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小説 『牛氏』 第一部
119:左平(仮名) 2004/04/25(日) 21:14 腹部に至ろうかというところで、ついに王甫の首がぐったりと倒れた。属吏がいったん打つのをやめ、心拍と呼吸の有無を確認する。 「心臓は止まっております。息もありません。死にました」 「そうか、存外早かったな。まだ手足の形がこれだけ残っておるというのに」 「まぁ、年寄りですからね。むしろ、ここまでよくもったものです」 「そうだな。あとの二人もさっさと片付けろ!」 「はっ!」 それからほどなく、王萌・王吉の二人も死んだ。死んだのを確認した後もなお打ち続けて筋骨をずたずたにした為、三人の遺骸は、顔を除くと手足の所在も不明瞭なただの肉塊と成り果てていた。 「ふふ。汚らしいくらげが三つ出来上がったか。次は、段紀明の番だな」 陽球は、微かに震えていた。それは、一つの宿願を果たしたという、至上の歓喜によるものであった。この様な歓喜の様は、家族にも見せた事がない。 その頃、段ケイ【ヒ+火+頁】は一人獄中に座っていた。その姿勢には全く乱れはないが、心中には、いささかの淀みがあった。 (あやつ、王中常侍をどうしているのであろうか…) 王甫と陽球。両者が政治的に対立しているのは知っている。今回、陽球は王甫の隙を突いて逮捕に踏み切った。このまま、彼を葬り去るであろう事は想像に難くないところである。となれば、自分もその巻き添えを食らうという事か。相手の態度如何によっては、こちらも覚悟を決めねばならぬところである。死ぬ事には何の恐怖もない。しかし、自らの尊厳を傷つけられるのはまっぴらである。 そう思っていると、足音がしてきた。 「紀明殿。獄中におられる御気分はいかがかな?」 「なに。何という事はない。あまりに静かなので、思わず眠気を催したくらいだ」 「ほう。それはまた落ち着いておられますな。…そうそう、先ほど、宮中から知らせがありましたよ。先の日食の責を問い、太尉を罷免の上、廷尉に任ずる、とね」 「さようか」 (すると、陛下はこの件をまだ存じておられないのか。今のところは、わしは必ずしも罪人ではないという事か…) 少しほっとした。しかし、陽球のこと。これで済むわけもない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、次の言葉を待った。 「しかし、廷尉の位もいつまででしょうな。…王甫は尋問中に死にましたよ。これで、あやつの有罪は確定です。となれば…王甫との関係が深かった者どもがどうなるかは…もうお分かりでしょう」 (そうくるか。この際、わしも葬り去ろう、と。そういう事か) こうなれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。辛うじて自らの名誉が残されているうちに…。 (ただ、こやつの事。何としてでもわしの名誉を奪い取り、その上で殺そうとするであろう。少しでもそれを回避するには…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、懐中のある物に、そっと手をやった。
120:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:31 六十、 「紀明殿。いかがなされた?」 「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」 「そうですか」 (何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな) 「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」 憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。 「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」 「分かりました。おい、用意しろ」 「はっ!」 (墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…) 直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。 すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。 いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。 並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。 (わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…) (かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…) 心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。 (よし、それでは…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。 附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。 (蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという) 段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。 長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。 もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。 幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。 (辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…) そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。 「まだですかな」 「もうじき…書き終わる」 そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。
121:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:34 トリカブトの毒は、調合の仕方によって様々な姿を示すといわれている。この時段ケイ【ヒ+火+頁】が求めたのは、言うまでもなく即効性であった。致死量の数倍の附子を飲み下したので、即座にその効果が現れ始める。 「ぐぐぐぐぐ…」 「ん?何だ…?」 陽球達が、牢獄から漏れる呻き声に気付いて振り返ると、段ケイ【ヒ+火+頁】は立ち上がり、凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。 「なっ、何だ?」 (まさか、気が狂ったか?…いや、あの足元の粉末は…!!) 「紀明殿!附子を飲まれたのか!」 「そうだ…そなた、王中常侍もろとも、わしを殺すつもりであったろう…違うか?」 「だ、だからといって自ら附子を飲むとは…何を考えておられる…」 「そなたからすれば、わしは憎い敵であろう…それ故、わしを殺そうとするのは分かる…だが…そなたの思い通りにはさせんぞ…」 「…」 「わしは潔白だ…それ故、自らの最期は自ら決めさせてもらった…それぐらい良かろう…」 「見ておくが良い…この段紀明の最期を、な…。その目にしかと刻み込むが良い…」 (何を言っておる!この様な形で死なせてたまるものか!わしの気が済まぬわ!) 「おい!直ちに飲み下した附子を吐かせろ!」 「もう遅い…附子というのは、すみやかに効くからな…」 附子が効いてくると、(神経を冒す為に)普通は飲み込めないほどの唾液が出るとともに、立っている事もできなくなるという。しかし、段ケイ【ヒ+火+頁】は、壁にもたれかかりながらも辛うじて立ち続け、陽球達をじっと睨み続けた。 その気迫に押され、属官達は−陽球自身もだが−しばしの間、冷や汗を出すばかりで動く事ができなかった。 やがて−段ケイ【ヒ+火+頁】の瞳から、光が消えた。 「死んだか」 「恐らく…」 彼らの腰が引けていたのも無理もない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、目を見開き、立ったまま死んでいたのである。 「立往生」という言葉はご存知であろう。この言葉自体は、源義経の配下・武蔵坊弁慶の最期の様から生まれたもので、いささか伝説めいてはいるが、生理現象としては有り得ない話ではない。 激しい筋肉疲労、精神的衝撃などを受けて死に至った場合、死の直後にほぼ全身の筋肉が硬直する事があるという。この時の段ケイ【ヒ+火+頁】の死に様も、まさにそれであった。 「な、何をぼんやりしておるか!とっとと屍をあらためぬかっ!」 「はっ!」 「た、確かに、死んでおります…」 死体は見慣れているはずの属官達が、まだ怯えていた。それほどまでに、その形相は凄まじかったのである。 「そうか…ならばさっさとその旨上奏せねばならぬな」 「どう書けばよろしいのでしょうか」 「獄中にて詰問していたところ、罪を認め鴆毒をあおって死んだ。そう書いておけ」 「えっ?しかしそれでは…」 「いいからそう書け!」 「はっ、はい!」 (まったく…わしとて、士大夫に対する礼儀くらいわきまえておるというに…) 思わぬ抵抗を受けた陽球は、その後しばらく不機嫌であった。
122: 左平(仮名) 2004/05/24(月) 00:01 六十一、 一方、その頃− (殿!しばしお待ち下され!必ず、必ず…) 家人達は、かつて主の段ケイ【ヒ+火+頁】が推挙した者達のところに、次々と走り込んでいった。言うまでもなく、主を救うべく支援を求める為である。 「お助けください!我が主の段公が、司隷殿の属官に連れて行かれました!どうか!どうかご助力を!」 もうあたりは暗くなりつつあったが、そんな事には構っていられない。彼らは、必死に門前で訴え続けた。 しかし、反応は芳しくなかった。運良く話を聞いてもらえても、殆どの者は、ただ絶句するばかりで動こうとはしなかった。いや、それくらいならまだよい。中には、すげなく家人をつまみ出す者さえあった。 無理もない。対羌戦の英雄が、一転して罪人にされたというのである。下手に庇い立てでもしたら、かえって自分の身が危うくなる。誰もが、我が身がかわいいという事であろうか。 「出て行けっ!わしを巻き添えにするつもりかっ!」 「何と恩知らずなっ!それでもあなたは士大夫ですか!」 「何とでも言え!なんじら如き下人が何をいっても誰も聞かぬわ!」 (これが儒の教えを修めた者の態度か…!) 彼らの忘恩の態度が腹立たしかった。しかし、主を救うには、誰かの助力を仰ぐしかない。 (そうだ…董氏ならば、あるいは…) こんなところでぐずぐずしていてもしょうがない。ここは、噂に聞く董氏(董卓)の義侠心に頼るほかない。 当時、董卓は西域戊己校尉の任にあった。文字通り、西域に睨みをきかせる要職であるから、政治的影響力という点においても十分な立場であると言えよう。ただ、董卓自身は任地に赴いているから、都から直接そこへ向かうわけにはいかない。事は一刻を争うのである。 幸い、その弟の董旻が都に居を構えている。家人は、その邸宅に向かう事にした。 (叔穎【董旻】殿の事はよく知らんが…あの董氏の弟君だから、まさか段公を見捨てる様な事はあるまい) 果たして、その期待は、裏切られなかった。 「何!段公が!」 それは、董旻にとっても大きな衝撃であり、しばしその場で体を硬直させた。しかし、その衝撃に対して思考停止の状態に陥ったりはしなかった。それだけでも、他の者達の態度とは大きく違っていた。 「して、その時の状況は?そなたが知っている限りの事を聞かせてくれ」 (さすがは董氏だ) 家人は、少し安堵した。これなら、何らかの手を打ってくれるに違いない。 「はい。司隷殿(陽球)は、主と王中常侍との関係のゆえを以って、主を連れて行きました。どういう事なのかは、私にはよく分かりませんが…。ですが、司隷殿と王中常侍とはどうも対立していた様ですので、主が危ういというのは確かです。我らは主を救うべくあちこちにご助力を求めておりますが、未だに芳しい返事を頂いておりません。司隷殿の人となりは苛酷と伺っておりますれば、ご高齢の主の体が心配でなりません」 「そうか。分かった、しばらく休んでおれ。直ちに兄上に使いを出すとともに、わしからも宮廷に問い合わせてみよう」 彼自身は、兄の董卓ほどの卓越した能力は持っていないものの、都において、兄の耳目となるべく確かな働きを見せている。この時も、彼なりに出来うる限りの措置をとろうとした。
123:左平(仮名) 2004/05/24(月) 00:03 「誰かおらぬか!直ちに参内するぞ!」 「はっ!」 大急ぎで車が用意され、董旻は、とるものもとりあえず乗り込んだ。翌日になるのを待ってなどおれない。日没前に宮中に入らなければならないのである。 (この様な状況において、何を為せばよいか…) 宮中に向かう車中にあって、董旻はしばし目を閉じ、考え込んだ。この様な重大事において、兄の意思を待たずに判断を下すのは、ほとんど初めてなのである。 彼自身、段公が捕えられたという知らせに動転している。このまま参内したのではうまくものが言えないであろう。何としても、それまでに心を落ち着かせなければならないのである。 (兄上ならば…どうなさるであろうか…) 兄・董卓の顔が頭に浮かんだ。その立場に立って考えてみると、どうであろうか。 (そなた、何をぐずぐず考えておる。そなたはわしの弟であろう。わしの性分が分からぬのか?考えるまでもないではないか) そう言っている様な気がした。そうだ、答えは一つしかない。 兄ならば、自分のあらん限りの力を振り絞って段公を救解しようとするであろう。たとえ、その為に身の破滅を招くとしても悔いる事はないはずだ。 (段公なくして、今の我らはなかった。その大恩を思えば…。そうですね、兄上) 心の中でそういう結論が出ると、幾分肚が据わってきた。あとは、全力を尽くして救解に努めるまでである。 宮中に着いた。普段であれば、どこかしら気圧されるところであるが、今日は違う。そんな状況ではない。 「至急、お取り次ぎ願いたい」 そう言う声ひとつとってみても、その違いが分かる。ややせわしない感じはするものの、普段の、おどおどとした感じは微塵もない。 「叔穎殿、いかがなされた。またえらく急いでおられる様だが」 「話は後だ。とにかく、急いでくだされ!」 「はっ?はぁ…まぁ、分かりました…。しばし、お待ちを…」 (段公、しばしのご辛抱を。涼州の者は皆、あなたの味方ですぞ) この時、既に段ケイ【ヒ+火+頁】が壮絶な最期を遂げていた事を、董旻は知る由もなかった。 一方、董旻が兄に向けて送った使者もまた、精一杯に急いでいた。 董氏に仕える者であれば、いや、涼州に生まれ育った者であれば、たとえ敵対する者であろうとも、段公に対し篤い敬意を持っている。その人の危機を、黙って見過ごす事はできない。使者には、強い使命感があった。 「急げ、急げ!なにをもたもたしておるか!急ぐのだ!」 御するは家中随一の乗り手、馬もまた家中随一の駿馬である。しかし、それでもなお遅く感じられてならなかった。この様な状況におかれてなお斉の景公を哂う者は、まずおるまい。 (ああ、あの鳥の様に翼があれば…いやいや、そんな事を考えている場合ではない!) 気ばかりが先走るのを辛うじてこらえながら、使者はまっすぐに董卓のもとに向かっていった。
124:左平(仮名) 2004/06/13(日) 23:53 六十二、 使者が董卓の在所に着いたのは、出立してからだいぶ経ってからの事であった。いかに急いでも、ここまではやはり遠い。もっとも、公式の第一報が届いたのはそれよりもさらに後だったのだが。 「大事であるっ!至急、殿にお取次ぎ願いたいっ!」 使者の、そして馬の息遣いは荒かった。顔は蒼ざめ、今にも倒れかねないほどである。ただ事ではないのは、事情を知らない者にも一目で分かった。 「しばし待っておれ。すぐに殿に取り次ぐ」 「頼む」 この時、董卓は執務中であったが、使者は直ちに目通りを許された。 「!」 豪気な董卓も、この知らせには一瞬絶句した。無理もない。都にいる董旻は、事件の背景を知っているだけにいくらか心の準備があったのに対し、董卓には全くなかったのだから。 「…直ちに叔穎殿が宮中に赴き、救解に努めておられますが…状況は予断を許しません。なにしろ、司隷殿と王中常侍の対立にまともに巻き込まれた形ですから…。宮廷内の暗闘というものは、我らにははかりかねる代物ですし…」 「そうか」 (旻の動きは、我が想いの通りである。しかし、今のあいつ一人では厳しいな…) 董卓はそう思った。弟の力量を評価していないのではない。ただ、今の董旻はこれといった顕職に就いているわけではない。宮中に対する影響力が殆どないだけに、どんなに懸命に救解に努めても、その効果はあまりないとみなければなるまい。 「わしからも、中央に嘆願の書状を奉る。直ちに書状をしたためるから、そなた、しばし待っておれ」 「はっ!」 出仕以来、一貫して自らを武人と規定してきた董卓にとっては、書状、それも非定型のものは甚だ書き慣れない代物であった。他の用件であれば側近の誰かに全て任せるところであるのだが、こればかりはそうもいかないだろう。 ただ、いい加減な文面では逆効果でさえある。用心するに越した事はない。 「誰か典故に通じた者はおらんか!」 董卓の一声で、直ちに学のあるとおぼしき属官達が呼び集められた。 「いかがなされましたか?」 皆、訝しげな表情をしていた。普段の董卓は至って鷹揚で、細かい仕事は任せきりにしているから、大勢の属官達が呼ばれる事など滅多にないというのに、一体どうしたのであろうか?そういう気持ちがありありとうかがえる。 「今から中央に書状を奉る。内容は、罪状も定かならぬままに捕えられた段公を救解する為の嘆願である。公がいかに漢朝に尽くしてこられたか、そして、その方を失う事がどれほどの損失であるか、条理を尽くして書かねばならぬ」 「はぁ…」 急な事とはいえ、何とも頼りない返答である。皆、ひとかどの教養を持った者達ではあるが、皇帝や高官達の心を動かすほどの文章力があるかとなると、この様子をみる限り、いささか心許なく思える。 「文和がおればあいつ一人で足るのだがな…」 董卓らしくないが、思わずそんなぼやきさえ漏れる。前述のとおり、現在、賈ク【言+羽】は牛輔のもとにいて、その配下である。呼び寄せようかとも思うが、事が事だけに、そういう時間の余裕もない。 「公の功績はわしが今から述べるから、そなた達はそれをもとに書け!わしがそれをまとめる!」 「…?」 「聞こえんのか!さっさと簡と筆、それに墨を用意せんか!」 「はっ、はい!」 董卓の一喝を受け、属官達はばたばたと動いた。
125:左平(仮名) 2004/06/13(日) 23:55 「では話すぞ。よいな、一語一句、書き漏らしてはならぬぞ」 「…はい」 皆、神妙な面持ちである。董卓が「〜してはならぬ」と言った場合、それを守れなかったら後が怖いし、何より、あの董卓自身の神妙さをみると、とてもだらけてなどはおれない。 時は初夏。少し暑いくらいであるが、みな、汗も出ないくらいに緊張していた。 「段公は…鄭の共叔・段(春秋初期の覇者・鄭の荘公の同母弟)を遠祖とし、西域都護・(会)宗の従曾孫であらせられます…」 董卓は、まず段ケイ【ヒ+火+頁】の祖先(とされる人物)の名を挙げた。共叔・段自身は、兄の荘公に叛逆して敗れたというから、歴史上においては、さして傑出した存在というわけではない。しかし、鄭国の初代にあたる桓公・友(荘公、共叔・段の祖父)は周王の子であり、周王室と同じ姫姓という事になるから、それだけでも、どこぞの馬の骨とは違うという証になろう。 この時代にあっては、そういう出自がものをいうのである。強調するに越したことはない。 「段公は…若くして弓馬の道に通じられ、長じては古学を好まれました…」 続いて、その人となりと経歴を語った。実は、若い頃の段ケイ【ヒ+火+頁】は遊侠(任侠の徒)であり、放埓に振る舞っていたが、年を経て学問に目覚め、孝廉に挙げられたという。 その人生はなかなか波乱に富んでおり、最初からおとなしく六経を暗誦していた者とは気構えが違う。 若い頃遊侠であったという履歴は董卓にも重なるものであり、彼は、その経歴を誇りに感じてさえいた。 「段公は…辺境を荒らす鮮卑、羌族をしばしば討ち、伏波将軍(馬援。「矍鑠」という言葉はこの人の故事からきた)もかくやという戦果を挙げられました。…敵は容赦なく殲滅する一方で、兵をいつくしみ、辺境にある間、蓐に入る事もなさらず、ただひたすら漢朝の為に戦ってこられました。…京師(洛陽)に帰還なされた後は、高位を歴任し……」 そう語る中、董卓は胸が詰まる様な思いがした。 段ケイ【ヒ+火+頁】の歩んできた道は、まさに、武人としてのあるべき姿そのもの。自らが理想とするものであった。その人が、今、ゆえなくして投獄されている。 何としても、その人の危難を救いたい。その思いには、一点の偽りもなかった。 董卓の弁舌は、お世辞にも巧みなものではないが、その訥々たる言葉の数々は、その場にいた人々の胸を打つに値するものであった。もし彼が洛陽にあって救解に努める事が出来たならあるいは、とも思われたほどである。
126:左平(仮名) 2004/07/12(月) 00:14 六十三、 董卓の話はかなり長いものとなったが、属官達は、その言葉を漏らさず書き留めた。続いては、その編集である。 「ここの言い方はこれでよいのか?上奏文として問題はないか?」 彼にしては、珍しく文面にこだわりを見せる。普段なら「まぁ、こんなものでよかろう」の一言で終わるところなのに。 (この様な殿のお姿は初めてだ。段公とは、それほどのお方か) 初めはわけも分からずにいた属官達も、徐々に真剣になっていった。 現在では『三人寄れば文殊の知恵』という言葉があるが、仏教がさほど普及しておらず、そういう言い方はなかった当時にあっても、多くの人々が知恵を持ち寄る事の大切さには変わりない。頼りになる賈ク【言+羽】は今ここにはいないが、皆の力を合わせれば何とかなりそうだ。董卓は、そう思い直した。 「修辞上は、他にも言い方があるでしょう。しかし、今回はあまり飾らない方がよろしいかと」 「いや、ここは別の字句を充てた方がよろしいでしょう。飾り過ぎない方がよいというのは同意ですが、やはり荘重さは必要です」 普段は手応えのない連中が、別人の様に雄弁になる。人とは、状況によっていかようにも変わり得るものだ。 「ふむ。他に意見は?」 「殿、ここは意見を求めておられる場合ではございません。殿のお言葉そのままに奏上されるのがよろしいかと…」 「しかし!あまりに生々しい言葉を奉るのはまずいですぞ!これを読まれるのは陛下お一人ではございません。他の高官の心をも動かすには…」 「そもそも殿は羽林郎として出仕なさったお方ですぞ。そのお方が普通の文官達と同じ様に奏上されてもおかしくはないか?」 「うぅむ…それはそうなのだが…」 「他には?皆の意見は?」 「僭越ながら…殿のお言葉は、充分に我々の胸を打つものでした。確かに、修辞上は若干改善すべき点もございましょうが…今は、時間がございません。細かいところは、叔穎殿に任せられてはいかがかと存じます」 「そうだな…。では、直ちにわしの言葉を書状としてまとめるのだ!急げよ!」 「はっ!」 「これを叔穎殿に。大切な上奏文だからな。くれぐれも用心しろよ」 待機していた使者に、上奏文を綴った絹布が託された。実際にはごく軽いものなのだが、やけに重く感じられる。 「承知しておる。ことは一刻を争うのだからな」 「そうだ。…頼むぞ。これには、殿ばかりでなく我らの想いも込められているのだからな」 「それも承知しておる。では、行ってくるぞ」 そう言うと、使者は馬上の人となり、脱兎の如く駆け出していった。
127:左平(仮名) 2004/07/12(月) 00:16 少し気分が落ち着いたせいか、行きに比べると馬の脚が速く感じられた。ふと気がつくと、董旻邸が見える。もう少しだ。 しかし、出立した時と、何か雰囲気が違う。邸の周辺にどこか淀んだ気が纏わりついている様だ。いったい、どういう事だろうか。 (まさか…) 嫌な予感がするが、そう感じるとますます物事が悪い方向に進む様な気がする。彼は、つとめて明るく振る舞おうとした。 「殿の上奏文を持って、ただいま戻りました!門を開けてくだされ!」 くたくたに疲れきってはいたが、あらん限りの力を振り絞って声を発した。 「おぉ…よく戻られたな…」 出迎える者の声がかすれていた。さすがに頬がこけるとまではいかないが、明らかにやつれているのが分かる。邸内にいた者が、ろくに休息もとらずに長々と駆けてきた使者よりも憔悴しているとは…。 「ほれ、殿の上奏文だ!これを早く叔穎殿に渡してくれ!」 「その事だが…」 「どうした!これで段公は助かるかも知れんのだぞ!嬉しくないのか!」 「だ、段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…亡くなられていたのだ…詳しい事は分からんが、自ら毒をあおられたという…」 「!…」 その言葉を聞いた瞬間、使者の膝はがっくりと折れ、その場にへたり込んだ。体中から力が抜けていく様な気がした。自分達の行動は、全て徒労に帰したのか。その絶望感は、何とも形容し難いものであった。 「そうか…道理で、辺りに変な気が纏わりついている様に感じたわけだ…」 「邸内の者は、皆一様に嘆いていて何も手につかぬ有様だ。段公のご家族は、既に都からの退去を命じられ、辺境に流されるとの事だ。殿もこのままでは済みそうにない。よくても官位を召し上げられるだろう…」 「段公のご家族のみならず、殿にまで累が及ぶというのか?」 「そうだ…」 「そんな!殿にいったい何の過ちがあったというのだ!」 「過ちなど、あろうはずもなかろう」 「ではどうして?」 「知れたこと。司隷殿にとって、段公に恩義を受け、しかも兵権を持っている殿が健在でいられると何かと都合が悪いからな…」 「何ということだ!これ幸いと羌族や鮮卑が蠢き出したらいったいどうするつもりなのだ!今の漢朝に、段公や殿にまさる将器はおられないというのに!」 この嘆きは、決して大袈裟なものではない。この数年後に起こった大乱に際して(董卓と同じ涼州の人である)皇甫嵩という名将が出たから、今の我々は、この当時の漢朝に将器がいなかったわけではない事を理解している。しかし、この時点において少なからぬ実戦経験を有しているのは、董卓など、主に辺境にいたごく僅かな将しかいないのである。その彼を失脚させる事の重大さは、健全な危機意識を持つ者には、火を見るよりも明らかな事であった。 「それよりも、自身の地位を保つ事が大事なのであろうよ。あの連中にはな」 そんな憤った感情が、彼らの言葉の端々に現れる。普段ならこんな吐き捨てる様な物言いはしないのだが、そうでもしないと気が治まらない。 「…」 (我ら平民でも分かる事が、高位高官にある方々には分からぬのか…!) 彼らの絶望は、時が経つにつれ、ますます深まっていった。 「とにかく、これからどうするかはまた殿のご指示を仰ぐしかない。中に入ってしばし休もう」 「あぁ…。だが、眠れるかな…」 「いやでも眠っておけ。そなたには、また走ってもらわんといかんからな」 「そうだな…」 二人は、とぼとぼと邸内に入っていった。
128:左平(仮名) 2004/09/05(日) 23:28 六十四、 翌朝−。 「どうだ、眠れたか」 そう聞く者自身、まだ夢うつつの中にいる感がある。あれ以来、邸内の者は皆よく眠れていないのである。 「いや、眠ろうと眼を閉じてはいたのだが…眠りが浅かったな。どうも頭がふらふらする様な感じがする」 「そうか…。じゃ、出立は明日にするか。寝ぼけたままで馬を走らせるのもまずいしな…」 「そうしたいところだが…そうもいくまい。悪い知らせだが…いや、悪い知らせだからこそ、早く伝えねばならないし…」 「そうか…そうだな…。今後の事もあるしな…」 「ところで、王中常侍達の亡骸は晒されていると聞いたが…」 「ああ。なんでも、夏城門のところに磔にされているそうだ」 「それじゃ棄市(斬首後、屍を市に晒す)と変わらんではないか。段公の亡骸は、まさかそんなところにはないだろうな」 「それはなかろう。段公は士大夫だしな。しかし…あの司隷殿だからな。心配なところではあるなぁ…」 「念の為だ。見届けておこう。その後、出立する」 「そうするか」 『賊臣王甫』 磔にされた屍の横に札が掲げられ、大きくそう書かれていた。民衆達がその屍に群がり、叩いたり蹴ったり肉を切り刻んだりする様は、いかに相手が大罪を犯した咎で誅殺された者とはいえ、何とも凄惨なものである。 ここで王甫達に同情的な言葉を吐けば、自分達も直ちにあの様にされるのではなかろうか。そう思わせるほど、王甫達は忌み嫌われていたのである。 しかし、董卓の家人である彼らにとっては、あの段公と付き合いがあったという事があるだけに、そこまで非難する事はできない。 「こ、この屍は…」 「どうだい、驚いたか?」 「そりゃまぁ…。第一、顔以外もう人間の姿じゃないし…。晒されてからまだ何日も経ってないのに、もうこんなになったってんですか?凄いな…」 「まぁな。って言うか…晒された時点でもう顔しか分からない様になってたがね」 「そんなになってたってんですか?」 (司隷殿の事だからただ殺すだけでは済まないとは思ってたが…そこまでするのか) 王甫達への同情はないが、そこまでに至る経過を考えると、思わず背筋に寒気が走った。董卓配下の一人としては、戦場では一歩も引かないという自信があるが、これはまた別ものである。 「ああ。司隷様も、また派手になさったもんよ。おかげで、こっちの楽しみが減っちまったがね」 「…。と、ところで晒されてるのはどういった連中なんです?王甫の他には?」 「ええっとな…。確か、王甫とその養子どもだ。他には…どうだったかな?まぁ、いい意味で名の知られてるやつはいなかったはずだよ」 「そうですか…」 (良かった。段公の亡骸は、どうやらご無事の様だ) それだけが、彼らにとってのかすかな救いであった。
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小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50