小説 『牛氏』 第一部
124:左平(仮名) 2004/06/13(日) 23:53AAS
六十二、

使者が董卓の在所に着いたのは、出立してからだいぶ経ってからの事であった。いかに急いでも、ここまではやはり遠い。もっとも、公式の第一報が届いたのはそれよりもさらに後だったのだが。
「大事であるっ!至急、殿にお取次ぎ願いたいっ!」
使者の、そして馬の息遣いは荒かった。顔は蒼ざめ、今にも倒れかねないほどである。ただ事ではないのは、事情を知らない者にも一目で分かった。
「しばし待っておれ。すぐに殿に取り次ぐ」
「頼む」
この時、董卓は執務中であったが、使者は直ちに目通りを許された。

「!」
豪気な董卓も、この知らせには一瞬絶句した。無理もない。都にいる董旻は、事件の背景を知っているだけにいくらか心の準備があったのに対し、董卓には全くなかったのだから。
「…直ちに叔穎殿が宮中に赴き、救解に努めておられますが…状況は予断を許しません。なにしろ、司隷殿と王中常侍の対立にまともに巻き込まれた形ですから…。宮廷内の暗闘というものは、我らにははかりかねる代物ですし…」
「そうか」
(旻の動きは、我が想いの通りである。しかし、今のあいつ一人では厳しいな…)
董卓はそう思った。弟の力量を評価していないのではない。ただ、今の董旻はこれといった顕職に就いているわけではない。宮中に対する影響力が殆どないだけに、どんなに懸命に救解に努めても、その効果はあまりないとみなければなるまい。
「わしからも、中央に嘆願の書状を奉る。直ちに書状をしたためるから、そなた、しばし待っておれ」
「はっ!」

出仕以来、一貫して自らを武人と規定してきた董卓にとっては、書状、それも非定型のものは甚だ書き慣れない代物であった。他の用件であれば側近の誰かに全て任せるところであるのだが、こればかりはそうもいかないだろう。
ただ、いい加減な文面では逆効果でさえある。用心するに越した事はない。
「誰か典故に通じた者はおらんか!」
董卓の一声で、直ちに学のあるとおぼしき属官達が呼び集められた。
「いかがなされましたか?」
皆、訝しげな表情をしていた。普段の董卓は至って鷹揚で、細かい仕事は任せきりにしているから、大勢の属官達が呼ばれる事など滅多にないというのに、一体どうしたのであろうか?そういう気持ちがありありとうかがえる。
「今から中央に書状を奉る。内容は、罪状も定かならぬままに捕えられた段公を救解する為の嘆願である。公がいかに漢朝に尽くしてこられたか、そして、その方を失う事がどれほどの損失であるか、条理を尽くして書かねばならぬ」
「はぁ…」
急な事とはいえ、何とも頼りない返答である。皆、ひとかどの教養を持った者達ではあるが、皇帝や高官達の心を動かすほどの文章力があるかとなると、この様子をみる限り、いささか心許なく思える。
「文和がおればあいつ一人で足るのだがな…」
董卓らしくないが、思わずそんなぼやきさえ漏れる。前述のとおり、現在、賈ク【言+羽】は牛輔のもとにいて、その配下である。呼び寄せようかとも思うが、事が事だけに、そういう時間の余裕もない。
「公の功績はわしが今から述べるから、そなた達はそれをもとに書け!わしがそれをまとめる!」
「…?」
「聞こえんのか!さっさと簡と筆、それに墨を用意せんか!」
「はっ、はい!」
董卓の一喝を受け、属官達はばたばたと動いた。
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