う。 「んじゃ、何でこんなに膨らんでるんだ?」 「さ、さぁ…。そこまでは分かんねぇな」 彼らには、まだ詳細な指示は与えられていない。この様な役目は、隠密行動が鉄則だから。 「皆、揃ったか」 この小部隊の長である賈ク【言+羽】が姿を現した。痩身である為か、初めての指揮である為か、兵達からすると、その甲冑姿はやや心もとなく見える。しかし、その顔には確かに自信のほどがうかがえるのも、また事実である。 「孝廉様。おら達は何をすりゃいいんですか?」 皆、先を争う様にそう問うてきた。 「それを、これから説明するのだ。よいか、私がどの様な指示をしようとも、必ず従うのだぞ。よいな」 「そのくらい分かっておりやすよ。軍律に背いたら斬られても文句は言えないって事でしょ?」 「そうだ。では説明しよう」
95:左平(仮名) 2003/11/02(日) 21:46 賈ク【言+羽】の話が進むに連れ、兵達の顔に恐怖の色が浮かんだ。 説明によると、この策の実行にあたっては、夜陰に乗じて敵のすぐ脇をすり抜け、囲みの外に出る必要があるというのである。いくらなんでも、そんな事ができるのであろうか…。 (これだけの軍勢がいるってのに、どうしてまたそんな危険な賭けを…) 皆、不審に思った。正攻法でかかっていけば勝てるはずであるのに、こんな事をする必要があるのかと。 「怖いか。まぁ、無理もないだろうな。私も怖いからな」 「じ、じゃどうして…」 「では、逆に問おう。『今』、そなた達は怖いと思ったが、それはなぜだ?」 「そ、それは…おら達より相手の方が強いし…」 「そなたも仲間達も、昼間は勇敢に戦っていたではないか。なぜ今は怖いと言う?」 「…だって、今は囲まれてるんですよ…」 「だろうな」 「すいません。でも、怖いもんは怖いですよ」 「責めておるわけではない。人とはそういうものだからな」 兵にしろ、政にしろ、『法』というものの対象は、基本的には平凡な者達である。稀にしか現れない非凡な者に頼っていては、常に成功するという目標が達成できないからである。 彼らをいかに動かすか、それが重要なのだ。ここが、自分の才知の見せ所となる。賈ク【言+羽】の心は、静かに高揚していた。 「ただ、もう少し考えてみよ。自分がその有様だ。他の者は、敵に囲まれていると知っても落ち着いていられると思うか?」 「そ、それは…」 「確かに、我らの方が数にはまさっていよう。しかし、浮き足立った状態で敵と戦ったところで、いたずらに犠牲が増えるばかりだ。ならば、たとえ危なっかしくとも、我らでこの策をやってみる価値はあるとは思わぬか?」 「でも、おら達にそんな事ができるんですか?」 「私は、そなた達ならできると思っている。ともかく、だまされたと思って私の指示に従ってみよ」 「分かりやしたよ。やってみましょう」 「よし。では今から出発だ」 あたりは、完全に闇の中にある。かすかに瞬いていた星達も、今は雲に隠されている。風はないので、しばらくはこの状態であろう。 (よし。ちょうどいい具合に曇ってくれたな) 賈ク【言+羽】は、早くもこの策の成功を確信した。 完全な暗闇の中を、松明も掲げずに兵達は進んだ。何も見えないので、当然手探りでゆっくりと進むしかないのであるが、そう長い距離ではない。 (囲まれているとはいっても、敵の兵力はさほどではない。せいぜい五、六列程度であろう。となれば、この状態で行軍するのは二、三里といったところか) 二、三里であれば、明け方までにはまだ十分な時間がある。詳しい説明は、そこからである。 すぐそこに敵兵がいる。そう思うと、かすかな物音にさえ緊張が走る。皆、寿命が縮む思いであった。
96:左平(仮名) 2003/11/09(日) 23:58 四十八、 どのくらい経ったであろうか。敵兵の気配が消えた。 (どうやら、囲みの外に出たか) そう思った賈ク【言+羽】は、隣の兵に、松明に火をつける様指示した。もちろん、敵に見えない様に工夫を凝らしたものを使う。 そうして、さらに進んだ。この策は、単に囲みの外に出るだけではなく、一定の距離をおく必要があるのである。 (よし、ここらあたりでよいか) 「皆の者。ここらで休息するぞ」 その言葉を聞くや否や、兵達は大きく息を吐き、その場に座り込んだ。皆、輜重の重い荷を背負っているので体は鍛えられているが、これほどの疲れを感じる行軍はなかったであろう。 「よくやってくれた。ここまで来られたというだけで、この策は六、七割がた成功だ」 このねぎらいの言葉は、本心からのものである。 「ですが、まだ策は終わっちゃいないんでしょ?」 「そうだ。これから、続きの説明をする。皆疲れているだろうがら、楽な姿勢で聞いてくれ」 「分かりやした。どうすりゃいいんですか?」 このあたりは、さすがに見込んだだけの事はある。皆、実に素直に話を聞く姿勢である。 「まず、持っている戈や戟にかぶせている袋をはずせ。紐で口を縛っているであろう。それをほどくのだ」 「はい。…あれ?袋の中に何か入ってますね」 「それを取り出すのだ。何か分かるか?」 「古い布きれだとか木の枝、それに幟の房…。こんなもの、一体どうするんですか?」 「それはこれから話す。次に、持っている戈や戟を逆にしろ」 「こうですか?」 「そうだ。そして、袋の口を縛っていた紐で、その布きれや木の枝、幟の房をゆわえつけるのだ」 「これって、何か箒みたいですねぇ」 「そうだ。箒の形にするのだ」 「こんな事をしてどうするんですか?」 「簡単な事だ。夜が明けるや否や、私の号令とともに、そなた達はこの箒で地を掃き清めるのだ。全力でな」 はぁ?兵達は、皆驚き呆れた。そんな事をして、一体何になるというのであろうか。しかし、命令は絶対である。 「皆、少し休め。夜明け前には作戦開始だ。…そうそう、水は飲んでも良いが、全部は飲むなよ。明日の朝、必要になるからな」 そう言うと、彼はすぐに横になった。兵達も、それをみて横になった。 そして、夜明けが近づいてきた。 (頃はよし) 賈ク【言+羽】は皆を起こすと、さっそく指示を出した。 「よいか、皆の者!」 「おぉ!」 「徒歩の者は箒を構えよ!」 その指示のとおり、兵達は皆箒を構えた。いくら訳の分からない命令でも、命令である。 「騎馬の者は、目を除いて顔を隠せ!」 こちらは精鋭である。精悍な面構えをした男達は、黙々と顔を布で覆った。鋭い眼光だけがのぞくその顔は、味方にはますます頼もしく映る。 「支度は整ったな。…者ども!かかれ−っ!!」 傍目には、滑稽な風景であったろう。数十人の男達が、必死の形相で地を掃きつつ走るのであるから。その掃き様は凄まじく、たちまちのうちに砂埃が空高く舞い上がった。
97:左平(仮名) 2003/11/09(日) 23:58 (あの砂埃は…。間違いない。文和からの合図だ) 不安の中目を覚ました牛輔は、それを見ていささか落ち着きを取り戻した。策はうまくいっている様だ。これなら勝てる。 「者ども!頭上に盾をかざしつつ、全速で進め−っ!!」 その号令とともに、一斉に全軍が動き始めた。 「なっ、何だ?連中、急に動き出しやがったぞ」 眼下の様子に気付いた羌族の兵達が、急いで将に報告する。 「何っ?愚かな。袋の鼠だという事に気付かぬか。者ども、窪地の出口を封鎖し…」 羌族の将がそう言いかけたところで、他の兵の叫び声にかき消された。 「あっ!あれは!!」 「何事だ! …!!」 後ろを振り返ると、もうもうと砂埃が舞い上がっている。そして、その中から数騎の兵が現れてきた。その姿は、まぎれもなく漢人のものである。となれば、あれは敵か! (敵の援軍か!) そんなはずはない。あれが董氏・牛氏の手の者としても、その本拠はここから数日のところにあるはず。仮に昨晩この囲みを抜け出た者がいたとしても、こんなに早く援軍が来るはずはない。しかし、ではあの兵は何か。 そう考えるうちに、砂埃の方角から鬨の声があがる。その声も凄まじく、相当な大軍勢である事をうかがわせる。 実際には数十人にすぎないのであるが、賈ク【言+羽】がえりすぐった、特に声の大きい者達である。常人の数倍は声を張り上げたであろう。声だけをとってみれば、なるほど大軍勢と思うのも無理はなかった。 (…) 羌族の将は、しばし思考停止の状態に陥った。兵達も混乱し、眼下の様子には全く目が向かなくなった。 そんな中を、賈ク【言+羽】率いる騎兵達は何度も何度も駆け抜けた。少数なのをごまかす為、繰り返して攻撃をかけていたのである。 そうこうしている間に、牛輔の軍は前後から窪地を脱した。一方は牛輔と李カク【イ+鶴−鳥】が、もう一方は郭レと張済が、それぞれ率いている。 「稚然は左に回って仲多とともに敵を挟撃せよ!私は右に回って済とともに敵を挟撃する!」 「心得ました!」 李カク【イ+鶴−鳥】はうなづくと、猛然と馬を走らせた。それをみて、牛輔もまた駆けた。 一刻もせぬ間に、決着がついた。もともと兵力は牛輔の方がまさっていた上に、あの奇襲の為に士気の差が歴然としていたのであるから、当然といえば当然なのではあるが。 (しかし危なかった) 一時的にではあるが窮地に陥っていた事を知るのは、牛輔、賈ク【言+羽】、盈を除けばほとんどいない。傍目には、またしても完勝と映るであろう。しかし、戦場というものがいかに恐ろしいか、牛輔は思い知った。 (文和を連れてきていて良かった。あれがいなければ、今頃どうなっていたか) それを思うと、背筋に震えが走る。 実際、賈ク【言+羽】の存在が、後に彼らの命運を分かつ事になるのである。だが、この時それを意識したのは、牛輔一人であった。 いや、正確にはもう一人いた。この戦いを、少し離れて見ていた男がいたのである。 「ふむ。あいつ、もう少しはやると思っていたんだがな」 「まぁ、兵書を読んだわけでもないでしょうからね。ああいう奇策には気付かなかったのでしょう」 「それもそうだな。となると、あの陽動部隊を率いた者が誰か気になるところだな」 「そうですね」 「伯扶自身ではなかろう。今までの戦いぶりを見る限りでは、そういう奇策を思いつく程の奸智はなさそうだしな」 「では誰が?」 「恐らく…文和だな。さぁ、帰るぞ」 そう言ってその場を去ったその男の姿は、どこか盈に似ていた。
98:左平(仮名) 2003/11/16(日) 22:20 四十九、 「文和よ、よくぞやってくれた。そなたがいなければ、この勝利はなかったぞ」 戦の後、牛輔が最初にしたのは、賈ク【言+羽】を厚く賞する事であった。あの陽動部隊の活躍にはめざましいものがあったから、彼が賞 される事については、全く異論は出なかった。 「ただ、殿。文和の率いた部隊の活躍ぶりは事実ですが、私の部隊の方が討ち取った敵の数は多いですぞ。なのに賞にこれほどの差がある のはどういうわけです?」 この戦いにおいて相当活躍したと自負する李カク【イ+鶴−鳥】には、その点が少し不満である様だ。 (そうくるか。まぁ、確かにあげた首級の数でみれば稚然の言う事にも一理あるわけだがな) 二人の功はともに大きい。だが、将としてみれば、この戦いでの功は明らかに賈ク【言+羽】の方が上である。その場にいた者で、かつ、 部隊を率いるほどの者であれば、おのずと分かっても良さそうなものであるが。牛輔にはそう思えた。 (こうしたのには十分な理由があるという事を、私から言わずとも分かってもらいたいところだが、まだそこまではいかんか。まぁ、今後 の事がある。きちんと話をしておかんとな) 牛輔が賈ク【言+羽】を高く評価している事は今までにも何度か触れてきたが、別に賈ク【言+羽】のみを贔屓しているというわけではな い。賈ク【言+羽】・李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済。彼らは皆、義父・董卓より託された、大事な配下なのである。これから、軍団 を支える人材として成長してもらわなければならない。こんなところで不満を持たれてはならないのだ。説明しておく必要があろう。 「そうだな。確かにそなたの功は大きい。しかし、だ。今回の文和の功は、単に敵を討ち取ったというだけではないのだ」 「では、他に何かあると?」 「そうだ。今だからはっきりと言えるが、あの時我らは窪地に追い込まれ、包囲されていたのだ」 「そうでしたか。そういえば、確かに周囲が坂になっておりましたね」 「そなたほどの豪の者であれば、そのくらい何という事もないであろう。攻め寄せてくる敵を、片っ端からなぎ倒せば済む事だしな。しか し、我が方の大部分は、本来戦とは縁のない平民達だ。その様な者達にとって、敵に包囲されているという事実は、耐え難いほどの恐怖と なるであろう」 「それは分かります。私とて、囲まれていたら冷静な判断はできないでしょうから」 「あのまま朝を迎え、包囲されている事が皆に知れたら…どうなっていたか」 「皆までおっしゃらずとも分かります。士気が低下して統制がとれなくなり、我が方の敗北という事態もあり得た、という事でしょう」 「そう、そこなのだ。今回の文和の功は、その最悪の事態を回避させたという点にこそある」 「文和が率いた陽動部隊が敵の目をこちらからそらすと共に、我が方の不利をも覆い隠してくれた、と。それゆえ、文和の功を大とした。 こういうわけですか」 「そうだ。分かってくれたか」 「分かりましたよ。…ふふっ、今回はあいつに手柄を譲っちまいましたね。今度は負けませんよ」 「その意気だ。そうあってもらわんとな」 そう言って、二人は笑みを浮かべた。 凱旋である。今までに何度もしてきた事ではあるが、牛輔にとって、今回のそれはひとしおであった。この様な感慨を抱くのは、初陣の時 以来であろうか。 (そういえば、あの時は蓋がもうすぐ産まれるって頃だったよな。で、今度は次男の誕生間近、か。不思議なものだ) まだ産まれるのが男子かどうかは分からないのだが、そんな事を思うと、なぜか顔がほころんだ。 いつもの様に、門前には姜が待っている。見慣れたはずのその光景が、また新鮮に映る。 「お帰りなさいませ」 その声は、いつも明るく朗らかであり、これを聞く事で、我が家に帰ったという実感がわいてくる。 「あぁ、ただいま。留守中、何事もなかったかい?」 「はい」 「そうか、それはよかった。…ほぅ、また腹が大きくなっているな。赤子はよく育ってる様だ」 「はい。もうすぐですよ」 「そうだな」
99:左平(仮名) 2003/11/16(日) 22:22 それからほどなく、義弟・勝のもとから一通の知らせが届いた。 「で、知らせには何と書かれてるんだい?」 「はい。無事に産まれ、母子共に至って健やかであるとの事です。女の子だそうで」 「それはよかった。で、名前は?」 「白、としたそうです」 「白?」 「何でも、この子が産まれる時雪が降っていて、その様子が大層美しかったのでそれにちなんだとか。父上も良い名だとお喜びだそうで」 「そうか…」 この時牛輔は、『白』という名にどこか引っかかるものを感じた。 (白…色としては白、五行では秋、西、金とかいった意味があるな…。この字自体には、私が知る限り、これといって悪い意味は見当たら ない。しかし…雪にちなんで名付けたというのはどうなのであろうか…) 雪は、冬に降るもの。春になれば融けて消えてしまうという、儚いものである。その様なものにちなんで子の名をつけるという事には、何 か問題はないのだろうか。そう思えてならなかった。 (勝…いや、伯捷は、そういう事に思いが至らなかったのであろうか。しかし、今更私が何か言うのも何だしな…) これは、ひょっとすると虫の知らせというものであろうか。そんな思いが頭をよぎる。 (いや、私ごときが人の命運を予測するなど…できるはずもないな。気のせいであろう) そう思った牛輔は、ほどなくこの事を忘れた。しかし、それはあながち気のせいでもなかったのかも知れない。
100:左平(仮名) 2003/11/24(月) 22:52 五十、 そんな中、年が改まった。 室から外を見ると、地には、雪が積もっている。空は、さっきまでの曇り空が嘘の様に晴れ渡り、日の光が燦々と降り注いでいる。日の光が雪に反射され、きらきらと光る様は、何ともいえず美しいものである。 (伯捷が子の名に『白』とつけたのも、分からないではないな…。この、光の織り成す景色の美しさたるや、何物にも代え難い、崇高なものさえ感じさせるのだからな) 雪景色を見ながら、牛輔は、ぼんやりとそんな事を考えていた。 今、彼は、これから産まれて来る我が子につける名を考えているところである。だいぶ以前から考えていたのだが、戦やその後の処理などがあった為、なかなか考えをまとめられずにいた。 長男の名が『天蓋』からとって『蓋』なので、次の子には何か地にちなんだ名を、と考えているのだが、これがなかなか難しいのである。 (単に地を示すというだけでは、兄の名と釣り合わないしな…。ん?『つりあう』か。う−ん…) (「つりあう」…「均衡」…ん?「きん」?これで何か良い字はないものかな…) (そうだ、「白」には【五行思想における】金という意味合いもあるんだったな…。義父上からすればともに孫だ。あの娘との釣り合いも考えないと…) (おっ、そうだ!) 脈絡なく考えているうちに、ようやく、それらしい字が思い浮かんできた。 金扁の字は幾つもあるが、『天蓋』に比べられる様な意味合いを持つ字句は、そう多くない。しかし、一つだけあったのである。 (『鈞』だ!!) 『鈞(きん)』。この字には、「ひとしい」という意味がある。それに加え、重量の単位とかろくろという意味合いも含んでおり、ろくろから転じて、造物主とか天の意をも示すという。 そして何より、この字のついた語句に『天蓋』に比べられる様な意味合いを含むものがある。 『鈞臺【きんだい】』−。それは、古の夏王朝の王・啓が、父の禹より王位を禅譲された益との争いに勝って王として即位した時に、諸后(諸侯)をもてなしたという地の名である。 諸后が鈞臺にいる啓のもとに集まったというその事実によって、夏王朝は成立したとみなす事ができるのだが、それは、中華の歴史に大きな一歩を記す出来事であった。 「左伝(春秋左氏伝)」にも、「夏啓有鈞臺之享。 商湯有景亳之命。周武有孟津之誓」という一文があり、これが、王朝成立にかかわる重大な出来事として考えられていた事がうかがえる。 それゆえ、夏王朝の時代にあっては、そこは一種の聖地であり、また、地の中心であると考えられもしたそうである。 (兄の名が天蓋を表し、弟の名が地の中心を表す…。なかなかうまい具合になるな。うん、これでいこう) こうして、その子の名は決まった。 子供の名前が決まったのを待っていたかの様に、姜が陣痛を訴え始めた。いよいよ、出産の時である。 産婦である姜に続き、手伝いの者達数名が産室に入っていった。 もう三人目であるから、初産の時の様に慌てる事はない。しかし、そうはいっても、なかなか慣れるものでもないのもまた事実。 牛輔にとって、出産が無事終わるまでの数刻は、またしても長い長いものとなった。そうこうしているうちに、いつしか日も落ちてゆく。 「父上ぇ〜。母上はぁ〜?」 子供達が母親の様子を案じてか、しきりに牛輔に寄りかかってくるのである。 「母上はな。いま、そなた達の弟を産もうとなさっているところなのだよ」 もう夜も遅い。そろそろ寝かしつけないといけないのだが、そう言ってむずがる子供達をなだめるのが精一杯である。いかにいっても、子供達は母親に懐く傾向が強く、父親にはさほど懐くものではない。それゆえ、こういう時の扱いには苦労する。
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小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50