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小説 『牛氏』 第一部
80:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:19 四十、 それから数ヶ月が経った。 さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。 「ふむふむ…」 しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。 (この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。 「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」 「はい!こちらを!」 すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。 「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」 「は、はいっ!」 確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。 「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」 「はい!こ、こちらを!」 実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。 その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。 属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。 孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。 「またえらい方が任に就かれたもんだ…」 皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。 董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。 だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。 (随分と無駄があったもんだな…) 賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。 とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。 地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。 しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。 (とにかく、この非力なのを何とかせねばな) あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。 彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。 (これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか) その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。
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