下
小説 『牛氏』 第一部
75:左平(仮名)2003/08/24(日) 21:59
「殿。お話があるのですが」
気がつくと、賈ク【言+羽】が牛輔の前に座っていた。
「あれっ? そなた、いつの間に?」
「いつの間にって…。何度も咳払いを致しましたよ。それに、目も合ったではありませんか」
「そうだったか?」
さっぱり気付かなかった。考え事にすっかり気を取られていた様だ。
省35
76:左平(仮名)2003/08/31(日) 20:14
三十八、
二人は、二丈(当時の一丈は約2,3m)ほど離れて向かい合った。
盈が持ってきた棒は、二本とも、おおよそ十尺(当時の一尺は約23p)ほどである。戟・戈など、当時の武器の大きさを考えると、もう少しくらい長くても良いのではあるが、これは実戦ではなく、あくまで立ち合いである。まあこんなものであろう。
実は、二人とも武術には疎い。その構え一つとっても、いっぱしの武人から見れば実に心もとない。傍目には、武術の立ち合いというより、何かの踊りみたいである。
だが、当の二人にとっては、真剣勝負であった。特に、自分から申し出た賈ク【言+羽】にとっては。この立ち合いは、彼には二つの意味があったのである。
省34
77:左平(仮名)2003/08/31(日) 20:15
(よし!勝てるぞ!)
しばらく様子を見ているうちに、武術における、賈ク【言+羽】の弱点が見えてきた。それは、彼が非力である事だ。
(棒を構え、振り下ろす態勢に入るまでは実に素早い。だが、非力ゆえ振り下ろすのは遅い。…なるほど、だから私でもよけられたのか)
よく見ると、袖口からちらりと見える彼の腕は細い。力を入れている為に浮き出ている血管等がなければ、女のそれと見紛うほどである。
(あの腕が義父上ほどであれば…。ただの棒でも、私の頭は砕かれていたかな)
まだ攻められっぱなしなのに、そんな事を考える余裕さえ出てきた。
省19
78:左平(仮名)2003/09/07(日) 23:32
三十九、
「…」
賈ク【言+羽】の顔は、心なしか蒼ざめていた。
「文和、どうした。腕を打たれたくらいでそんなに痛いか」
「いえ…痛いのは痛いですが、それは大した事ではございません…」
省42
79:左平(仮名)2003/09/07(日) 23:32
数日後、賈ク【言+羽】の配属が決まった。
輜重(武器や食糧)の管理及び各種報告の整理作成というのが、彼に与えられた任務である。孝廉ともなれば、小難しい文書の扱いにはうってつけであろう。
「やはり、私はお役に立たんとおっしゃるのですか?」
その事を告げたとたん、賈ク【言+羽】はさっそく不満をもらした。先日の事をまだ引きずっている様だ。
「誰がそんな事を申した?私は、そなたが役に立たんなどとは言ってもないし、思ってもおらんぞ」
役立たずとみなした?牛輔にとっては心外である。自分は、賈ク【言+羽】の事を相当高く評価しているというのに、何が不満なのであろうか。
省26
80:左平(仮名)2003/09/14(日) 22:19
四十、
それから数ヶ月が経った。
さすがに孝廉に推挙されたというだけの事はある。数人の属官を与えられ、輜重の管理及び各種報告の整理作成に励む賈ク【言+羽】の仕事ぶりは、並外れたものがあった。
「ふむふむ…」
省38
81:左平(仮名)2003/09/14(日) 22:20
(あいつ、また落ち込んでるのか?)
牛輔も、その様子には薄々気付いてはいたが、声をかけるのはためらわれた。その原因は、だいたい見当がつくからである。
(もう少し、様子を見ないとな)
ただ、しばらくすると、どうやら落ち着きを取り戻した様に見えた。
落ち着きを取り戻したのであれば、それで良い。それ以上は気にとめる事もなかったのであるが…
省15
82:左平(仮名)2003/09/21(日) 22:51
四十一、
「ん?文和がしょっちゅう遠駆けに出ているというのか?」
「はい。時には、帰りが翌朝になる事もあります」
「そうか」
「そうか、で済む事なのですか、これが。配下の一人が勝手に外出しているのですよ!」
省34
83:左平(仮名)2003/09/21(日) 22:54
「姜。ちょっと出かけてくるよ」
「はい。どちらへお出かけですか?」
「どことも言えんのだ。私にもよく分からんのだから」
さらりとそう言ったのが、かえって彼女の癇に障った様である。
「分からないって、あなたご自身の事ですよ。…まさか!わたしに言えない様な所じゃないでしょうね!」
蓋を産んでからというもの、姜もそれなりに母親らしい落ち着きを持ちつつある。とはいえ、こういうところは、まだまだ嫁いできた当時のままだ。普段はそれが愛嬌なのであるが、この時ばかりはちょっとやりにくい。
省30
84:左平(仮名)2003/09/28(日) 22:12
四十二、
門が開いた。ほぼ同時に、全速で二騎が駆け抜けていった。牛輔と盈である。
「殿!どちらへ!」
あまりの急ぎ様をみた門番が、思わずそう呼びかける。何か重大な事があったのだろうか。そう思うのも無理はない。
「どことは言えんが、日没までには帰る!私が帰るのを待っておれよ!」
省41
上前次1-新書写板AA設索