下
小説 『牛氏』 第一部
111: 左平(仮名) 2004/02/09(月) 00:15 しばらく後−王甫邸に、王萌・王吉、二人の姿があった。ともに、王甫が呼んだ理由までは分かっていない。 「二人ともよく来てくれた。実はな、話というのは…」 「何と!」 これには二人とも驚くしかない。とはいえ、この謀の成否は自分達の生存に関わってくる。慎重に考えねばならない。 「中華の歴史は長い。その中では、こういった事もままあったはず。そうだな?」 「はい」 「今話した様に、宋氏が皇后のままでは、我らの身が危うい。位を廃さねばならぬが…どの様にすれば良いかな?」 「そうですね…」 先に口を開いたのは、王吉の方であった。王吉については、史書に伝があり(酷吏列伝)、幼い頃から読書を好んだと記されているから、そういった先例もすぐに思い浮かんだのであろう。 「漢朝に限ってみても、皇后が廃されたというのは何回かあります。その例に倣うのがよろしいでしょう」 「ふむ。で、どの様な経緯でそうなったのかな?申してみよ」 「皆、皇帝おん自らの意思で廃位されているわけですが…さすがに、寵愛しなくなったから、とはしておりません。実際にはそれが理由であったとしても。故あって外戚どもを打倒し、その係累という事で廃するとか、巫蠱【ふこ。巫女にまじないをさせ、人に呪いをかける】・祝詛【しゅうそ。巫祝を用い、人に呪いをかける】を行った故に廃するとか、そういう理由をつけておりますね」 「なるほどな…」 「今、宋氏が外戚になっておりますが…彼らにはさほどの勢力はございませんから、陛下もわざわざ打倒しようとはお考えにならないでしょう。ここは、巫蠱を行ったという事にするのがよろしいかと」 「そうだな。寵愛されない皇后が焦燥の余り巫蠱の術に頼った…有り得ん事も無いしな」 「ただ…皇后は後宮におわしますから…その証拠を、となると…」 「それは、わしが考える。なに、そのあたりの事は、心得ておるわ」 ひとたび結論が出ると、王甫の動きは早かった。 この謀を為すには、少なからぬ協力者が必要である。王甫にとって幸いなのは、後宮には、皇帝の寵愛を受け、自身の、そして一族の立身を図ろうという女達が溢れかえっているという事である。 彼女達にとっては、その頂点に君臨する皇后が失脚した方が望ましい。競争相手は少ない方がいいし、何より、最高位の皇后の座に座れる可能性も出てくるのだから。 「分かりました。で、何をすればよろしいのですか?」 「なに、大した事ではございません。陛下の夜伽をする際に、それとなく皇后陛下の事を謗って頂ければよろしいのです」 「何だ。そんな事、いつもやってるわよ」 涼しい顔をしてそう返事する者までいる。 (これなら、存外容易に事が進むな…しかし、女は恐ろしいものだな) 若くして宦官となり、長年後宮にいる王甫ではあったが、あらためてそう思った。 「陛下に申し上げます」 王甫が太中大夫の程阿(太中大夫の定員は不定につき、彼と段ケイ【ヒ+火+頁】は同時にこの官職にあった可能性がある)と共に、皇后が左道【さどう。邪道】祝詛をしていると上奏したのは、それからしばらくしてからの事であった。 前漢武帝の治世の末期、巫蠱の疑いにより、公主【こうしゅ。天子の娘】・駙馬【ふば。天子の娘婿】とその子供達、さらには皇太子とその子供達までもが命を落とすという悲劇があった。それ自体は全くの冤罪だったのだが、ひとたびその疑いをかけられただけで、皇帝の血縁者であってもその罪は死に値したというのであるから、赤の他人である皇后となれば、その末路は言うまでもなかろう。 光和元(178)年十月、宋皇后は廃位され、一族はことごとく誅殺された。廃された皇后自身は暴室に送られ、ほどなく憂いの為に亡くなったという。隠密裏に殺害されたと考えても良いだろう。 かつて自分の正婦であった宋氏の死に対し、皇帝が何か語ったという記録は残っていない。 こうして、王甫は自らの憂いとなる宋氏を滅ぼした。皇后を廃位させる程の実力を持っているのであるから、もはや王甫に敵なしかというところであったが…そうはいかなかった。
112:左平(仮名) 2004/02/22(日) 21:29 五十六、 今回の皇后廃位は、皇帝は自分の意思によると思っているであろうが、王甫の差し金によるという事は公然の事実であった。それは、王甫の実力を知らしめる事になる一方で、敵を増やす事にもつながった。なにしろ、彼だけではなく、養子の王萌・王吉もまた、要職にあって権勢を振るう一方で、あちこちに敵をつくっていたのであるから。 史書によると、二十歳そこそこで沛国の相となった王吉は、性残忍であり、在任期間五年でおよそ一万余りの人を殺したという。沛は漢高祖・劉邦の故郷にして大国であったから、人口も多くそれだけ犯罪も多かったろうが、この数は異常である。当然、多くの無辜の民が殺戮されたであろうから、それだけ人々の恨みを買っていたはずである。 (党錮といい、皇后廃位といい、萌・吉の振る舞い様といい…どうもわしが矢面に立つ格好になっておるな。備えをしておかんと) そう考えた王甫は、皇帝に働きかけ、段ケイ【ヒ+火+頁】を太尉にした。段ケイ【ヒ+火+頁】は、前述の様に数年前にも太尉になっていた時期があるのだが、在任期間十ヶ月(熹平二【173】年三月に就任し同年十二月に罷免)で退任しているから、久々の復職であった。 太尉といえば三公の一つにして、軍事を司る官職。歴戦の勇将たる段ケイ【ヒ+火+頁】が三公の高位にいるというだけで、反王甫勢力には相当な威圧をもたらすはずであるし、何より、太尉に無断で軍を動かす事は至難の業。王甫自身は後宮におり、皇帝の近くに侍っているから、そうそう手が出せない。まずは一安心である。 もちろん、段ケイ【ヒ+火+頁】には、そんな王甫の思惑など知った事ではない。自らの任を全うするだけである。 (わしももはや従心【七十歳】を過ぎた。これが最後のご奉公となろうな) 知らせを受けた段ケイ【ヒ+火+頁】は、しみじみとそう思った。今宵の酒は、普段以上に胃に沁みる様な気がする。 (不思議なものだ。「三明」と呼ばれていた中で、最も恵まれなかったわしが最も立身するのだからな…) 「(涼州)三明」と並び称された三名のうち、皇甫規は、これより先、熹平三(174)年に七十一歳で亡くなっていた。また、張奐は未だ存命とはいえ、既に失脚して家に篭もっている。当時七十六歳。政治的にはもはや過去の人となっていた。 (力量をみる限りでは、あの二人よりわしが特にまさっているというわけでもなかろう。となると、運か。分からんものだな…) 段ケイ【ヒ+火+頁】の思いはともかく、この知らせは、董卓達には祝うべきものであった事は言うまでも無い。 彼は、涼州の英雄にして、尊敬すべき先達であるし、何より、董卓にとっては、かつて推挙してもらった恩人でもあった。それに、同郷の人が高位にあるとなれば、自らの立身を図る上でも何かと都合が良い。いい事ずくめなのである。 「義父上、お聞きになりましたか。このたび、段公が太尉になられたとか」 そういう事情を理解しているだけに、牛輔の声も自然に明るくなる。 「あぁ、聞いておるよ。我らにとっては、めでたい事だからな」 「まことにそうですな」 「そうそう、伯扶よ。鈞の様子はどうかな?」 「それでしたら、もう至って健やかでございますよ。もう自分で立ち上がる事もできます」 「ほほう。白ももう自分で立てる様になっておるからな。いや何より。先が楽しみだな」 「はい。必ずや、義父上の様な勇敢な武人に育ててみせますよ」 「そうだな。勝や、いずれ産まれるであろうその子達のよき補佐役になってもらわんとな」 「そうですね」 時に、光和二(179)年三月。うららかな、春の日のひとこまであった。しかし、都・洛陽において、秘密裏にある謀議が為されていたのに気付く者は、まだなかった。謀議に加わっている数名を除いては。
113:左平(仮名) 2004/02/22(日) 21:31 「党錮以来、宦官どもの横暴には目に余るものがある。これ以上黙ってみておるわけにはいかん」 とある邸宅の一室で、数人の男達が集まっていた。党錮の禁以来、表立って宦官批判の言論を述べるのは極めて困難になっているが、通常の人付き合いまで完全に排除できるものではない。彼らは、何かに事寄せては会合を持ち、宦官勢力打倒の計画を練っていたのである。 「まことに。最近では、その養子達までもが悪逆な振る舞いを為し、民を苦しめておるというではないか」 「そうだ。孝順皇帝以来、連中は養子をとる事でその爵位・食邑を継承しておる。曹常侍(曹操の養祖父・曹騰の事)は孝順皇帝の擁立並びに多くの人材を推挙したという功の故、まだ良いとしても、王甫・曹節の如き功無き輩までもがその恩典に浴しておるという有様だ。このままでは、漢朝は連中によってぼろぼろにされてしまうぞ」 「うむ。あの連中ならば、簒奪さえもやりかねん。あやつらは、奸智のみは王莽並みだからな」 「君側の奸か。ならば、除くしかない」 「さよう。陛下がその事にお気づきにならぬ以上、我らの手で何とかするしかあるまい」 「その通りだ。しかし…問題は、いかにして連中を討つかという事だ」 「そうだな。なにしろ、あの段紀明が太尉に任ぜられておるから、軍を動かすのは至難の業」 「何より、宦官どもは後宮におり、下手に刃を向けると、逆臣呼ばわりされる」 「いかがいたしたものか…」 威勢は良いものの、いざ実行の手段となると、とんと案が出ないという有様であった。 「そこで、わしの出番というわけだな」 沈んだ雰囲気の中、そう発言したのは、当時司隷校尉【首都圏の警察権を持つ官職】の任にあった陽球であった。 陽球、字は方正。幽州・漁陽郡の名門の家に生まれた彼は、「好申韓之学【申不害・韓非−ともに法家の思想家として知られる−の学問を好んだ】」という。修身・立身の為、儒教思想の経典を学ぶのが常道とされていた当時としては、やや珍しい経歴を持つ人物と言えよう。 士大夫の一人として宦官勢力と戦ったにもかかわらず、その伝が「酷吏列伝」に記されているというのは、若い頃人を殺めたという事・後述するその嗜虐性もさる事ながら、その経歴も影響しているのかも知れない。 「なるほど、司隷校尉殿であれば、罪状を暴き立てて逮捕する事もできますな」 「となれば…あとは、王甫とその一党の罪状が分かれば良いのだが…」 「確かにそれは必要だ。しかし、それだけでは足りぬ」 「足りぬとは?」 「いかに確かな罪状を暴き立てても、王甫が陛下のそばにいては、すぐに握り潰されてしまうであろう。それでは、何にもならぬ」 「確かに」 「王甫が不在の折を狙うしかない」 「不在の折…そうか!あやつの休沐日に奏上すれば…で、その後は…」 「そういう事だ。なに、あやつらの事だ。叩けば埃などいくらでも出てくるわ。わしから直接奏上すると何だから、京兆尹【長安地域の長官】の楊文先(楊彪。『四知』という言葉で知られる楊震の曾孫)殿からの報告という事にしてもらえば良い。最近聞いた話だが、連中、あのあたりで何かやらかしたらしいからな」 「それがよろしいな」 「では、王甫めの休沐日を期して、動くぞ。良いな」 「分かり申した」
114:左平(仮名) 2004/03/07(日) 23:16 五十七、 四月。朔に日食があった。 日食は、往々にして不吉な前兆とされるが、もうこの頃になると、少々の怪異などは珍しくもないという感さえある。何しろ、先月も京兆で地震があったばかりなのだから。 ただ、それを、いささか違う思いで見上げる者達がいた。陽球達である。 「あれを見よ。一度は日が消えてしまうが、また再び現れてくる様を。これは吉兆ぞ。我らの働きによって、宦官という闇を除き、漢朝に光を呼び戻すのだ」 先に話し合われた謀を実行する時が、近づきつつあった。 「どうだ?」 「まだ動きはない。…んっ?あの車…。間違いない、王甫のものだ」 「そうか。どちらに向かった?」 「邸宅の方だ」 「そうか…。間違いない。休沐だな」 「と、なれば…」 「あぁ。明日こそが…」 「おっと。それはこれからの話だ。急ぎ、方正殿にお知らせしろ」 「分かってるよ。じゃ、また後でな」 車中の王甫は、そんな事など気付くはずもない。久方ぶりの休沐をどう過ごすか、それで頭が一杯になっていたのである。 「あぁ、全く…。それにしても、四月になったばかりだと言うに、暑くなったものよのぉ。行水でもするかな」 手で顔を扇ぎながら、そんな事を呟いていた。 「そうか、王甫めは休沐に入ったか」 「はい。車が確かに邸宅に向かって行きました。間違いなく、休沐に入ったものと思われます」 機は熟した。今こそ決起の時である。恐れる事はない。大義はこちらにある。 「行くぞ、支度をせよ。上奏するとともに、直ちに王甫どもの捕縛にかかる。遮る者があれば、殺しても構わぬ。良いな」 「はっ!」 (王甫よ。これで貴様も終わりだ。せいぜい今のうちに休沐を楽しむのだな) そう思うと、思わず陽球の口元が緩んだ。 王甫邸− 「ご主人はご在宅かな?」 「はて、どちら様でしょうか?本日、面会なさる方がおられるとはうかがっておりませんが」 「予定などあるはずもなかろう。…司隷校尉の陽方正である!おとなしく致せ!」 「はっ?一体何事…」 「どけいっ!」 取次ぎの男を荒々しく突き倒すや否や、陽球とその配下はずかずかと王甫邸内に入り込んだ。それは、王甫達の逮捕と同時に、京兆で発覚した、銭七千万にものぼる不正摘発の為の家宅捜索であった。 「なっ、何をなさいますか!それは殿のお気に入りの…」 「やかましいっ!口を挟むな!いい加減にせんと斬るぞ!」 「ひっ!」
115:左平(仮名) 2004/03/07(日) 23:17 「何事だっ!」 あたりの騒々しさを聞いた王甫が姿を現した。いかに宦官とはいえ、さすがに宮中随一の実力者。態度は堂々としたものである。 「あっ、殿!そっ、それが…」 「何がどうしたと言うのだ。落ち着いて説明せい」 「これはこれは、王中常侍殿ではありませんか」 王甫の姿を見つけた陽球は、あえて丁寧な態度をとった。相手の警戒心を緩くする為である。 「何だ、陽球。この騒ぎは」 「それがですね。京兆尹殿から、とある事件の摘発があったのですよ」 「事件?そんなもの、わしは知らんぞ」 「そんなはずはないでしょう。これは、あなたの門生がやった事なのですから。なにしろ七千万という大金が絡んでおりますからねぇ…」 「何が言いたい?」 「者ども!こやつがこの件の首魁である!引っ捕らえろ!」 「なっ!?」 王甫が口を挟む間もなく、彼は屈強な男達によって取り押さえられた。腕力では劣るとはいえ、相当に抵抗したから、髪も衣服もぼろぼろになってしまった。 「ええいっ、放さんかっ!わしをどうするつもりだ!」 「どうもこうもないわっ!官の財物を横領した容疑で取り調べるまでの事!引っ立ていっ!」 王甫はなおも陽球を罵りつつ、引き立てられていった。 「さて、次は…王萌・王吉、それに…」 そう言いかけたところで、陽球は口をつぐんだ。 「それに…誰を捕えるのですか?」 「ちと気が重いが…太尉の段紀明だ」 「段太尉を、ですか?しかし、太尉はこの件には関与しておりませんが…」 「そんな事は承知しておる。だがな、段紀明は王甫との関係が深い。数年前には、宦官どもの意を受けて学生達を弾圧したではないか。放っておいては、我らが危うくなるのだ」 「しかし…」 「しかしも何もない!とっとと行かんか!」 「はっ!」 (なるほど、確かに対羌戦の勇将ではある…むざむざ消し去るには惜しい存在ではある…だが、こうするより他ないのだ。俺は間違ってはおらんぞ!) びっくりした部下が駆けていくのをみながら、陽球は、自分にそう言い聞かせていた。
116:左平(仮名) 2004/03/21(日) 22:44 五十八、 段ケイ【ヒ+火+頁】邸に陽球とその配下達が姿を見せたのは、それから間もなくの事であった。 「何事かな?この様な大人数で」 表の騒ぎを聞いた段ケイ【ヒ+火+頁】が姿を現した。まだ、何が起こったのかは分かっていない様子である。 「太尉殿でいらっしゃいますね?」 「そうだ」 さすがは、長きにわたって辺境の地で活躍した勇将である。前線に出なくなってから数年が経つとはいえ、王甫とは、まるで貫禄が違う。この威厳を前にした司隷校尉配下の者達の−いや、陽球自身もだが−額に、冷や汗が滲んだ。喉がからからになるのを感じつつ、陽球はようやく声を絞り出した。 「ご同行願います」 「なに故に?」 一瞬の沈黙が周囲を支配する。確かに、今回彼を逮捕する様な容疑はないのである。 「…太尉殿。貴殿は、王中常侍と親しゅうございますね」 「確かに、王中常侍とは親しく付き合っておるが。それがどうかしたのか?」 「このたび、京兆において大きな事件がありましてね。それに、王中常侍、いや、王甫が関与しておったのですよ」 「ほう。しかし、それがわしと何か関係があるのかな?わしは、その様な事には一切関わってはおらんが」 「そういう問題ではございません!貴殿は、王甫の一党を倒す際の障害なのですからな!ここにおられてはこちらが困るのですよ!」 「わしのどこが障害になるというのだ?捜査を妨害するとでも言うのか?」 「その存在自体が!…むっ、ここでぐだぐだ言ってても仕方がないっ!者ども!引っ立ていっ!」 「そう大声を出すでない。何の事か分からんが、わしがおると捜索するのに不都合だというのなら、同行しよう。それで良いのだな?」 「…では、ご同行願おう」 「うむ」 「殿!」 連行される段ケイ【ヒ+火+頁】をみて、邸内の家人達が叫んだ。これからどうなるのか、その顔には不安の色が浮かぶ。もし主人に万一の事があれば…。それは、自分達にとっても死活問題なのである。 「そう心配するでない。そなた達はここで待っておれ」 周囲の者達の声が皆上ずっている中、ひとり彼の声だけは冷静さを保っていた。 (こやつがわしをどうするつもりかは分からんが、この様な事で取り乱す段紀明ではないぞ) 武人たる者、何があっても冷静さを失ってはならない。その矜持が、彼を支えていた。 その時、段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が遠ざかるのをみた家人の数人が、あちこちに走り始めていたのに気付く者は無かった。 (急ぎお知らせしないと…このままでは殿が…!) 主・段ケイ【ヒ+火+頁】の危難を救うには、かつて主が推挙した者達の助力を乞うしかない。誰が命ずるでもなく、彼らはそう考え、行動を起こしたのである。たとえ主がそれを望まぬとしても、主に仕える者として、手を拱いている事はできなかった。 西へ、東へ、北へ、南へ。彼らは、一心不乱に走り続けた。
117: 左平(仮名) 2004/03/21(日) 22:47 「こちらへ」 「うむ。…ほぅ、これはまた随分な扱いだな」 彼がいざなわれたのは、牢獄であった。特別な設備などは何も無く、一般の囚人が入るそれと変わらない。これは、現職の−この時点では罷免する旨の詔勅はまだ出ていない−太尉に対する扱いとは思えない。 (こやつ、王中常侍ばかりでなく、わしをも罪人とするつもりか) 牢獄自体は、かつて戦った辺境の地の過酷な気候を思えば何という事はないが、この扱いには承服し兼ねるものがある。さすがの彼も少しばかり不機嫌な表情になった。 「いかがなされた?」 「なに、蓐【しとね】に入る事がなかった昔の事を思い出したまでの事よ」 「ほぅ…」 (いつまでそう言ってられるかな) ここまで来ればこちらのものだ。いかに太尉とはいえ、ここでは司隷校尉である自分に絶対の優位がある。長く戦場で鍛えられたとはいえ相手はもう七十過ぎの老人。過酷な尋問の果てに、この男が矜持を失い無様に取り乱す様を見たいものだ。陽球はそんな事まで考えた。そう考えるだけで、心が踊るのである。 「太尉…いや、段紀明殿。しばらくここにおられよ。わしは、王甫の尋問にあたらねばならぬのでな」 そう言い残すと、陽球はさっさと別室に向かっていった。その足取りは、妙に軽やかであった。 「早く吐かんかっ!」「この奸賊めがっ!」 罵声とともに、王甫父子に対し容赦なく杖や鞭が振り下ろされる。まだ尋問が始まってからさほど時間も経っていないというのに、父子の体は既に痣だらけになっていた。肉が破れ、あちこちから血が滲んでいる。 いや、痣や血ばかりではない。時々する鈍い音からみて、何箇所か骨も折られている様である。 「わ、分かった…。話すから…止めてくれ…」 「我ら父子は既に罪に服しておるではないか。せめて父上だけでも大目に見てはもらえぬか」 たまりかねた王甫達はそう哀願した。しかし、それにも構わず、さらに杖が振り下ろされる。 「早く話せ!『全て』話し終わったら止めてやっても良いぞ!」 その様を見つめる陽球の目には、どこか異常な光さえ感じられた。そこにあるのは、敵意などといった生易しいものではない。 (ま、まさかこやつ…) その目に気付いた王萌の背に、寒気が走った。 (こやつ、京兆での疑獄の解明なぞはどうでも良くて、ただ俺達を殺したいだけなのではないか…) 「方正!そなた、我ら父子に何か怨みでもあるのか!」 「怨み?何の事かな?これは尋問であって私的な怨みをどうのこうのと言うものではないが」 「とぼけるでない!我らが関与したという疑獄の件を解明したいのであれば、話そうとしているのになに故間髪も入れずに杖を振り下ろし続けるのだ!これでは体がもたん!」 「ほう、気付いたか。長く要職にありながら、鈍いやつらだな。まぁ、王甫の養子というだけで官位にありついたのだから当然か」 「気付いただと!?まさか!」 「ふん。なんじらの罪は、たとえ死んだところで免れるものではないわ。この期に及んで、まだ大目に見ろだと?ふざけるのもたいがいにしろ!」 「何だと!なんじは、以前は我ら父子に奴僕の如く仕えていたではないか!奴僕が主に背くとは何事だ!この様な事をすれば、いつか己の身にかえって来るものだぞ!分かっているのか!」 王萌は力の限りを振り絞ってそう叫んだ。しかし、それはかえって陽球の気に障った。というか、彼の中の何かが切れた。
118:左平(仮名) 2004/04/25(日) 21:12 五十九、 陽球の顔から嘲笑の色が消えた。その顔は一見穏やかそうに見えるが、それこそ、酷吏・陽球の本性がむき出しになる瞬間であった。 (あ−あ、やっちまったよ…) 捕えられた時点で、この父子の運命は既に決まっていた。しかし、わざわざ余計に苦しむ事もなかろうに。属吏達は、半ば呆れていた。 「うるさいやつだ。口を塞いでしまえ」 「はっ。しかし、口を塞いでは疑獄の件の自白が得られませんが…」 「構わん、やれ。舌を噛み切ったりしてさっさと楽になられてはつまらんからな」 「では…」 「待て。こやつらの穢れた口をふさぐのに、清浄な布など使ってはもったいない。そこらの泥で十分だ」 「はっ?あっ、はぁ…」 「んじゃ!これでも喰らいなっ!」 「んぐっ!」 王萌の口に、足元の泥がねじ込まれた。吐き出そうとしても、屈強な男達の手で手足を押さえ込まれ、口も完全に塞がれているのでどうにもならない。口中に広がる悪味と息苦しさとで、ばたばたともがいた。王甫と王吉は、ただ呆然とするばかりだった。すっかり気力が萎えていたのである。 その様をみた陽球の口元がかすかに動いた。それは、彼の心からの笑みであった。 「あとの二人にもだ」 「はっ!」 「じっくりと痛めつけてやれ。なに、時間はいくらでもある。既に勅許も得ておるのだからな。おっと、顔だけは傷つけるなよ。せっかく市に晒しても、こやつらだと分からなくては台無しだからな」 「…」 (なに故、この様な事に…。我らが党人を弾圧したのでさえ、もっとましだったというのに…) 王甫父子の顔に、恐怖と絶望の色が浮かんだ。勅許が出た以上、皇帝にすがる事もできない。もはやこれまでである。 「思い知るが良い。これが、なんじらに対する民の怒りだという事をな」 それから、どれくらいの時間が経ったろうか。ただの一瞬も止む事なく、王甫父子に向かって杖や鞭が振り下ろされ続けた。もちろん、手加減などあろうはずもない。陽球の本心は、疑獄の解明などではなく、王甫父子の抹殺に他ならないのだから。 単に殺すだけであれば、頭部を強打するだけでも良い。しかし、それでは足りぬ。 (ただ殺しただけでは飽き足りぬ。なぶり殺しにせねば気が済まぬわ。そうでないと、党錮で死んでいった者達の霊も浮かばれぬからな) 陽球は、そう思う事で、自身の内にある嗜虐性に基づくこの行為を正当化しようとした。 まずは、手足の指先から打たせた。しばらく打つと皮が破れ、肉がむき出しになり、骨が砕けた。骨が完全に砕けたのを確認すると、続いて腕と脛を打たせた。さらに、腿と二の腕。そうして、徐々に体幹部に近づいていく。 泥で口を塞がれながらもなお漏れる呻き声は、辺りに血と汗と糞便の臭いが増していくのと反比例する様に、段々と小さくなっていった。 「そうだ、もっと打て。東海には、何でもくらげとかいう骨のない生き物がいるらしいが、その様になるまで打ち続けるのだ」 属吏達を督励する陽球の姿には、明らかに狂気が宿っていた。そこには、普通の人なら一時もその場にいられないであろう、異様な雰囲気が漂っていた。
119:左平(仮名) 2004/04/25(日) 21:14 腹部に至ろうかというところで、ついに王甫の首がぐったりと倒れた。属吏がいったん打つのをやめ、心拍と呼吸の有無を確認する。 「心臓は止まっております。息もありません。死にました」 「そうか、存外早かったな。まだ手足の形がこれだけ残っておるというのに」 「まぁ、年寄りですからね。むしろ、ここまでよくもったものです」 「そうだな。あとの二人もさっさと片付けろ!」 「はっ!」 それからほどなく、王萌・王吉の二人も死んだ。死んだのを確認した後もなお打ち続けて筋骨をずたずたにした為、三人の遺骸は、顔を除くと手足の所在も不明瞭なただの肉塊と成り果てていた。 「ふふ。汚らしいくらげが三つ出来上がったか。次は、段紀明の番だな」 陽球は、微かに震えていた。それは、一つの宿願を果たしたという、至上の歓喜によるものであった。この様な歓喜の様は、家族にも見せた事がない。 その頃、段ケイ【ヒ+火+頁】は一人獄中に座っていた。その姿勢には全く乱れはないが、心中には、いささかの淀みがあった。 (あやつ、王中常侍をどうしているのであろうか…) 王甫と陽球。両者が政治的に対立しているのは知っている。今回、陽球は王甫の隙を突いて逮捕に踏み切った。このまま、彼を葬り去るであろう事は想像に難くないところである。となれば、自分もその巻き添えを食らうという事か。相手の態度如何によっては、こちらも覚悟を決めねばならぬところである。死ぬ事には何の恐怖もない。しかし、自らの尊厳を傷つけられるのはまっぴらである。 そう思っていると、足音がしてきた。 「紀明殿。獄中におられる御気分はいかがかな?」 「なに。何という事はない。あまりに静かなので、思わず眠気を催したくらいだ」 「ほう。それはまた落ち着いておられますな。…そうそう、先ほど、宮中から知らせがありましたよ。先の日食の責を問い、太尉を罷免の上、廷尉に任ずる、とね」 「さようか」 (すると、陛下はこの件をまだ存じておられないのか。今のところは、わしは必ずしも罪人ではないという事か…) 少しほっとした。しかし、陽球のこと。これで済むわけもない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、次の言葉を待った。 「しかし、廷尉の位もいつまででしょうな。…王甫は尋問中に死にましたよ。これで、あやつの有罪は確定です。となれば…王甫との関係が深かった者どもがどうなるかは…もうお分かりでしょう」 (そうくるか。この際、わしも葬り去ろう、と。そういう事か) こうなれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。辛うじて自らの名誉が残されているうちに…。 (ただ、こやつの事。何としてでもわしの名誉を奪い取り、その上で殺そうとするであろう。少しでもそれを回避するには…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、懐中のある物に、そっと手をやった。
120:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:31 六十、 「紀明殿。いかがなされた?」 「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」 「そうですか」 (何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな) 「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」 憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。 「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」 「分かりました。おい、用意しろ」 「はっ!」 (墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…) 直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。 すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。 いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。 並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。 (わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…) (かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…) 心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。 (よし、それでは…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。 附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。 (蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという) 段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。 長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。 もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。 幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。 (辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…) そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。 「まだですかな」 「もうじき…書き終わる」 そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50