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小説 『牛氏』 第一部
7:左平(仮名) 2003/01/05(日) 23:56 「おぉ、瑠か。どうだ、そなたも飲むか?」 「そう言われれば飲みますけど…。いいのですか?お仕事の方はいかがなさったのです?」 「あぁ、だいたい片付いてるし、明日は休みだ。構わんよ」 「じゃぁ…」 そう言うと、彼女は夫の横に座り、その体にもたれかかった。 「ねぇ…」 彼女は、甘えた声を出し、目を潤ませながら夫を見つめる。董卓の方も、まんざらでもない様である。 「あ…。わ、わたしは、もう寝ますね。おやすみなさ−い」 二人の様子を察したのか、姜は、さっさと自分の居室に入っていった。その動きは、どこかぎこちない。 「あら、あの子ったら。もう男女の事を意識してるのね」 「そりゃそうだよ。あいつも、もうすぐ嫁ぐんだからな」 「早いものですねぇ…。わたしがあなたのもとに嫁いでから、もうそんなに経つんですね。わたしも、年をとるはずです」 「まぁ、あの頃より多少年はとったが…。こっちの方は、まだまだ盛んだな」 そう言いながら、董卓は瑠の胸に手をやった。数人の子を育ててきた乳房は、嫁いできた頃よりも豊かになり、触り心地も良い。 「あんっ。もぅ…あなたったら…」 瑠は、酒もあってか、少し顔を赤くしている。肌は上気し、声には、何ともいえぬつやがある。その姿が、董卓をいたく興奮させるのである。 二人は、互いの帯を緩めた。衣がするりと落ち、二人の裸体があらわになった。二人は、もつれる様にその場に横たわった。董卓の手が、口が、瑠の体をくまなく愛撫すると、瑠の体につやが増し、呼吸が荒くなっていく。やがて二人が交わると、瑠の喜悦の声があがる。それは長々と続いた。 (お父様とお母様は、一体何をやってるのかしら) 床にもぐり込んだ姜ではあったが、聞こえてくる母の嬌声に、興奮を禁じ得なかった。それ自体は小さい頃からしばしば聞いてきたものであるが、自分の結婚が決まったとなると、なおさら意識させられる。 このくらいの年頃になると、そういうものに対する意識が鋭くなるものなのである。 (男女の事って、そんなにいいものなの?) 目がさえて、ちっとも眠れない。する事もないまま、姜は、自分の敏感なところにそっと手をやった。しばらく手をおき、その指先を見ると、かすかに湿っている。いつもと、何かが違う。 (結婚したら、伯扶様がわたしの体を…こういうところも…あぁ…) 眠気と妄想とが交錯する中で、姜は眠りに落ちていった。
8:左平(仮名) 2003/01/13(月) 21:06 四、 同じ頃。月を眺めつつ、酒を呑む男がもう一人いた。牛輔の父である。 (輔も、もうそういう年なんだな。月日の経つのは早いもんだ。あれから、もう二十年以上も経つのか…) そう感慨にふける彼の脳裏に、二十数年前の事が、鮮やかに思い起こされた。 その時−−彼は、一族とともに狩りに出ていた。夏の、暑い日であった。その日は、思ったほどの獲物は得られず、ひたすら野山を駆け回ったので、喉がからからに渇いていた。 (み、水は…) そう思いつつ野を進むうち、草むらが見えた。まわりより草が育っているところを見ると、近くに泉か川があるらしい。彼は、そちらに足を向けた。 思ったとおり、そこには泉があった。水は十分に清く、これなら飲めそうである。彼は、馬に水をやり草を与えるとともに、自分もその水を飲んだ。渇いた喉にとって、その水は実にうまいものであった。 ひと心地ついてみると、他の者からはぐれている事に気付いた。まぁ、もう子供でもないし、日も高い。慌てるほどの事ではない。 「さて、と…」 顔をあげた彼の目に、人の姿が映った。若い女性である。彼女もこの泉の水を飲んでいたところであった。 「あ…」 互いに初対面である。もう子供ではないが、かといって、異性を熟知するほどにはすれていない。二人は、ほぼ同時に顔を赤らめ、心もち下を向いた。 しばらくそんな状態が続いた。ようやく顔を上げ、勇気を振り絞って声をかけた。 「はっ、はじめまして! …お、お名前は?」 (なっ、何を言ってるんだ、俺は。初めて会う人に対してそう言うか?) 彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。相手は気を悪くしないだろうか。そんな不安が頭をかすめる。 「わっ、わたしは…。り、琳と申します…」 そう言った彼女は、手で口元を押さえ、うつむいたままである。男を目の前にして、恥じらっているのであろうか。少なくとも、気分を損ねたという事はなさそうである。少しほっとした彼は、気をとりなおして話しかけた。 「琳さんですか。いいお名前ですね。私の名は朗、牛朗と申します」 「朗さん、ですか…あの…」 「いかがなさいました?」 「あなたも…いまこの泉の水を飲まれたのですね?」 「はい…」 「では…あなたと…同じ水を…この唇が…」 そう言ったまま、彼女はなおもうつむいたままである。顔は、ますます赤くなっている。 そんな彼女に目をやったまま、彼も、動けなかった。 (きれいな人だなぁ…こんな人と一緒にいられたら…) 傍から見ると、呆けている様に見えたかも知れない。まさしく、一目惚れであった。 「お−いっ、朗、どこだ−っ」 沈黙は、その呼び声で破られた。ぐずぐずしていると、後で怒られそうだ。 (いけねっ。そう言えば、日も傾いてらぁ) 慌てて、彼は立ち上がった。彼女の姿をもうしばらく見ていたかったが…そうもいかない。
9:左平(仮名) 2003/01/13(月) 21:09 「では、琳さん。私は帰らないといけないので」 「あの…。朗さん」 「何でしょうか?」 「また…お会いする事はできませんか?」 「えっ? いや…その…」 意外な言葉であった。彼女の方も、自分に気があるのだろうか?だとすれば、願ってもない。 「そうだ、来月には、またここに来ると思います。その時に、ここで」 「はいっ!」 喜色を全身に表す彼女の顔が、輝いて見えた。その笑顔が、彼の脳裏に鮮やかに焼き付けられた。 それからの一ヶ月は、毎日が異様に長く感じられた。早く狩りの日が来ないものか、そればかりが待ち遠しかった。 「どうした、朗。最近、えらく落ち着きがないが」 そう聞いてくる者もあった。 「いや、次の狩りが楽しみで楽しみでたまらないんです」 「おかしなやつだな。こないだの狩りの時は、ちっとも楽しそうじゃなかったくせに」 「まぁ、あの時はあの時という事で」 彼は、そうとぼけるのであった。 そして、次の狩りの日が来た。その日は、まずまずの収獲であった。が、彼の目指すものは、そういうものではなかったのは言うまでもあるまい。 (琳さんは来てくれるだろうか) そう思いながら、記憶を辿りつつその泉に向かっていた。一月経っているので、草の生え具合も多少異なっている。が、この泉に間違いあるまい。 しばらく待っていたが、彼女の姿は見えない。 (やっぱり、そんな簡単に来てくれるわけがないか) そう、諦めかけたその時である。 草をかき分け、人影が現われた。忘れもしない、琳である。その後ろには、羊たちがついて来ている。こないだは気付かなかったが、そういえば、あの時も羊がいた様な…。 (羊を連れている…。琳さんは、ひょっとして羌族の女?) そんな疑問がわいてきたが、すぐに意識から消えた。何より、想い続けた人の姿が目の前にあるのだから。その姿は、やはり美しかった。彼は、自分の想いが強まっている事を感じた。 「お久しぶりです、琳さん。来てくださったのですね?」 「えぇ。…お会いできて、嬉しゅうございます」 そう言う彼女の瞳が、潤んでいる。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきたかと思うと、いつの間にか、彼女の顔が目の前にあった。 「りっ、琳さん…」 体が、思う様に動かない。言葉を発しようとするが、然るべき言葉も出ないし、口も動かない。ただ…両腕を伸ばし、彼女の体をこちらに引き寄せる事を除いては。 二人の体が、密着した。牛朗が、琳を抱きしめたのである。 彼女の温もりが、息遣いが、匂いが、鼓動が伝わってくる。その全てが、彼の心を激しく躍らせる。いや、彼ばかりではない。彼女もまた、彼の全てに心を躍らせているのが分かる。 (このまま…こうしていたい…) 二人とも、同じ事を考えていた。
10:左平(仮名) 2003/01/19(日) 21:37 五、 「琳さん…」 「はい」 「私と…ずっとこうして頂けますか」 「それは…夫婦になろう、という事ですか?」 「…そうです…」 「わたしも…そうなりたいです。ですが…」 「ですが?」 「あなたは、隴西の牛氏の方ですよね?」 「えぇ…」 「わたしは、羌族の女です。それも、お分かりですか?」 「羊を連れていたから、何となくはそうかなと思いましたが…」 「あなた方隴西の牛氏と、わたし達羌族との事はご存知ですよね?」 「えぇ。承知しております。でも…この気持ちに嘘偽りはありません。あなたを知った以上、他の女と夫婦となる事は考えられません」 「わたしもです。どうしましょうか…」 「旬日(十日)、待っていただけませんか?」 「一体、どうなさるのですか?」 「何とか、一族の者と話をつけてみます。…旬日の後、またここで」 「はい」 二人にとっては、生涯で長い十日間となった。どちらの一族も、この結婚には大反対であったからである。その説得は、骨が折れるものとなった。 牛朗は、琳が羌族である事を隠しつつ話したのであるが、それでも困難であった。隴西の名門・牛氏としては、然るべき名家から妻を迎えるべきであるというのが当然とされていたからである。野で知り合った女など、どう見ても庶民の娘であろう。家格が合わぬと言われれば、それを論破するのは難しい。 琳の方は、なお困難であったろう。なにしろ、相手は漢人、それも牛氏の男である。羌族の敵と言っても過言ではない一族の男。どうしてそんな男と、と責め立てられたらしい。 しかし、障害が大きい故、想いはますます強くなっていく。そして、その日が来た。 結局、一族の説得はうまくいかなかった。琳の方はどうだったろうか。彼女を待ちながら、彼は、ある決心を固めていた。 琳が姿を見せた。いまひとつ、表情が冴えない。彼女の方も、説得は失敗したという事か。 「琳さん、いかがでしたか?」 「…」 言葉はなかった。 「そうですか…。こうなれば、非常の手段しかありますまい」 「非常の手段?」 「えぇ…。こうするのです!」 牛朗は、そう言うなり、いきなり琳を抱きしめた。そして、彼女が戸惑うのも構わず、強引に唇を押し当てた。初めは戸惑っていた琳であったが、すぐに受け入れた。 二人はしばらく抱き合っていた。 「ねぇ。さっきおっしゃった『非常の手段』っていうのは、一体…?」 「説得して認めてもらえないのなら、強引に認めさせようって事ですよ。私達がいま何をしたかは、分かるよね?」 「えぇ。朗さんったら、強引なんですもの」 そうは言いながらも、嬉しそうである。こうなる事は、彼女も望んでいたのだから。
11:左平(仮名) 2003/01/19(日) 21:38 「私達の関係がただならぬものとなれば、双方とも、追認するしかないはずです。あなたは既に男を知ってしまったし、私も、他家の女に手を出してしまった。あなたを私以外の男に嫁がせる事は難しいし、私も、あなた以外の女を妻に迎える事は難しい。そんな事をすれば、双方の家名は落ちてしまうでしょうから…」 「えぇ。そうなりますね」 「もちろん、危険な賭けなんだけど…他に考えつかなかった…」 「ねぇ、朗さん」 「どうしました?」 「行きましょ」 「どちらへ?」 「わたしの集落へ」 「いいですけど…どうなさるのです?」 「二人の仲をみんなに見てもらわないと」 それが何を意味するか。二人ののろけっぷりを見てもらうという様な、ほのぼのしたものではないという事は言うまでもない。 「そうですね」 下手すると、命がけである。だが、彼女とならば悔いる事はない。 二人は、同じ馬に乗って駆けた。 「あれがわたしの生まれ育った集落です」 「琳さん、いきますよ。…覚悟はよろしいですか? もぅ二度とここには戻れないかも知れないんですよ」 「構いません。あなたといられるのでしたら」 「琳さん…」 二人を乗せたまま、馬は集落に突入した。 「あっ、あれは…」 「琳さん! その男は一体…」 二人の姿を目にした人々は、口々にそう叫んだ。男女が同じ馬に乗るなど、漢人のみならず、羌族でも普通有り得ない事である。おまけに、男の方は誰も知らない。何故、琳とその男が同じ馬に? 「琳! おまえ…」 驚き戸惑う人々の中に、ひときわ堂々とした男が立っている。この集落の長であろうか。 「お父さま! わたしはこの方に嫁ぎます!」 (えっ!? 琳さんはここの族長の?) 牛朗は、少し驚いた。族長の娘となれば、彼女にかかった圧力は相当なものであったろう。それだけに、彼女の覚悟のほどがうかがえる。 (琳さん…) ますます、いとしさが募る。 「何を言っておるか! その男が何者であるか分かっておろう!」 「えぇ! でも…わたしたちは、もうそういう仲になったんです!」 「何と!」 それで、皆黙り込んだ。もう、二人を止める事はできない。 それを見届けると、二人は集落の外に駆けていった。その一部始終をじっと見つめる子供がいた事には、皆気付かなかった様である。 「朗さん、驚かれました?」 「まぁね。…まさか、琳さんが族長の娘さんだったなんてね」 「お気を悪くなさいましたか?」 「いえ。かえって、あなたへの想いが深まりましたよ。私の為にここまでしてくれるのかって」 「嬉しいっ」 琳がぐっと抱きついてくる。彼女の体温が、衣を通じて伝わるのを感じる。 「さぁっ。次は、私の番ですね」 二人は、そのままの勢いで、牛氏の邸宅になだれ込んだ。
12:左平(仮名) 2003/01/26(日) 00:43 六、 「あっ…!」 門を守る家人は、驚きを隠せなかった様で、しばらく動かなかった。二人は、馬から降りるとそのまま牛朗の居室に入り、もつれ合う様に倒れ込んだ。 牛朗は、男女の事については初めてである。おおよその事は知っているつもりであるが…。慌しく衣を脱ぐと、互いの体を愛撫し合う。 どうすれば、相手が悦んでくれるだろうか。試行錯誤しながらも興奮は募る。二人の呼吸は早くなり、体からは汗がにじみ出る。 (えっと…この先は…) 琳は、男を受け入れる態勢になりつつある様だ。自分のものも、もう張っている。さて、この先は… 現在では、義務教育の段階で性教育が為されるし、様々な媒体があるので、結婚する男女は、経験の有無にかかわらずその方法を(一応は)了知している。しかし、この当時には、そういうものは殆どない(前漢後期に春宮画【日本でいう春画。男女の性愛の様子を描いた画】の原型ができたらしいが、この当時、一般の豪族の家庭にあったかどうかは不明である)。 「朗さん」 「えっ?」 「これを…ここに…」 琳は、顔を赤らめつつ、朗のものに軽く触れると、自分のところを指し示す。 (そっか…。琳さんは、羌族の女だったな。羊の繁殖の様子を見てるから…) 牛朗は、変に納得した。 「じゃぁ…いくよ…」 「えぇ…うっ」 ついに、二人の体が繋がった。彼女も初めてなのか。琳の顔が、苦悶にゆがむ。 「琳さん、痛いの?」 「うん…ちょっと。でも、朗さんとなら…」 その表情と言葉がいとおしい。二人は肢体を絡め、初めてとは思えぬほどに激しく求め合った。 「はぁ…はぁ…」 事が終わり、けだるさと心地良さがないまぜになる中、二人はゆるゆると立ち上がった。ふと見ると、琳の腰に巻かれていた布に、血痕がついていた。 「これは…」 「これが…証です。わたしにとって、あなたが初めての男の人だという…」 「…」 二人の間にしばしの沈黙が流れる。これで、完全に退路は断たれたのである。 「朗! その女は一体…」 牛朗の父が居室に入って来た。その顔は上気し、今まで見た事もないほどに怒り狂っているのが分かる。普段の牛朗であれば、即座に叩頭して謝罪するところであるが、ここで引く事はできない。ここで引いてしまったら、琳を捨ててしまう事になる。 「父上! 私は…この女(ひと)を抱きました! この女との仲を認めて下さいっ!」 彼女を抱きしめつつ、そう叫んだ。初めて父に逆らったのである。 「何っ!」 「いかがなさいますか。…これを御覧下さい!」 そう言うと、琳の腰を指し示した。そこについている血痕こそ、二人の関係が既にただならぬものになった事を示す、何よりの証拠である。
13:左平(仮名) 2003/01/26(日) 00:47 「こっ、これは!」 「私達の仲が認められないとなれば、牛氏の男が他家の女を弄んだという不名誉な事になるのですよ!」 「そなた…本気で言っているのか!?」 「はい」 「勘当しても良いのだぞ!」 「構いません。そうなればなったで、司馬相如【前漢の文人。賦にすぐれた。富豪の娘であった卓文君と恋仲となり、彼女の父親に反対されると、駆け落ち同然の形で結婚した。彼女の邸宅の前で夫婦して屋台を経営した為、ついにその仲を認められたという逸話を持つ】に倣うまでです」 「む…」 そこまで言われると、父も黙り込んだ。この結婚に反対し続けた場合、どちらにしても一族の名折れになりかねないという事が分かったからである。 「ならば…仕方あるまい」 「では! 認めていただけるのですね!」 「だが、一つ条件がある」 「条件、ですか?」 「その娘、おそらく羌族の娘であろう。我が家と羌族との関係は承知しておろう?」 「そっ、それは…」 「その女をそなたの妻と認めるのは良しとしよう。だが、今後一切、羌族の事を考えるな!良いな!」 「そうすれば、わたし達の仲を認めていただけるのですね?」 それまで黙っていた琳が口を開いた。その言葉には、全く迷いがみられなかった。牛朗の方がためらって言い出せない事を、彼女はあっさりと言ってのけたのである。 「りっ、琳さん!」 「いいんです…これで」 「琳さん…」 こうして、二人は晴れて結婚する事ができた。 が、幸せは長くは続かなかった。琳は、長男の輔を産んですぐに亡くなってしまったのである。産後の肥立ちが悪かったのが原因であるが、実家と引き離された形になってしまった事が、彼女の心身を痛めていたのかも知れない。彼女に対しては十分な愛情を注いだつもりではあるが、守り切れなかった事が悔やまれてならない。 生活に追われる心配はないとはいえ、男手一つで乳飲子を育てるのは容易ではない。結局、彼は漢人の女性と再婚した。後妻との仲はまずまずで、子供にも恵まれたのだが、心の空白は残り続けた。 (琳…) 目を閉じると、今でも彼女の姿が浮かぶ。その姿は、色あせるどころか、年を追うごとにむしろ鮮明にさえなっていく様である。 (あいつへの想いが強過ぎたのかな…) 輔の成長を見るにつけ、そう苦笑せざるを得ない。彼は、嫡男である輔に対し、常に厳しく接してきた。それは、最愛の人との間の子であるが故に、必ず傑出した人物に成長して欲しいという気負いの故であったのだが…輔には、そう見えなかった様である。 成長した輔は、どこか神経質に見え、頼りなさげである。このままでは、先が思いやられる。 (新婦に会う前に、輔とじっくり腰を据えて話しておくか…) そう決めた牛朗は、杯の酒をくっと飲み干した。月は、もう西に傾きつつあった。
14:左平(仮名) 2003/02/02(日) 22:44 七、 それからしばらくの時が流れ、季節は夏になろうとしていた。 牛輔の心の中にはなおも戸惑いがあったが、既に決まった話である。 (まぁ、董郎中殿は董郎中殿。娘さんは娘さんだ。性格・容貌ともそっくりという事はなかろう…) そう、前向きに考えるしかない。 当時の正式な結婚は、六礼と呼ばれる儀礼を踏まえて行う必要があった。もちろん、誰もがそういう手続を踏まえたというわけではないだろうが、これは、豪族同士の正式な縁談である。当然、そういった手続が為された事であろう。 それぞれの儀礼の名と内容は、以下の様になっている。 納采(男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)、問名(男の方から使者を送って相手の女の生母の姓名を尋ねる礼)、納吉(婿側で、嫁に迎える女子の良否を占い、吉兆を得れば女子の家に報告する)、納徴(納吉の後、婚約成立の証拠として、女子の家に礼物を贈る)、請期(結婚式の日取りを取り決める事。男の方で占って吉日を選び、その日を女の方に申し込むが、儀礼上、女側に決めてもらうという形式をとる)、親迎(婿が自ら嫁の実家に行って迎えの挨拶をする儀式)。 この時、既に請期までは済んでおり、あとは親迎を行うのみであった。婿となる牛輔は、この時初めて岳父・董卓と妻となる女性・董姜に会う事になる。 その、親迎の日の朝である。牛輔は父の居室に呼ばれた。 「父上、輔です。お呼びでしょうか」 「うむ。まぁ、入れ」 「はい。失礼します」 牛輔と父は、向かい合って座った。こうして二人で話すのは、縁談を聞いた時以来である。何かあったのだろうか。見当もつかない。 「輔よ。今宵、いよいよ親迎だな」 「はい」 「これで、名実ともに牛・董両家は縁続きになる。董郎中殿は、名将である。董家は、今後ますます栄えるであろう。そなたは、その娘婿となるわけだ」 「はい。そうですね」 特に、とりとめのない話なのか。しかし、父ともあろうお人が、そういう話をされるとも思えないが…。 「そなたは、今後、我が家の一員であるのに加え、董家の一員ともみられる事になる。それは、つまり、両家に対し責任を持つという事だ。両家の名に恥じぬ様に振る舞ってもらいたい」 「はい。分かっております」 「それで、というわけではないが…。それに先立ち、そなたに話しておきたい事がある」 「何でしょうか?」 父は、何を言おうとしているのであろうか。彼には、まださっぱり分からない。 「そなた、自分の名をどう思っている?」 「は?」 いきなり、何を言い出すのだろうか。この名は、父がつけたものであるはず。良いも悪いも、もう二十年以上も付き合ってきた名である。今まで意識する事もなかったが…。 「私の名は輔ですね。いえ、別にどうという事もありませんが…。いかがなさったのですか?」 「いやな。なぜわしがそなたに輔という名をつけたか、という事だよ」 「はぁ…」 「この話は、ちと長くなるぞ」
15:左平(仮名) 2003/02/02(日) 22:46 そう言うと、父は座り直した。なるほど、長い話になりそうである。 「そなたの名である『輔』という字にどういう意味があるかは分かるか?」 「はい。そもそもの意味は、車輪を補強する為のそえぎ、ですね。で、それ故『たすける』という意味になる、と学んでおります」 「そうだ。では聞こう。そなたは、この家の嫡男である。そのそなたに、何故『輔』という名をつけたと思う?」 「えっ?」 そう言えば、そうだ。嫡男である自分が、一体何を「たすける」というのだろうか? 「私の上に、兄がいた、という事ですか?」 それくらいしか思いつかない。いや、普通はそうであろう。それとも…。今になって、そなたは嫡男にふさわしくないと思っておった、とでも言うのであろうか? だとすれば、どうして今まで嫡男として扱われたのか? 「いや、そうではないのだ。…そなた、覚えておるか? 昔、『母上はどこにおられるのですか』とわしに聞いた事があったろう」 「はぁ…そう言えばそんな事があった様ですね」 「そなたも分かっておろう。そなたを産んだ母上と、今の母上とは違うという事が」 「はい。はっきりと聞いたというわけではありませんが…。しかし、それとこれと、一体何の関係があるのですか?」 「それが、あるのだよ。まぁ、聞きなさい」 そう言う父の声は、いつもと違って聞こえた。こんなに優しげな声を聞くのは、いつ以来であろうか。 「あれは、もう二十年以上も前になるか…」 父の話は、牛輔にとっては初耳であった。この邸宅内には、当時を知る者も何人かいるが、その様な話は聞いた覚えがない。家内における父の威厳は非常に強く、この様に微妙な話題について口を滑らせる者はいなかったのである。 (私の母上は、羌族の族長の娘だった…? しかも、父上と相思相愛だった…? 羌族と牛氏は、激しく対立しているというのに、そんな事が…!) あの謹厳な父が、かつてその様な激しい恋をしたとは、どうにも信じ難い。だが、本人の口から語られている以上、事実であろう。 「あの時、わしには琳が全てであった。あいつがいてくれれば、何もいらなんだ。…だがあいつは、そなたを産んですぐに死んでしまった。どんな名前にしようか?って聞く間もなく、あっけなくな。遺されたわしは、全てを失ったと感じた。生きる意味もないとさえ感じた。しかし…後を追うわけにはいかなかった」 「私がいたからですか?」 「そうだ。死んだあいつが、想い出以外にわしに遺してくれた唯一の存在。それが、そなただ」 「では、私の名は…」 「そう、何よりも、わしを『輔(たす)』けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ」 「そうでしたか…」 牛輔の脳裏に、父との日々が思い出された。 父は、いつも厳しかった。何か悪戯をしようものなら、容赦なく叱られたものだ。それは、名族の嫡男であるからとばかり思っていたが、それ以外の意味もこもっていたのか…。 彼も、ただ部屋にこもっていたわけではなく、それなりに学問もしてきている。それによって培われた理性は、父の思いをしっかりと理解した。 「これからは、わしばかりでなく、董郎中殿もそなたの義父(ちち)となるのだ。ふたりの父を、しっかりと『輔』けてくれよ」 「はいっ!」 (父上が厳しかったのは、私の事を大事に思っていたが故なのか…) 親迎を前にして、少し、気が軽くなった気がした。自分は、誰かに必要とされる存在である。それは、妻となる姜にとっても同じであろう。それで良いではないか。その思いが、彼の心を明るくしてくれた。
16:左平(仮名) 2003/02/09(日) 21:45 八、 夕刻となった。太陽は地平線に没しつつあり、強烈な陽光も和らいでいる。少し風が吹いてきた。ここ隴西は内陸部であり、湿度は低い。頬に当たる、乾いた風が心地良い。 いよいよ、親迎である。今日、ついに、妻となる女(ひと)と会う事になるのだ。彼女はいま、牛氏の邸宅にほど近い、董氏の別邸で待っている。もちろん、父の董卓も一緒だ。 牛輔の心は、否応なしに高まっていた。 古礼によると、婚儀というものは、祝うべきものではなかったという。 妻を娶るというのは、子がそれだけ成長したという事を示す。それは同時に、親はそれだけ年老いたという事をも意味する。太古の人々は、その負の側面を意識していたのである。未知なるものへの恐れという意識がそれだけ強かったという事であろうか。 また、陰陽においては、男は陽、女は陰とされている(医学的には男性器の事を「陰茎」という。しかし、女性器と対比するとなると「陽物」と言ったりするのがその一例であろう)。妻を娶るという事は、陰を家に納れるという事になる、と考えられたのである。 それ故、婚儀は夜に行われた。陽光のもと、にぎにぎしく執り行うものではなかったのである。 とはいえ、この頃になると、人の有り様も変わっている。いつしか、婚儀は、その正の側面を意識するものに変質していたのである。まぁ、この時代は、儒に基づく礼教がやかましく言われていたから、儀礼の様式自体は、ある程度古礼にのっとっていたであろうが。 牛輔自らが手綱をとる馬車が、ゆっくりと動き始めた。馬車の扱いには慣れていないのであるが、不思議とすんなりと動いた。 太古に用いられた戦車は、ながえ(車につく、かじ棒。横木・くびきなどを介して、車と馬をつなぐ。一本ながえをチュウ【車舟】、二本ながえを轅という)が一本であったが、この頃には、二本のものが普通であった。この形の方が、効率が良く、また、馬の制御もやり易いのだという。もっとも、一本ながえの戦車には二〜四頭の馬をつないでいたのに対し、二本ながえの馬車には一頭の馬しかつながないのであるから、全体の力は下回りそうである。速度も、さほどではあるまい。 戦場を駆け回るのならともかく、妻を迎える分には、これくらいの方が良さそうである。 あたりが暗くなり、天空に星がまたたき始めた。先導する従者が松明に火をつけると、暗がりの中に馬車がぼんやりと浮かび上がった。 (これが正式な儀礼なのは分かっている。とはいえ…) 高まる心とは裏腹に、あたりの空気はしんと静まりかえっている。このまま、闇の中を走り続けるのだろうか。そんな気持ちにさえなってくる。 ふと気付くと、大量の松明がともっているのが見える。間違いない。董氏の別邸である。 (いくら、三日三晩火をともし続けるのが儀礼とはいえ、ちと多過ぎはしないか) 闇の中、董氏の別邸の周囲のみは、まるで昼間の様な明るさである。こういうところにも、董卓という人の性格が表れているという事か。 門が見えた。門前に、巨躯の男が立っている。岳父となる董卓、その人である。 その姿を認めた牛輔は、頃合いを見計らい、車上から拱揖(きょうゆう:両手を胸の前で重ねて会釈する)の礼をとった。董卓も、同じ礼を返した。まだこの時点では、互いに言葉を交わす事はない。ただ、目を合わせ、無言の中に何かを伝えようとするのみである。 (さすがは、歴戦の勇将。ものすごい威厳だ。向こうは、私の事をどう思っただろうか?頼りないやつと思っただろうか?) 彼の娘婿となれば、戦いに加わる事も多かろう。それ相当の力量が必要となるはずである。今の自分がそれにふさわしいかと言えば、自信はない。 (もっと武芸に励むべきだったか…。おっと。今は、親迎の儀礼を滞りなく済ませる事の方が先だったな)
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