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小説 『牛氏』 第一部
127:左平(仮名) 2004/07/12(月) 00:16 少し気分が落ち着いたせいか、行きに比べると馬の脚が速く感じられた。ふと気がつくと、董旻邸が見える。もう少しだ。 しかし、出立した時と、何か雰囲気が違う。邸の周辺にどこか淀んだ気が纏わりついている様だ。いったい、どういう事だろうか。 (まさか…) 嫌な予感がするが、そう感じるとますます物事が悪い方向に進む様な気がする。彼は、つとめて明るく振る舞おうとした。 「殿の上奏文を持って、ただいま戻りました!門を開けてくだされ!」 くたくたに疲れきってはいたが、あらん限りの力を振り絞って声を発した。 「おぉ…よく戻られたな…」 出迎える者の声がかすれていた。さすがに頬がこけるとまではいかないが、明らかにやつれているのが分かる。邸内にいた者が、ろくに休息もとらずに長々と駆けてきた使者よりも憔悴しているとは…。 「ほれ、殿の上奏文だ!これを早く叔穎殿に渡してくれ!」 「その事だが…」 「どうした!これで段公は助かるかも知れんのだぞ!嬉しくないのか!」 「だ、段公は…叔穎殿が参内なさった時には既に…亡くなられていたのだ…詳しい事は分からんが、自ら毒をあおられたという…」 「!…」 その言葉を聞いた瞬間、使者の膝はがっくりと折れ、その場にへたり込んだ。体中から力が抜けていく様な気がした。自分達の行動は、全て徒労に帰したのか。その絶望感は、何とも形容し難いものであった。 「そうか…道理で、辺りに変な気が纏わりついている様に感じたわけだ…」 「邸内の者は、皆一様に嘆いていて何も手につかぬ有様だ。段公のご家族は、既に都からの退去を命じられ、辺境に流されるとの事だ。殿もこのままでは済みそうにない。よくても官位を召し上げられるだろう…」 「段公のご家族のみならず、殿にまで累が及ぶというのか?」 「そうだ…」 「そんな!殿にいったい何の過ちがあったというのだ!」 「過ちなど、あろうはずもなかろう」 「ではどうして?」 「知れたこと。司隷殿にとって、段公に恩義を受け、しかも兵権を持っている殿が健在でいられると何かと都合が悪いからな…」 「何ということだ!これ幸いと羌族や鮮卑が蠢き出したらいったいどうするつもりなのだ!今の漢朝に、段公や殿にまさる将器はおられないというのに!」 この嘆きは、決して大袈裟なものではない。この数年後に起こった大乱に際して(董卓と同じ涼州の人である)皇甫嵩という名将が出たから、今の我々は、この当時の漢朝に将器がいなかったわけではない事を理解している。しかし、この時点において少なからぬ実戦経験を有しているのは、董卓など、主に辺境にいたごく僅かな将しかいないのである。その彼を失脚させる事の重大さは、健全な危機意識を持つ者には、火を見るよりも明らかな事であった。 「それよりも、自身の地位を保つ事が大事なのであろうよ。あの連中にはな」 そんな憤った感情が、彼らの言葉の端々に現れる。普段ならこんな吐き捨てる様な物言いはしないのだが、そうでもしないと気が治まらない。 「…」 (我ら平民でも分かる事が、高位高官にある方々には分からぬのか…!) 彼らの絶望は、時が経つにつれ、ますます深まっていった。 「とにかく、これからどうするかはまた殿のご指示を仰ぐしかない。中に入ってしばし休もう」 「あぁ…。だが、眠れるかな…」 「いやでも眠っておけ。そなたには、また走ってもらわんといかんからな」 「そうだな…」 二人は、とぼとぼと邸内に入っていった。
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