小説 『牛氏』 第一部
31:左平(仮名)2003/03/30(日) 21:39
とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。
(父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな)
ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。
(とにかく、早く慣れないと…)
いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。

省42
32:左平(仮名)2003/04/06(日) 21:16
十六、

その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。
「なに?姜が懐妊したとな?」
「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」
「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」
省40
33:左平(仮名)2003/04/06(日) 21:18
「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」
「はい」
羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。
「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」
「…」
その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。
省20
34:左平(仮名)2003/04/13(日) 20:09
十七、

出立の日が来た。
真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。
「あなた、行ってらっしゃい」
「あぁ。行って来るよ」
省40
35:左平(仮名)2003/04/13(日) 20:12
「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」
「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」
「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」
「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」
「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」

省36
36:左平(仮名)2003/04/20(日) 20:27
十八、

部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。
果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。
(なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか)
よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。
省31
37:左平(仮名)2003/04/20(日) 20:30
乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。
「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」
董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。

前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。
騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。
省24
38:左平(仮名)2003/04/27(日) 20:49
十九、

「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」
「黙れ! その事は口にするでない!」
「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」
「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」
省37
39:左平(仮名)2003/04/27(日) 20:51
「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」
その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。
数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。

しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。
「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」
省25
40:左平(仮名)2003/05/04(日) 02:15
二十、

考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。
そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。
義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。

省35
1-AA