小説 『牛氏』 第一部
65:左平(仮名)2003/07/20(日) 20:58
「おい、こいつ、目を覚ましたらしいぜ」
男の声が聞こえた。どうやら、賊の一味らしい。やや独特の訛りが感じられる。
(そうか、テイ【氏+_】族か)
漢人ではないらしい。この事に、何か意味を見出せないだろうか。もっとも、そんな事を考える間もなかった。
「起きたんなら、こっちに来な」
賊は、男の体をつかみ、軽々と持ち上げると、そのまま仲間のところに向かった。
(はぁ…情けないもんだな)
噂に聞く董氏の様な体躯であったなら。この時ばかりは、自分の痩身が恨めしく思えた。

数十歩ほどで、いきなり地面に投げ出され、目隠しが外された。あたりには、屈強な男達が揃っている。賊の面々である。もはやこれまでなのか。
(もう、腹を据えるしかあるまい。今の俺は俎上の肉【まな板の上の鯉というくらいの意味】だ)
そう思うと、妙に落ち着いてきた。
「おい、おまえ」
賊の頭目とおぼしき人物が口を開いた。
「随分といい身なりをしてるじゃねぇか。え?」
何か聞き出したいのだろうか。
「おっしゃる事がよく分かりませんが…」
「そういうなりだ。さぞかし、家は裕福なんじゃねぇのか?え?」
(ははぁ、そういう事か…。そういえば、俺が一番上物の衣冠をまとっていたな。こいつら、俺を人質にして身代金をせしめようって算段か)
相手の腹が読めてきた。少し落ち着きを取り戻してあたりをうかがったが、仲間の姿は見当たらない。皆、殺されたのか。その事については何も言わないが、連中の様子からすれば、十分考えられる。
(よし、どうせ殺されるんなら、いっちょはったりをかましてみるか)
この様な場面でそんな事を考えるというあたり、彼はただ者ではなかったというべきであろう。

「えぇ、家は裕福ですよ。なにしろ、我が外祖父は段公(前出の段ケイ【ヒ+火+頁】の事。字は紀明。この頃、大尉の要職に就いていた)ですからね」
もちろん、全くのでたらめである。が、その言葉は、凄まじい威力があった。
「な、なに?もう一度、言え」
頭目の顔色が、明らかに変わった。まわりの連中も。『段ケイ【ヒ+火+頁】』という名に対する西方諸民族の怯え様は、これほどのものであったか。思わず、彼の口元がほころんだ。
(この好機を逃してはならぬ!)
「そうだ。わしは段公、すなわち段紀明の外孫だ。おまえたち、わしを殺したなら、必ず他の者とは分けて埋葬しろよ。段公が我が屍を確認できる様にな。我が一族が、そなた達に充分な礼を施すであろう。…おっと。段公がわしの死に気付かぬとでも思うなよ。わしは、毎日書簡を公のもとに送っておる。わしがどこで足取りを断ったかくらい、すぐにお見通しなのだ。隠したところで、無駄だ」
もはや、立場は逆転していた。さっきまで威張り散らしていた賊どもが平身低頭するとは、痛快である。
「めっ、滅相もございません!私共があなた様に危害を加えるなど!どうか、この事は段公にはご内密にしてはいただけませんか」
「そうまで申すのであれば、よかろう、今回に限り許してやろう」
「はっ、ははっ!」

こうして彼は、無事に賊の魔手から脱する事ができたのである。賊は、ご丁寧に盟約まで結んだ。
(ふふっ。こんな盟約など何の意味もないというのに。…ともかく、一刻も早くこの場を離れないと)
そう思い、西に向かって歩く彼の目の前に、突如、騎馬の軍団が現われた。
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