小説 『牛氏』 第一部
85:左平(仮名)2003/09/28(日) 22:13
さして大きな林ではなかったが、思ったとおり、泉があった。泉には、清澄な水がたたえられている。
(そういえば、こういう所で父上と母上が会われたんだったな…)
前述のとおり、牛輔には母の記憶はない。しかし、緑と静寂に包まれたこの場所に、どこか懐かしいものを感じずにはいられなかった。
「盈よ。私は、ここで産まれたのかも知れぬな」
何の気なしにではあるが、そんな言葉が出てきた。別段深い意味はないのだが、盈には甚だ意外な言葉である。
「えっ?殿は牛氏のご嫡子ではないのですか?なにゆえ、この林で産まれたなどと…」
「なに、言葉のあやというものよ。実はな。昔、この様な場所で父上と母上が会われ、そして結ばれたそうなんだよ。ひょっとしたら、ここかも知れぬなぁ…と思ってな」
「その様な事があったのですか」
「あぁ。そして、母上は羌族の族長の娘であったという」
「…」
盈は黙ってしまった。別に禁句というわけではないのだが、この話は、周囲の者にとってはまだまだ衝撃的なものの様だ。
「ちょっと横になるか。日没までにはまだ間があるしな」
さして疲れていたわけではないが、牛輔は、そう言って話をやり過ごした。
「でしたら、このあたりがよろしいでしょうね」
盈も、あまり深く立ち入りたくはない様子である。意識的に、主と目を合わせない様にしていた。

二人は、草の上にごろりと横になった。空を見上げると、雲が流れてゆくのが見える。空を飛ぶ鳥の姿も、はっきりと分かる。穏やかな、夏の一日であった。
しばらくそうしていると、不思議と眠たくなってくるものである。いつしか、うとうとと夢うつつの中に入っていく。

そんな中、不意に何かの気配を感じた。獣のそれとはちと違うし…いったい、何だろうか。
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