小説 『牛氏』 第一部
4:左平(仮名)2003/01/04(土) 02:18
二、

牛輔が驚いたのも、無理はない。董卓なる人物と牛氏が縁戚になる事など、普通、考えもつかない事だったからである。その理由は、二つある。

一つは、牛氏が牛邯以来の名族であるのに対し、董氏には、そういう背景が全くない事である。董卓の父・董君雅(当時、名に二文字使う事は少ないので、君雅は字ではないかと思われる)は、最終官職でさえ潁川郡綸氏県の尉(県内の警察権を持つ)にすぎないという下級官吏であった。祖父以前の先祖については、全く分からない。漢王朝の、対西方の責任者ともいえる要職・護羌校尉(やや時代は下るが、三国時代においては涼州刺史と兼任であった)を出した牛氏とは、とうていつりあいがとれないのである。
もう一つは、董卓という人物が、当時の価値観とは大きくずれる人物であった事である。その振る舞いは、隴西の、心有る人々の顰蹙を買っていた。なにしろ、漢に対してしばしば叛乱を起こした羌族の族長たちと深い交友関係を持っていたのであるから。
しかし、董卓自身はその事を誇ってさえいた。今の彼があるのは、彼らのおかげなのであるから。彼らとの交友によって、董卓は出世のきっかけをつかんだのである。


董卓は、若い頃から血気盛んであり、郷里で無為に時を過ごす事を潔しとはしなかった。とはいえ、都に出て学問に励もうという気もなかった。史書に「有謀」とある様に、頭が悪いというわけではないのだが、人並み外れた膂力の持ち主である彼にとって、静かに学問に励むというのはどうも性に合わないのである。
その、若い血が騒ぐままに、各地を放浪した事があったのだが、その時に、羌族の族長たちと交友を結んだのである。
漢人として生まれ育ったとはいえ、董卓の気質は、礼教に凝り固まった漢のそれとは合わなかった。羌族との出会いは、そんな彼の心を和ませたのかも知れない。羌族の人々も、そんな彼の事を、好ましく思った様である。彼らは、たちまちに親しくなった。

旅を終えて郷里に戻った董卓は、一応は農耕に励んだものの、余り気乗りがしなかった。そんな頃、羌族の族長たちが、彼のもとを訪れた。董卓は、農作業に使う牛を殺し、その肉を振る舞った。この事が、彼らをいたく感動させた。なにしろ、当時の董卓は貧しく、その牛一頭しか飼っていなかったのである。いくら親しいとはいえ、かくも大事な財産を使ってもてなすというのは、並大抵の事ではない。
羌族は、元来は素朴な遊牧の民である。受けた恩義は必ず返す。彼らは、自らの牛馬を持ち寄り、千頭あまりを董卓に贈ったという。当時、牛馬の価値は非常に高かった(動力源でもあり、乗り物でもあり、食肉になり、皮革製品になり…。その用途は、現代のそれよりもはるかに広く、数頭でも一財産である)。それを千頭となれば、その価値はいかばかりであったろうか。人には、親切にするものである。

人間の社会というものには、少なからず矛盾というものが存在する。この時代も、例外ではない。何より礼教を重んずるとはいいながらも、そうではないところもまた多かったのである。
礼教という観点から見れば、董卓という人物は、お世辞にも立派な人物ではなかった。しかし彼は、父の代からは想像もつかないほど立身した。その背景にあったのは、彼自身の能力もさる事ながら、間違いなく、この時に羌族から贈られた牛馬によってもたらされた富の力によるものであったろう。

やがて、董卓は郡に出仕した。賊の取り締まりに活躍し、三公の掾(属官)に推挙されたともいう。
先代の桓帝の末年(桓帝が崩じたのは、永康元【西暦167】年なので、牛輔と董卓の娘の縁談が進みつつあったこの時より数年前)、董卓は羽林郎に任ぜられた。
羽林郎とは、隴西郡をはじめとする西北の六郡(隴西・漢陽・安定・北地・上郡・西河郡。なお、漢陽=天水)の良家の子弟を選んで任ぜられる郎官である。良家といっても、商人・工人・芸人などの職業を除く家という程度の事であるから、全員が名族の出というわけではないであろうが、れっきとした中央の官位であり、県長級の俸禄を得るという、なかなかの高位である。この当時、名族でない者がなるのは、相当珍しい事であった。
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