小説 『牛氏』 第一部
92:左平(仮名)2003/10/26(日) 23:32
四十六、

羌族の兵の動きは、ほどなく牛輔達の知るところとなった。
「殿!あれを!」
「む、あれは…。間違いなく、羌族の兵だな」
「いかがなさいますか?」
「慌てる事はない。数ではこちらがまさっているのだから、じっくりと攻めていくとしよう」
「はっ!では、その様に!」
すぐさま伝令が走る。そうして、牛輔の指示に従い、兵達が隊列を整え陣を組み始めた。これも、いつも通りの手順である。ここまでは何も問題はない。兵達も、自信を持ってはいるが、過信しているというわけでもなさそうだ。
(ここまで、何も問題はない。しかし、どうも何かが気になってならぬ…)
盈の心中には、言い様のない不安感がもやもやとくすぶり続けている。しかし、それが何なのかが分からないので、言い出しかねていた。

同様の感覚を持っていた男が、もう一人いた。賈ク【言+羽】である。
牛輔のもと、輜重の管理及び各種報告の整理作成という後方業務に携わっていたのであるが、その精勤ぶりが認められ、今回は戦場に同行する事が許されたのである。
「この経験は、必ずそなたの為になる。そなたの活躍如何では、義父上に推挙してしかるべき位階に就ける様に計らってみるつもりだ」
戦に赴く前に牛輔からそう言われていたので、本来であれば、心浮き立つところである。彼とて、立身はするに越した事はないと思っているのであるから。しかし、戦場に近づくに連れ、例え様のない不安感が襲い掛かってきた。
(何だ、この感覚は?俺は戦を怖がっているとでもいうのか?…いや、自分で言うのも何だが、今更血を見るのが恐ろしいなどという事もあるまい。そういうのとは少し違う様だ。…しかし、一体何だ?何かひっかかるな…)
彼もまた、それが何であるか分からないままであった。


後で考えると、ここで牛輔が賈ク【言+羽】を連れて来ていたというのは、実に重要な事であった。


「突撃−っ!!」
その掛け声とともに、双方の兵が、一斉に衝突した。その衝撃によって砂塵が舞い上がり、あたりはやや薄暗くなった。
激戦である。ここでは、双方何の工夫もない。ただ力の限り戦い、相手を打ち倒すのみである。
やはり数でまさるせいか、しばらくすると、勢いの差というものが見えてきた。羌族の兵達が、じわじわと後退し始めたのである。
「敵は既に逃げ腰だぞ!追え!追え!」
誰からともなくそういう声があがる。この状況では、そう思うのも当然であろう。
「追う前に、馬蹄の後をしかと確認せよ!」
兵達の逸る気持ちを戒める様に、牛輔は大声でそう叫んだ。この敵の後退は、果たして壊走なのか佯北(ようほく:負けたふりをして逃げる事)なのか。将としては、それを見定めずして追撃を命ずる事はできないからである。
馬蹄の足並みが乱れているのは、統制なく逃げているのであるから壊走である。こういう場合は追撃しても良い。いや、むしろすべきであろう。しかし、足並みがそろっていれば、意図的に逃げているのであるから佯北である。恐らく罠や伏兵が待っているであろうから、そういう場合は追撃はすべきでない。それは、兵法の基本である。
「うぅん…。敵の足並みは乱れております。佯北という事はありますまい」
地面をしばし見つめた何人かが、口をそろえてそう言うのを聞いて、初めて追撃命令が下された。闘志の塊ともいうべき兵団は、一斉に追撃体制に入り、猛然と敵を追い始めた。一方、馬術に長けた羌族の兵達も、懸命に逃げていた。

(ん?何かおかしくはないか?)
牛輔がその事に気付いたのは、追撃命令を出して、しばらく経ってからである。
(敵は算を乱して壊走しているはずだが…個々の兵を見ていると、どうもそういう感じではない。どういう事だ?)
敵兵は、時々思い出した様に反転したかと思うと、二、三回攻撃を仕掛け、そしてまた背中を向けて走り出す。単に逃げるだけであれば、一部を殿軍に残してひたすら走りそうなものであるが、そうはしない。
(何を考えているのだ…?)
答えが出ない中、ひたすら敵を追い続けていたが、もう日が暮れそうな頃になって、ふっとある事に気付いた。そしてそれは、この戦いの帰趨に関する、重大な問題であった。
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