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小説 『牛氏』 第一部
129:左平(仮名) 2004/09/05(日) 23:30 「では…行ってくるな」 「ああ。あと、これを殿に」 「何だ、これは?」 「先ほど、段公の家人から受け取ったんだ。なんでも、公が毒をあおられる前に書かれたものの一部との事だ」 「そうか…これが、段公の絶筆という事か…」 考えれば考えるほど、気が重いつとめである。だが、行かねばならない。 「…」 乗っている人の心理が分かるのであろうか。馬もまた、驚くほど静かに走った。もっとも、息が切れるほどに走った場合に比べても、思ったほど速さは変わらなかったのだが。 「殿に…お取次ぎを…頼む…」 「ど、どうしたのだ?まるで消え入りそうな声ではないか。具合でも悪いのか?」 「これを…殿にお見せいただければ分かる…」 「なに?使いの者が戻ってきたとな?」 「はい。ただ…やけに憔悴しておる様です。あれはどうも、疲れのせいというわけではなさそうです」 「ふむ…。気になるな」 「こちらを…」 「うむ…な!何と!」 「殿!いかがなさいましたか!」 「これは…段公の遺言ではないか!どういう事だ、これは!」 「はい。段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…ですから、私めがここに着き殿にご報告するよりも前に…亡くなられていたのだそうです…。何でも、自ら毒をあおられたそうで…」 「では我らの努力は烏有に帰したという事ですか…。それでそこには何と書かれているのですか」 「う、うむ…。自裁に至る経緯、ご自身の潔白の主張、身辺の整理のご依頼、それに…」 「それに?」 「かつて推挙なさったこのわしに対し…武人としての訓戒を…遺しておられる…」 董卓の脳裏に、前線で颯爽と指揮を振るう段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が浮かび、そして消えた。その姿が消え去った瞬間、自分の中からも何かが消えていく様な、そんな気がした。
130:左平(仮名) 2004/10/11(月) 01:16 六十五、 その数日後。都から公式の使者がやって来た。 それは、王甫達の失脚、それに巻き込まれる形での段ケイ【ヒ+火+頁】の自死、そして…董卓自身が、段ケイ【ヒ+火+頁】に連座し、西域戊己校尉から罷免される旨を告げるものであった。もちろんと言うべきか、次の官位についての言及はなかった。 自身の罷免自体には、さしたる驚きはなかった。そもそも、公式の使者が着く以前にこの情報を入手していたのだから、一応の覚悟はできている。だが、分かってはいても、董卓の心身への衝撃は大きいものがあった。 あの日以来、どうも体の調子が思わしくない。今までこれといった病になった事のない彼にとっては、あらゆる意味で、どこか重苦しい日々が続いていたのである。 「皆の者。本日をもって、わしはこの地位を去る事になった。後任の方がどなたであるか、その方の方針がいかなるものであるかは、おって沙汰があるからそれを待つ様に。それまで、滞りなく各々の職分を全うするのだ。よいな」 離任する董卓の声には全く張りがなく、その失意のほどがありありとうかがえた。 無理もない。これは、連座による失脚なのである。自身の過ちによるものであればいずれ挽回する機会もあろうが、そういう性質のものではないだけに、彼自身の力では如何ともしがたく、それだけに精神的にこたえるのである。 段ケイ【ヒ+火+頁】を自死に追いやった陽球が高位にある限り、官界への復帰の目処はまずなかろう。いや、陽球が致仕(官職を辞する≒引退)したとしても、その影響力が残っている限りは…。 蓄えは十分にあるし、所有している土地や家畜からの収益があるので、とりあえずの生活には困らないとはいえ、官界に身を置く者としては、これほど惨めな事はない。下手をすると、生涯、その手腕を振るう機会を奪われてしまうのであるから、無理もないところではある。 「はっ!我ら、謹んで自らの職務を全ういたします!」 そう答える属官達の声にも、董卓と同様、冴えがなかった。それもそのはず。彼らにとっても、これは決して望ましい事態ではないのである。いかに連座によるものとはいえ、上司が何らかの咎を受ける形で罷免されたとなると、彼らの将来にも良からぬ影響をもたらすに違いないのだから。 その思惑に多少の違いがあるにせよ、彼らの前途は決して明るいものではない。別れの席は、普段の彼らにはそぐわない、至って湿っぽいものとなった。 かくして、董卓は十数年ぶりに無官の身となった。 このあたりの人士で、彼ほど「謹慎」という言葉が似合わない者はいないであろう。それは、自他共に認めるところである。ましてや、この件について言えば董卓自身には全く非はないのであるから、何らかの形で一暴れしそうなところである。 しかし、自邸から一歩も出ない日々が続いた。いったい、どういう事だろうか。 「分からんな」 周囲の人々は、皆、一様に首を捻った。それもそのはず、本人でさえ、その理由は分からなかったのである。
131: 左平(仮名) 2004/10/11(月) 01:16 「ねぇ、あなた。いったいいかがなさったのですか?ここのところ随分ごぶさたですし、室からもあまりお出にならないし…」 謹慎?し始めてから数日が経ったある日、瑠がそう切り出してきた。もう二十年以上も連れ添ってきた妻でさえ、今回の彼の沈黙に対する戸惑いは隠せないのである。 「瑠か。いや、それがな…。どういうわけか、何もする気が起こらんのだよ」 そう答える董卓の声は、相変わらず張りが乏しい。気のせいか、顔色もすぐれない様に見える。 「何もする気がしない?どういう事ですか?」 「それはわしにもよく分からんのだ。普段なら、こんないい天気だ、狩りにでも出るか、それでもって、鹿の一頭も仕留めてやるか、と張り切るところなのだがなぁ…」 「それは…。あなた、ひょっとして、どこかお悪いのではないですか?ここのところ、気疲れなさっていた様ですし…」 「そうだな…。段公の事があったからなぁ…」 「段公の事は…。お気持ちは分かりますが、いつまでもあなたが気落ちなさっていても…」 「うむ…」 「一度、診ていただいた方がよろしいのではないですか?」 「そうだな。鍼でも打ってもらって楽になるか」 「そうですよ。そうなさってください」 「ふむふむ…」 診察は、思ったよりも長いものとなった。もちろん、診察が済みもしないのに鍼を打つという事はない。 「いかがですか」 「これは…ちょっと難しいですな」 「む、難しいとは?治らないとでも?」 「いや、そういうのとは違います。…ご存知のとおり、私が扱っておりますのは鍼です。お体に何かしらの病巣があるというのでしたら、それが膏肓(こうもう:心臓の下、横隔膜の上。鍼灸では手の打ち様がない所)にでもない限りは、何とか致しましょう。しかし、今の殿様の患いには形を持った病巣はございません。ですので、私にはどうにも出来ないのです」 「病巣は無い、とな…。では、どうして気分がすぐれぬのだ?」 「それは、ご自身がよくご存知でしょう。ほら、『病は気から』という事ですよ。近頃、気落ちする様な出来事はありませんでしたか。ありましたよね。そのせいです」 「気、か…。確かに、覚えはある…」 「ですから、何か気晴らしをなさるのがよろしいかと。今のところ、私からはそれくらいしか申し上げられません」 「分かった」 (気晴らし、か。では、やはり狩りにでも出るか…) いま一つ気乗りがしないが、今の彼にとっての気晴らしは、それくらいしかない。 「皆の者。明朝、晴天であったら狩りに出るぞ。支度をしておけ」 「はっ、承知致しました」 (これで殿がよくなってくだされば良いのだが…) 家人達にとっても、主君の体調は気がかりなのである。
132:左平(仮名) 2004/11/23(火) 22:33 六十六、 翌朝−。 家人達の願いが叶ったのであろうか、見事な晴天となった。夜明けとともに邸内に陽光がさし込んでくるその様は、一種の神々しささえ感じさせた。 「よい日和だ。これならば…」 家人達も、がぜん張り切っていた。正直言って、彼らにとっては主の官位などはどうでもよい事。ただ、主が気落ちしていると、邸内の全てが暗くなってしまう様な気がするだけに、何としてでも今日の狩りをよいものにしたいところである。 「うむ。よく晴れたなぁ…」 起き上がり、天を見上げてそう言ったところで、董卓はふと軽いめまいを覚えた。 (う、うむ…。どうした事かな。これはいかん。だが…皆が今日の狩りを楽しみにしておるからなぁ…) 相変わらず、どうも気分がすぐれないのだが、今になって自分が行かないと言うわけにもいかない。いくら豪放な彼でも、配下の者達に余計な心配をさせるほど無頓着ではないのである。 「よし。支度は整ったな。では行ってくるぞ!」 「はい!お気をつけて!」 そう言うや否や、董卓と配下達は猛然と門を出て馬を走らせた。戎衣こそ身にまとってはいないものの、その様は、狩りではなく出陣かと見紛うほどに勇壮なものであった。 「おぉ、董氏が狩りに出られたのか。また賑やかな事で」 近隣の人々は、口々にそう言いあった。言葉尻だけ捉えると厭味に聞こえるかも知れないが、彼らには、董卓に対する悪感情は無い。 「やはり、こうでないとな」 ふと誰かがもらしたこの言葉が、彼らの思いを代弁していた。やはり、普段どおりでいてもらうのが一番落ち着くのである。 しばらく駆けたところで、一行の足が止まった。 「ここらあたり、いかがでしょうか」 配下の一人がそう言い出した。彼は、この日の為に何回も足を運んで実地を検分している。その自信からか、その表情はすこぶる明るい。 「うむ…。草木も程よくあり、水もあるな。これなら、獲物も多そうだ」 さすがに血が騒ぐのか、董卓の顔にも幾許かの明るさがみられた。誰もが、この日の狩りの成功を信じて疑わなかった。 「殿!ごらん下され!」 「おっ!これはまた大物だな!よし、皆の者!行くぞ!」 「おぅ!」 「それそれぇ−っ!」 主が邸内に篭もっていた為にしばし無聊をかこっていたとはいえ、さすがに歴戦のつわもの達である。ひとたび獲物を見つけるや、巧みな動きで徐々に徐々に獲物を追い詰めていく。 いつしか、包囲の輪が数丈程度に縮まっていた。頃合は良し。そろそろ、仕留めるか。皆がそう思ったその時、董卓の合図が下った。 (さすがは殿。このあたりの勘はまだまだご健在だ) 家人達の心に、安堵感が広がった。それなら、存分に働くとしよう。 「よっしゃぁ−!行くぞ−っ!!」 「おぉ!!」 そう叫んだかと思うと、皆、一斉に獲物めがけて突進していった。猛烈な砂埃が舞い、血と汗の臭いが辺りに立ち込める。
133:左平(仮名) 2004/11/23(火) 22:34 「皆の者、首尾はどうだ?」 一段落ついたところで、董卓は、そう聞いてまわった。長時間駆け回り獲物と格闘した為、さすがに皆の呼吸は荒いものの、総じて機嫌の良さそうな顔をしている。今日の狩りは、成功裏に終わったと言えそうだ。 「殿、ご覧下され。この通りです」 家人の一人が、満面の笑みを浮かべて獲物を差し出した。 「うむ。それは何より…」 そこまで言いかけたところで、董卓の脳裏に、ある記憶が浮かんできた。 (そういえば、いつか、この様な事があったなぁ…) それは、董卓が段ケイ【ヒ+火+頁】の推挙によって、三公の掾(属官)に任官した頃の事である。 任官の祝いも兼ねて、段ケイ【ヒ+火+頁】とともに狩りに出た事があった。その日も、今日と同様晴天に恵まれ、獲物も多かった。 ともに涼州の出身で、勇将。なおかつ、若き日には遊侠を自任していたという様に、その経歴に共通点が多いという事もあってか、二人はどこか気が合った。 段公は、自分の事を高く評価していた。董卓はそう信じていた。それは、決して妄想ではない。そうでなければ、段公ともあろうお方が、あの様な言葉を口にするはずもないからだ。 「公よ、いかがですか」 「ほほぅ、なかなかやるな。わしの目に狂いは無かった。嬉しいぞ」 「過分なまでのご褒詞を賜りまして、董仲穎、これほど嬉しい事はございません」 「なになに、ちっとも過分ではないぞ。…わしはむやみに人を褒めたりはせん。本心からそなたの力量を買っておるからこそ、こう言っておるのだ」 あの日、段公に褒められた事が心底嬉しかった。あの日の自分は、今のこの男の様に、満面の笑みを浮かべていたのであろうか。 「若い頃のわしと比べてもいささかも劣らん。いや、武芸についてはまさっておるかな」 「ご謙遜を。公はまだまだ壮健にあらせられるかと存じますが」 「わしももう年だからな、さすがに無理はきかん。もう前線に立つ事はなかろう」 「そうなのですか…。しかし、公でしたら、きっと三公の位にまで昇られるかと存じます」 「ふむ、そうかな。まぁ、それはそれだ。仲穎よ」 「はい」 「頼むぞ」 「は?何を…」 「これからの辺境の守りを、だ。わしがいなくなったとなると、また賊どもが暴れるやも知れんからな。その時、漢を守るのはそなただ」 「は、はい!」 「その事を忘れるでないぞ。良いな」 「董仲穎、そのお言葉を決して忘れませぬ」 「うむ」 その時の段公の顔には、何とも言えないほどの笑みが浮かんでいた。 あの日、皆上機嫌だった。あの日…。もう決して戻ってはこないあの日…。
134:左平(仮名) 2005/07/19(火) 23:42 六十七、 「殿?いかがなさいましたか?」 「ん?」 「この者の仕留めた獲物はいかがでしょうか?」 「おぉ、なかなかやるではないか。褒めてつかわすぞ。わしも負けてはおられぬな」 「いやいや、殿の仕留められた獲物も大物ばかりではございませんか」 「なになに。このくらい、いつでも仕留めてみせるぞ」 (…おっと、いかんいかん。このわしとしたことが) この様な楽しむべき場でしんみりとしてしまうとは何事か。わしらしくもない。董卓は、自らにそう言い聞かせた。 しかし、ひとたび段公に想いが向くと、なかなかそこから抜け出せなくなるのもまた事実。 いかに段公の自死が衝撃的な出来事であったとはいえ、こんなにも尾を引く事は今までにはなかっただけに、戸惑いを禁じ得ない。 半ば無理やりに笑みを浮かべ、何とかその場はしのいだ。せっかく家人達が一生懸命に自分を気遣ってくれているのに、それを無駄にはできないのである。しかし、気分はいっこうに良くならない。いや、かえって前より悪くなってしまったかも知れない。 (一体どうしたものか…) 何とか、自力でこの状態から脱しなければならない。しかし… −この時董卓は、今でいう鬱病にかかっていた様である。それも、気力が著しく減退し、肉体にも具体的な変化が現れるほどの重症であった。 現在では、鬱病の治療法は第一に休養をとる事とされており(投薬等の具体的な治療は休養の後に行う。現在では有効な薬剤もあるというから、適切な診察を受ければ回復は可能)、また、下手な励ましや気晴らしは逆効果になりかねないとして避けるというから、この時周囲がとった行動は、その想いとは裏腹に、最悪のものだったと言えるのである。− もちろん、その様な事など、誰も知る由もなかった。 この狩りで、いくらかでも気が晴れて心身とも壮健さを取り戻してくださる…。そう信じてやまなかったのである。 「よし、では、そろそろ帰るぞ」 「はっ!」 董卓の合図をうけ、皆、意気揚々と帰途についた。ただ一人、董卓を除いては。 何も慌てる必要はないが、多くの獲物を得たことを早く知らしめたかったのか、その足は、驚くほど速かった。
135:左平(仮名) 2005/07/19(火) 23:44 「ただいま戻りましたぞ!」 「おぉ、意外と早かったですな。で、成果はいかほどで?」 「まぁ、これを御覧くだされ!」 「ほぅ、これはまた見事なもんだ」 「でしょ?ささ、はやく宴の支度を。今宵はぱぁ−っといきましょうよ、ね、殿」 「んっ?!ん、そうだな…」 「分かりました!では、早速。酒も用意しませんとな。久々に、賑やかにいきましょうか」 主も了承済みとなれば、話が早い。狩りに随行していた者達までもが、一斉に邸内に駆け込み、支度にとりかかる。 (おいおい、こりゃまたえらい早業だな…) 主の董卓が半ば呆れつつ見守る中、誰が指示するでもなく、てきぱきと宴の支度が整えられていった。 老若男女を問わず、皆、目が回るほどの忙しさである。しかし、楽しげであった。なにしろ、久々の宴なのだ。 まず、家人達が総出で獲物を解体する。小さい獲物であれば子供でも何とかなるが、大物だとなかなかそうもいかない。どうしても大人数人が仮になる。 「よ−し、じゃ、さばくぞ。え−と、このあたりかな…」 家人の一人が、恐る恐る刃先を獲物の皮にあてがう。 「おい、何やってんだよ。そんなところからやったら骨に当たって刃こぼれしちまうぞ。おれに代われ」 「え〜。おまえ、そう言っていいとこ持ってこうってんじゃねぇのか?」 「何言ってんだ。肉を切るのはおれでも、仕分けられるのは殿だそ。ね、殿」 「まぁな」 「なっ。殿もああおっしゃってるんだし。おれに任せとけって」 「しょうがねぇな。代わってやるよ。ちゃんと切れよ。変に切ったら、あとが面倒だからな」 「よ〜し、それじゃ。…おっと、炭を用意しとけよ。生肉ばっかりじゃ何だからな」 「分かってるって。そのへんは抜かりなく整えてるよ。羹もこしらえときたいしな」 「おっと。そう言ってて塩忘れてたってのはなしだぞ。こないだみたいな目にあっちゃかなわんからな」 「へへ、やけによく覚えてやがるな。いつの話だよ」 「当たり前だ。塩気なしの羹なんざ、まずいことこの上ねぇからな」 「ありゃたまたまだ。殿も召し上がるってのにそんなへまはしねぇよ」 「言いやがったな。今日は抜かるなよ」 「分かってるって」 「あと、臭みをとるのも忘れんなよ。血の臭みが残ったままじゃまずいからな」 主の気風を受けてか、皆、闊達に動き回っている。生きていることを、精一杯享受している様である。 (段公…) またしても、段ケイ【ヒ+火+頁】に想いが及んだ。なかなか、おさまってくれそうにない。
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