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小説 『牛氏』 第一部
71:左平(仮名)2003/08/10(日) 21:12AAS
いったい、他に何を聞けというのであろうか。時々義父は、思いがけない問いを発する。
「分からんか。他の者達が全て殺されたというのに、どうして文和一人が助かったのか。そなた、不思議だとは思わんのか?」
「はぁ…」
確かに、そうだ。そう言われると、急に気になってくる。
「…その事には、全く思いが及んでおりませんでした」
ここで嘘をついたところで何にもならない。素直に認め、教えを乞うた方が自分の為である。
「そうか。気がつかなんだか」
「はい…。義父上に指摘されるまで、全く。我ながら、情けない事です」
「そう気にするな」
こうも素直に反省されると、怒る気にはならない。
「いかに万巻の書を読んだところで、最初から全ての物事を理解できるものではない。大切なのは、その成否を問わず、経験からいかに学ぶかという事だ。聖人ですら、初めから何もかも上手くいくものではないのだからな」
「はぁ…。そのお言葉、しかと心に留めます」
「実はな。そなたがその事に気付かなかったという一点を除けば、今回は言う事なしだったよ」
「まことですか!」
「あぁ。こんな事で嘘を言ってどうなる。兵の統制はとれていたし、賊を壊滅させ、なおかつこちらの犠牲は殆どなかった。完勝ではないか。将として十分過ぎるほどの働きだぞ」
「えぇ。ですが…」
「もっと早く攻撃を開始していれば、あの者達は死なずに済んだのではないか。そう考えておるのか?」
「はい」
「ふむ。そういう事も考えておったか。それでこそ我が娘婿よ」
「果たして、私の判断はこれで良かったのでしょうか?」
「良かったに決まっておろう!」
董卓は急に大声を出した。怒声というわけではなかったが、あたりは一瞬びくっとなった。
「将たる者が、自らの下した判断を顧みるのは良い。だがな、ひとたび決断したなら、わずかでも揺らいではならぬのだ。ましてや、今回のそなたの判断は実に見事なものであった。そんな時にまで思い悩んでどうするのだ!それでは身が保たんぞ!」
「…」
「そなたの判断は全く正しかったのだ。もっと自信を持て。…実はな。そなたと文和があの場を離れた後、わしも殺された者達の屍を確認したのだ」
「それで、何か分かったのですか?」
「屍をみたところ、死斑が浮き出ておった」
「死斑?」
「そうだ。死斑があったという事は、殺されてからしばらく経っておるという事だ。それに、屍は硬かったであろう?」
「確かに、関節等は動かせなかったですね」
「なぜかはよく分からんが、生き物は死ぬと硬くなる。その程度から、いつ死んだかという事がある程度分かるのだ。わしの見立てでは…少なくとも、昨日の朝までには殺されていたな」
「昨日の朝…」
「となれば、そなたが攻撃を急いだところで間に合わなかったというわけだ。文和にしても、気がついたのは昨日になってからだというしな。あれも、他の者達を救う事は不可能であったというわけだ」
「では…」
「そうだ。そなたにも文和にも、何もやましいところはない。将としては、何事にも疑いを持ってかかる必要はあるが、変に気を惑わせる様な問いを発する必要もない。ゆえに、そなたが文和に問わなかったというのは、正しかったのだ。よいな」
「はい!」
牛輔は、また一つ、何かを得た様な気がした。
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