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小説 『牛氏』 第一部
2:左平(仮名) 2003/01/01(水) 00:33 一、 「父上、輔です。お呼びでしょうか」 「輔か。ちと話がある。入れ」 「では、失礼します」 そう言うと、青年は父の居室に入った。季節は、冬から春に変わろうとしており、柔らかな日差しが室内に差し込んでいる。 これより少し前の建寧二【西暦169】年に、中央では「党錮の禁」(第二次)という大事件が発生していたのであるが、この地には、その影響は及んでいない。 (一体何の話だろう?) 彼には、父が話そうとしている事が何であるか、さっぱり分からなかった。 ここは、涼州・隴西郡、狄道。旧都・長安から渭水を遡り、さらに西方にある邑である。中原の人々から見れば、辺境としか言い様のない所だが、彼ら牛氏一族は数代前からこの地に住み続けている。 彼らの遠祖は、殷(商)王朝最後の王にして暴君としての伝説で知られる紂王の兄で、春秋・戦国時代の宋国の祖である微子啓とも言われるが、事実は定かではない。 伝説が事実であるならば、彼らの出自は中原という事になるのであるが、では何故、この地にいるであろうか。それは、数代前の先祖である、牛邯に遡る。 牛邯、字は孺卿。漢が王莽によって簒奪され、天下が乱れた時、彼は、隴西に割拠した隗囂という群雄に仕え、有力な部将として活躍していた。だが、建武八【西暦32】年、光武帝の意を受けた知人・王遵の説得に応じ、光武帝に帰順した。 これがきっかけで、隗囂配下の大将十三人・属県十六、軍士十万余人が光武帝に投降し、形勢は一気に光武帝有利に転じたというのであるから、結果的には、彼の帰趨が両勢力の命運を左右したといえる。牛邯は、それほどの大物であった。 帰順後、班彪(『漢書』の著者・班固の父)の提言により設置された護羌校尉(羌族を統御管轄する官。治所は狄道に置かれた)という官に任ぜられ、対西方の重責を担った。彼が亡くなった途端、羌族が叛乱を起こしたという事からしても、その存在の大きさが伺える。護羌校尉という官職は、その後廃止されていた時期もあるし、牛氏一族が多く任ぜられたというわけでもない。 しかし、牛氏一族は、牛邯を誇りとし、あえて狄道に留まり続けた。 狄道に留まるという選択は、決して楽なものではなかった。漢王朝が羌族に対して移住政策をとった結果、狄道の周辺は漢人よりも羌族が多く、しかも、羌族はしばしば叛乱を起こしたからである。 中でも、安帝の御世に起こった叛乱は凄まじく、数万の漢軍がたびたび敗北を喫したのみならず、諸郡の治所を内地に撤退させたほどである。その時には、隴西郡の治所も狄道から襄武へ移され、牛氏もしばしの流浪を余儀なくされた。それだけに、牛氏一族の、羌族に対する敵対意識は強かったのである。 もっとも、羌族からすると、「叛乱するは我にあり」という気持ちであったろう。なにしろ、彼らは歴史にその名を表してからというもの、その殆どの時期において、中華によって抑圧されてきたのだから。 太古・殷王朝期においては、彼らはしばしば狩りや生贄の対象とされた。儀礼においては、「羌三十人を宜(ころ)す」とか「百羌を箙(ひら)き」という様に、人ではなく獣として扱われていたのである。 一部の者は抑圧に耐えかねて蜂起した。西方において実力を蓄えていた周に呼応して殷王朝を打倒した彼らは、その功によって各地に封ぜられた(斉国の祖である太公望もその一人であるという)。領地を与えられた者達は、広く婚姻関係を結び、徐々に中原の人々に同化していったのである。しかし、その他の少なからぬ者達は、さらに西方に移っていった。 もともと羌族は、羊を飼いならして各地を移動し、山岳を信仰の対象とする穏やかな民であったという。しかし、長きにわたる抑圧と、西方騎馬民族の影響を受けた事で、徐々に、戦闘的な騎馬民族の性質を持つ様になっていった。
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