下
小説 『牛氏』 第一部
97:左平(仮名)2003/11/09(日) 23:58
(あの砂埃は…。間違いない。文和からの合図だ)
不安の中目を覚ました牛輔は、それを見ていささか落ち着きを取り戻した。策はうまくいっている様だ。これなら勝てる。
「者ども!頭上に盾をかざしつつ、全速で進め−っ!!」
その号令とともに、一斉に全軍が動き始めた。
「なっ、何だ?連中、急に動き出しやがったぞ」
眼下の様子に気付いた羌族の兵達が、急いで将に報告する。
「何っ?愚かな。袋の鼠だという事に気付かぬか。者ども、窪地の出口を封鎖し…」
羌族の将がそう言いかけたところで、他の兵の叫び声にかき消された。
「あっ!あれは!!」
「何事だ! …!!」
後ろを振り返ると、もうもうと砂埃が舞い上がっている。そして、その中から数騎の兵が現れてきた。その姿は、まぎれもなく漢人のものである。となれば、あれは敵か!
(敵の援軍か!)
そんなはずはない。あれが董氏・牛氏の手の者としても、その本拠はここから数日のところにあるはず。仮に昨晩この囲みを抜け出た者がいたとしても、こんなに早く援軍が来るはずはない。しかし、ではあの兵は何か。
そう考えるうちに、砂埃の方角から鬨の声があがる。その声も凄まじく、相当な大軍勢である事をうかがわせる。
実際には数十人にすぎないのであるが、賈ク【言+羽】がえりすぐった、特に声の大きい者達である。常人の数倍は声を張り上げたであろう。声だけをとってみれば、なるほど大軍勢と思うのも無理はなかった。
(…)
羌族の将は、しばし思考停止の状態に陥った。兵達も混乱し、眼下の様子には全く目が向かなくなった。
そんな中を、賈ク【言+羽】率いる騎兵達は何度も何度も駆け抜けた。少数なのをごまかす為、繰り返して攻撃をかけていたのである。
そうこうしている間に、牛輔の軍は前後から窪地を脱した。一方は牛輔と李カク【イ+鶴−鳥】が、もう一方は郭レと張済が、それぞれ率いている。
「稚然は左に回って仲多とともに敵を挟撃せよ!私は右に回って済とともに敵を挟撃する!」
「心得ました!」
李カク【イ+鶴−鳥】はうなづくと、猛然と馬を走らせた。それをみて、牛輔もまた駆けた。
一刻もせぬ間に、決着がついた。もともと兵力は牛輔の方がまさっていた上に、あの奇襲の為に士気の差が歴然としていたのであるから、当然といえば当然なのではあるが。
(しかし危なかった)
一時的にではあるが窮地に陥っていた事を知るのは、牛輔、賈ク【言+羽】、盈を除けばほとんどいない。傍目には、またしても完勝と映るであろう。しかし、戦場というものがいかに恐ろしいか、牛輔は思い知った。
(文和を連れてきていて良かった。あれがいなければ、今頃どうなっていたか)
それを思うと、背筋に震えが走る。
実際、賈ク【言+羽】の存在が、後に彼らの命運を分かつ事になるのである。だが、この時それを意識したのは、牛輔一人であった。
いや、正確にはもう一人いた。この戦いを、少し離れて見ていた男がいたのである。
「ふむ。あいつ、もう少しはやると思っていたんだがな」
「まぁ、兵書を読んだわけでもないでしょうからね。ああいう奇策には気付かなかったのでしょう」
「それもそうだな。となると、あの陽動部隊を率いた者が誰か気になるところだな」
「そうですね」
「伯扶自身ではなかろう。今までの戦いぶりを見る限りでは、そういう奇策を思いつく程の奸智はなさそうだしな」
「では誰が?」
「恐らく…文和だな。さぁ、帰るぞ」
そう言ってその場を去ったその男の姿は、どこか盈に似ていた。
上前次1-新書写板AA設索