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小説 『牛氏』 第一部
59:左平(仮名) 2003/06/29(日) 13:43 「初めてお目にかかります。私は、姓名を李カク【イ+鶴−鳥】、字は稚然と申します。北地郡の出です。どうぞよろしく」 「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」 字があるという事は、それなりの家の出であろう。その字が稚然という事は、兄弟が多いのだろうか(長幼の序列を示すのに伯仲叔季という字がよく用いられるが、稚というのはそのまた後に用いられる事がある。したがって、彼には四人以上の兄がいた可能性がある。実際、史書にも兄がいた事は記されている)。 挨拶の仕方もきちんとしているし、変に肩肘張ったところはない。頭の方も、まずまずといったところか。なかなか、頼りになりそうである。 続いて、二人目の男が口を開いた。 「わ、私は、郭レと申します。張掖郡の出です」 こちらは、やや緊張している様だ。ただ、悪い感じはしない。ちょっと前の自分をみる様で、微笑ましいくらいである。 「あれ?字はないのかい?」 「それが…。まだ加冠してないもので、字は…」 「そうか…」 「どうだ、伯扶。そなたが字をつけてやったらどうだ」 「えっ?私がですか?」 「そうだ。勝の字もそなたが考えたのだし、これからこいつらの長になるのだからな。ちょうどよかろう」 「急に言われましても…。あの時は、あれこれと書物を引っぱりだしてようやくでしたから…」 「なに、仮のもので良いのだ。今、この場で思いつくものを挙げてみよ」 「う−ん…。しかし、私は彼の事を何も知らないわけですし…」 「ちなみに、こいつは次男だ」 「次男となれば『仲』とつくでしょうが、もう一文字が…」 (名が「し」だからなぁ…「し」の字は、えぇっと…) この時、牛輔はちょっとした勘違いをしていた。郭レの名は『レ』が正しいのであるが、何がどうしたのか『侈』と聞き間違えたのである。 (『侈』ってのは、『おおい』って意味だから…そうだ!) 「仲多、なんてどうでしょうか」 それを聞いた途端、董卓と李カク【イ+鶴−鳥】は大笑いし始めた。 「『ちゅうた』!? ははは、そりゃいいや。まるで鼠だな、おい」 「ほんとに。いかにも、ちょろちょろしてるこいつらしい字ですね」 「えっ?」 二人の笑い声を聞いて、牛輔は勘違いに気付いた。 「まっ、間違えました!もう一度、考え直します!」 「いやいや、それで決まりだ。レよ、そなたの字は『仲多』だ。いいな」 董卓は、笑いながらそう言った。しばしこの地を離れるとはいえ、この軍団の主の言葉は絶対である。 「はっ、はぁ…」 郭レも、照れ笑いを浮かべながら了解した。
60:左平(仮名) 2003/07/06(日) 21:15 三十、 「さて、最後はそなただな」 笑い終わった董卓は、もう一人の男に声をかけた。 「えぇ」 男は、愛想なしに一言そう答えた。先の二人に比べると、いささかもの堅い感じがする。我が強そうだ。悪い男ではなさそうだが、いささか扱いにくそうにも見える。 「私は、張済と申します。武威郡祖q県の出です(彼自身の出身地は不明。ただし、史書には『(張済の族子の)張繍は武威郡祖q県の人』とあるから、同じではないかと考えられる)」 「そなたも、字はないのかい?」 「ええ、ありません」 「年は?」 「二十を少し過ぎました」 「そうか。では、ちょっと待ってくれないか。そなたの為に字を考える事にしよう」 「いえ、その必要はありません」 「えっ?」 虚をつかれた牛輔は、一瞬きょとんとした。 (さっきのがまずかったかな) 確かに、あんな字をつけられてはたまったものではあるまい。とはいえ、張済は既に二十歳を過ぎているという。未成年であった郭レはともかく、成人している張済に字がないというのは、ちょっとまずいのではなかろうか。 「義父上、彼はこう申しておりますが」 「ああ。こいつには字をつける必要はないよ」 「なぜですか?」 「なぜって言われてもなぁ…。こいつは、以前から字をつけようとはしないんだよ。本人が『いらない』と言ってるのを無理につける事はあるまい」 「まぁ、そうなのですが…」 さっきまでとは違い、いささか堅い雰囲気になった感がある。 その、気まずい雰囲気を察したのか、張済は、自ら重い口を開いた。 「不愉快な思いをさせてしまった様ですね。その事については深くお詫びします。ですが、それでも、私は字をつけるつもりはございません。この事はご理解頂きたく存じます」 「いや、詫びる事はないよ。こういうものは、無理強いするものではないし。…ただ、どうして字をつけようとはしないんだい?教えてくれないかな」 「そうですね。お話しいたしましょう」 そう言うと、一呼吸おいてから、彼は自らの事を語り始めた。 それは恐らく、董卓や李カク【イ+鶴−鳥】・郭レにとっても初耳なのであろう。皆、張済の方を向き、その言葉にじっと耳を傾けている。 これから直属の上司となる牛輔が、彼の言葉を一語一句聞き逃すまいとしたのは言うまでもない。
61:左平(仮名) 2003/07/06(日) 21:17 「私の生まれ育った武威郡という所は、都からみれは、いよいよもって辺境の地です。それゆえ、周りには羌族が多くおります。いや、羌族の中に漢人が点在しているという具合です」 「ふむ。そうであろうな」 「私も、幼い頃から羌族とよく遊んだものです。我が一族の中には、羌族と姻戚である者も多くおります。彼らには、我が一族が漢人であるという意識が薄いのです」 「そうか。…そういえば、羌族には字という考え方がないな」 「そうです。それゆえ、私が字をつけるのはまずいのです」 「そこが分からないのだが。どうして字をつけるのがまずいんだい?」 「こう言うと自慢になりますが、私は、あの辺りでは少しは知られているのですよ。腕っ節が強いという事で。その私が字を持ったとなれば、我が一族が漢人であるという事を知られてしまいます」 「知られると、一族の身に危難が及ぶ。そういう事か」 「まぁ、直ちにそうなる事はないでしょうが…。何かと気まずい思いをするでしょうね」 「そうか」 「それに、私の出自からすると、とても字を名乗る様なものではありませんからね」 「それなら気にする事はない。これから手柄を立てて立身すれば良い事だ」 「そうですね。立身し、一族を迎えられる様になれば、字をつけても良いでしょう。しかし、それまでは、このままでいたいのです」 「そうか…。それならば、私が無理強いする事はない。そなたの思う様にすると良い。まぁ、字をつけようと思ったら、いつでも相談してくれ。共に考えよう」 「はい。ありがとうございます」 「ただ、何と呼べばいいかな?」 「お気遣いは不要です。ただ名の『済』と呼んでいただければ結構です」 「そうか。分かった」 「どうやら、話は済んだ様だな」 董卓が、おもむろに口を開いた。やはり威厳がある。 「では、稚然、仲多、済!」 「はっ!」 「これより以後、牛伯扶がそなた達の長となる!彼の命を我が命として従え!」 「はっ!」 こうして、牛輔は義父・董卓の軍団を預かる事になった。話が終わった、その直後。 「殿!近くに賊が現われましたぞ!」 家人がそう叫んでいるのが聞こえた。
62:左平(仮名) 2003/07/13(日) 19:31 三十一、 (ほほぅ…。さっそく、いい機会が訪れたな) 董卓にとっては、願ってもない状況であった。自分の眼前で、牛輔の、将としての力量をみられる機会が転がり込んできたのである。 いつもなら、「賊が現われた!」となれば真っ先に腰を上げる彼が、今日は動かない。動きたくはあるのだが、ここはこらえた。ここで自分から動いては、牛輔の力量をみる事はできない。 (さて、伯扶はどう反応するかな?) ほんの少しだけ意地悪い目で、彼は牛輔の方を向いた。 「なにっ!賊だと!」 董卓が動かないのをみた牛輔は、さっと立ち上がった。董卓が動かない以上、ここは、自分から動かなくてはなるまい。それが、軍団を預かった者としての務めである。 不安ではある。しかし、戦うのは全くもって初めてというわけではない。やるしかないのである。 「者ども!」 「はっ!」 「直ちに賊の討伐にかかる!支度にかかれ!」 「はっ!」 李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、新たな長となったばかりの牛輔の命に、すぐさま応じてみせた。彼らからすると、自分などは経験の乏しい、頼りない長であるに違いない。しかし、董卓に仕込まれた彼らにとっては、長の命令は絶対である。 (いま、彼らが私の命令に従うのは、義父上の威厳があってこそ。その事を忘れてはなるまい。…おっと。賊はいかなる相手か。それを探らない事には、戦いようがないな。偵察を出さねば) そういう事を考えられる牛輔は、自身が思うよりは、将帥としての力量があったと言えよう。 「誰かおるか!」 牛輔は家人を呼んだ。『孫子』には『彼れを知り己れを知らば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知らば、一勝一負す』とある。敵の状況を把握しない事には、いかなる名将であっても勝利は覚束ない。ましてや、自分はほとんど実戦経験がない。敵の事は、知りすぎるほど知っておく必要がある。 「はっ、ここに! 殿、いかがなさいましたか!」 現われたのは、最近雇ったばかりの、盈という青年であった。大柄で力も強いが、その見た目に似ず、実に敏捷で頭も目もいい。その出自を語らないところが少しひっかかるが、偵察という、重要な役目にはうってつけの人材である。 「うむ。盈か。賊が現われたそうだな」 「はい。その様に聞いております」 「他の者数人とともに、賊の状況を急ぎ探ってまいれ」 「はっ!」 そう言うや否や、盈は偵察へと向かっていった。 出撃の支度が始まった。盈達が戻ってくるまでは相手の状況が分からないだけに、できる限りの準備を整える必要がある。邸内は、急に慌しい雰囲気に包まれた。 「おい、今度の相手はどういうやつらだ?」 「よくは分からんが、賊だってよ」 「ほう。ま、賊なら叩き潰すまでよ」 そんな雰囲気の中、蓋はいつもと変わらず元気に動き回っている。乳離れして間もないのであるが、飯もよく食べる。 「こんな中でも動じないとは。こりゃ先が楽しみですな」 家人達は、しばし手を止め、そう言い合ったりもした。
63:左平(仮名) 2003/07/13(日) 19:33 しばらくして、盈が戻ってきた。まだ、こちらの支度もできていないというのに、もう偵察を終えたのであろうか。 「ずいぶん早いな」 「そうですか?きちんと賊は探ってまいりましたよ」 「そうか。ならばよい。して、賊の状況は?」 「はい。数は二、三百といったところです。やつら、どうやらテイ【氏+_】族ですね」 「テイ【氏+_】族?」 「はい」 テイ【氏+_】族とは、羌族と同様、このあたりに居住していた異民族である。羌族に比べると農耕化が早かったという事もあってか、漢朝との大規模な戦いなどは殆どなかったという(後には中原に王朝をうち立てる事もあったが、この物語にはあまり関係ない)。 匈奴や羌族に対しては、統御管轄する為の官(護羌校尉などがそう)が設けられていたが、テイ【氏+_】族を対象とする官職は見当たらない事からも、それは伺える。 (なにゆえテイ【氏+_】族が?…いや、そんな事を言ってる場合ではないな) 「他に分かった事は?」 「はい。どうも、都からこちらに向かっていた数十人の漢人が捕らえられた模様です」 「なに!彼らの安否は?」 「そこまでは分かりかねます。しかし、恐らくは…」 「…そうか」 彼らがいかなる理由で賊となったかは分からない。しかし、無辜の人々を殺戮したというのであれば、容赦する事はない。 「殿!支度が整いましたぞ!」 李カク【イ+鶴−鳥】達が牛輔を呼んだ。出撃の時である。 「そうか。よし!者ども!」 「おう!」 「相手はテイ【氏+_】族の賊、約三百!容赦はいらぬ。徹底的に叩き潰せ!」 「おう!!」 戦は二度目であるが、牛輔自身が将として戦うのは、これが初めてである。兵力差からみても、決して難しい戦いではないが、失敗は許されない。ただ、牛輔には前ほどの緊張感はなかった。 (余裕ができたからであろうか。いや、それだけではなさそうだ…) 行軍中、牛輔はそんな事を考えていた。 (…そうか、相手が違うからか。羌族とは違い、テイ【氏+_】族には何の思いもないからな。あるのはただ、漢人を殺戮した者を討伐するという意識のみ…) 義父の様に、敵に思いを持ちつつもなお苛烈に戦うという事は難しそうだ。自分は自分なりの道を歩むしかないという事か。 (さて、伯扶はどう戦うかな) 牛輔の後をゆっくりと進みながら、董卓はそう考えていた。
64:左平(仮名) 2003/07/20(日) 20:55 三十二、 (ここは…一体…。俺は、どうしたのだろうか…) 男は、微かな意識の中、その記憶を辿っていた。自分の身に何が起こったのか、まだ把握できていなかったのである。 (頭が…痛い…。腕が…動かない…。足も…。目も…見えない…こ、これは…) (俺は…死んだのか…。いや、頭が痛むという事は、生きているという事ではないのか…) (落ち着け、落ち着くのだ…。何があったかまず整理しよう…) (俺は…。病を理由に官位を捨て、郷里に帰ろうとしていたんだったな…。帰ったら、董氏のもとを訪ねる予定だった…) (昨晩までは、何事も無かった…。で…) (ケン【シ+幵】のあたりで、怪しい集団にでくわして…) (薄汚い、妙なやつらだった…。 !!) 思い出した!思い出したぞ! (やつら、賊だったんだ!俺達を見ると急に襲い掛かってきて…。俺は…。そうか、頭をぶん殴られて気を失ったのか…) (と、なると…。この状況は、まずいな…。目隠しされてるから周りが見えないし、第一、手足の自由が利かん。これでは、下手に動くわけにもいかん) (それに、他のやつらはどうしたのだろうか。どうも気配が感じられんが…。あの状況からして、俺一人捕らえられたという事はないよな…) (ま、まさか…) 最悪の事態が頭をかすめる。 (財物を奪い、皆殺しか!) 全身に戦慄が走った。血の流れが逆流する様な気がした。しかし、ただ恐怖に怯えるだけでは思考は止まってしまう。つらい事だが、さらに考えを進める。 (しかしだ。それなら、どうして俺はまだ生きているのだ?) (俺に、まだ利用価値があるとでもいうのだろうか?どうも分からん…。ともかく、しばらく様子をみるしかなさそうだな…) ひとたび目覚めると、男の頭脳はめまぐるしく動き始めた。ただ一つの目的の為に。 『生き延びる為には、何をすべきか』。 こういった状況においては、誰もが考える事である。しかし、この男ほど、その能力に長けた者はいない。実際、後にはこれ以上の危地をいくたびもくぐり抜けていったのである。もっとも、彼自身、自らのその能力にはまだ気付いていないのであったが。 急に足音が聞こえてきた。どうやらこちらに向かってくる様だ。 (やつら、俺の様子を見に来たのか) ケン【シ+幵】のあたりで襲われたという事は、ここは、その近くにあるであろう賊の隠れ家に違いない。はっきり言って、漢朝の救援は、期待薄である。 いかに一介の郎官に過ぎなかったとはいえ、彼自身、朝廷の内実はよく知っているつもりである。たかだかもとの孝廉一人が賊に襲われたところで、ここは辺境。皇帝も、高官達の誰も、関心を持つ事はあるまい。 (くそっ!こんな所で俺は…) 賊の手にかかって落命するのか。そう叫びたくなった。しかし、ここで叫んだところで何にもならない。そう思う彼の頭のどこかに、まだ希望が残っている。
65:左平(仮名) 2003/07/20(日) 20:58 「おい、こいつ、目を覚ましたらしいぜ」 男の声が聞こえた。どうやら、賊の一味らしい。やや独特の訛りが感じられる。 (そうか、テイ【氏+_】族か) 漢人ではないらしい。この事に、何か意味を見出せないだろうか。もっとも、そんな事を考える間もなかった。 「起きたんなら、こっちに来な」 賊は、男の体をつかみ、軽々と持ち上げると、そのまま仲間のところに向かった。 (はぁ…情けないもんだな) 噂に聞く董氏の様な体躯であったなら。この時ばかりは、自分の痩身が恨めしく思えた。 数十歩ほどで、いきなり地面に投げ出され、目隠しが外された。あたりには、屈強な男達が揃っている。賊の面々である。もはやこれまでなのか。 (もう、腹を据えるしかあるまい。今の俺は俎上の肉【まな板の上の鯉というくらいの意味】だ) そう思うと、妙に落ち着いてきた。 「おい、おまえ」 賊の頭目とおぼしき人物が口を開いた。 「随分といい身なりをしてるじゃねぇか。え?」 何か聞き出したいのだろうか。 「おっしゃる事がよく分かりませんが…」 「そういうなりだ。さぞかし、家は裕福なんじゃねぇのか?え?」 (ははぁ、そういう事か…。そういえば、俺が一番上物の衣冠をまとっていたな。こいつら、俺を人質にして身代金をせしめようって算段か) 相手の腹が読めてきた。少し落ち着きを取り戻してあたりをうかがったが、仲間の姿は見当たらない。皆、殺されたのか。その事については何も言わないが、連中の様子からすれば、十分考えられる。 (よし、どうせ殺されるんなら、いっちょはったりをかましてみるか) この様な場面でそんな事を考えるというあたり、彼はただ者ではなかったというべきであろう。 「えぇ、家は裕福ですよ。なにしろ、我が外祖父は段公(前出の段ケイ【ヒ+火+頁】の事。字は紀明。この頃、大尉の要職に就いていた)ですからね」 もちろん、全くのでたらめである。が、その言葉は、凄まじい威力があった。 「な、なに?もう一度、言え」 頭目の顔色が、明らかに変わった。まわりの連中も。『段ケイ【ヒ+火+頁】』という名に対する西方諸民族の怯え様は、これほどのものであったか。思わず、彼の口元がほころんだ。 (この好機を逃してはならぬ!) 「そうだ。わしは段公、すなわち段紀明の外孫だ。おまえたち、わしを殺したなら、必ず他の者とは分けて埋葬しろよ。段公が我が屍を確認できる様にな。我が一族が、そなた達に充分な礼を施すであろう。…おっと。段公がわしの死に気付かぬとでも思うなよ。わしは、毎日書簡を公のもとに送っておる。わしがどこで足取りを断ったかくらい、すぐにお見通しなのだ。隠したところで、無駄だ」 もはや、立場は逆転していた。さっきまで威張り散らしていた賊どもが平身低頭するとは、痛快である。 「めっ、滅相もございません!私共があなた様に危害を加えるなど!どうか、この事は段公にはご内密にしてはいただけませんか」 「そうまで申すのであれば、よかろう、今回に限り許してやろう」 「はっ、ははっ!」 こうして彼は、無事に賊の魔手から脱する事ができたのである。賊は、ご丁寧に盟約まで結んだ。 (ふふっ。こんな盟約など何の意味もないというのに。…ともかく、一刻も早くこの場を離れないと) そう思い、西に向かって歩く彼の目の前に、突如、騎馬の軍団が現われた。
66:左平(仮名) 2003/07/27(日) 21:48 三十三、 (んっ?まさか、また賊か?いや違う。あの旗印は…「牛」?一体どこの軍だ?…あっ、後ろに「董」の旗印も…。そうか、これが董氏の軍団か…) ともかく、味方には違いない。そう思うと、安心感と、疲労と、空腹とがあいまって、急に目眩がした。 「おい、どうした!しっかりせい!」 男の姿に気付いた兵達が駆け寄り、肩を貸した。 「かたじけない…」 「気にするな。ところでそなた、こんな所で何をしていたんだ?」 「実は…。賊に襲われたのです」 「なにっ!して、賊はいずこに?」 「ここから数里といったところです。私は、辛うじて賊から解放され、ここまで歩いてまいりました」 「そうか…。殿!この者、賊の隠れ家を存じておりますぞ!」 「なに!よし、しばし待て!」 (ん…殿?という事は、董氏が…) 董氏は巨躯の人と聞いていた。だが、彼の前に現われたのは、それとは異なる、中肉中背の青年であった。 「大変でしたな。ゆっくりお休みくだされ。私の名は、牛輔。字を伯扶と申します」 「はっ、はぁ…。私の名は、賈ク【言+羽】。字は文和と申します。…ところで、こちらの方々は董氏、董仲穎殿の軍団ではないのですか?『董』の旗印が見えた様な気がしたのですが」 「あぁ、董氏ですか。私は、董氏の娘婿なのです。義父から、しばしこの軍団を預かる事になりました」 「そうでしたか」 それなら、董氏の旗印があるのも当然か。一安心だ。 「文和!文和ではないか!」 賈ク【言+羽】の姿に気付いた張済がそう叫んだ。 「おお!張殿!お懐かしゅうございますなぁ!」 「なんだ、済よ。二人は知己であったのか」 「えぇ、彼は私と同郷ですからね。…そうそう、今度の新入りってのは、この者ですよ」 「えっ!そうだったのか?賊に捕まってたのなら、遅くなるわけだな」 「私が新入り、ですか?という事は…」 「なんだ、文和。聞いてなかったのか?この伯扶殿が、我らの長なのだぞ」 「そうなのですか?私は、帰郷したら董氏のもとを訪ねる様にとしか聞いていなかったのですが…。いつの間にその様な話に?」 「はははっ…」 「あっ!張殿!まさか!」 どうやら、張済が賈ク【言+羽】に無断で話を進めていたらしい。ただ、賈ク【言+羽】も特に嫌がってはいない様なので、たいした問題ではなさそうである。 同郷の知己の対面であるが、今は再開の喜びに浸っている場合ではない。いささか興を殺ぐ様ではあるが、聞かねばならぬ事がある。 牛輔は、二人の会話の切れ目をみて、口を開いた。 「まぁ、後でゆっくり話そうではないか。それより、そなた、賊の隠れ家を知っておるのだな」 「はい。そこからずっと西に向かって歩きましたから、おおよそは。ここより東に数里のところです」 「そなた以外の者は?」 「分かりません。賊は、私以外の者の安否については何も言いませんでしたし、解放されたのは私一人でしたから」 「そうか。それで、隠れ家の様子は?」 「今の時点では、守る事は考えておりますまい。見た限りでは、特に防備を固めているふうではありませんでした」 「賊の人数は?」 「私が見たのは三十人程度でした。まぁ、あれは主だった連中でしょうから、その数倍はいるかと…」 「そうか」
67:左平(仮名) 2003/07/27(日) 21:51 (ふむ。盈の報告はだいたい合っているな。こちらは千程度だから…勝つ事自体は、さほど難しくはない) 「女子供の姿は?」 「見てはおりません。とはいえ、賊がテイ【氏+_】族となると、家族の者もおるやも知れず、いないと断言する事もできません」 (ふむ…。そうなると、いささか考えねばならぬな) 賊に対しては、いささかも容赦するつもりはない。だが、いるかも知れない人質や女子供に危害が及ぶのは避けたいところである。敵の虚を衝き、速攻で片をつけねばならないのである。 (となると…。夜襲しかないか) 「者ども!馬に枚【ばい:声をあげない様にする為に口にくわえる木片】を銜【ふく】ませよ!」 それを聞いた将兵からは、戸惑いの声が挙がった。数でまさるこちらが、なにゆえ夜襲などせねばならぬのか。そういう不満感が見え隠れする。 「賊は、人質をとっておるやも知れぬのだぞ!そなた達は人質の安否が気にならぬのか!それに、敵は何の抵抗もできない者を襲うという卑劣な輩!堂々と戦う必要などない!」 今の牛輔では、義父・董卓の様にその威厳で将兵を押し切る事はできない。となれば、その意図を説明し、納得してもらうしかないのである。 「分かりました!」 李カク【イ+鶴−鳥】達がそう叫んだ事で、一応将兵の不満は納まった。 ただ、そうは言っても、心底ではまだ不満があろう。ここは、完璧な勝利を得る必要がある。 牛輔は、盈達に命じさらに偵察を進めさせ、賊の隠れ家の詳細を探った。 その夜。 かすかな星明りのもと、牛輔は、董卓と向き合っていた。敵に気付かれてはならないので、火は使えない。目の前にいるのに、どこか、幻に向かって語りかけている様な感じがする。 「明日の夜明け前に、奇襲をかけようと思います」 「そうか」 「これでよろしいでしょうか?」 「そなたが良いと思って決断を下したのであろう?わしがとやかく言う事はない」 「はい。ですが…」 「そうか。まだ自信がないのか。で、わしのお墨付きが欲しいと」 「…」 確かに、その通りではある。しかし、はい、そうなんですとはさすがに言いづらい。 「辛いか?だがな、長というものはそういうものだ。…まぁ、いずれ慣れる」 「そういうものでしょうか…」 「そういうものだ」 少し眠ろうとしたが、どうにも寝付けなかった。東の空が白む前に夜襲である。寝過ごすわけにはいかないと思ううち、いつしか、その時が来た。
68:左平(仮名) 2003/08/03(日) 21:53 三十四、 牛輔が目を開けた時、空一面に星が瞬いていた。まだ、真夜中である。だが、夜明け前に夜襲をかけるとなれば、決して早すぎるという事はない。 (よし、出撃だ!) もう賊の隠れ家は近い。昨日から馬に枚を銜ませているくらいであるから、大声を出すわけにはいかない。細かく伝令を発し、小声で命令を発するさまは、傍目には滑稽に見えるが、やってる当人にとっては真剣そのものである。 「どうやら、指示は行き渡った様だな」 頃合いをみて旗幟を掲げると、それに応えて兵達が得物をすっと上げた。大声は出せないから、これが合図となる。いよいよ、攻撃開始の時が来た。 漆黒の中を、千余りの兵が黙々と進んだ。これほど気を遣う行軍も、そうはあるまい。もっとも、その行軍自体はすぐに終わった。賊の隠れ家のそばに着いたからである。 「あれが、賊の隠れ家か」 二、三百人はいるというが、はなから襲撃される事など考えてはいないのであろうか。一応の囲いくらいはあるが、これといった備えはしていない様だ。打ち破るのはたやすかろう。とはいえ、ぐるりと包囲するには、兵が足りない。兵法には「十(倍)なれば即ち之れを囲い、五(倍)なれば即ち之れを攻め〜」とあるから、四、五倍程度では包囲殲滅という手段はとれそうにない。 (さて、どうしたものか) 考える猶予は余りない。夜が明けてしまっては、せっかく夜襲を試みた意味がないからである。 (そうだ。先の戦いでは使えなかった火計、使ってみるか) 前回は義父に止められたが、今度の相手は、羌族ではなく、テイ【氏+_】族の単なる賊に過ぎない。彼らが相手なら、義父も、火計を咎めたりはすまい。また、風についても問題はない。やってみる価値は十分にあると言えよう。 「弩兵は東に回り込み、用意が整ったら、一斉に攻撃を開始せよ。そなた達の攻撃が、他の者達への合図になる。心してかかれ」 弩兵達は、無言でうなづいた。 「やつらに、たんまりと火矢を食らわしてやれ」 「火の手が挙がったら、騎兵は喚声を発しつつ、一気に駆けて敵を蹴散らせ」 「長兵は逃走を図る敵を突き倒し、短兵は人質や女子供がいないか探しつつ敵を斬れ」 軸となる戦術が決まれば、後の流れは決まる。指示を受けた兵達は、一斉に配置についた。 全ての配置が終わったのは、予定通り、夜が白む前の事であった。 「者ども、撃て−っ!」 合図とともに、一斉に火矢が放たれた。乾燥したこの地では、いったん可燃物に火がつくと、実に簡単に燃え広がるのである。火は、瞬く間にあたりを覆っていった。 にもかかわらず、賊の反応は鈍かった。自分達が襲われるとは思いもよらなかったし、東の方から明るくなった為、気付くのが遅れたという事もあった。ともあれ、この遅れが、致命傷となった。 「なっ、何だ?」 「かっ、火事だ!」 「なっ、なんでだ!?」 「うわっ!」 「どうした? ぐえっ!」 火の手が挙がると同時に突入してきた騎兵達により、賊はあっけなく倒されていった。ようやく落ち着きを取り戻し、反撃を試みようとするも、今度は続々と来る長兵に圧倒され、動きがとれない。 戦いとはいえないくらいの、一方的な展開である。 夜が明ける頃には、賊はほぼ壊滅していた。一方、こちらの犠牲は殆どない。文句無しの完勝である。 (ほう。伯扶め、なかなかやるではないか) いかに兵力差があるとはいえ、この戦果は見事なものである。これには、董卓も十分に満足した。
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