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小説 『牛氏』 第一部
124:左平(仮名) 2004/06/13(日) 23:53 六十二、 使者が董卓の在所に着いたのは、出立してからだいぶ経ってからの事であった。いかに急いでも、ここまではやはり遠い。もっとも、公式の第一報が届いたのはそれよりもさらに後だったのだが。 「大事であるっ!至急、殿にお取次ぎ願いたいっ!」 使者の、そして馬の息遣いは荒かった。顔は蒼ざめ、今にも倒れかねないほどである。ただ事ではないのは、事情を知らない者にも一目で分かった。 「しばし待っておれ。すぐに殿に取り次ぐ」 「頼む」 この時、董卓は執務中であったが、使者は直ちに目通りを許された。 「!」 豪気な董卓も、この知らせには一瞬絶句した。無理もない。都にいる董旻は、事件の背景を知っているだけにいくらか心の準備があったのに対し、董卓には全くなかったのだから。 「…直ちに叔穎殿が宮中に赴き、救解に努めておられますが…状況は予断を許しません。なにしろ、司隷殿と王中常侍の対立にまともに巻き込まれた形ですから…。宮廷内の暗闘というものは、我らにははかりかねる代物ですし…」 「そうか」 (旻の動きは、我が想いの通りである。しかし、今のあいつ一人では厳しいな…) 董卓はそう思った。弟の力量を評価していないのではない。ただ、今の董旻はこれといった顕職に就いているわけではない。宮中に対する影響力が殆どないだけに、どんなに懸命に救解に努めても、その効果はあまりないとみなければなるまい。 「わしからも、中央に嘆願の書状を奉る。直ちに書状をしたためるから、そなた、しばし待っておれ」 「はっ!」 出仕以来、一貫して自らを武人と規定してきた董卓にとっては、書状、それも非定型のものは甚だ書き慣れない代物であった。他の用件であれば側近の誰かに全て任せるところであるのだが、こればかりはそうもいかないだろう。 ただ、いい加減な文面では逆効果でさえある。用心するに越した事はない。 「誰か典故に通じた者はおらんか!」 董卓の一声で、直ちに学のあるとおぼしき属官達が呼び集められた。 「いかがなされましたか?」 皆、訝しげな表情をしていた。普段の董卓は至って鷹揚で、細かい仕事は任せきりにしているから、大勢の属官達が呼ばれる事など滅多にないというのに、一体どうしたのであろうか?そういう気持ちがありありとうかがえる。 「今から中央に書状を奉る。内容は、罪状も定かならぬままに捕えられた段公を救解する為の嘆願である。公がいかに漢朝に尽くしてこられたか、そして、その方を失う事がどれほどの損失であるか、条理を尽くして書かねばならぬ」 「はぁ…」 急な事とはいえ、何とも頼りない返答である。皆、ひとかどの教養を持った者達ではあるが、皇帝や高官達の心を動かすほどの文章力があるかとなると、この様子をみる限り、いささか心許なく思える。 「文和がおればあいつ一人で足るのだがな…」 董卓らしくないが、思わずそんなぼやきさえ漏れる。前述のとおり、現在、賈ク【言+羽】は牛輔のもとにいて、その配下である。呼び寄せようかとも思うが、事が事だけに、そういう時間の余裕もない。 「公の功績はわしが今から述べるから、そなた達はそれをもとに書け!わしがそれをまとめる!」 「…?」 「聞こえんのか!さっさと簡と筆、それに墨を用意せんか!」 「はっ、はい!」 董卓の一喝を受け、属官達はばたばたと動いた。
125:左平(仮名) 2004/06/13(日) 23:55 「では話すぞ。よいな、一語一句、書き漏らしてはならぬぞ」 「…はい」 皆、神妙な面持ちである。董卓が「〜してはならぬ」と言った場合、それを守れなかったら後が怖いし、何より、あの董卓自身の神妙さをみると、とてもだらけてなどはおれない。 時は初夏。少し暑いくらいであるが、みな、汗も出ないくらいに緊張していた。 「段公は…鄭の共叔・段(春秋初期の覇者・鄭の荘公の同母弟)を遠祖とし、西域都護・(会)宗の従曾孫であらせられます…」 董卓は、まず段ケイ【ヒ+火+頁】の祖先(とされる人物)の名を挙げた。共叔・段自身は、兄の荘公に叛逆して敗れたというから、歴史上においては、さして傑出した存在というわけではない。しかし、鄭国の初代にあたる桓公・友(荘公、共叔・段の祖父)は周王の子であり、周王室と同じ姫姓という事になるから、それだけでも、どこぞの馬の骨とは違うという証になろう。 この時代にあっては、そういう出自がものをいうのである。強調するに越したことはない。 「段公は…若くして弓馬の道に通じられ、長じては古学を好まれました…」 続いて、その人となりと経歴を語った。実は、若い頃の段ケイ【ヒ+火+頁】は遊侠(任侠の徒)であり、放埓に振る舞っていたが、年を経て学問に目覚め、孝廉に挙げられたという。 その人生はなかなか波乱に富んでおり、最初からおとなしく六経を暗誦していた者とは気構えが違う。 若い頃遊侠であったという履歴は董卓にも重なるものであり、彼は、その経歴を誇りに感じてさえいた。 「段公は…辺境を荒らす鮮卑、羌族をしばしば討ち、伏波将軍(馬援。「矍鑠」という言葉はこの人の故事からきた)もかくやという戦果を挙げられました。…敵は容赦なく殲滅する一方で、兵をいつくしみ、辺境にある間、蓐に入る事もなさらず、ただひたすら漢朝の為に戦ってこられました。…京師(洛陽)に帰還なされた後は、高位を歴任し……」 そう語る中、董卓は胸が詰まる様な思いがした。 段ケイ【ヒ+火+頁】の歩んできた道は、まさに、武人としてのあるべき姿そのもの。自らが理想とするものであった。その人が、今、ゆえなくして投獄されている。 何としても、その人の危難を救いたい。その思いには、一点の偽りもなかった。 董卓の弁舌は、お世辞にも巧みなものではないが、その訥々たる言葉の数々は、その場にいた人々の胸を打つに値するものであった。もし彼が洛陽にあって救解に努める事が出来たならあるいは、とも思われたほどである。
126:左平(仮名) 2004/07/12(月) 00:14 六十三、 董卓の話はかなり長いものとなったが、属官達は、その言葉を漏らさず書き留めた。続いては、その編集である。 「ここの言い方はこれでよいのか?上奏文として問題はないか?」 彼にしては、珍しく文面にこだわりを見せる。普段なら「まぁ、こんなものでよかろう」の一言で終わるところなのに。 (この様な殿のお姿は初めてだ。段公とは、それほどのお方か) 初めはわけも分からずにいた属官達も、徐々に真剣になっていった。 現在では『三人寄れば文殊の知恵』という言葉があるが、仏教がさほど普及しておらず、そういう言い方はなかった当時にあっても、多くの人々が知恵を持ち寄る事の大切さには変わりない。頼りになる賈ク【言+羽】は今ここにはいないが、皆の力を合わせれば何とかなりそうだ。董卓は、そう思い直した。 「修辞上は、他にも言い方があるでしょう。しかし、今回はあまり飾らない方がよろしいかと」 「いや、ここは別の字句を充てた方がよろしいでしょう。飾り過ぎない方がよいというのは同意ですが、やはり荘重さは必要です」 普段は手応えのない連中が、別人の様に雄弁になる。人とは、状況によっていかようにも変わり得るものだ。 「ふむ。他に意見は?」 「殿、ここは意見を求めておられる場合ではございません。殿のお言葉そのままに奏上されるのがよろしいかと…」 「しかし!あまりに生々しい言葉を奉るのはまずいですぞ!これを読まれるのは陛下お一人ではございません。他の高官の心をも動かすには…」 「そもそも殿は羽林郎として出仕なさったお方ですぞ。そのお方が普通の文官達と同じ様に奏上されてもおかしくはないか?」 「うぅむ…それはそうなのだが…」 「他には?皆の意見は?」 「僭越ながら…殿のお言葉は、充分に我々の胸を打つものでした。確かに、修辞上は若干改善すべき点もございましょうが…今は、時間がございません。細かいところは、叔穎殿に任せられてはいかがかと存じます」 「そうだな…。では、直ちにわしの言葉を書状としてまとめるのだ!急げよ!」 「はっ!」 「これを叔穎殿に。大切な上奏文だからな。くれぐれも用心しろよ」 待機していた使者に、上奏文を綴った絹布が託された。実際にはごく軽いものなのだが、やけに重く感じられる。 「承知しておる。ことは一刻を争うのだからな」 「そうだ。…頼むぞ。これには、殿ばかりでなく我らの想いも込められているのだからな」 「それも承知しておる。では、行ってくるぞ」 そう言うと、使者は馬上の人となり、脱兎の如く駆け出していった。
127:左平(仮名) 2004/07/12(月) 00:16 少し気分が落ち着いたせいか、行きに比べると馬の脚が速く感じられた。ふと気がつくと、董旻邸が見える。もう少しだ。 しかし、出立した時と、何か雰囲気が違う。邸の周辺にどこか淀んだ気が纏わりついている様だ。いったい、どういう事だろうか。 (まさか…) 嫌な予感がするが、そう感じるとますます物事が悪い方向に進む様な気がする。彼は、つとめて明るく振る舞おうとした。 「殿の上奏文を持って、ただいま戻りました!門を開けてくだされ!」 くたくたに疲れきってはいたが、あらん限りの力を振り絞って声を発した。 「おぉ…よく戻られたな…」 出迎える者の声がかすれていた。さすがに頬がこけるとまではいかないが、明らかにやつれているのが分かる。邸内にいた者が、ろくに休息もとらずに長々と駆けてきた使者よりも憔悴しているとは…。 「ほれ、殿の上奏文だ!これを早く叔穎殿に渡してくれ!」 「その事だが…」 「どうした!これで段公は助かるかも知れんのだぞ!嬉しくないのか!」 「だ、段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…亡くなられていたのだ…詳しい事は分からんが、自ら毒をあおられたという…」 「!…」 その言葉を聞いた瞬間、使者の膝はがっくりと折れ、その場にへたり込んだ。体中から力が抜けていく様な気がした。自分達の行動は、全て徒労に帰したのか。その絶望感は、何とも形容し難いものであった。 「そうか…道理で、辺りに変な気が纏わりついている様に感じたわけだ…」 「邸内の者は、皆一様に嘆いていて何も手につかぬ有様だ。段公のご家族は、既に都からの退去を命じられ、辺境に流されるとの事だ。殿もこのままでは済みそうにない。よくても官位を召し上げられるだろう…」 「段公のご家族のみならず、殿にまで累が及ぶというのか?」 「そうだ…」 「そんな!殿にいったい何の過ちがあったというのだ!」 「過ちなど、あろうはずもなかろう」 「ではどうして?」 「知れたこと。司隷殿にとって、段公に恩義を受け、しかも兵権を持っている殿が健在でいられると何かと都合が悪いからな…」 「何ということだ!これ幸いと羌族や鮮卑が蠢き出したらいったいどうするつもりなのだ!今の漢朝に、段公や殿にまさる将器はおられないというのに!」 この嘆きは、決して大袈裟なものではない。この数年後に起こった大乱に際して(董卓と同じ涼州の人である)皇甫嵩という名将が出たから、今の我々は、この当時の漢朝に将器がいなかったわけではない事を理解している。しかし、この時点において少なからぬ実戦経験を有しているのは、董卓など、主に辺境にいたごく僅かな将しかいないのである。その彼を失脚させる事の重大さは、健全な危機意識を持つ者には、火を見るよりも明らかな事であった。 「それよりも、自身の地位を保つ事が大事なのであろうよ。あの連中にはな」 そんな憤った感情が、彼らの言葉の端々に現れる。普段ならこんな吐き捨てる様な物言いはしないのだが、そうでもしないと気が治まらない。 「…」 (我ら平民でも分かる事が、高位高官にある方々には分からぬのか…!) 彼らの絶望は、時が経つにつれ、ますます深まっていった。 「とにかく、これからどうするかはまた殿のご指示を仰ぐしかない。中に入ってしばし休もう」 「あぁ…。だが、眠れるかな…」 「いやでも眠っておけ。そなたには、また走ってもらわんといかんからな」 「そうだな…」 二人は、とぼとぼと邸内に入っていった。
128:左平(仮名) 2004/09/05(日) 23:28 六十四、 翌朝−。 「どうだ、眠れたか」 そう聞く者自身、まだ夢うつつの中にいる感がある。あれ以来、邸内の者は皆よく眠れていないのである。 「いや、眠ろうと眼を閉じてはいたのだが…眠りが浅かったな。どうも頭がふらふらする様な感じがする」 「そうか…。じゃ、出立は明日にするか。寝ぼけたままで馬を走らせるのもまずいしな…」 「そうしたいところだが…そうもいくまい。悪い知らせだが…いや、悪い知らせだからこそ、早く伝えねばならないし…」 「そうか…そうだな…。今後の事もあるしな…」 「ところで、王中常侍達の亡骸は晒されていると聞いたが…」 「ああ。なんでも、夏城門のところに磔にされているそうだ」 「それじゃ棄市(斬首後、屍を市に晒す)と変わらんではないか。段公の亡骸は、まさかそんなところにはないだろうな」 「それはなかろう。段公は士大夫だしな。しかし…あの司隷殿だからな。心配なところではあるなぁ…」 「念の為だ。見届けておこう。その後、出立する」 「そうするか」 『賊臣王甫』 磔にされた屍の横に札が掲げられ、大きくそう書かれていた。民衆達がその屍に群がり、叩いたり蹴ったり肉を切り刻んだりする様は、いかに相手が大罪を犯した咎で誅殺された者とはいえ、何とも凄惨なものである。 ここで王甫達に同情的な言葉を吐けば、自分達も直ちにあの様にされるのではなかろうか。そう思わせるほど、王甫達は忌み嫌われていたのである。 しかし、董卓の家人である彼らにとっては、あの段公と付き合いがあったという事があるだけに、そこまで非難する事はできない。 「こ、この屍は…」 「どうだい、驚いたか?」 「そりゃまぁ…。第一、顔以外もう人間の姿じゃないし…。晒されてからまだ何日も経ってないのに、もうこんなになったってんですか?凄いな…」 「まぁな。って言うか…晒された時点でもう顔しか分からない様になってたがね」 「そんなになってたってんですか?」 (司隷殿の事だからただ殺すだけでは済まないとは思ってたが…そこまでするのか) 王甫達への同情はないが、そこまでに至る経過を考えると、思わず背筋に寒気が走った。董卓配下の一人としては、戦場では一歩も引かないという自信があるが、これはまた別ものである。 「ああ。司隷様も、また派手になさったもんよ。おかげで、こっちの楽しみが減っちまったがね」 「…。と、ところで晒されてるのはどういった連中なんです?王甫の他には?」 「ええっとな…。確か、王甫とその養子どもだ。他には…どうだったかな?まぁ、いい意味で名の知られてるやつはいなかったはずだよ」 「そうですか…」 (良かった。段公の亡骸は、どうやらご無事の様だ) それだけが、彼らにとってのかすかな救いであった。
129:左平(仮名) 2004/09/05(日) 23:30 「では…行ってくるな」 「ああ。あと、これを殿に」 「何だ、これは?」 「先ほど、段公の家人から受け取ったんだ。なんでも、公が毒をあおられる前に書かれたものの一部との事だ」 「そうか…これが、段公の絶筆という事か…」 考えれば考えるほど、気が重いつとめである。だが、行かねばならない。 「…」 乗っている人の心理が分かるのであろうか。馬もまた、驚くほど静かに走った。もっとも、息が切れるほどに走った場合に比べても、思ったほど速さは変わらなかったのだが。 「殿に…お取次ぎを…頼む…」 「ど、どうしたのだ?まるで消え入りそうな声ではないか。具合でも悪いのか?」 「これを…殿にお見せいただければ分かる…」 「なに?使いの者が戻ってきたとな?」 「はい。ただ…やけに憔悴しておる様です。あれはどうも、疲れのせいというわけではなさそうです」 「ふむ…。気になるな」 「こちらを…」 「うむ…な!何と!」 「殿!いかがなさいましたか!」 「これは…段公の遺言ではないか!どういう事だ、これは!」 「はい。段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…ですから、私めがここに着き殿にご報告するよりも前に…亡くなられていたのだそうです…。何でも、自ら毒をあおられたそうで…」 「では我らの努力は烏有に帰したという事ですか…。それでそこには何と書かれているのですか」 「う、うむ…。自裁に至る経緯、ご自身の潔白の主張、身辺の整理のご依頼、それに…」 「それに?」 「かつて推挙なさったこのわしに対し…武人としての訓戒を…遺しておられる…」 董卓の脳裏に、前線で颯爽と指揮を振るう段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が浮かび、そして消えた。その姿が消え去った瞬間、自分の中からも何かが消えていく様な、そんな気がした。
130:左平(仮名) 2004/10/11(月) 01:16 六十五、 その数日後。都から公式の使者がやって来た。 それは、王甫達の失脚、それに巻き込まれる形での段ケイ【ヒ+火+頁】の自死、そして…董卓自身が、段ケイ【ヒ+火+頁】に連座し、西域戊己校尉から罷免される旨を告げるものであった。もちろんと言うべきか、次の官位についての言及はなかった。 自身の罷免自体には、さしたる驚きはなかった。そもそも、公式の使者が着く以前にこの情報を入手していたのだから、一応の覚悟はできている。だが、分かってはいても、董卓の心身への衝撃は大きいものがあった。 あの日以来、どうも体の調子が思わしくない。今までこれといった病になった事のない彼にとっては、あらゆる意味で、どこか重苦しい日々が続いていたのである。 「皆の者。本日をもって、わしはこの地位を去る事になった。後任の方がどなたであるか、その方の方針がいかなるものであるかは、おって沙汰があるからそれを待つ様に。それまで、滞りなく各々の職分を全うするのだ。よいな」 離任する董卓の声には全く張りがなく、その失意のほどがありありとうかがえた。 無理もない。これは、連座による失脚なのである。自身の過ちによるものであればいずれ挽回する機会もあろうが、そういう性質のものではないだけに、彼自身の力では如何ともしがたく、それだけに精神的にこたえるのである。 段ケイ【ヒ+火+頁】を自死に追いやった陽球が高位にある限り、官界への復帰の目処はまずなかろう。いや、陽球が致仕(官職を辞する≒引退)したとしても、その影響力が残っている限りは…。 蓄えは十分にあるし、所有している土地や家畜からの収益があるので、とりあえずの生活には困らないとはいえ、官界に身を置く者としては、これほど惨めな事はない。下手をすると、生涯、その手腕を振るう機会を奪われてしまうのであるから、無理もないところではある。 「はっ!我ら、謹んで自らの職務を全ういたします!」 そう答える属官達の声にも、董卓と同様、冴えがなかった。それもそのはず。彼らにとっても、これは決して望ましい事態ではないのである。いかに連座によるものとはいえ、上司が何らかの咎を受ける形で罷免されたとなると、彼らの将来にも良からぬ影響をもたらすに違いないのだから。 その思惑に多少の違いがあるにせよ、彼らの前途は決して明るいものではない。別れの席は、普段の彼らにはそぐわない、至って湿っぽいものとなった。 かくして、董卓は十数年ぶりに無官の身となった。 このあたりの人士で、彼ほど「謹慎」という言葉が似合わない者はいないであろう。それは、自他共に認めるところである。ましてや、この件について言えば董卓自身には全く非はないのであるから、何らかの形で一暴れしそうなところである。 しかし、自邸から一歩も出ない日々が続いた。いったい、どういう事だろうか。 「分からんな」 周囲の人々は、皆、一様に首を捻った。それもそのはず、本人でさえ、その理由は分からなかったのである。
131: 左平(仮名) 2004/10/11(月) 01:16 「ねぇ、あなた。いったいいかがなさったのですか?ここのところ随分ごぶさたですし、室からもあまりお出にならないし…」 謹慎?し始めてから数日が経ったある日、瑠がそう切り出してきた。もう二十年以上も連れ添ってきた妻でさえ、今回の彼の沈黙に対する戸惑いは隠せないのである。 「瑠か。いや、それがな…。どういうわけか、何もする気が起こらんのだよ」 そう答える董卓の声は、相変わらず張りが乏しい。気のせいか、顔色もすぐれない様に見える。 「何もする気がしない?どういう事ですか?」 「それはわしにもよく分からんのだ。普段なら、こんないい天気だ、狩りにでも出るか、それでもって、鹿の一頭も仕留めてやるか、と張り切るところなのだがなぁ…」 「それは…。あなた、ひょっとして、どこかお悪いのではないですか?ここのところ、気疲れなさっていた様ですし…」 「そうだな…。段公の事があったからなぁ…」 「段公の事は…。お気持ちは分かりますが、いつまでもあなたが気落ちなさっていても…」 「うむ…」 「一度、診ていただいた方がよろしいのではないですか?」 「そうだな。鍼でも打ってもらって楽になるか」 「そうですよ。そうなさってください」 「ふむふむ…」 診察は、思ったよりも長いものとなった。もちろん、診察が済みもしないのに鍼を打つという事はない。 「いかがですか」 「これは…ちょっと難しいですな」 「む、難しいとは?治らないとでも?」 「いや、そういうのとは違います。…ご存知のとおり、私が扱っておりますのは鍼です。お体に何かしらの病巣があるというのでしたら、それが膏肓(こうもう:心臓の下、横隔膜の上。鍼灸では手の打ち様がない所)にでもない限りは、何とか致しましょう。しかし、今の殿様の患いには形を持った病巣はございません。ですので、私にはどうにも出来ないのです」 「病巣は無い、とな…。では、どうして気分がすぐれぬのだ?」 「それは、ご自身がよくご存知でしょう。ほら、『病は気から』という事ですよ。近頃、気落ちする様な出来事はありませんでしたか。ありましたよね。そのせいです」 「気、か…。確かに、覚えはある…」 「ですから、何か気晴らしをなさるのがよろしいかと。今のところ、私からはそれくらいしか申し上げられません」 「分かった」 (気晴らし、か。では、やはり狩りにでも出るか…) いま一つ気乗りがしないが、今の彼にとっての気晴らしは、それくらいしかない。 「皆の者。明朝、晴天であったら狩りに出るぞ。支度をしておけ」 「はっ、承知致しました」 (これで殿がよくなってくだされば良いのだが…) 家人達にとっても、主君の体調は気がかりなのである。
132:左平(仮名) 2004/11/23(火) 22:33 六十六、 翌朝−。 家人達の願いが叶ったのであろうか、見事な晴天となった。夜明けとともに邸内に陽光がさし込んでくるその様は、一種の神々しささえ感じさせた。 「よい日和だ。これならば…」 家人達も、がぜん張り切っていた。正直言って、彼らにとっては主の官位などはどうでもよい事。ただ、主が気落ちしていると、邸内の全てが暗くなってしまう様な気がするだけに、何としてでも今日の狩りをよいものにしたいところである。 「うむ。よく晴れたなぁ…」 起き上がり、天を見上げてそう言ったところで、董卓はふと軽いめまいを覚えた。 (う、うむ…。どうした事かな。これはいかん。だが…皆が今日の狩りを楽しみにしておるからなぁ…) 相変わらず、どうも気分がすぐれないのだが、今になって自分が行かないと言うわけにもいかない。いくら豪放な彼でも、配下の者達に余計な心配をさせるほど無頓着ではないのである。 「よし。支度は整ったな。では行ってくるぞ!」 「はい!お気をつけて!」 そう言うや否や、董卓と配下達は猛然と門を出て馬を走らせた。戎衣こそ身にまとってはいないものの、その様は、狩りではなく出陣かと見紛うほどに勇壮なものであった。 「おぉ、董氏が狩りに出られたのか。また賑やかな事で」 近隣の人々は、口々にそう言いあった。言葉尻だけ捉えると厭味に聞こえるかも知れないが、彼らには、董卓に対する悪感情は無い。 「やはり、こうでないとな」 ふと誰かがもらしたこの言葉が、彼らの思いを代弁していた。やはり、普段どおりでいてもらうのが一番落ち着くのである。 しばらく駆けたところで、一行の足が止まった。 「ここらあたり、いかがでしょうか」 配下の一人がそう言い出した。彼は、この日の為に何回も足を運んで実地を検分している。その自信からか、その表情はすこぶる明るい。 「うむ…。草木も程よくあり、水もあるな。これなら、獲物も多そうだ」 さすがに血が騒ぐのか、董卓の顔にも幾許かの明るさがみられた。誰もが、この日の狩りの成功を信じて疑わなかった。 「殿!ごらん下され!」 「おっ!これはまた大物だな!よし、皆の者!行くぞ!」 「おぅ!」 「それそれぇ−っ!」 主が邸内に篭もっていた為にしばし無聊をかこっていたとはいえ、さすがに歴戦のつわもの達である。ひとたび獲物を見つけるや、巧みな動きで徐々に徐々に獲物を追い詰めていく。 いつしか、包囲の輪が数丈程度に縮まっていた。頃合は良し。そろそろ、仕留めるか。皆がそう思ったその時、董卓の合図が下った。 (さすがは殿。このあたりの勘はまだまだご健在だ) 家人達の心に、安堵感が広がった。それなら、存分に働くとしよう。 「よっしゃぁ−!行くぞ−っ!!」 「おぉ!!」 そう叫んだかと思うと、皆、一斉に獲物めがけて突進していった。猛烈な砂埃が舞い、血と汗の臭いが辺りに立ち込める。
133:左平(仮名) 2004/11/23(火) 22:34 「皆の者、首尾はどうだ?」 一段落ついたところで、董卓は、そう聞いてまわった。長時間駆け回り獲物と格闘した為、さすがに皆の呼吸は荒いものの、総じて機嫌の良さそうな顔をしている。今日の狩りは、成功裏に終わったと言えそうだ。 「殿、ご覧下され。この通りです」 家人の一人が、満面の笑みを浮かべて獲物を差し出した。 「うむ。それは何より…」 そこまで言いかけたところで、董卓の脳裏に、ある記憶が浮かんできた。 (そういえば、いつか、この様な事があったなぁ…) それは、董卓が段ケイ【ヒ+火+頁】の推挙によって、三公の掾(属官)に任官した頃の事である。 任官の祝いも兼ねて、段ケイ【ヒ+火+頁】とともに狩りに出た事があった。その日も、今日と同様晴天に恵まれ、獲物も多かった。 ともに涼州の出身で、勇将。なおかつ、若き日には遊侠を自任していたという様に、その経歴に共通点が多いという事もあってか、二人はどこか気が合った。 段公は、自分の事を高く評価していた。董卓はそう信じていた。それは、決して妄想ではない。そうでなければ、段公ともあろうお方が、あの様な言葉を口にするはずもないからだ。 「公よ、いかがですか」 「ほほぅ、なかなかやるな。わしの目に狂いは無かった。嬉しいぞ」 「過分なまでのご褒詞を賜りまして、董仲穎、これほど嬉しい事はございません」 「なになに、ちっとも過分ではないぞ。…わしはむやみに人を褒めたりはせん。本心からそなたの力量を買っておるからこそ、こう言っておるのだ」 あの日、段公に褒められた事が心底嬉しかった。あの日の自分は、今のこの男の様に、満面の笑みを浮かべていたのであろうか。 「若い頃のわしと比べてもいささかも劣らん。いや、武芸についてはまさっておるかな」 「ご謙遜を。公はまだまだ壮健にあらせられるかと存じますが」 「わしももう年だからな、さすがに無理はきかん。もう前線に立つ事はなかろう」 「そうなのですか…。しかし、公でしたら、きっと三公の位にまで昇られるかと存じます」 「ふむ、そうかな。まぁ、それはそれだ。仲穎よ」 「はい」 「頼むぞ」 「は?何を…」 「これからの辺境の守りを、だ。わしがいなくなったとなると、また賊どもが暴れるやも知れんからな。その時、漢を守るのはそなただ」 「は、はい!」 「その事を忘れるでないぞ。良いな」 「董仲穎、そのお言葉を決して忘れませぬ」 「うむ」 その時の段公の顔には、何とも言えないほどの笑みが浮かんでいた。 あの日、皆上機嫌だった。あの日…。もう決して戻ってはこないあの日…。
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