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小説 『牛氏』 第一部
31:左平(仮名) 2003/03/30(日) 21:39 とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。 (父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな) ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。 (とにかく、早く慣れないと…) いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。 自分も大変ではあるが、姜は、もっと大変であろう。婦人としての修練もそこそこに、主婦になったのであるから。自分はまだ無官であるから、男としての仕事はまだ僅かであるが、彼女は女として一通りの仕事をせねばならないのである。 「無理するなよ。俺は、そなたがいてくれるだけでいいんだから」 夜、彼女を抱きしめながら、そういたわってやるのがせいぜいである。 「そう言っていただけると嬉しいです…」 そう言う声が、どこか弱々しく感じられる。気のせいか?忙しくて疲れているのか?ならいいのだが、やはり心配である。 「そろそろ冷えてくるからな。俺が暖めてやるよ」 「はい…」 数日後の事である。 自室で書を読んでいると、何だか外が騒がしい。ふと見ると、家人達が慌しく走り回っている。 「若様!…いえ、お館様!たっ、大変です!」 「どうした!騒々しいな、何事だ!」 「そっ、それが…。奥方様が、気分が悪いとおっしゃって…」 「なっ、何っ!姜が!」 「いかがいたしましょうか」 「と、とにかく、一刻も早く診てもらえ!」 「はい!」 (やはり具合が悪いのか…) 「ふむふむ、ほぅほぅ…。なるほどな…」 「で、いかがですか」 「なに、心配ご無用。ご懐妊ですよ」 「か、懐妊!それは、間違いないでしょうね!」 「えぇ。間違いないです。ご気分が悪かったのは、つわりのせいですな。ま、奥方様は初産になられるのですから、お体には十分ご注意なさる様にして下さい」 姜が懐妊…。という事は、もう何ヶ月かで、自分は父親になるという事か。いずれこういう日が来るのは分かっていたが、まだ、いま一つ実感はわかない。 「姜、具合はどうだ?」 「あっ、あなた。すみません…心配させてしまって…」 「いいんだよ。ゆっくり養生するといい。そなたの体は、今やそなただけのものではないんだから。無理はするなよ」 「はい」 「しかし…。ここから赤子が出てくるというのが、何とも不思議なもんだなぁ…」 「そうですね…。わたしも、よく分からないです」 「不安か?」 「確かに不安ですが…。でも、嬉しいです。確かに、今、あなたとの子供がここにいるんですから」 「そうだな…」
32:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:16 十六、 その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。 「なに?姜が懐妊したとな?」 「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」 「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」 そう言う董卓の顔は、ほころんでいた。無理もない。自分自身がまだ十分若いうちに、早々と孫の顔が見られるというのだから。当時に限らず、子孫が増えるのを喜ばぬ者はいない。 だが、一方で、気になる事もあった。娘婿である牛輔の力量については、まだ未確認のままなのである。果たして彼は、将として、また、自分の補佐役として、ふさわしい人物であろうか。 いずれ彼は牛氏の跡目を継ぐであろう。そうなってから万一の事があっては大変である。今のうちに、その力量を見極めておかないと、えらい事になりかねない。 (と、なると…。そろそろ、伯扶にも戦を経験してもらわぬとな。それも、今年のうちに) 董卓の顔から喜色が消え、鋭い表情となった。それは、紛れもなく、将としての顔であった。 董卓が牛輔邸を訪れたのは、それから間もなくの事であった。 「なに?義父上がお見えになったとな?」 「はい。ただ今、堂にてお待ちになっておられます」 「そうか…」 「分かった。すぐに堂に行く。酒肴を支度しておいてくれ。頃合いを見てお出しする様にな」 「はい。直ちに支度します」 (姜の懐妊を祝いに来られたのであろうが…。どうも、今回はそれだけではなさそうな気がする) よく分からないままではあったが、ともかく、服装を整え、義父の待つ堂に向かった。 堂では、董卓と姜が談笑していた。 「おぉ、伯扶殿か。姜が懐妊したと聞いてな、こうして祝いに参ったよ」 「はい…。それはかたじけないです」 牛輔は、うやうやしく拱揖の礼をとった。董卓からすると、娘婿のそういう態度には多少改まったものを感じないでもないが、まだ何度も会っているわけではないだけに、まぁ、こんなものであろう。 将として牛輔という人物を見ると、多少線の細さを感じないではないが、人としては悪い感じはしない。これなら、鍛えれば何とかなりそうである。 「まぁ、そう堅くならずともよい。…ところで、そなた、わしに何か聞きたい事があるのではないか?」 「は?」 「顔を見れば分かるよ。わしがここに来たのは、単に姜を祝いに来ただけではないと考えておろう?」 「はぁ…」 図星である。言い返し様もない。 「思った事がすぐ顔に出る様ではまだまだだが、まぁ、今はよかろう。そなたの思っている通りだよ」 「えっ!?」 「驚くでない。そなたにも分かっておろう」 「まぁ…。まだおぼろげではありますが…」 「なら、話が早い」 そう言うが、董卓は座り直した。父もそうだが、こういう姿勢をとった時は、だいたい真剣な話である。 さっきまで談笑していた姜も、その言わんとする事を察したのか、顔つきが変わった。さすがは董卓の娘である。その顔には、凛としたものが感じられる。
33:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:18 「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」 「はい」 羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。 「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」 「…」 その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。 もとの護羌校尉・段ケイ【ヒ+火+頁】は、褥で眠る事がないと言われている。辺境に身を置き、異民族との戦いに明け暮れる者の有り様とは、そういうものなのかも知れない。だが…。自分には、そうなる自信はない。義父は、自分にどこまで求めるのであろうか。 その様子に気付いたのか、董卓の口調は穏やかなものに変わった。 「そんなに深刻な顔をするでない。今は、我らがごちゃごちゃ考えててもしょうがない事だ。…近く、羌族の討伐を行う。それに、そなたも従軍してもらおう」 「はい」 否応も無い。既に予想していた事である。姜も、そういう覚悟はしていたのであろう。特に驚く様子は見られない。 邸内が、また慌しくなった。引越し、奥方の懐妊に続き、今度は主人の出征である。加えて、来年には長子の誕生もひかえている。 「やれやれ、忙しい事だな」 家人達は、そう微苦笑した。若者が多く、経験も乏しいだけに、手際は良くない。ただでさえ忙しいというのに、よくもまぁ次々といろんな事が起こるものだ。ただ、そうはぼやきつつも、彼らの表情は明るい。いずれも凶事ではないからだ。これで主人の名が上がれば、より高位に就く事もあるだろう。それは、一家の繁栄につながるのである。 牛氏としては、戦いに赴くのは、久しぶりの事である。年配の家人の中には、自分が従軍するかの様に興奮する者もいる。 「腕が鳴りますなぁ。わしがもう少し若ければ、若…いや、殿の為に手柄を挙げてみせますものを」 そんな周囲の喧騒の中、牛輔もまた、気持ちを昂ぶらせていた。
34:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:09 十七、 出立の日が来た。 真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。 「あなた、行ってらっしゃい」 「あぁ。行って来るよ」 ちょっとどこかに外出するかの様な、何の変哲もないやりとりである。聞いただけでは、これから戦場に赴くとは思えない。 (何としても、生きて帰るぞ。子供の顔を見るまでは死ねない。これが永久の別れになってたまるか) いよいよ、戦いである。「今回の戦の相手は、羌族である。さして大規模なものではない」義父からはそう聞いてはいるものの、何が起こるか分からないのが戦場である。油断はならない。 「うむ。思っていたよりは似合うな」 董卓は、娘婿の姿をそう評した。今回は、さして難しい戦ではない。そんな思いが、こういう軽口になって出てくる。 (とにかく、伯扶に実戦を経験させておかんとな。あれには、いずれ、勝【董卓の嫡子。実際の名は不明】も補佐してもらう事になるのだからな) 今は、牛輔(及び牛氏の保有する兵力)を戦力としては見ていない。だが、羌族との戦はこれからも続く。次の世代を担う者を育てねばならぬのである。 もっとも、董卓がそこまで考えている事などは、牛輔には分かろうはずもない。 「義父上。『思っていたよりは』とはどういう事ですか」 つい、そんな不満が漏れる。 「いや、すまんすまん。細身のそなたの事だから、『衣に勝(た)えざるが如く』見えるのではないかと思ってしまってな。許せよ」 「私とて、少しは鍛えております。お気遣いは無用ですぞ」 「そうか。どうやら、揃った様だな。では、出発するぞ!」 「お−っ!!」 兵達から、喚声があがる。士気は、十分だ。 二人は、馬首を揃えて進んだ。戦場に着くまでは、強いて語る事もない。皆、無駄口をたたく事もなく、無言のまま行軍する。 戎衣を身にまとい、愛馬・赤兎馬にまたがった董卓には、何ともいえない威厳が漂っている。 (果たして、私は義父上の様になれるだろうか) 年齢・経験はともかく、体格・武勇、どれ一つとっても自分は義父には遠く及ばない。その冷厳な現実を、あらためて見せ付けられるのは辛い。 (いや、今は、眼前の戦いに集中する事だ) さまざまな思いが頭をよぎるが、牛輔もまた、無言のまま進む。 戦場が近付きつつある。董卓は、数騎を偵察に放つ事にした。 偵察に向かう者達が董卓の前に呼ばれた。彼らを見ると、実にさまざまである。 精悍な面構えをした、いかにも強そうな者もいれば、ひょろりとして、自分よりも弱そうな者もいる。騎馬の者もいれば、徒歩の者もいる。経験を積んだ老兵もいれば、若い新兵もいる。 「義父…、いえ、郎中殿」 牛輔は、「義父上」と言いかけて、慌てて言い直した。これから、戦である。私情を挟むのは禁物だ。 「これは一体…?」 「どうした?敵の様子を探るのは、戦いにおいては必須であろう?」 「いえ、偵察する事については全く異存はございませんが…。なぜこの様な者達を集められたのですか?」
35:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:12 「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」 「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」 「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」 「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」 「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」 「そなた、『孫子』は読んだ事があるか?」 「はい。まだ、十分に理解したとまでは言えませんが…」 「まずは、読んでおれば良い。読んでおるのならば、『彼を知り己を知らば百戦して殆うからず』という言葉は知っておろう?」 「はい。存じております。ですが、その言葉がいかがしたのですか?」 「人とは、不思議なものよ」 董卓は、静かにそう言った。そう言う彼の姿は、普段の豪放な姿とはまた違うものがある。 (義父上に、この様な一面があるのか…) 武勇の人・董卓にこの様な思慮深さがあるとは、正直、意外であった。だが、郎中ともなれば、それ相当の修練を積んでいるもの。別段、不思議な事ではない。 「他人の事については、凡人でもそれなりに批評できるというもの。近頃、汝南の方にそういう輩がいるらしいな。確か、許子将(許劭。子将は字)とかいったか。まだ、ほんの若造だというのにな。…だが、こと自分の事になると、なかなかそうもいかぬ」 「確かに」 「たとえば、こいつをどう見る?」 そう言って董卓が指差したのは、精悍な面構えをした青年である。 「私には、逞しい男だと思われますが…」 「そなたにはそう見えるか。だが、わしには、まだまだひよっ子に見える」 「それはそうでしょう。郎中殿より逞しい男は、そうはおりませぬから」 お世辞ではない。事実、董卓の体格・膂力は、誰から見ても並外れたものであった。 「そこなのだ。同じものを見ても、見る者によってこうも違ってくる。…事実というものは、確かに一つしかない。しかし、一人が見たものは、あくまでも『その者が見た事実』に過ぎぬのだ。…何を言いたいか、分かるか?」 「はい。まだおぼろげにですが、郎中殿のおっしゃる事が分かってきました。様々な視点から物事を見る事で、『本当の』事実に近付こうというわけですね」 「そうだ。わしがこいつらを偵察に遣るのは、そういう意図からだ」 「そして、彼らの知らせを、将たる郎中殿が分析し、判断なさると」 「そういう事だ。もちろん、わしが的確な判断を下せるという前提があってこそなのだがな」 「そうですね」 「恐らく、ここ涼州までは来ぬであろうが…鮮卑にも注意せねばな。我らの兵力では、檀石槐には勝てぬ。まぁ、わしにとって怖いのはそれくらいだ。だが、気をつけぬとな。そなたに万一の事があったりすれば、姜に怒られてしまう」 「それは…」 こんなところで妻の名を出されるとは。何とも気恥ずかしい。 「では、行けっ!」 「はっ!」 董卓の号令のもと、数名が偵察に放たれた。
36:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:27 十八、 部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。 果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。 (なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか) よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。 董卓のもとに、鮮卑についての知らせが届いた。今のところ、これといった動きはないらしいので、直ちに涼州が脅威にさらされるという事はない。あとは、やがて眼前に見えるであろう、羌族のみである。 やがて、偵察に出ていた者達が帰ってきた。 「千は越えているかと思われます。なにぶん遠くからでしたのでよくは分かりませんが…。砂埃の立ちようからして、そう考えられます」 「いや、せいぜい五、六百といったところです。私は、確かにこの目で敵兵を見ました。間違いございません」 「多くは騎兵でした。かなりの精鋭かと思われます」 「将らしき者は見当たりませんでした。個々の敵は精鋭でも、まとまりは悪いはずです」 「この先には、なだらかな丘がある程度です」 予想通り、彼らの報告は、実に多種多様なものであった。一部、相反するものもある。 「ふむ。そうなると…」 董卓は、顔を上げ、天を仰いだ。天を見つめながら、彼は、報告を分析し、然るべき判断を下すのである。 しばらくその状態が続き、しばし目を閉じた後、かっと目を見開き、大声で叫んだ。 「皆の者! 戦いはすぐそこだぞ!」 兵達に、一斉に緊張が走る。董卓の脇にいた牛輔も、思わず体がびくっとした。 「敵はこの先数里! 数は数百!」 「隊列を整えよ! 小高い丘を目印に進め! 長兵、最前列へ! 弩兵はその後ろにつけ! 騎兵は後列につくのだ!」 ひとたび動き始めたかと思うと、次々と指示が下される。兵達の動きが、慌しくなった。だが、その動きに目立った乱れは見られない。皆、将の指示に従い的確に動いているのである。 その動作の見事さに、牛輔はしばしみとれていた。将たる者は、かくありたいものである。 やがて、小高い丘が見えた。ここを少し過ぎ、丘を背にする形で布陣を進めていく。陣形が整う頃、徐々にではあるが、敵の姿が見え始めた。 ほぼ、報告のとおりである。その数、数百といったところであろうか。こちらは千数百というところであるから、数の上では優勢である。その一方で、個々の武勇という点では羌族の方が上回るであろうから、あとは、戦い方次第である。 幸い、こちらの方が位置的には高みを占めている。突撃するにせよ、陣を構築するにせよ、見上げて戦うよりも見下ろして戦う方が何かとやり易いし、力学的にも有利である(例えばボ−ルを投げ下ろすのと投げ上げるのと、どちらがより速いだろうか?) 平原に、双方が対峙する形となった。双方の距離が百歩(一歩=約1,4m)余りまで詰まったその時、喚声とともに、羌族の騎兵が一斉に突撃を開始した。
37:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:30 乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。 「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」 董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。 前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。 騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。 当時、鐙はまだ発明されていない。その為、馬を使う騎兵は、必ずそれ相当の訓練を積んでいる。それに対し、歩兵は、一般から集められた戦の素人である。こちらの歩兵が一度戈を振り下ろす間に、敵の騎兵は突撃をかけ何回も戟を振り回せるのである。 「郎中殿!このままでは!」 実戦は初めての牛輔にも、緊迫しているのが分かる。 「分かっておる! 撃て−っ!!」 直ちに、弩から次々に矢が放たれた。それは、単に敵を倒すだけではない。雨あられの様に矢を射掛ける事で敵と長兵との距離を開け、長兵による再度の攻撃を容易にするのである。敵の突進によって一度は乱れた長兵が、これにより、やや落ち着きを取り戻した。 一方で、長兵が最前列に立つ事で、弩兵が矢をつがえる為の時間を稼ぐ。長兵に多少の犠牲を強いるとはいえ、実に理に叶った配置といえる。 (さすがは義父上。これならば、勝利は確実だ…) 少し余裕を覚えた牛輔は、ふとある事に気付いた。風が、こちらから敵方に向かって吹いているのである。 (これは! あたりは平原だし、火をかければ…) 楽勝であろう。それに、こちらの犠牲者も少なくてすむはずである。 「郎中殿! 火を用いましょう! 今なら風向きもよろしいかと!」 「火か…。ならぬ!」 「えっ!? なぜでございますか?」 さっきの話しぶりからして、董卓は十分に兵法を心得ている。今こそ、火計を仕掛けるのに絶好の機会のはずである。 (なぜ、義父上は火計をなさらないのか?) 牛輔は、困惑した。
38:左平(仮名) 2003/04/27(日) 20:49 十九、 「郎中殿! いま火を用いればわが方はもっと楽に勝てますぞ! なにゆえ…」 「黙れ! その事は口にするでない!」 「しかし! このまま普通に戦い続けていては、勝利しても犠牲者が多く出ます!」 「分かっておる! だがな、火を用いるわけにはいかんのだ!」 「なっ、なぜ…」 「くどいぞ、伯扶! それについては、後でゆっくり話す!」 董卓は、頑ななまでに火を用いようとはしない。なぜか?今の状況では、火をかけるべきではないというのだろうか? (いや、そんなはずはない。この時期、急に風向きが変わる事はないし、第一、弩の攻撃によって双方の兵は離れている。まかり間違っても、こちらが火に巻かれる事はないはずだ) 戦術的に見れば、火を用いない理由が見あたらない。となれば、董卓が火計を仕掛けないのには、それとは別の理由があるというのか。 牛輔がそう考えているうち、徐々に勝敗の行方が見えてきた。 長兵と弩兵による複合攻撃に、羌族の騎兵は翻弄された。いかに精鋭であるとはいえ、長時間にわたって駆け回った為、人馬ともに疲れの色は隠せない。その様子を董卓は見逃さなかった。 「今だ! 者ども、行け−っ!」 号令のもと、周りにいた騎兵が一斉に丘を駆け降っていった。個々の武勇という点においては、漢人の兵は羌族のそれに劣るが、組織的に動くという点では優っている。 羌族の騎兵に疲れが見える今なら、彼らと十分に戦えるであろう。先の報告を聞く限りでは、敵に援軍はいないらしい。眼前の敵を撃破すれば、まずはこちらの勝ちだ。 (これで、この戦は終わる…) 牛輔は、心底ほっとした。と、思ったその矢先。 「伯扶、何をしておる!」 董卓の声に、思わずはっとした。見ると、自分以外は皆丘を駆け下り、敵の追撃に入っているではないか。しかも、将の董卓が、いつの間にかその先頭に立っている! 「もっ、申し訳ありません!」 牛輔も、直ちに馬を駆り、追撃に入った。戟を握る手に、力が入る。 (いかん。ぼんやりしてた) 一人出遅れてしまった。後でお目玉を喰らいそうである。懸命に追いつき、彼なりに戦った。結局、一人も討ち取る事はできなかったが。 凄まじい掃討戦となった。董卓の武勇は、既に羌族の間にあまねく知れ渡っており、我こそはという羌族の勇者達が、何人かうちかかって来た。あれほどの激戦を戦ってきたというのに、彼らはまだそれほどの力を残しているというのか。牛輔には、正直信じられなかった。遊牧の民の力を見せつけられる思いがした。 「郎中殿! 危のうございますぞ!」 「なに、心配は無用ぞ!」 董卓は、馬上から巧みに矢を放ち、戟を振りかざしつつ、向かってくる敵を蹴散らしていった。彼の通るところ、次々と敵兵が斃れていく。鐙のないこの時代において、漢人で、これほど騎射に長けた者は、そうはおるまい。 (義父上、凄いな…) ただただ感心するばかりであった。噂通りの、いや、それ以上の武勇である。 日が暮れる前に、戦は終わった。 数百の敵を討ち取るとともに、敵の所持していた牛馬を押収した。こちらにも少なからぬ犠牲は出たが、死傷者一つ比べてみても、こちらの勝利である事は間違いない。
39:左平(仮名) 2003/04/27(日) 20:51 「深追いは無用! 今宵は、この辺りに宿営するぞ!」 その言葉を待っていたかの様に、兵達は得物を手から離し、食事の支度を始めた。表情にはまだ十分に精気があるものの、長時間の激闘を経て、肉体の疲労は相当のものがあろう。確かに、ここらで休ませた方が良さそうである。 数人の兵が、敵の逆襲に備えて偵察に向かうと共に、交替で見張りに立つ。ここは、まだ戦場である。気を緩めきってはならない。 しばらくして、食事の支度が整った。日はもう暮れつつある。 「皆の者、今日はご苦労であった。恩賞については、おって沙汰を致す。身はまだ戦場にある故、存分にとはいかぬが、少しばかり酒を携えておる。飲むが良い」 杯を手にした董卓がそう言うと、わっと喚声があがった。その多くが庶民である兵達にとって、酒などそうそう飲めるものではない。ましてや、生きるか死ぬかの戦いを終えたばかり。喜ぶのも無理は無い。 「郎中殿!」 「ん? 伯扶よ、どうかしたか?」 「ここは戦場ですぞ。いくら戦いに勝利したとはいえ、凱旋もせずに酒を振る舞うというのはいかがなものかと…」 たとえ祝杯であっても、戦場で飲酒とは何たる事か!これが初陣である牛輔にとってみれば、気が気ではない。義父は、歴史を知らないのであろうか。 春秋時代のなかば、晋と楚が、中華の覇権をかけてエン【焉β】陵の地で戦った時の事である。一日の激戦の後、楚の司馬・子反(公子側)は、疲れをおして軍を督励し、懸命に態勢を立て直したが、ひと段落ついたところで、つい酒を口にしてしまったのである。彼は酒好きであった為、一度飲み始めると止まらず、ついに酔っ払ってしまった。たまたまその時、王(共王)からの諮問があったのだが、酔っ払っていた為に答えられないと知った王は激怒し、戦場を離脱してしまったのである。 結局、王が戦場を離れた為、軍は撤退し、楚の覇権は失われた。司馬・子反はその失態を苦にし、遂に自殺して果てた。 また王も、一時の怒りの為に臣下を死に追いやった事を恥じ、自らの諡を悪い意味のものにせよと遺言したという(彼自身は、楚の歴代の王の中でもなかなかの名君だった)。 「あぁ、敵の逆襲が気になるという事か?」 牛輔の苛立ちとは対照的に、董卓の返事は暢気なものであった。その落差が、ますます彼を苛立たせる。いつもなら、目上の者に対して声を荒げる事はないのだが、今回ばかりはそうもいかない。 「当たり前です!」 「心配するな。偵察の者を遣っておるし、きちんと見張りも立てておる。第一、酔っ払うほどの量の酒は携えておらぬわ」 「そうはおっしゃいますが…」 「ふふっ。わしが何も知らぬとでも思ったか。戦場で酒を過ごして失敗した者がいた事くらい、知っておるよ」 「えっ?」 「わしとて、『左伝(春秋左氏伝)』くらいは読んでおるという事よ。そなた、楚の司馬・子反の故事を言いたいのであろう?」 「あっ、はぁ…」
40:左平(仮名) 2003/05/04(日) 02:15 二十、 考えてみれば、そうであろう。この時代の人士で、『孫子』を読んでいて『左伝』を読んでいないという様な者はまずおるまい。 そう言われると、自分の知識の浅薄さが、急に恥ずかしくなった。 義父は、経験と学問を積む事で、その人物・思考に確かな厚みを持っている。それに比べ、自分は…。牛輔は、黙りこくったまま、うなだれるしかなかった。 「そんなに気にするな。そなたの諌言が、我らの気の緩みを引き締めてくれたのは確かなのだからな。周りをよく見よ」 確かに、酒が入っているにも関わらず、騒ぐ兵はいない。しかし、その言葉を額面通りに受け取る事はできなかった。 (確かに、私の言葉が少しは役に立ったのかも知れない。だが…) 董卓といい、兵達といい、幾度も戦場を駆け巡り、死線をかいくぐって来た者達である。そんな彼らに、新参の自分如きが口をはさんでも、恥を晒しただけではなかったか。恥ずかしいやら情けないやら。 「おい、どうだ。そなたも一杯」 「はっ、はぁ…。では、頂きます」 杯を渡された牛輔は、一気にその中の酒を飲み干した。ここが戦場である事は承知しているが、あれこれ考えていると、何だか酔っ払ってしまいたくなった。 「おいおい、そんなに急いで飲まずとも良かろうに」 「えぇ。ですが…何だか、飲みたくなってきました」 「そうか。では、もう一杯いくか」 「では」 酔っ払おうかと思ったものの、そんなには飲めなかった。すぐに眠たくなったからである。そのまま横になると、たちまちのうちに眠りに落ちた。 しばらくして目が覚めた。あたりはまだ暗く、兵達も、見張りに立つ者を除いては、皆熟睡している。 やはり、この時期に野外で眠るのは、ちと寒い。眠っている者を見ると、適当な枯草やら中身を出した嚢やらを夜具の代わりにしている。中には、戦死した仲間の上着を頂戴している輩もいる。 (はぁ…。味気ないな。いつもなら、姜を抱いてるところなんだが) そんな事がすぐに思い浮かぶあたり、やはり新婚である。 朝までには、まだ時間があろう。もう少し眠っておきたいところであるが、このままでは寒い。何か夜具の代わりになるものはないか。牛輔は、半ば寝ぼけつつ、あたりを物色した。 「案外、ないもんだな。かといって、火をおこすわけにもいかないし」 そうつぶやきつつ、陣中をうろうろしていた。 ふと見ると、こんな時間に一人立っている者がいる。暗いので、はっきりとは見えないが、巨躯の男であるらしい。 (あれ? あれは…誰だっけ?) いつもなら、そんな人影に近付くはずもないのであるが、眠気で頭が鈍っていたせいか、ふらふらとそちらに向かっていった。 「そんな所で何してるんだ?」 そう、何の気なしに声をかけた。
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