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小説 『牛氏』 第一部
114:左平(仮名) 2004/03/07(日) 23:16 五十七、 四月。朔に日食があった。 日食は、往々にして不吉な前兆とされるが、もうこの頃になると、少々の怪異などは珍しくもないという感さえある。何しろ、先月も京兆で地震があったばかりなのだから。 ただ、それを、いささか違う思いで見上げる者達がいた。陽球達である。 「あれを見よ。一度は日が消えてしまうが、また再び現れてくる様を。これは吉兆ぞ。我らの働きによって、宦官という闇を除き、漢朝に光を呼び戻すのだ」 先に話し合われた謀を実行する時が、近づきつつあった。 「どうだ?」 「まだ動きはない。…んっ?あの車…。間違いない、王甫のものだ」 「そうか。どちらに向かった?」 「邸宅の方だ」 「そうか…。間違いない。休沐だな」 「と、なれば…」 「あぁ。明日こそが…」 「おっと。それはこれからの話だ。急ぎ、方正殿にお知らせしろ」 「分かってるよ。じゃ、また後でな」 車中の王甫は、そんな事など気付くはずもない。久方ぶりの休沐をどう過ごすか、それで頭が一杯になっていたのである。 「あぁ、全く…。それにしても、四月になったばかりだと言うに、暑くなったものよのぉ。行水でもするかな」 手で顔を扇ぎながら、そんな事を呟いていた。 「そうか、王甫めは休沐に入ったか」 「はい。車が確かに邸宅に向かって行きました。間違いなく、休沐に入ったものと思われます」 機は熟した。今こそ決起の時である。恐れる事はない。大義はこちらにある。 「行くぞ、支度をせよ。上奏するとともに、直ちに王甫どもの捕縛にかかる。遮る者があれば、殺しても構わぬ。良いな」 「はっ!」 (王甫よ。これで貴様も終わりだ。せいぜい今のうちに休沐を楽しむのだな) そう思うと、思わず陽球の口元が緩んだ。 王甫邸− 「ご主人はご在宅かな?」 「はて、どちら様でしょうか?本日、面会なさる方がおられるとはうかがっておりませんが」 「予定などあるはずもなかろう。…司隷校尉の陽方正である!おとなしく致せ!」 「はっ?一体何事…」 「どけいっ!」 取次ぎの男を荒々しく突き倒すや否や、陽球とその配下はずかずかと王甫邸内に入り込んだ。それは、王甫達の逮捕と同時に、京兆で発覚した、銭七千万にものぼる不正摘発の為の家宅捜索であった。 「なっ、何をなさいますか!それは殿のお気に入りの…」 「やかましいっ!口を挟むな!いい加減にせんと斬るぞ!」 「ひっ!」
115:左平(仮名) 2004/03/07(日) 23:17 「何事だっ!」 あたりの騒々しさを聞いた王甫が姿を現した。いかに宦官とはいえ、さすがに宮中随一の実力者。態度は堂々としたものである。 「あっ、殿!そっ、それが…」 「何がどうしたと言うのだ。落ち着いて説明せい」 「これはこれは、王中常侍殿ではありませんか」 王甫の姿を見つけた陽球は、あえて丁寧な態度をとった。相手の警戒心を緩くする為である。 「何だ、陽球。この騒ぎは」 「それがですね。京兆尹殿から、とある事件の摘発があったのですよ」 「事件?そんなもの、わしは知らんぞ」 「そんなはずはないでしょう。これは、あなたの門生がやった事なのですから。なにしろ七千万という大金が絡んでおりますからねぇ…」 「何が言いたい?」 「者ども!こやつがこの件の首魁である!引っ捕らえろ!」 「なっ!?」 王甫が口を挟む間もなく、彼は屈強な男達によって取り押さえられた。腕力では劣るとはいえ、相当に抵抗したから、髪も衣服もぼろぼろになってしまった。 「ええいっ、放さんかっ!わしをどうするつもりだ!」 「どうもこうもないわっ!官の財物を横領した容疑で取り調べるまでの事!引っ立ていっ!」 王甫はなおも陽球を罵りつつ、引き立てられていった。 「さて、次は…王萌・王吉、それに…」 そう言いかけたところで、陽球は口をつぐんだ。 「それに…誰を捕えるのですか?」 「ちと気が重いが…太尉の段紀明だ」 「段太尉を、ですか?しかし、太尉はこの件には関与しておりませんが…」 「そんな事は承知しておる。だがな、段紀明は王甫との関係が深い。数年前には、宦官どもの意を受けて学生達を弾圧したではないか。放っておいては、我らが危うくなるのだ」 「しかし…」 「しかしも何もない!とっとと行かんか!」 「はっ!」 (なるほど、確かに対羌戦の勇将ではある…むざむざ消し去るには惜しい存在ではある…だが、こうするより他ないのだ。俺は間違ってはおらんぞ!) びっくりした部下が駆けていくのをみながら、陽球は、自分にそう言い聞かせていた。
116:左平(仮名) 2004/03/21(日) 22:44 五十八、 段ケイ【ヒ+火+頁】邸に陽球とその配下達が姿を見せたのは、それから間もなくの事であった。 「何事かな?この様な大人数で」 表の騒ぎを聞いた段ケイ【ヒ+火+頁】が姿を現した。まだ、何が起こったのかは分かっていない様子である。 「太尉殿でいらっしゃいますね?」 「そうだ」 さすがは、長きにわたって辺境の地で活躍した勇将である。前線に出なくなってから数年が経つとはいえ、王甫とは、まるで貫禄が違う。この威厳を前にした司隷校尉配下の者達の−いや、陽球自身もだが−額に、冷や汗が滲んだ。喉がからからになるのを感じつつ、陽球はようやく声を絞り出した。 「ご同行願います」 「なに故に?」 一瞬の沈黙が周囲を支配する。確かに、今回彼を逮捕する様な容疑はないのである。 「…太尉殿。貴殿は、王中常侍と親しゅうございますね」 「確かに、王中常侍とは親しく付き合っておるが。それがどうかしたのか?」 「このたび、京兆において大きな事件がありましてね。それに、王中常侍、いや、王甫が関与しておったのですよ」 「ほう。しかし、それがわしと何か関係があるのかな?わしは、その様な事には一切関わってはおらんが」 「そういう問題ではございません!貴殿は、王甫の一党を倒す際の障害なのですからな!ここにおられてはこちらが困るのですよ!」 「わしのどこが障害になるというのだ?捜査を妨害するとでも言うのか?」 「その存在自体が!…むっ、ここでぐだぐだ言ってても仕方がないっ!者ども!引っ立ていっ!」 「そう大声を出すでない。何の事か分からんが、わしがおると捜索するのに不都合だというのなら、同行しよう。それで良いのだな?」 「…では、ご同行願おう」 「うむ」 「殿!」 連行される段ケイ【ヒ+火+頁】をみて、邸内の家人達が叫んだ。これからどうなるのか、その顔には不安の色が浮かぶ。もし主人に万一の事があれば…。それは、自分達にとっても死活問題なのである。 「そう心配するでない。そなた達はここで待っておれ」 周囲の者達の声が皆上ずっている中、ひとり彼の声だけは冷静さを保っていた。 (こやつがわしをどうするつもりかは分からんが、この様な事で取り乱す段紀明ではないぞ) 武人たる者、何があっても冷静さを失ってはならない。その矜持が、彼を支えていた。 その時、段ケイ【ヒ+火+頁】の姿が遠ざかるのをみた家人の数人が、あちこちに走り始めていたのに気付く者は無かった。 (急ぎお知らせしないと…このままでは殿が…!) 主・段ケイ【ヒ+火+頁】の危難を救うには、かつて主が推挙した者達の助力を乞うしかない。誰が命ずるでもなく、彼らはそう考え、行動を起こしたのである。たとえ主がそれを望まぬとしても、主に仕える者として、手を拱いている事はできなかった。 西へ、東へ、北へ、南へ。彼らは、一心不乱に走り続けた。
117: 左平(仮名) 2004/03/21(日) 22:47 「こちらへ」 「うむ。…ほぅ、これはまた随分な扱いだな」 彼がいざなわれたのは、牢獄であった。特別な設備などは何も無く、一般の囚人が入るそれと変わらない。これは、現職の−この時点では罷免する旨の詔勅はまだ出ていない−太尉に対する扱いとは思えない。 (こやつ、王中常侍ばかりでなく、わしをも罪人とするつもりか) 牢獄自体は、かつて戦った辺境の地の過酷な気候を思えば何という事はないが、この扱いには承服し兼ねるものがある。さすがの彼も少しばかり不機嫌な表情になった。 「いかがなされた?」 「なに、蓐【しとね】に入る事がなかった昔の事を思い出したまでの事よ」 「ほぅ…」 (いつまでそう言ってられるかな) ここまで来ればこちらのものだ。いかに太尉とはいえ、ここでは司隷校尉である自分に絶対の優位がある。長く戦場で鍛えられたとはいえ相手はもう七十過ぎの老人。過酷な尋問の果てに、この男が矜持を失い無様に取り乱す様を見たいものだ。陽球はそんな事まで考えた。そう考えるだけで、心が踊るのである。 「太尉…いや、段紀明殿。しばらくここにおられよ。わしは、王甫の尋問にあたらねばならぬのでな」 そう言い残すと、陽球はさっさと別室に向かっていった。その足取りは、妙に軽やかであった。 「早く吐かんかっ!」「この奸賊めがっ!」 罵声とともに、王甫父子に対し容赦なく杖や鞭が振り下ろされる。まだ尋問が始まってからさほど時間も経っていないというのに、父子の体は既に痣だらけになっていた。肉が破れ、あちこちから血が滲んでいる。 いや、痣や血ばかりではない。時々する鈍い音からみて、何箇所か骨も折られている様である。 「わ、分かった…。話すから…止めてくれ…」 「我ら父子は既に罪に服しておるではないか。せめて父上だけでも大目に見てはもらえぬか」 たまりかねた王甫達はそう哀願した。しかし、それにも構わず、さらに杖が振り下ろされる。 「早く話せ!『全て』話し終わったら止めてやっても良いぞ!」 その様を見つめる陽球の目には、どこか異常な光さえ感じられた。そこにあるのは、敵意などといった生易しいものではない。 (ま、まさかこやつ…) その目に気付いた王萌の背に、寒気が走った。 (こやつ、京兆での疑獄の解明なぞはどうでも良くて、ただ俺達を殺したいだけなのではないか…) 「方正!そなた、我ら父子に何か怨みでもあるのか!」 「怨み?何の事かな?これは尋問であって私的な怨みをどうのこうのと言うものではないが」 「とぼけるでない!我らが関与したという疑獄の件を解明したいのであれば、話そうとしているのになに故間髪も入れずに杖を振り下ろし続けるのだ!これでは体がもたん!」 「ほう、気付いたか。長く要職にありながら、鈍いやつらだな。まぁ、王甫の養子というだけで官位にありついたのだから当然か」 「気付いただと!?まさか!」 「ふん。なんじらの罪は、たとえ死んだところで免れるものではないわ。この期に及んで、まだ大目に見ろだと?ふざけるのもたいがいにしろ!」 「何だと!なんじは、以前は我ら父子に奴僕の如く仕えていたではないか!奴僕が主に背くとは何事だ!この様な事をすれば、いつか己の身にかえって来るものだぞ!分かっているのか!」 王萌は力の限りを振り絞ってそう叫んだ。しかし、それはかえって陽球の気に障った。というか、彼の中の何かが切れた。
118:左平(仮名) 2004/04/25(日) 21:12 五十九、 陽球の顔から嘲笑の色が消えた。その顔は一見穏やかそうに見えるが、それこそ、酷吏・陽球の本性がむき出しになる瞬間であった。 (あ−あ、やっちまったよ…) 捕えられた時点で、この父子の運命は既に決まっていた。しかし、わざわざ余計に苦しむ事もなかろうに。属吏達は、半ば呆れていた。 「うるさいやつだ。口を塞いでしまえ」 「はっ。しかし、口を塞いでは疑獄の件の自白が得られませんが…」 「構わん、やれ。舌を噛み切ったりしてさっさと楽になられてはつまらんからな」 「では…」 「待て。こやつらの穢れた口をふさぐのに、清浄な布など使ってはもったいない。そこらの泥で十分だ」 「はっ?あっ、はぁ…」 「んじゃ!これでも喰らいなっ!」 「んぐっ!」 王萌の口に、足元の泥がねじ込まれた。吐き出そうとしても、屈強な男達の手で手足を押さえ込まれ、口も完全に塞がれているのでどうにもならない。口中に広がる悪味と息苦しさとで、ばたばたともがいた。王甫と王吉は、ただ呆然とするばかりだった。すっかり気力が萎えていたのである。 その様をみた陽球の口元がかすかに動いた。それは、彼の心からの笑みであった。 「あとの二人にもだ」 「はっ!」 「じっくりと痛めつけてやれ。なに、時間はいくらでもある。既に勅許も得ておるのだからな。おっと、顔だけは傷つけるなよ。せっかく市に晒しても、こやつらだと分からなくては台無しだからな」 「…」 (なに故、この様な事に…。我らが党人を弾圧したのでさえ、もっとましだったというのに…) 王甫父子の顔に、恐怖と絶望の色が浮かんだ。勅許が出た以上、皇帝にすがる事もできない。もはやこれまでである。 「思い知るが良い。これが、なんじらに対する民の怒りだという事をな」 それから、どれくらいの時間が経ったろうか。ただの一瞬も止む事なく、王甫父子に向かって杖や鞭が振り下ろされ続けた。もちろん、手加減などあろうはずもない。陽球の本心は、疑獄の解明などではなく、王甫父子の抹殺に他ならないのだから。 単に殺すだけであれば、頭部を強打するだけでも良い。しかし、それでは足りぬ。 (ただ殺しただけでは飽き足りぬ。なぶり殺しにせねば気が済まぬわ。そうでないと、党錮で死んでいった者達の霊も浮かばれぬからな) 陽球は、そう思う事で、自身の内にある嗜虐性に基づくこの行為を正当化しようとした。 まずは、手足の指先から打たせた。しばらく打つと皮が破れ、肉がむき出しになり、骨が砕けた。骨が完全に砕けたのを確認すると、続いて腕と脛を打たせた。さらに、腿と二の腕。そうして、徐々に体幹部に近づいていく。 泥で口を塞がれながらもなお漏れる呻き声は、辺りに血と汗と糞便の臭いが増していくのと反比例する様に、段々と小さくなっていった。 「そうだ、もっと打て。東海には、何でもくらげとかいう骨のない生き物がいるらしいが、その様になるまで打ち続けるのだ」 属吏達を督励する陽球の姿には、明らかに狂気が宿っていた。そこには、普通の人なら一時もその場にいられないであろう、異様な雰囲気が漂っていた。
119:左平(仮名) 2004/04/25(日) 21:14 腹部に至ろうかというところで、ついに王甫の首がぐったりと倒れた。属吏がいったん打つのをやめ、心拍と呼吸の有無を確認する。 「心臓は止まっております。息もありません。死にました」 「そうか、存外早かったな。まだ手足の形がこれだけ残っておるというのに」 「まぁ、年寄りですからね。むしろ、ここまでよくもったものです」 「そうだな。あとの二人もさっさと片付けろ!」 「はっ!」 それからほどなく、王萌・王吉の二人も死んだ。死んだのを確認した後もなお打ち続けて筋骨をずたずたにした為、三人の遺骸は、顔を除くと手足の所在も不明瞭なただの肉塊と成り果てていた。 「ふふ。汚らしいくらげが三つ出来上がったか。次は、段紀明の番だな」 陽球は、微かに震えていた。それは、一つの宿願を果たしたという、至上の歓喜によるものであった。この様な歓喜の様は、家族にも見せた事がない。 その頃、段ケイ【ヒ+火+頁】は一人獄中に座っていた。その姿勢には全く乱れはないが、心中には、いささかの淀みがあった。 (あやつ、王中常侍をどうしているのであろうか…) 王甫と陽球。両者が政治的に対立しているのは知っている。今回、陽球は王甫の隙を突いて逮捕に踏み切った。このまま、彼を葬り去るであろう事は想像に難くないところである。となれば、自分もその巻き添えを食らうという事か。相手の態度如何によっては、こちらも覚悟を決めねばならぬところである。死ぬ事には何の恐怖もない。しかし、自らの尊厳を傷つけられるのはまっぴらである。 そう思っていると、足音がしてきた。 「紀明殿。獄中におられる御気分はいかがかな?」 「なに。何という事はない。あまりに静かなので、思わず眠気を催したくらいだ」 「ほう。それはまた落ち着いておられますな。…そうそう、先ほど、宮中から知らせがありましたよ。先の日食の責を問い、太尉を罷免の上、廷尉に任ずる、とね」 「さようか」 (すると、陛下はこの件をまだ存じておられないのか。今のところは、わしは必ずしも罪人ではないという事か…) 少しほっとした。しかし、陽球のこと。これで済むわけもない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、次の言葉を待った。 「しかし、廷尉の位もいつまででしょうな。…王甫は尋問中に死にましたよ。これで、あやつの有罪は確定です。となれば…王甫との関係が深かった者どもがどうなるかは…もうお分かりでしょう」 (そうくるか。この際、わしも葬り去ろう、と。そういう事か) こうなれば、彼に残された選択肢は一つしかなかった。辛うじて自らの名誉が残されているうちに…。 (ただ、こやつの事。何としてでもわしの名誉を奪い取り、その上で殺そうとするであろう。少しでもそれを回避するには…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、懐中のある物に、そっと手をやった。
120:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:31 六十、 「紀明殿。いかがなされた?」 「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」 「そうですか」 (何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな) 「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」 憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。 「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」 「分かりました。おい、用意しろ」 「はっ!」 (墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…) 直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。 すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。 いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。 並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。 (わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…) (かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…) 心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。 (よし、それでは…) 段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。 附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。 (蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという) 段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。 長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。 もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。 幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。 (辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…) そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。 「まだですかな」 「もうじき…書き終わる」 そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。
121:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:34 トリカブトの毒は、調合の仕方によって様々な姿を示すといわれている。この時段ケイ【ヒ+火+頁】が求めたのは、言うまでもなく即効性であった。致死量の数倍の附子を飲み下したので、即座にその効果が現れ始める。 「ぐぐぐぐぐ…」 「ん?何だ…?」 陽球達が、牢獄から漏れる呻き声に気付いて振り返ると、段ケイ【ヒ+火+頁】は立ち上がり、凄まじい形相でこちらを睨みつけていた。 「なっ、何だ?」 (まさか、気が狂ったか?…いや、あの足元の粉末は…!!) 「紀明殿!附子を飲まれたのか!」 「そうだ…そなた、王中常侍もろとも、わしを殺すつもりであったろう…違うか?」 「だ、だからといって自ら附子を飲むとは…何を考えておられる…」 「そなたからすれば、わしは憎い敵であろう…それ故、わしを殺そうとするのは分かる…だが…そなたの思い通りにはさせんぞ…」 「…」 「わしは潔白だ…それ故、自らの最期は自ら決めさせてもらった…それぐらい良かろう…」 「見ておくが良い…この段紀明の最期を、な…。その目にしかと刻み込むが良い…」 (何を言っておる!この様な形で死なせてたまるものか!わしの気が済まぬわ!) 「おい!直ちに飲み下した附子を吐かせろ!」 「もう遅い…附子というのは、すみやかに効くからな…」 附子が効いてくると、(神経を冒す為に)普通は飲み込めないほどの唾液が出るとともに、立っている事もできなくなるという。しかし、段ケイ【ヒ+火+頁】は、壁にもたれかかりながらも辛うじて立ち続け、陽球達をじっと睨み続けた。 その気迫に押され、属官達は−陽球自身もだが−しばしの間、冷や汗を出すばかりで動く事ができなかった。 やがて−段ケイ【ヒ+火+頁】の瞳から、光が消えた。 「死んだか」 「恐らく…」 彼らの腰が引けていたのも無理もない。段ケイ【ヒ+火+頁】は、目を見開き、立ったまま死んでいたのである。 「立往生」という言葉はご存知であろう。この言葉自体は、源義経の配下・武蔵坊弁慶の最期の様から生まれたもので、いささか伝説めいてはいるが、生理現象としては有り得ない話ではない。 激しい筋肉疲労、精神的衝撃などを受けて死に至った場合、死の直後にほぼ全身の筋肉が硬直する事があるという。この時の段ケイ【ヒ+火+頁】の死に様も、まさにそれであった。 「な、何をぼんやりしておるか!とっとと屍をあらためぬかっ!」 「はっ!」 「た、確かに、死んでおります…」 死体は見慣れているはずの属官達が、まだ怯えていた。それほどまでに、その形相は凄まじかったのである。 「そうか…ならばさっさとその旨上奏せねばならぬな」 「どう書けばよろしいのでしょうか」 「獄中にて詰問していたところ、罪を認め鴆毒をあおって死んだ。そう書いておけ」 「えっ?しかしそれでは…」 「いいからそう書け!」 「はっ、はい!」 (まったく…わしとて、士大夫に対する礼儀くらいわきまえておるというに…) 思わぬ抵抗を受けた陽球は、その後しばらく不機嫌であった。
122: 左平(仮名) 2004/05/24(月) 00:01 六十一、 一方、その頃− (殿!しばしお待ち下され!必ず、必ず…) 家人達は、かつて主の段ケイ【ヒ+火+頁】が推挙した者達のところに、次々と走り込んでいった。言うまでもなく、主を救うべく支援を求める為である。 「お助けください!我が主の段公が、司隷殿の属官に連れて行かれました!どうか!どうかご助力を!」 もうあたりは暗くなりつつあったが、そんな事には構っていられない。彼らは、必死に門前で訴え続けた。 しかし、反応は芳しくなかった。運良く話を聞いてもらえても、殆どの者は、ただ絶句するばかりで動こうとはしなかった。いや、それくらいならまだよい。中には、すげなく家人をつまみ出す者さえあった。 無理もない。対羌戦の英雄が、一転して罪人にされたというのである。下手に庇い立てでもしたら、かえって自分の身が危うくなる。誰もが、我が身がかわいいという事であろうか。 「出て行けっ!わしを巻き添えにするつもりかっ!」 「何と恩知らずなっ!それでもあなたは士大夫ですか!」 「何とでも言え!なんじら如き下人が何をいっても誰も聞かぬわ!」 (これが儒の教えを修めた者の態度か…!) 彼らの忘恩の態度が腹立たしかった。しかし、主を救うには、誰かの助力を仰ぐしかない。 (そうだ…董氏ならば、あるいは…) こんなところでぐずぐずしていてもしょうがない。ここは、噂に聞く董氏(董卓)の義侠心に頼るほかない。 当時、董卓は西域戊己校尉の任にあった。文字通り、西域に睨みをきかせる要職であるから、政治的影響力という点においても十分な立場であると言えよう。ただ、董卓自身は任地に赴いているから、都から直接そこへ向かうわけにはいかない。事は一刻を争うのである。 幸い、その弟の董旻が都に居を構えている。家人は、その邸宅に向かう事にした。 (叔穎【董旻】殿の事はよく知らんが…あの董氏の弟君だから、まさか段公を見捨てる様な事はあるまい) 果たして、その期待は、裏切られなかった。 「何!段公が!」 それは、董旻にとっても大きな衝撃であり、しばしその場で体を硬直させた。しかし、その衝撃に対して思考停止の状態に陥ったりはしなかった。それだけでも、他の者達の態度とは大きく違っていた。 「して、その時の状況は?そなたが知っている限りの事を聞かせてくれ」 (さすがは董氏だ) 家人は、少し安堵した。これなら、何らかの手を打ってくれるに違いない。 「はい。司隷殿(陽球)は、主と王中常侍との関係のゆえを以って、主を連れて行きました。どういう事なのかは、私にはよく分かりませんが…。ですが、司隷殿と王中常侍とはどうも対立していた様ですので、主が危ういというのは確かです。我らは主を救うべくあちこちにご助力を求めておりますが、未だに芳しい返事を頂いておりません。司隷殿の人となりは苛酷と伺っておりますれば、ご高齢の主の体が心配でなりません」 「そうか。分かった、しばらく休んでおれ。直ちに兄上に使いを出すとともに、わしからも宮廷に問い合わせてみよう」 彼自身は、兄の董卓ほどの卓越した能力は持っていないものの、都において、兄の耳目となるべく確かな働きを見せている。この時も、彼なりに出来うる限りの措置をとろうとした。
123:左平(仮名) 2004/05/24(月) 00:03 「誰かおらぬか!直ちに参内するぞ!」 「はっ!」 大急ぎで車が用意され、董旻は、とるものもとりあえず乗り込んだ。翌日になるのを待ってなどおれない。日没前に宮中に入らなければならないのである。 (この様な状況において、何を為せばよいか…) 宮中に向かう車中にあって、董旻はしばし目を閉じ、考え込んだ。この様な重大事において、兄の意思を待たずに判断を下すのは、ほとんど初めてなのである。 彼自身、段公が捕えられたという知らせに動転している。このまま参内したのではうまくものが言えないであろう。何としても、それまでに心を落ち着かせなければならないのである。 (兄上ならば…どうなさるであろうか…) 兄・董卓の顔が頭に浮かんだ。その立場に立って考えてみると、どうであろうか。 (そなた、何をぐずぐず考えておる。そなたはわしの弟であろう。わしの性分が分からぬのか?考えるまでもないではないか) そう言っている様な気がした。そうだ、答えは一つしかない。 兄ならば、自分のあらん限りの力を振り絞って段公を救解しようとするであろう。たとえ、その為に身の破滅を招くとしても悔いる事はないはずだ。 (段公なくして、今の我らはなかった。その大恩を思えば…。そうですね、兄上) 心の中でそういう結論が出ると、幾分肚が据わってきた。あとは、全力を尽くして救解に努めるまでである。 宮中に着いた。普段であれば、どこかしら気圧されるところであるが、今日は違う。そんな状況ではない。 「至急、お取り次ぎ願いたい」 そう言う声ひとつとってみても、その違いが分かる。ややせわしない感じはするものの、普段の、おどおどとした感じは微塵もない。 「叔穎殿、いかがなされた。またえらく急いでおられる様だが」 「話は後だ。とにかく、急いでくだされ!」 「はっ?はぁ…まぁ、分かりました…。しばし、お待ちを…」 (段公、しばしのご辛抱を。涼州の者は皆、あなたの味方ですぞ) この時、既に段ケイ【ヒ+火+頁】が壮絶な最期を遂げていた事を、董旻は知る由もなかった。 一方、董旻が兄に向けて送った使者もまた、精一杯に急いでいた。 董氏に仕える者であれば、いや、涼州に生まれ育った者であれば、たとえ敵対する者であろうとも、段公に対し篤い敬意を持っている。その人の危機を、黙って見過ごす事はできない。使者には、強い使命感があった。 「急げ、急げ!なにをもたもたしておるか!急ぐのだ!」 御するは家中随一の乗り手、馬もまた家中随一の駿馬である。しかし、それでもなお遅く感じられてならなかった。この様な状況におかれてなお斉の景公を哂う者は、まずおるまい。 (ああ、あの鳥の様に翼があれば…いやいや、そんな事を考えている場合ではない!) 気ばかりが先走るのを辛うじてこらえながら、使者はまっすぐに董卓のもとに向かっていった。
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