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小説 『牛氏』 第一部
12:左平(仮名) 2003/01/26(日) 00:43 六、 「あっ…!」 門を守る家人は、驚きを隠せなかった様で、しばらく動かなかった。二人は、馬から降りるとそのまま牛朗の居室に入り、もつれ合う様に倒れ込んだ。 牛朗は、男女の事については初めてである。おおよその事は知っているつもりであるが…。慌しく衣を脱ぐと、互いの体を愛撫し合う。 どうすれば、相手が悦んでくれるだろうか。試行錯誤しながらも興奮は募る。二人の呼吸は早くなり、体からは汗がにじみ出る。 (えっと…この先は…) 琳は、男を受け入れる態勢になりつつある様だ。自分のものも、もう張っている。さて、この先は… 現在では、義務教育の段階で性教育が為されるし、様々な媒体があるので、結婚する男女は、経験の有無にかかわらずその方法を(一応は)了知している。しかし、この当時には、そういうものは殆どない(前漢後期に春宮画【日本でいう春画。男女の性愛の様子を描いた画】の原型ができたらしいが、この当時、一般の豪族の家庭にあったかどうかは不明である)。 「朗さん」 「えっ?」 「これを…ここに…」 琳は、顔を赤らめつつ、朗のものに軽く触れると、自分のところを指し示す。 (そっか…。琳さんは、羌族の女だったな。羊の繁殖の様子を見てるから…) 牛朗は、変に納得した。 「じゃぁ…いくよ…」 「えぇ…うっ」 ついに、二人の体が繋がった。彼女も初めてなのか。琳の顔が、苦悶にゆがむ。 「琳さん、痛いの?」 「うん…ちょっと。でも、朗さんとなら…」 その表情と言葉がいとおしい。二人は肢体を絡め、初めてとは思えぬほどに激しく求め合った。 「はぁ…はぁ…」 事が終わり、けだるさと心地良さがないまぜになる中、二人はゆるゆると立ち上がった。ふと見ると、琳の腰に巻かれていた布に、血痕がついていた。 「これは…」 「これが…証です。わたしにとって、あなたが初めての男の人だという…」 「…」 二人の間にしばしの沈黙が流れる。これで、完全に退路は断たれたのである。 「朗! その女は一体…」 牛朗の父が居室に入って来た。その顔は上気し、今まで見た事もないほどに怒り狂っているのが分かる。普段の牛朗であれば、即座に叩頭して謝罪するところであるが、ここで引く事はできない。ここで引いてしまったら、琳を捨ててしまう事になる。 「父上! 私は…この女(ひと)を抱きました! この女との仲を認めて下さいっ!」 彼女を抱きしめつつ、そう叫んだ。初めて父に逆らったのである。 「何っ!」 「いかがなさいますか。…これを御覧下さい!」 そう言うと、琳の腰を指し示した。そこについている血痕こそ、二人の関係が既にただならぬものになった事を示す、何よりの証拠である。
13:左平(仮名) 2003/01/26(日) 00:47 「こっ、これは!」 「私達の仲が認められないとなれば、牛氏の男が他家の女を弄んだという不名誉な事になるのですよ!」 「そなた…本気で言っているのか!?」 「はい」 「勘当しても良いのだぞ!」 「構いません。そうなればなったで、司馬相如【前漢の文人。賦にすぐれた。富豪の娘であった卓文君と恋仲となり、彼女の父親に反対されると、駆け落ち同然の形で結婚した。彼女の邸宅の前で夫婦して屋台を経営した為、ついにその仲を認められたという逸話を持つ】に倣うまでです」 「む…」 そこまで言われると、父も黙り込んだ。この結婚に反対し続けた場合、どちらにしても一族の名折れになりかねないという事が分かったからである。 「ならば…仕方あるまい」 「では! 認めていただけるのですね!」 「だが、一つ条件がある」 「条件、ですか?」 「その娘、おそらく羌族の娘であろう。我が家と羌族との関係は承知しておろう?」 「そっ、それは…」 「その女をそなたの妻と認めるのは良しとしよう。だが、今後一切、羌族の事を考えるな!良いな!」 「そうすれば、わたし達の仲を認めていただけるのですね?」 それまで黙っていた琳が口を開いた。その言葉には、全く迷いがみられなかった。牛朗の方がためらって言い出せない事を、彼女はあっさりと言ってのけたのである。 「りっ、琳さん!」 「いいんです…これで」 「琳さん…」 こうして、二人は晴れて結婚する事ができた。 が、幸せは長くは続かなかった。琳は、長男の輔を産んですぐに亡くなってしまったのである。産後の肥立ちが悪かったのが原因であるが、実家と引き離された形になってしまった事が、彼女の心身を痛めていたのかも知れない。彼女に対しては十分な愛情を注いだつもりではあるが、守り切れなかった事が悔やまれてならない。 生活に追われる心配はないとはいえ、男手一つで乳飲子を育てるのは容易ではない。結局、彼は漢人の女性と再婚した。後妻との仲はまずまずで、子供にも恵まれたのだが、心の空白は残り続けた。 (琳…) 目を閉じると、今でも彼女の姿が浮かぶ。その姿は、色あせるどころか、年を追うごとにむしろ鮮明にさえなっていく様である。 (あいつへの想いが強過ぎたのかな…) 輔の成長を見るにつけ、そう苦笑せざるを得ない。彼は、嫡男である輔に対し、常に厳しく接してきた。それは、最愛の人との間の子であるが故に、必ず傑出した人物に成長して欲しいという気負いの故であったのだが…輔には、そう見えなかった様である。 成長した輔は、どこか神経質に見え、頼りなさげである。このままでは、先が思いやられる。 (新婦に会う前に、輔とじっくり腰を据えて話しておくか…) そう決めた牛朗は、杯の酒をくっと飲み干した。月は、もう西に傾きつつあった。
14:左平(仮名) 2003/02/02(日) 22:44 七、 それからしばらくの時が流れ、季節は夏になろうとしていた。 牛輔の心の中にはなおも戸惑いがあったが、既に決まった話である。 (まぁ、董郎中殿は董郎中殿。娘さんは娘さんだ。性格・容貌ともそっくりという事はなかろう…) そう、前向きに考えるしかない。 当時の正式な結婚は、六礼と呼ばれる儀礼を踏まえて行う必要があった。もちろん、誰もがそういう手続を踏まえたというわけではないだろうが、これは、豪族同士の正式な縁談である。当然、そういった手続が為された事であろう。 それぞれの儀礼の名と内容は、以下の様になっている。 納采(男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)、問名(男の方から使者を送って相手の女の生母の姓名を尋ねる礼)、納吉(婿側で、嫁に迎える女子の良否を占い、吉兆を得れば女子の家に報告する)、納徴(納吉の後、婚約成立の証拠として、女子の家に礼物を贈る)、請期(結婚式の日取りを取り決める事。男の方で占って吉日を選び、その日を女の方に申し込むが、儀礼上、女側に決めてもらうという形式をとる)、親迎(婿が自ら嫁の実家に行って迎えの挨拶をする儀式)。 この時、既に請期までは済んでおり、あとは親迎を行うのみであった。婿となる牛輔は、この時初めて岳父・董卓と妻となる女性・董姜に会う事になる。 その、親迎の日の朝である。牛輔は父の居室に呼ばれた。 「父上、輔です。お呼びでしょうか」 「うむ。まぁ、入れ」 「はい。失礼します」 牛輔と父は、向かい合って座った。こうして二人で話すのは、縁談を聞いた時以来である。何かあったのだろうか。見当もつかない。 「輔よ。今宵、いよいよ親迎だな」 「はい」 「これで、名実ともに牛・董両家は縁続きになる。董郎中殿は、名将である。董家は、今後ますます栄えるであろう。そなたは、その娘婿となるわけだ」 「はい。そうですね」 特に、とりとめのない話なのか。しかし、父ともあろうお人が、そういう話をされるとも思えないが…。 「そなたは、今後、我が家の一員であるのに加え、董家の一員ともみられる事になる。それは、つまり、両家に対し責任を持つという事だ。両家の名に恥じぬ様に振る舞ってもらいたい」 「はい。分かっております」 「それで、というわけではないが…。それに先立ち、そなたに話しておきたい事がある」 「何でしょうか?」 父は、何を言おうとしているのであろうか。彼には、まださっぱり分からない。 「そなた、自分の名をどう思っている?」 「は?」 いきなり、何を言い出すのだろうか。この名は、父がつけたものであるはず。良いも悪いも、もう二十年以上も付き合ってきた名である。今まで意識する事もなかったが…。 「私の名は輔ですね。いえ、別にどうという事もありませんが…。いかがなさったのですか?」 「いやな。なぜわしがそなたに輔という名をつけたか、という事だよ」 「はぁ…」 「この話は、ちと長くなるぞ」
15:左平(仮名) 2003/02/02(日) 22:46 そう言うと、父は座り直した。なるほど、長い話になりそうである。 「そなたの名である『輔』という字にどういう意味があるかは分かるか?」 「はい。そもそもの意味は、車輪を補強する為のそえぎ、ですね。で、それ故『たすける』という意味になる、と学んでおります」 「そうだ。では聞こう。そなたは、この家の嫡男である。そのそなたに、何故『輔』という名をつけたと思う?」 「えっ?」 そう言えば、そうだ。嫡男である自分が、一体何を「たすける」というのだろうか? 「私の上に、兄がいた、という事ですか?」 それくらいしか思いつかない。いや、普通はそうであろう。それとも…。今になって、そなたは嫡男にふさわしくないと思っておった、とでも言うのであろうか? だとすれば、どうして今まで嫡男として扱われたのか? 「いや、そうではないのだ。…そなた、覚えておるか? 昔、『母上はどこにおられるのですか』とわしに聞いた事があったろう」 「はぁ…そう言えばそんな事があった様ですね」 「そなたも分かっておろう。そなたを産んだ母上と、今の母上とは違うという事が」 「はい。はっきりと聞いたというわけではありませんが…。しかし、それとこれと、一体何の関係があるのですか?」 「それが、あるのだよ。まぁ、聞きなさい」 そう言う父の声は、いつもと違って聞こえた。こんなに優しげな声を聞くのは、いつ以来であろうか。 「あれは、もう二十年以上も前になるか…」 父の話は、牛輔にとっては初耳であった。この邸宅内には、当時を知る者も何人かいるが、その様な話は聞いた覚えがない。家内における父の威厳は非常に強く、この様に微妙な話題について口を滑らせる者はいなかったのである。 (私の母上は、羌族の族長の娘だった…? しかも、父上と相思相愛だった…? 羌族と牛氏は、激しく対立しているというのに、そんな事が…!) あの謹厳な父が、かつてその様な激しい恋をしたとは、どうにも信じ難い。だが、本人の口から語られている以上、事実であろう。 「あの時、わしには琳が全てであった。あいつがいてくれれば、何もいらなんだ。…だがあいつは、そなたを産んですぐに死んでしまった。どんな名前にしようか?って聞く間もなく、あっけなくな。遺されたわしは、全てを失ったと感じた。生きる意味もないとさえ感じた。しかし…後を追うわけにはいかなかった」 「私がいたからですか?」 「そうだ。死んだあいつが、想い出以外にわしに遺してくれた唯一の存在。それが、そなただ」 「では、私の名は…」 「そう、何よりも、わしを『輔(たす)』けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ」 「そうでしたか…」 牛輔の脳裏に、父との日々が思い出された。 父は、いつも厳しかった。何か悪戯をしようものなら、容赦なく叱られたものだ。それは、名族の嫡男であるからとばかり思っていたが、それ以外の意味もこもっていたのか…。 彼も、ただ部屋にこもっていたわけではなく、それなりに学問もしてきている。それによって培われた理性は、父の思いをしっかりと理解した。 「これからは、わしばかりでなく、董郎中殿もそなたの義父(ちち)となるのだ。ふたりの父を、しっかりと『輔』けてくれよ」 「はいっ!」 (父上が厳しかったのは、私の事を大事に思っていたが故なのか…) 親迎を前にして、少し、気が軽くなった気がした。自分は、誰かに必要とされる存在である。それは、妻となる姜にとっても同じであろう。それで良いではないか。その思いが、彼の心を明るくしてくれた。
16:左平(仮名) 2003/02/09(日) 21:45 八、 夕刻となった。太陽は地平線に没しつつあり、強烈な陽光も和らいでいる。少し風が吹いてきた。ここ隴西は内陸部であり、湿度は低い。頬に当たる、乾いた風が心地良い。 いよいよ、親迎である。今日、ついに、妻となる女(ひと)と会う事になるのだ。彼女はいま、牛氏の邸宅にほど近い、董氏の別邸で待っている。もちろん、父の董卓も一緒だ。 牛輔の心は、否応なしに高まっていた。 古礼によると、婚儀というものは、祝うべきものではなかったという。 妻を娶るというのは、子がそれだけ成長したという事を示す。それは同時に、親はそれだけ年老いたという事をも意味する。太古の人々は、その負の側面を意識していたのである。未知なるものへの恐れという意識がそれだけ強かったという事であろうか。 また、陰陽においては、男は陽、女は陰とされている(医学的には男性器の事を「陰茎」という。しかし、女性器と対比するとなると「陽物」と言ったりするのがその一例であろう)。妻を娶るという事は、陰を家に納れるという事になる、と考えられたのである。 それ故、婚儀は夜に行われた。陽光のもと、にぎにぎしく執り行うものではなかったのである。 とはいえ、この頃になると、人の有り様も変わっている。いつしか、婚儀は、その正の側面を意識するものに変質していたのである。まぁ、この時代は、儒に基づく礼教がやかましく言われていたから、儀礼の様式自体は、ある程度古礼にのっとっていたであろうが。 牛輔自らが手綱をとる馬車が、ゆっくりと動き始めた。馬車の扱いには慣れていないのであるが、不思議とすんなりと動いた。 太古に用いられた戦車は、ながえ(車につく、かじ棒。横木・くびきなどを介して、車と馬をつなぐ。一本ながえをチュウ【車舟】、二本ながえを轅という)が一本であったが、この頃には、二本のものが普通であった。この形の方が、効率が良く、また、馬の制御もやり易いのだという。もっとも、一本ながえの戦車には二〜四頭の馬をつないでいたのに対し、二本ながえの馬車には一頭の馬しかつながないのであるから、全体の力は下回りそうである。速度も、さほどではあるまい。 戦場を駆け回るのならともかく、妻を迎える分には、これくらいの方が良さそうである。 あたりが暗くなり、天空に星がまたたき始めた。先導する従者が松明に火をつけると、暗がりの中に馬車がぼんやりと浮かび上がった。 (これが正式な儀礼なのは分かっている。とはいえ…) 高まる心とは裏腹に、あたりの空気はしんと静まりかえっている。このまま、闇の中を走り続けるのだろうか。そんな気持ちにさえなってくる。 ふと気付くと、大量の松明がともっているのが見える。間違いない。董氏の別邸である。 (いくら、三日三晩火をともし続けるのが儀礼とはいえ、ちと多過ぎはしないか) 闇の中、董氏の別邸の周囲のみは、まるで昼間の様な明るさである。こういうところにも、董卓という人の性格が表れているという事か。 門が見えた。門前に、巨躯の男が立っている。岳父となる董卓、その人である。 その姿を認めた牛輔は、頃合いを見計らい、車上から拱揖(きょうゆう:両手を胸の前で重ねて会釈する)の礼をとった。董卓も、同じ礼を返した。まだこの時点では、互いに言葉を交わす事はない。ただ、目を合わせ、無言の中に何かを伝えようとするのみである。 (さすがは、歴戦の勇将。ものすごい威厳だ。向こうは、私の事をどう思っただろうか?頼りないやつと思っただろうか?) 彼の娘婿となれば、戦いに加わる事も多かろう。それ相当の力量が必要となるはずである。今の自分がそれにふさわしいかと言えば、自信はない。 (もっと武芸に励むべきだったか…。おっと。今は、親迎の儀礼を滞りなく済ませる事の方が先だったな)
17:左平(仮名) 2003/02/09(日) 21:47 これから、妻を迎えようとするところである。落ち込んではいられない。 門が開いた。馬車がゆっくりと中に入っていく。別邸とはいえ、なかなか広い。中庭で、彼は手綱を董氏の家人に預け、車から降りた。 堂(中庭の側が吹き抜けになっている広間)に上がり、祖廟での一連の儀礼が終わると、新妻を車に乗せる 事になる。 姜が、姿を現した。彼女もまた、当時の儀礼に従い、新婦が身につける纓(えい:頭にかける紐飾り)を除いては、わりと地味な衣装をまとっている(古礼によると、この時の衣装は、黒いものを用いるという。これでは喪服と同じではないか、と思うかも知れないが、古代の喪服は白いものを用いたというから、問題はない)。顔は、ここからではまだよく分からない。照れて、顔を合わせるのもままならないのである。それは、向こうも同じらしい。顔を伏せ気味にしてこちらに近付いてくる。 (意外と小柄だな。それに、私に会って照れてる様だ…) そんな、何気ないしぐさにも、彼の心はときめく。 姜がそばまで来た。牛輔は綏(車の乗降の際につかまるひも)を投げ、彼女を車に導く。綏を通じて感じる彼女は、不思議に軽く感じられた。あの董卓の血を引くとは思えないほどに。 車輪を三回転させると、彼は車から降りた。先に自邸に戻って、新妻を門前で迎えるのである。 すっかり夜も更けた。自邸の門前で、彼は妻の到着を待っていた。時の流れが遅く感じられる。が、それは苦痛ではない。 やがて、松明が見え、姜の乗った馬車が姿を見せた。彼は、揖譲(ゆうじょう:手を組み合わせて挨拶し、へりくだる)し、彼女をいざなった。 目の前に杯が置かれ、酒が注がれる。二人は、それぞれの杯を手にとり、酒を口に含んだ。酒で口をすすいで体を清めるとともに、同じものを口にする事で、礼を明らかにするのである。 これで、親迎の儀礼はなかば終了した。翌朝、妻は早起きして夫の両親に挨拶をする事になる。 (明日の事があるから、あまり変な事はできないが…) 姜の横顔をちらちら眺めながら、牛輔は心を昂ぶらせていた。
18:左平(仮名) 2003/02/16(日) 00:28 九、 一通りの儀礼を終えた二人は、ゆっくりと、居室に入った。室内には寝具が整えられており、燭台には火がともっている(当時の照明に用いられたのは、木片か獣脂。木片は松明の形で、獣脂は、灯心をさして蜀台の上で燃やした)。寝具は、もちろん一つしか用意されていない。 別に、寝所に入る際にはゆっくり歩かなければならないというわけではない。しかし、急ぐ事はできなかった。晴れて夫婦になったとはいえ、なにしろ、初対面である。そんな相手と、いきなり男女の交わりを持つのであるから、心は逸るものの、体がいう事を聞かない。二人とも、全身が緊張していた。 ようやく、寝具のところに腰を落ち着けると、二人は向き合った。さっき、車に乗り込む際に顔を合わせたはずなのであるが、あの時は緊張の中にいた為、顔をよく見ていなかった。いま、ようやく互いの顔を見つめあった。 (あぁ、この女(ひと)が…私の妻なのか…) (わたしの夫は…この人なのね…) 二人は、しばらく無言のまま見つめあっていた。見とれていた、と言っても良い。とはいえ、一言も話さぬままに体だけ重ねるというのも味気ない。第一、こんなに緊張した状態で、うまくできるだろうか。 (何か話して、緊張をほぐさないと…) 傍目には、歯がゆく見えたであろう。もう、衣装を脱ぐだけで良いというのに、何を固まってるんだ、と。 しばらくして、ようやく牛輔の方から口を開いた。 「き、姜さん…」 「はい?」 「何から話しましょうか?」 「何から、とおっしゃられても…」 「う−ん…。ねぇ、姜さんは、どうして『姜』って名前なんですか?」 「えっ?」 「いや、今朝、父に聞かれたのですよ。『そなた、自分の名をどう思っている?』って」 「はい。それで、どうお答えしたのですか?」 「いえ、答える事はできませんでした。そんな事は考えてもいませんでしたから。そうしたら、父が、私の名の意味を話してくれたのです」 「あなたの名は、確か『輔』でしたよね。その意味ですか」 「そうです。父は、こう言いました。『わしを「輔(たす)」けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ』と」 「でも…。あなたはご長男ではないのですか?字も『伯扶』ですし。跡目を継ぐお方が、どうして『輔』なのですか?」 「そうなんですが…これには理由があったそうで…」 そして、父から聞いた事を話した。それまで聞く事はなかったとはいえ、他言を禁じられたわけではない。妻には話しておいても良かろう。 話を聞き終わった姜は、目を見張った。驚きを隠せない様である。そりゃそうであろう。牛氏と羌族との関係は、隴西に住む者であれば周知の事なのだから。 「では、あなたも…羌族の血を引いておられるのですね」 「えっ?じゃ、姜さんも…?」 「えぇ。わたしの母・瑠は、羌族の族長の娘です。何でも、かつて父が集落を訪ねた時に一目惚れして、牛馬を届けた際にそのまま嫁いだって…」 「そうでしたか」 「不思議なものですね」 「えっ?」 「そうでしょ。だって、わたしもあなたも漢人の家に生まれましたが、羌族の血を引いてるんですから。これも、何かの縁ですね」 「そ、そうですね…」
19:左平(仮名) 2003/02/16(日) 00:31 体の緊張が、(一箇所を除いて)少しずつほぐれてきた。 言葉を交わす事で、彼女の人となりが、何となくではあるが見えてくる。その表情といい、声といい、変な翳りは感じられない。彼女は、心身ともに健やかに育った事は間違いなかろう。それ故、少なくとも、夫である自分を故なく軽んじる事はなさそうである。 妻、そして母としてはどうであるかはまだ分からないが、一人の女として彼女を見れば、特に文句をつける様なところはない。あとは、自分が彼女にふさわしい男になれるかどうか、である。 「じゃ、そろそろ…」 「えぇ…」 二人は、帯を緩め、ゆっくりと上衣を脱いだ。夏の夜である。昼間よりはだいぶ涼しいとはいえ、緊張と興奮の為か、二人の体にはうっすらと汗がにじんでいる。鼓動もさらに早くなった。 肌着を脱がせる為、彼女の肩に手をかけようとした牛輔は、その体からかすかな匂いがするのに気付いた。 この当時、どの様に体を洗っていたか。古代ロ−マの例もある(有名なカラカラ浴場は、3世紀初めに完成している。これ以外にも、多くの浴場があった)様に、主には蒸し風呂であったと考えられるが、「斎戒沐浴」という言葉もあるから、湯水で体を洗い清める事もあった様である。 ただし、毎日洗ったというわけではなかったろう(だいたい、「斎戒沐浴」という行為自体、天を祀るなど特殊な儀礼の際に行うものというニュアンスが漂っている)。漢代の官吏に「休沐」(体を洗う為の休暇。この当時は、五日に一回)というものがあった事自体、それを示している。 ほぼ毎日入浴して体を洗っている我々に比べると、人間の体臭は、また、そういうものに対する感覚は強かったはずである。 (あぁ…この匂いは…) 彼は、女の匂いには縁が薄かった。実母は、生まれてすぐに亡くなったし、義母との関係も、(彼がそう思っているだけかも知れないが)いささか距離がある。それだけに、その匂いは強烈であった。 初めて嗅ぐその匂いは、なぜかは分からないが、彼の心をさらに興奮させる。 手からは、彼女の肌の感触が伝わってくる。その感触は、絹布の如き、いや、何とも比べられないほど、なめらかで、心地良いものであった。 思わず、我を失いそうになる。が、欲情に溺れっ放しではいられない。相手は、妻なのである。今宵限りの相手ではない。彼は、一瞬目をつむり、自らを戒めた。 (待て待て、少し冷静にならないと。慌てず、ゆっくりと、優しく…) 裸になった二人は、顔を近付け、唇を重ねた。互いの鼓動と息遣いが伝わってくる。そのまま、ゆっくりと横になった。 牛輔が愛撫するたびに、姜の体は反応を示す。しばらくそうしているうちに、汗が吹き出し、初々しい嬌声があがり始めた。 (あぁ…いまわたし、伯扶様に愛されてる…やだ、こんなに乱れちゃって…恥ずかしいっ…) 恥ずかしさと悦びの余り、姜が体を激しくくねらせると、牛輔もそれに合わせて体を動かした。二人とも、今までかしこまっていたのが嘘みたいである。 ついに、二人が交わった。いくら心身の準備ができているとはいえ、初めて男を受け入れた瞬間はさすがに苦痛を伴うらしく、姜の顔が一瞬苦悶にゆがむ。 「い、痛いの?」 「ちょっと…。でも、嬉しいです。これで、本当に夫婦なんですから…」 目を潤ませ、痛いのをこらえているその表情が、さらに男の欲情をそそる。女が痛がっている様子に興奮するのではない(それではただの嗜虐である)。彼女が、その苦痛よりも、自分に抱かれるのを喜んでくれている事、言い換えると、自分をそれだけ深く愛してくれている事に興奮するのである。 「姜さん…」 「姜、と呼んでください」 「あぁ、姜」 二人は、理性を半ばかなぐり捨てて、激しく交わりあった。
20:左平(仮名) 2003/02/23(日) 22:21 十、 事が終わり、重なっていた二人の体が離れた。呼吸は荒く、体と寝具は、汗やら何やらで、ぐっしょりと湿っている。 「こんなに…」 「ん?」 「こんなに…いいものだなんて…。お父様とお母様がしょっちょうしてるのも分かるわ…」 「そうだな…」 (董郎中殿は、今も奥方と? まぁ、無理もないか…。俺も、こんなにいいものとは思わなかったしな…) 「ねぇ…。もう一回、いいでしょ?」 姜が、甘えた声を出しながら、そう聞いてくる。それは、牛輔からしても望むところではあるが、明日の事もある。何回も交わって、寝坊させるわけにもいかない。 「俺もそうしたいけど…。明日は、早いだろ?だから、もう寝よう」 「だめぇ?」 ちょっと不機嫌な顔になった。その表情もかわいらしく、欲情をそそるものだから、いよいよこちらとしてもなだめるのが辛い。 (俺だって、したいのはやまやまだよ。もう一回どころじゃないくらいに) 内心はそう思いつつも、懸命になだめた。 「まぁ、こらえてくれよ。明日、儀礼が全部済んだらもっとかわいがってやるからさ」 「ほんと?」 「あぁ」 「約束ねっ」 姜は、裸のまま牛輔に抱きついてきた。牛輔も、彼女の体に腕を回し、二人はそのまま眠りについた。 翌日−。 眠い目をこすりつつ、姜は目を覚ました。夏の朝は早い。空は、既に白みがかっている。 親迎の翌朝は、新婦は早起きしなければならないのであるが、このくらいの時間なら、まぁ問題なかろう。とはいえ、ぐずぐずしてはおられない。身づくろいをしないと、今の格好では、恥ずかしくて部屋から出られない。 (さぁてと。もうひと頑張りしないと) 舅・姑との儀礼がまだ残っている。昨晩の様子からすれば、夫とはうまくやっていけそうであるが、舅・姑との関係がまずければ、台無しである。姜は、自分を励ましつつ、元気良くはね起きた。隣には、夫の牛輔が眠っている。いや、眠ったふりをしている様だ。 「じゃ、あなた。また後でね。昨日の約束、忘れないでよ」 そう言うと、心なしか、夫がうなづいた様に見えた。 まずは、身を清めなければならない。姜は、桶を用意し、水を張ると、その中に体を沈めた。体を沈めたといっても、さして大きくない桶であるから、下半身が水に浸るくらいである。 手で体に水をかけながら、彼女は、自分の変化を感じていた。 もちろん、たった一日で目に見える変化があるわけではない。しかし確かに、夫に抱かれ、自分は娘から女になった。その意識をもって見ると、自分の体でさえ、何か全く別なものになったかの様に思える。 (この胸…。この胸を、伯扶様やわたし達の子供が触る事になるのね…。こんな風に…) そっと胸に手をやった姜は、これからの事を思い、思わず恍惚となった。 (いっ、いけないっ!わたしったら、こんな時に何考えてるの!) これから大事な儀礼があるというのに。そう思うと、思わず顔が赤くなった。 沐浴し、体を洗い清めた姜は、堂で舅・姑と向かいあう事になる。 既に六礼は終わったといえるのであるが、この時の儀礼もまた、なかなかに骨の折れるものである。大まかに流れをいうと、まず、礼物のやりとりやまつりごとがあり、それによって新婦の賢明さが確認された後、饗応を受け、退室となって終了するのである。これらがうまくいかなければ、今後、何かと不都合が生じるであろう。最悪の場合は、即離婚ともなりかねない。
21:左平(仮名) 2003/02/23(日) 22:24 「婦」という字は、「女」と「帚」から成り、「ほうきを持った女」という意味あいを持つ。そもそもは、神を祀る宗廟を清めるという重要な役割を担っていた様である。この頃には、そういう意味は失われていたものの、婦人が、家庭内においては重要な存在であった事は間違いない。単に、夫の快楽の相手というだけではないというのは、今も昔も同じである。 夫との関係は良いものとなろう。それだけに失敗は許されない。そう、緊張して臨んだ儀礼ではあったが、すんでみれば、そう大したものではなかった。 (良かった。お義父様もお義母様もお優しい方で) 十分に練習はしてきたものの、完璧にできたというわけではない。しかし、真摯に取り組んでいるさまを見て、二人とも大目に見てくれた様である。 自分の顔を見た時、舅がちょっと驚いた様であったが、特に何も言われなかった。あれは、何だったのだろうか?ちょっと気になったが、すぐに頭から消えた。 (さぁ、あとは…うふふ) この後は、お楽しみの、昨晩の続きである。あの人と、飽きるくらいに…。そう思うと、思わず顔がほころんだ。 「あなたぁ。さ…」 「あぁ。おいで」 「ハネム−ン」(=蜜月)という言葉がある。何でも、英国では、新婦が滋養に富んだ蜂蜜酒(ハニ−ワイン)を作り、それを一月にわたって新夫に飲ませるのだとか。滋養に富んだ酒を飲ませてする事と言えば… やはり、であろう。 そういう風習の有無は分からないが、この新婚夫婦もまた、そういう状態であったろう事は、想像に難くない。 それからしばらく経った、ある日の事である。
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