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小説 『牛氏』 第一部
74:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:52 三十七、 もともとさして大規模な宴ではなかったから、しばらくするとあらかた片付いた。 その頃には、もう日もだいぶ高くなっていたから、眠りこけていた董卓、李カク【イ+鶴−鳥】、郭レ、張済も目を覚ましており、あたりの様子に気付いた。 「んっ? 何だ、ずいぶん片付いておるな」 「そうですね」 「俺達が眠っちまった時には、だいぶ散らかってたはずですけど」 「いつの間に?」 四人は、一様に首をかしげた。 「義父上、お目覚めですか」 「おぅ、伯扶。いつの間に片付けたのだ?」 「えっ?いけなかったですか?」 「いや、いかんという事はない。ただ、目が覚めたら片付いておるから不思議に思っただけだ」 「いつの間にって。義父上や皆の者が眠っている間にですよ」 「それは分かる。しかし、気付かなんだぞ。いったいどう片付けたのだ?」 「どうっておっしゃられても…。あぁ、そうそう、実は文和に手伝ってもらったんですよ」 「なに? 文和に?」 「はい。いや、あの者、なかなかやりますな。わが家人を実によくみて使っておりましたよ」 「ほぅ、そうなのか」 「えぇ。いかがなさいましたか?」 「うむ。ちょっとな」 「あれっ?皆様お目覚めですか?」 「おお、文和か。ちょっとこっちに来い」 「はい…」 一体、何であろうか。昨日合流したばかりで、叱責されたり称揚されたりする様な覚えもないが。 「そなた、急ぎの用はないか?」 「は? …昨日帰ったばかりですよ。そんな用事はありませんが…」 「なら話は早い。そなた、しばらくここに留まれ」 「?」 「分からんか。しばらくここに住み込めと言うておるのだ」 「はっ、はぁ…。私は構いませんが…。ただ、伯扶殿は…」 「義父上がそうおっしゃるのだ、私の方は構わんよ」 「…そうですか。分かりました」 軍団の長の命令である。否応のあろうはずもない。 翌日、董卓は任地に向かっていった。それと同時に、李カク【イ+鶴−鳥】・郭レ・張済は、それぞれの役目を与えられ、各部所に配置された。 ただ、賈ク【言+羽】のみはまだ無任所のままであった。 (義父上は、文和の配置については何もおっしゃらなかった…。これはどういう事なのであろうか…) (私が見る限りでは、文和は使える。ただ、あの者の事は何も知らんからなぁ…。どうやってその才智のほどを量ればよいものか…) 自室で書を読みつつも、その事で頭が一杯になっていた。 (とにかく、じっくりと話をせねばな) そう思っていた、その時である。
75:左平(仮名) 2003/08/24(日) 21:59 「殿。お話があるのですが」 気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。 「あれっ? そなた、いつの間に?」 「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」 「そうだったか?」 さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。 「それはすまんかったな。で、話とは何だ?」 「はい。実は、一つお願いがあるのです。いささか身勝手な願いではあるのですが…」 「構わん。話してくれ。ただし、辞めたいとかいうのは困るぞ」 「辞めるなど…。そんな事、つゆほども考えておりませんよ。実はですね…」 別にやましい話というわけでもないのに、なぜか彼の声は小さくなった。 「なにっ? 私と立ち合いたい?」 「はい」 「それは構わんが…なにゆえ私なのだ?立ち合うなら、他にいるではないか?家人では不満か?」 「いえ、家人の方々に不満がとかいうのではありません。ただ、どうしても殿と立ち合わせていただきたいのです」 「どうしても、か」 「はい」 「ふむ…」 牛輔は、自分の技量のほどはよく承知している。武術の腕前については、自分より上の者は掃いて捨てるほどいるからだ。となれば、家人では物足りないからというわけではない。 (いったい、何のつもりだ?) 少しいぶかしく思うが、賈ク【言+羽】のたっての望みである。彼の事を知る、よい機会ではないか。 「分かった。立ち合おう」 「ありがとうございます」 「で、いつ立ち合う?」 「殿のご都合がよろしければ、今すぐにでも」 「そうか。では、庭に出よう。誰かおるか!」 「はっ!殿、いかがなさいましたか」 「おお、盈か。適当な長さの棒を二本持ってきてくれ。文和と武術の立ち合いをする」 「はい」 「文和。棒を使うぞ。よいな」 「はい」 「殿。こんなものでよろしいでしょうか」 「おぉ、そうだな。それでよかろう」
76:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:14 三十八、 二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。 盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。 実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。 だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。 一つは、自らの長である、牛輔という人物を知る事である。 (一見したところ、伯扶殿はさして腕が立つ様には見えない。この涼州という地にあっては、それは男としては致命的な欠陥であるはず。しかし、董氏には篤く信頼されている様だ。単に娘婿だからか?いや、それ以外の何かがある。そう思えてならぬ…) それは、恐らく幾多の言葉を費やしても容易に分かる事ではあるまい。となれば、実際に体ごとぶつかって確かめるしかない。『彼れを知り己を知らば百戦して殆うからず』という。その『知る』という事は、何も敵に対してだけのものではない。 もう一つは、自らの中にあるもやもやを少しでも晴らす事である。 ろくに抵抗もできぬまま賊に捕らえられたというのは、いかにも情けなく、自分の力の無さをつくづく思い知らされる事であった。張済ならば、そういう時、賊を斬り血路を開く事ができたはず。それが、涼州の男というものであろう。 だが、眼前にいる牛輔はどうであろうか。部下の身でありながらこんな事を考えるのは甚だ失礼ではあろうが、『この方になら勝てるのではないか』。そう思える。ならば、この立ち合いで勝ち、少しでも憂さを晴らしておきたい。そうでもしないと、この先ずっと卑屈に生きるしか無い様に思えてならない。 そんな事を考えるほど、彼は、精神的に滅入っていたのである。 もちろん、そんな賈ク【言+羽】の胸中は、牛輔には知りようもない。ただ、受けて立つのみである。 「では!」 「おう、いつでもよいぞ!」 二人の声とともに、立ち合いが開始された。 「やぁ−っ!!」 賈ク【言+羽】は、足を踏み出すと同時に、棒を思いっきり持ち上げ、いわゆる上段の構えをとった。戈を振り下ろす要領である。頭に食らえば、相当の衝撃があるから、一撃で決着がつく。 「それ−っ!!」 全身の力を込めて振り下ろす。これが当たれば、自分の勝ちだ。 「おっとぉ!」 牛輔は、それをさっとかわした。彼の方は、まだ棒を振る態勢にさえ入っていなかった。よけるしかない。 (文和め、なかなか素早いな) 賈ク【言+羽】の攻撃をよけながらも、牛輔は感心していた。長身の割には、彼の動きは敏捷である。それは、他の面々と比べても決して劣ってはおらず、むしろ優っているくらいであろう。単なる文弱の徒というわけでもなさそうだ。さすがに、涼州の男である。 だが、その彼の攻撃を、自分はかわす事ができた。日頃の修練が、少しは効いたのであろうか。 「おりゃ−っ!!」 (おっと、感心してる場合じゃないな。こいつ、もう次の態勢に入っている) 棒を握る手に、思わず力が入る。自分だって、負けたくはない。 (さて、どう攻めたものか。棒を振る速さは、あいつの方が上だし…。ん!) しばらく攻撃をかわしているうちに、ある事に気付いた。
77:左平(仮名) 2003/08/31(日) 20:15 (よし!勝てるぞ!) しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。 (棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか) よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。 (あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな) まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。 (となれば、だ。あいつが棒を振り上げた時こそ勝機!) そう思った牛輔は、棒を短く持ち直した。 「やぁ−っ!!」 再び、賈ク【言+羽】が振り下ろす構えに入った。 「今だ!!」 そう叫ぶとともに、牛輔は賈ク【言+羽】の懐に入り、その腕をしたたかに打った。 「ぐっ!!」 短いうめき声とともに、賈ク【言+羽】の手から棒が離れ、地面に落ちた。乾いた音がした。 「殿!お見事ですぞ!」 一部始終を見届けていた盈が声をかける。ともかく、長としての威厳は保たれたというところか。軽くうなづく牛輔の額には、汗が滲んでいた。 一方、賈ク【言+羽】は、うずくまったまま押し黙っていた。
78:左平(仮名) 2003/09/07(日) 23:32 三十九、 「…」 賈ク【言+羽】の顔は、心なしか蒼ざめていた。 「文和、どうした。腕を打たれたくらいでそんなに痛いか」 「いえ…痛いのは痛いですが、それは大した事ではございません…」 「ならば、そなたの顔が蒼ざめているのはなぜだ」 「…今は立ち合いでしたから腕が痛む程度で済みました…。しかし、これが戦であったなら…私ごときは、真っ先にやられていたでありましょう…。それを思うと…」 「真っ先にというのは言い過ぎであろう。そなたでそれなら私はどうなる?」 決して冗談ではない。少しでもうっかりしておれば、倒されていたのはこちらであったのだから。 「殿は私よりお強いではございませんか…。それに、将たるお方が真っ先に倒されるなどあり得ません…」 「そなた、何が言いたいのだ?」 「…これでは、お仕えしていても何の役にも立てますまい…。私ごとき…」 そんな、自嘲的な言葉まで出てくる有様である。 (このままではまずいな。こいつ、豊かな才智があるというのに、すっかりくさってしまっている。どうしたものだろうか…) 『この男は使える』。義父にそう言った以上、この有様ではこちらも困るのである。何とかしなければ。 (そうだ。文和には、賊に捕らえられたという負い目があるんだったな) 考えるうち、ふと、その事に気がついた。 (そうか。それで、立ち合いたいなどと言い出したのか。自分は決して弱くはないぞという事を示したいが為に…) 自分になら勝てると思ったのか。そう考えると少し不快ではあるが、まぁ、これは事実であるからおいておこう。それより、何と言えば良いのか。 (弱いはずの私が勝った以上、「そなたは弱くないぞ」とは言いにくいしな…) いずれにせよ、何とかして励ますしかない。とはいえ、なまじ頭が切れるだけに、下手な励ましは禁物である。客観的な事実を挙げつつ、その才智を褒め上げてやろう。 「文和よ」 牛輔は、できるだけ重々しい声で語りかけた。よく義父が使うやり方である。 「はい」 その声調の変化に気付いたのか、賈ク【言+羽】の姿勢も少し改まった。少しはこちらの話に聞く耳を持った様だ。 「そなた、自分には何のとりえもないと思っておるのか?」 「私に何かあると?」 「そなた、私と立ち合っていて気付いた事はないのか?結果は結果として、そなたの全てが私に劣っていたというわけではないのだぞ」 「はぁ…」 「そなたの動作は実に機敏であった。…それは、勇将たる我が義父上にも劣らぬほどである」 「まことですか!」 信じられぬという様子であった。まぁ、無理もなかろう。だが、事実である。 「あぁ。私は間近で義父上の戦い振りを見たのだ。嘘ではないぞ。…ただし、そなたの腕は女と見紛うほどに細く、非力である。それで重い棒を振り回そうとしても、力負けするのがおちだ」 「確かに…。勝ちにこだわるあまり、いささか逸っておりましたな…」 「私がそなたに勝てたのは、この立ち合いが長く重い棒を使ったものだからだ。それ以外のものであればどうだったか。…そなたの頭であれば、勝つ方法くらいいくらでも考えつくであろう」 「そうでしょうか?」 「まぁ、今日明日にも戦があるというわけではない。ゆっくりと考えるとよかろう」 「はい。そうします」 しばし時間が経ったからであろうか。ようやく落ち着きを取り戻した様である。
79:左平(仮名) 2003/09/07(日) 23:32 数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。 輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。 「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」 その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。 「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」 役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。 「誰も申してはおりませんが、そうではないのですか。役に立つ者であれば、どうして後方なぞに配置しましょうか?」 (そういう事か。非力ゆえに前線に出られない事が、かくも不満なのか) 何とかなだめるしかない。 「どうして後方配置が役に立たんなどと申す?そなた、いやしくも孝廉であろう。相国(蕭何。前出の張良と並ぶ漢建国の功臣)の事くらい知っておるであろう?」 「それは、まぁ…」 「相国の功績とはいかなるものであるか。申してみよ」 「相国は…高祖が項羽と戦っていた際、本拠の関中にあり…丞相として全ての政務をこなすと共に、漢の法制を定め…前線への補給を途絶えさせる事無く続け、兵達を飢えさせる事はなく…」 「そうだ。そして、高祖は相国の功を第一とした。輜重とは、かくも重要なものだ。それを任せるというのに、役に立たんなどという事はなかろう」 「はぁ…」 確かに、その通りである。 「それに、時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良いのだぞ」 「好きな様に、ですか?」 「あぁ。わが家人と立ち合いをするのもよいし、遠駆けをしてもよい」 「そっ、その様な…」 相国の故事を持ち出したり、空き時間を好きに使って良いなどとは、新入りの自分には過ぎた厚遇ではないか。そう思った。しかし、かくも自分の事を気遣ってくれるとは。何よりも、その事が嬉しかった。 「私は、そなたの才は相当なものと見ておる。しっかりと務めてくれよ」 「はい!」 こうして、軍団に一人の智嚢(知恵袋)が誕生した。とはいえ、それが明らかになるのは、後の事である。
80:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:19 四十、 それから数ヶ月が経った。 さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。 「ふむふむ…」 しばし木簡に目を通したかと思うと、おもむろに筆をとり、何事かを書き込んでいく。内容を確認した旨の署名と、属官への指示である。 (この当時、印章というものは既に存在していた。ならば、押印一つで決裁となってもよさそうであるが、そうもいかない。印章はあっても、使用方法は現在とは異なるからである。当時、印章は文書の機密性を守る『封泥』を行う為に用いられていた。現在の様に、押印によって目を通した事・決裁した事を示すという性質を持つのは、紙が普及してからの事である)。 「よし!この件はここに記した様にせよ!次!」 「はい!こちらを!」 すぐさま属官が新たな木簡を差し出す。 「うむ。…むっ?ここに間違いが一箇所あるぞ。『二』ではなく『三』であろう。それに、文面にも問題があるぞ。やり直し!」 「は、はいっ!」 確かに書き間違いである。これには、反論のしようもない。 「ぐずぐずするな!明るいうちに全て終わらせるぞ!次!」 「はい!こ、こちらを!」 実にてきぱきとしたものである。遠目にも、山の様に積もった木簡の束が次々と片付いていくのが分かる。身分も時代も全く異なるが、その姿は、かつての始皇帝にも似たものがある(もちろん、属官達がその様な故事を知っているとは思えないが)。 その仕事振りは、何かに憑かれた様でもあった。 属官達も、うかうかとはしておれない。新たな上司である賈ク【言+羽】は、単に文面を見ているだけではなく、そこに書かれた数字の一つ一つに至るまで厳しく確認しているのである。 孝廉に推挙される基準は、その字面のとおり、「孝行」でありかつ「清廉」である事と言える。その基礎となるのは、言うまでもなく儒の教えである。しかし、彼はそれ以外の学問にも深く通じている様で、文言の誤りや細かい数字の矛盾点も的確に指摘する。そこに、ごまかしや馴れ合いの入る余地は一切ない。 「またえらい方が任に就かれたもんだ…」 皆、一様に驚き呆れた。この様な上官は初めてである。 董卓は、この様な事には概して鷹揚に構えていた。露骨な不正があれば厳しい処罰があったが、ささいな誤りについては、特に咎めるという事もなかったのである。今まではそれでよかったし、特に問題があったというわけでもない。 だが、塵も積もれば山となる、という。それらの累積の結果は、こうしてみると、存外ばかにならないものがあった。 (随分と無駄があったもんだな…) 賈ク【言+羽】の報告を聞きつつ、牛輔もまた、驚きを隠せなかった。と同時に、彼の様な優秀な人材を得られた事を大いに喜んだ。 とはいえ、彼もまた、賈ク【言+羽】の事をよく理解しているというわけではなかった。 地位こそあれど、どこか陰鬱としたものを感じずにはいられなかった都に比べ、ここは、雰囲気が良いし、与えられた仕事も悪くない。この環境には、おおむね満足している。 しかし、「あの事」は、今もまだ心に引っかかっている。それを解消するにはどうしたら良いのか。 (とにかく、この非力なのを何とかせねばな) あの立ち合いから数ヶ月の間、賈ク【言+羽】はよく食べ、また、武術の修練に励んだ。少しでも肉をつけ、力をつけようと思ったのである。しかし、思う様には肉はつかない。 彼が痩身なのは、修練が足りないからではなく、そういう体質だったからなのである。 (これでは、どうやっても強くなれないではないか。俺は、ずっと弱いままなのか) その事を改めて思い知った彼は、またしばし落ち込んだ。仕事振りは並外れていても、このあたりは、まだまだ二十代の若者である。
81:左平(仮名) 2003/09/14(日) 22:20 (あいつ、また落ち込んでるのか?) 牛輔も、その様子には薄々気付いてはいたが、声をかけるのはためらわれた。その原因は、だいたい見当がつくからである。 (もう少し、様子を見ないとな) ただ、しばらくすると、どうやら落ち着きを取り戻した様に見えた。 落ち着きを取り戻したのであれば、それで良い。それ以上は気にとめる事もなかったのであるが… 「殿。ちょっと気になる事があるのですが」 そう言ってきたのは、今や牛輔の腹心とも言うべき存在になった盈である。 以前の、テイ【氏+_】族との戦いの時もそうであるが、彼は何をどうやっているのか、実に多くの情報を持って来る。しかも、その情報は実に有益なのである。いまだに自身の事を語らないのが少し引っかかるとはいえ、その態度は至ってまじめなものであり、咎めるべき誤りもない。 今回は、一体なんであろうか。気になるところである。 「おお、盈か。そなたが気になる事、とな?一体どういう事だ?」 「はい。実は、文和殿の事なのですが…」 「文和がどうかしたのか?」 「それがですね…」 盈の声が小さくなった。どうも、重要な話の様だ。
82:左平(仮名) 2003/09/21(日) 22:51 四十一、 「ん?文和がしょっちゅう遠駆けに出ているというのか?」 「はい。時には、帰りが翌朝になる事もあります」 「そうか」 「そうか、で済む事なのですか、これが。配下の一人が勝手に外出しているのですよ!」 普段は温厚な盈が、少し昂奮している様だ。確かに、監督不行き届きとみられてもおかしくはない事なのであるから、主を思えばこういう態度になるのも無理はない。 「良いのだ。私が『時間が空けば、そなたの好きな様に使っても良い』と言ったのだからな。それに、文和は仕事をおろそかにしておるわけではなかろう?」 「それはそうなのですが…」 盈にしては、どうも、歯切れが悪い。 「何だ?まだ何かあるのか?」 「それならそれで、なぜ朝帰りなどなさるのかが引っかかるのですが…」 「そうか?外に惚れた女の一人でもいるのではないか?あいつも、私とは同年代だ。時に、女を抱きたくてならぬ事があるのだろう。そう気にするものでも…」 そう言いかけると、盈は、急に語気を強めた。 「衣服に異様な乱れがあってもですか!」 これには、少々驚いた。どうしたんだ、一体。 「異様な乱れ?一日中着続ければ衣服はおのずと乱れるではないか。それに、いったん脱いだりしてもやはり乱れるもの。何が異様だというのだ?」 「あれは、単に一日着続けたとか一度脱いだという程度の乱れではございません。そういう時の文和殿の衣服は、どう考えても、屋外で一晩を過ごしたとしか考え様のないほどに汚れておるのです」 「ふむ…」 なるほど、確かに異様ではある。女に逢うというのであれば、屋外に一晩中いるとは考えにくい。 (しかし、なにゆえに?) そのあたりが、どうも分からない。ただ、放置しておけば、自分にとっても、周りにとっても、よろしからぬ影響を与えてしまいそうではある。 (ともかく、調べてみねばな…) 「分かった。今度文和が遠駆けに出た時には知らせてくれ。後をつけてみよう。…よいか、この事は、くれぐれも内密にな。よいな」 「はっ!」 数日後−。 「盈よ。文和の様子はどうだ?」 「はい。この何日かは、あまり出られませんし、出られても日没までには帰ってきておられます。朝帰りをなさるのは、だいたい旬日(十日間)に一回程度ですから…今日、明日にもそうなさるのではないかと思われます」 「そうか。では盈よ。馬を用意しておいてくれ。私も遠駆けするとしよう」 「はっ」 そう言い渡すと、牛輔は外出の支度を始めた。ここのところ、賈ク【言+羽】と共にずっと文書の処理に追われていたから、久しぶりの外出である。
83:左平(仮名) 2003/09/21(日) 22:54 「姜。ちょっと出かけてくるよ」 「はい。どちらへお出かけですか?」 「どことも言えんのだ。私にもよく分からんのだから」 さらりとそう言ったのが、かえって彼女の癇に障った様である。 「分からないって、あなたご自身の事ですよ。…まさか!わたしに言えない様な所じゃないでしょうね!」 蓋を産んでからというもの、姜もそれなりに母親らしい落ち着きを持ちつつある。とはいえ、こういうところは、まだまだ嫁いできた当時のままだ。普段はそれが愛嬌なのであるが、この時ばかりはちょっとやりにくい。 「違うって。ぶらりと出てくるだけだからどこに行くか分からないって事だよ。日没までには帰るし、そなたが勘繰る様な所へは行かぬ。誓ってもよい」 「本当ですね?」 「ああ」 「約束ですよっ」 「ああ。分かったからそんなにうらめしい顔をしないでくれよ」 (まさか、文和の様子を探ってくるなんて言えんしなぁ…) いくら妻とはいえ、話せない事もある。 幸い、姜はそのあたりのわきまえは持っている様なので、その点は一安心なのではあるが…。変にやきもちを焼かれるとちょっと後が怖いので、事後処理はきちんとしておかねばならない。 (文和の様子はどうあれ、今日は日没までには帰らんとな…。あと、今夜はたっぷりと相手してやらんと…) そんな事を考えると、妙に気恥ずかしくなる。何を考えてるんだ、一体。これは遊びではないというのに。 「殿。文和殿が出られましたぞ」 盈が密かに報告してくる。盈の真剣な様子を見ると、ふっと気が引き締まった。 「うむ。で、どちらに向かった?」 「西の方に」 「西の方か…。ここより西となると…。どこぞの邑に寄るというわけでもなさそうだな…」 「そうなのです。邑に寄るというのでしたら、誰かに会うとも考えられるのですが…」 「ふむ。確かに気になるな。これは、私一人では難しいやも知れぬな。盈よ。そなた、ついて来てはくれぬか?」 「えっ?私がですか?」 「そうだ。そなたとなら、文和を見失ったり道に迷ったり事もあるまい。それに、武術の腕もありそうだしな」 「まぁ…できるだけの事はいたしますが…」 「なら、話は早い。そなたも馬を用意しろ」 「はい」 盈も、外出の支度を始めた。彼の支度はすぐに終わり、二人はそれぞれの馬に乗った。
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小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50