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小説 『牛氏』 第一部
8:左平(仮名) 2003/01/13(月) 21:06 四、 同じ頃。月を眺めつつ、酒を呑む男がもう一人いた。牛輔の父である。 (輔も、もうそういう年なんだな。月日の経つのは早いもんだ。あれから、もう二十年以上も経つのか…) そう感慨にふける彼の脳裏に、二十数年前の事が、鮮やかに思い起こされた。 その時−−彼は、一族とともに狩りに出ていた。夏の、暑い日であった。その日は、思ったほどの獲物は得られず、ひたすら野山を駆け回ったので、喉がからからに渇いていた。 (み、水は…) そう思いつつ野を進むうち、草むらが見えた。まわりより草が育っているところを見ると、近くに泉か川があるらしい。彼は、そちらに足を向けた。 思ったとおり、そこには泉があった。水は十分に清く、これなら飲めそうである。彼は、馬に水をやり草を与えるとともに、自分もその水を飲んだ。渇いた喉にとって、その水は実にうまいものであった。 ひと心地ついてみると、他の者からはぐれている事に気付いた。まぁ、もう子供でもないし、日も高い。慌てるほどの事ではない。 「さて、と…」 顔をあげた彼の目に、人の姿が映った。若い女性である。彼女もこの泉の水を飲んでいたところであった。 「あ…」 互いに初対面である。もう子供ではないが、かといって、異性を熟知するほどにはすれていない。二人は、ほぼ同時に顔を赤らめ、心もち下を向いた。 しばらくそんな状態が続いた。ようやく顔を上げ、勇気を振り絞って声をかけた。 「はっ、はじめまして! …お、お名前は?」 (なっ、何を言ってるんだ、俺は。初めて会う人に対してそう言うか?) 彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。相手は気を悪くしないだろうか。そんな不安が頭をかすめる。 「わっ、わたしは…。り、琳と申します…」 そう言った彼女は、手で口元を押さえ、うつむいたままである。男を目の前にして、恥じらっているのであろうか。少なくとも、気分を損ねたという事はなさそうである。少しほっとした彼は、気をとりなおして話しかけた。 「琳さんですか。いいお名前ですね。私の名は朗、牛朗と申します」 「朗さん、ですか…あの…」 「いかがなさいました?」 「あなたも…いまこの泉の水を飲まれたのですね?」 「はい…」 「では…あなたと…同じ水を…この唇が…」 そう言ったまま、彼女はなおもうつむいたままである。顔は、ますます赤くなっている。 そんな彼女に目をやったまま、彼も、動けなかった。 (きれいな人だなぁ…こんな人と一緒にいられたら…) 傍から見ると、呆けている様に見えたかも知れない。まさしく、一目惚れであった。 「お−いっ、朗、どこだ−っ」 沈黙は、その呼び声で破られた。ぐずぐずしていると、後で怒られそうだ。 (いけねっ。そう言えば、日も傾いてらぁ) 慌てて、彼は立ち上がった。彼女の姿をもうしばらく見ていたかったが…そうもいかない。
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