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小説 『牛氏』 第一部
120:左平(仮名) 2004/05/03(月) 23:31AAS
六十、
「紀明殿。いかがなされた?」
「これから尋問であろう。さぞ長くなるだろうから、一つ家の者に連絡しておかんと、と思ってな」
「そうですか」
(何をたくらんでおる?自らの助命でも嘆願するつもりか?無駄な事を。まぁ、かつての勇将が無様に命乞いをする様というのも、それはそれで見物ではあるがな)
「まぁ、よろしいでしょう。ただし、書面はあらためさせてもらいますよ。ここは『牢獄』ですからね」
憎き王甫の打倒を成し遂げた充足感の故か、陽球の機嫌は良く、存外すんなりとその申し出は認められた。
「承知しておる。簡と筆を用意してはもらえぬか」
「分かりました。おい、用意しろ」
「はっ!」
(墨をするとなれば、当然水が必要になる。水さえあれば…)
直ちに簡と筆、それに水を入れた筒が用意された。段ケイ【ヒ+火+頁】は、無言のまま硯に水を入れ、墨をすり始めた。
すり終わると、筆に墨を含ませ、簡に思いのたけを書き付けていく。これが、遺言となるであろう。自らの事をあけすけに語るのは性に合わないが、もう、自らの意思を示す機会はないのである。
いくつかの著作を残している皇甫規・張奐に対し、生粋の武人である彼にはこれといった著作はない。もちろん、この当時の高官の一人としての十分な教養はあるのだが、慣れないだけに言葉を選びながら書いていくのにはいささか時間がかかった。もっともそれは、この時の彼にとって好都合であったのだが。
並みの人間であれば、気が動転してわけが分からなくなってもおかしくないが、彼の心は、不思議なほど透き通っていた。
(わしは、朝廷に対して何らやましい事を為した覚えはない。そのわしがこの様な事になろうとはな…)
(かの蒙恬ではないが、わしに何の罪があったのだろうか?…ふふ、その答えも似ておるかな。わしは、多くの戦いの中で、数え切れんほどの羌族を殺してきた。いかにやむを得ぬ事とはいえ、な。それを思えば、か…)
心が澄んでいくとともに、筆も進む。ふと気がつくと、そろそろ書き終わろうかというところであった。
(よし、それでは…)
段ケイ【ヒ+火+頁】は、陽球達に気付かれぬ様、懐中からそっと紙包みを取り出した。それは、附子(ぶし)であった。
附子というのは、トリカブトの塊根(子根)を乾燥させてつくられた劇薬である。うまく使えば強心・鎮痛・利尿などに優れた薬効をもたらすが、一方で、ごく少量でも人を死に至らしめるという、いささか扱いにくい代物である。
(蛇足ながら、この附子を毒として盛られた人のもがき苦しむ様の凄まじさから醜女を示す『ブス』という言葉が生まれたという)
段ケイ【ヒ+火+頁】が附子を持っていたのは、もちろん、毒として使う為である。
長く辺境で戦ってきた彼がもっとも恐れたのは、敵の虜となり生き恥を晒す事であった。李陵を見るがよい。その祖父・『飛将軍』李広に劣らぬ将器であっても、そうなったが最後、武人としての名声は失墜してしまうのである。それだけは何としても避けたい。
もし、力戦及ばず敗れる様な事があれば、虜になる前に潔く自裁しよう。そう決めていたのである。
幸いにして、戦場において用いる事はなかったが、武人の心構えとして、今まで肌身離さず持ち歩いていた。
(辺境でなく、この都で使う事になろうとはな…)
そう思うと、何とも不思議な感じがする。思わず、微笑した。もう、二度と微笑む事はなかろう。そう思うと、少しばかり感傷的な気分にもなったが、武人らしくないと思い返し、すぐに冷静さを取り戻した。
「まだですかな」
「もうじき…書き終わる」
そう答えるのとほぼ同時に、彼は附子を口に含んだ。続いて筒を手にとると、附子と水とを一気に飲み下した。口からこぼしても良い様、かなりの量を携えているから、まかり間違っても死に損なう事はない筈だ。
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