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小説 『牛氏』 第一部
17:左平(仮名) 2003/02/09(日) 21:47 これから、妻を迎えようとするところである。落ち込んではいられない。 門が開いた。馬車がゆっくりと中に入っていく。別邸とはいえ、なかなか広い。中庭で、彼は手綱を董氏の家人に預け、車から降りた。 堂(中庭の側が吹き抜けになっている広間)に上がり、祖廟での一連の儀礼が終わると、新妻を車に乗せる 事になる。 姜が、姿を現した。彼女もまた、当時の儀礼に従い、新婦が身につける纓(えい:頭にかける紐飾り)を除いては、わりと地味な衣装をまとっている(古礼によると、この時の衣装は、黒いものを用いるという。これでは喪服と同じではないか、と思うかも知れないが、古代の喪服は白いものを用いたというから、問題はない)。顔は、ここからではまだよく分からない。照れて、顔を合わせるのもままならないのである。それは、向こうも同じらしい。顔を伏せ気味にしてこちらに近付いてくる。 (意外と小柄だな。それに、私に会って照れてる様だ…) そんな、何気ないしぐさにも、彼の心はときめく。 姜がそばまで来た。牛輔は綏(車の乗降の際につかまるひも)を投げ、彼女を車に導く。綏を通じて感じる彼女は、不思議に軽く感じられた。あの董卓の血を引くとは思えないほどに。 車輪を三回転させると、彼は車から降りた。先に自邸に戻って、新妻を門前で迎えるのである。 すっかり夜も更けた。自邸の門前で、彼は妻の到着を待っていた。時の流れが遅く感じられる。が、それは苦痛ではない。 やがて、松明が見え、姜の乗った馬車が姿を見せた。彼は、揖譲(ゆうじょう:手を組み合わせて挨拶し、へりくだる)し、彼女をいざなった。 目の前に杯が置かれ、酒が注がれる。二人は、それぞれの杯を手にとり、酒を口に含んだ。酒で口をすすいで体を清めるとともに、同じものを口にする事で、礼を明らかにするのである。 これで、親迎の儀礼はなかば終了した。翌朝、妻は早起きして夫の両親に挨拶をする事になる。 (明日の事があるから、あまり変な事はできないが…) 姜の横顔をちらちら眺めながら、牛輔は心を昂ぶらせていた。
18:左平(仮名) 2003/02/16(日) 00:28 九、 一通りの儀礼を終えた二人は、ゆっくりと、居室に入った。室内には寝具が整えられており、燭台には火がともっている(当時の照明に用いられたのは、木片か獣脂。木片は松明の形で、獣脂は、灯心をさして蜀台の上で燃やした)。寝具は、もちろん一つしか用意されていない。 別に、寝所に入る際にはゆっくり歩かなければならないというわけではない。しかし、急ぐ事はできなかった。晴れて夫婦になったとはいえ、なにしろ、初対面である。そんな相手と、いきなり男女の交わりを持つのであるから、心は逸るものの、体がいう事を聞かない。二人とも、全身が緊張していた。 ようやく、寝具のところに腰を落ち着けると、二人は向き合った。さっき、車に乗り込む際に顔を合わせたはずなのであるが、あの時は緊張の中にいた為、顔をよく見ていなかった。いま、ようやく互いの顔を見つめあった。 (あぁ、この女(ひと)が…私の妻なのか…) (わたしの夫は…この人なのね…) 二人は、しばらく無言のまま見つめあっていた。見とれていた、と言っても良い。とはいえ、一言も話さぬままに体だけ重ねるというのも味気ない。第一、こんなに緊張した状態で、うまくできるだろうか。 (何か話して、緊張をほぐさないと…) 傍目には、歯がゆく見えたであろう。もう、衣装を脱ぐだけで良いというのに、何を固まってるんだ、と。 しばらくして、ようやく牛輔の方から口を開いた。 「き、姜さん…」 「はい?」 「何から話しましょうか?」 「何から、とおっしゃられても…」 「う−ん…。ねぇ、姜さんは、どうして『姜』って名前なんですか?」 「えっ?」 「いや、今朝、父に聞かれたのですよ。『そなた、自分の名をどう思っている?』って」 「はい。それで、どうお答えしたのですか?」 「いえ、答える事はできませんでした。そんな事は考えてもいませんでしたから。そうしたら、父が、私の名の意味を話してくれたのです」 「あなたの名は、確か『輔』でしたよね。その意味ですか」 「そうです。父は、こう言いました。『わしを「輔(たす)」けて欲しい、そういう思いを込めて名付けたものだ』と」 「でも…。あなたはご長男ではないのですか?字も『伯扶』ですし。跡目を継ぐお方が、どうして『輔』なのですか?」 「そうなんですが…これには理由があったそうで…」 そして、父から聞いた事を話した。それまで聞く事はなかったとはいえ、他言を禁じられたわけではない。妻には話しておいても良かろう。 話を聞き終わった姜は、目を見張った。驚きを隠せない様である。そりゃそうであろう。牛氏と羌族との関係は、隴西に住む者であれば周知の事なのだから。 「では、あなたも…羌族の血を引いておられるのですね」 「えっ?じゃ、姜さんも…?」 「えぇ。わたしの母・瑠は、羌族の族長の娘です。何でも、かつて父が集落を訪ねた時に一目惚れして、牛馬を届けた際にそのまま嫁いだって…」 「そうでしたか」 「不思議なものですね」 「えっ?」 「そうでしょ。だって、わたしもあなたも漢人の家に生まれましたが、羌族の血を引いてるんですから。これも、何かの縁ですね」 「そ、そうですね…」
19:左平(仮名) 2003/02/16(日) 00:31 体の緊張が、(一箇所を除いて)少しずつほぐれてきた。 言葉を交わす事で、彼女の人となりが、何となくではあるが見えてくる。その表情といい、声といい、変な翳りは感じられない。彼女は、心身ともに健やかに育った事は間違いなかろう。それ故、少なくとも、夫である自分を故なく軽んじる事はなさそうである。 妻、そして母としてはどうであるかはまだ分からないが、一人の女として彼女を見れば、特に文句をつける様なところはない。あとは、自分が彼女にふさわしい男になれるかどうか、である。 「じゃ、そろそろ…」 「えぇ…」 二人は、帯を緩め、ゆっくりと上衣を脱いだ。夏の夜である。昼間よりはだいぶ涼しいとはいえ、緊張と興奮の為か、二人の体にはうっすらと汗がにじんでいる。鼓動もさらに早くなった。 肌着を脱がせる為、彼女の肩に手をかけようとした牛輔は、その体からかすかな匂いがするのに気付いた。 この当時、どの様に体を洗っていたか。古代ロ−マの例もある(有名なカラカラ浴場は、3世紀初めに完成している。これ以外にも、多くの浴場があった)様に、主には蒸し風呂であったと考えられるが、「斎戒沐浴」という言葉もあるから、湯水で体を洗い清める事もあった様である。 ただし、毎日洗ったというわけではなかったろう(だいたい、「斎戒沐浴」という行為自体、天を祀るなど特殊な儀礼の際に行うものというニュアンスが漂っている)。漢代の官吏に「休沐」(体を洗う為の休暇。この当時は、五日に一回)というものがあった事自体、それを示している。 ほぼ毎日入浴して体を洗っている我々に比べると、人間の体臭は、また、そういうものに対する感覚は強かったはずである。 (あぁ…この匂いは…) 彼は、女の匂いには縁が薄かった。実母は、生まれてすぐに亡くなったし、義母との関係も、(彼がそう思っているだけかも知れないが)いささか距離がある。それだけに、その匂いは強烈であった。 初めて嗅ぐその匂いは、なぜかは分からないが、彼の心をさらに興奮させる。 手からは、彼女の肌の感触が伝わってくる。その感触は、絹布の如き、いや、何とも比べられないほど、なめらかで、心地良いものであった。 思わず、我を失いそうになる。が、欲情に溺れっ放しではいられない。相手は、妻なのである。今宵限りの相手ではない。彼は、一瞬目をつむり、自らを戒めた。 (待て待て、少し冷静にならないと。慌てず、ゆっくりと、優しく…) 裸になった二人は、顔を近付け、唇を重ねた。互いの鼓動と息遣いが伝わってくる。そのまま、ゆっくりと横になった。 牛輔が愛撫するたびに、姜の体は反応を示す。しばらくそうしているうちに、汗が吹き出し、初々しい嬌声があがり始めた。 (あぁ…いまわたし、伯扶様に愛されてる…やだ、こんなに乱れちゃって…恥ずかしいっ…) 恥ずかしさと悦びの余り、姜が体を激しくくねらせると、牛輔もそれに合わせて体を動かした。二人とも、今までかしこまっていたのが嘘みたいである。 ついに、二人が交わった。いくら心身の準備ができているとはいえ、初めて男を受け入れた瞬間はさすがに苦痛を伴うらしく、姜の顔が一瞬苦悶にゆがむ。 「い、痛いの?」 「ちょっと…。でも、嬉しいです。これで、本当に夫婦なんですから…」 目を潤ませ、痛いのをこらえているその表情が、さらに男の欲情をそそる。女が痛がっている様子に興奮するのではない(それではただの嗜虐である)。彼女が、その苦痛よりも、自分に抱かれるのを喜んでくれている事、言い換えると、自分をそれだけ深く愛してくれている事に興奮するのである。 「姜さん…」 「姜、と呼んでください」 「あぁ、姜」 二人は、理性を半ばかなぐり捨てて、激しく交わりあった。
20:左平(仮名) 2003/02/23(日) 22:21 十、 事が終わり、重なっていた二人の体が離れた。呼吸は荒く、体と寝具は、汗やら何やらで、ぐっしょりと湿っている。 「こんなに…」 「ん?」 「こんなに…いいものだなんて…。お父様とお母様がしょっちょうしてるのも分かるわ…」 「そうだな…」 (董郎中殿は、今も奥方と? まぁ、無理もないか…。俺も、こんなにいいものとは思わなかったしな…) 「ねぇ…。もう一回、いいでしょ?」 姜が、甘えた声を出しながら、そう聞いてくる。それは、牛輔からしても望むところではあるが、明日の事もある。何回も交わって、寝坊させるわけにもいかない。 「俺もそうしたいけど…。明日は、早いだろ?だから、もう寝よう」 「だめぇ?」 ちょっと不機嫌な顔になった。その表情もかわいらしく、欲情をそそるものだから、いよいよこちらとしてもなだめるのが辛い。 (俺だって、したいのはやまやまだよ。もう一回どころじゃないくらいに) 内心はそう思いつつも、懸命になだめた。 「まぁ、こらえてくれよ。明日、儀礼が全部済んだらもっとかわいがってやるからさ」 「ほんと?」 「あぁ」 「約束ねっ」 姜は、裸のまま牛輔に抱きついてきた。牛輔も、彼女の体に腕を回し、二人はそのまま眠りについた。 翌日−。 眠い目をこすりつつ、姜は目を覚ました。夏の朝は早い。空は、既に白みがかっている。 親迎の翌朝は、新婦は早起きしなければならないのであるが、このくらいの時間なら、まぁ問題なかろう。とはいえ、ぐずぐずしてはおられない。身づくろいをしないと、今の格好では、恥ずかしくて部屋から出られない。 (さぁてと。もうひと頑張りしないと) 舅・姑との儀礼がまだ残っている。昨晩の様子からすれば、夫とはうまくやっていけそうであるが、舅・姑との関係がまずければ、台無しである。姜は、自分を励ましつつ、元気良くはね起きた。隣には、夫の牛輔が眠っている。いや、眠ったふりをしている様だ。 「じゃ、あなた。また後でね。昨日の約束、忘れないでよ」 そう言うと、心なしか、夫がうなづいた様に見えた。 まずは、身を清めなければならない。姜は、桶を用意し、水を張ると、その中に体を沈めた。体を沈めたといっても、さして大きくない桶であるから、下半身が水に浸るくらいである。 手で体に水をかけながら、彼女は、自分の変化を感じていた。 もちろん、たった一日で目に見える変化があるわけではない。しかし確かに、夫に抱かれ、自分は娘から女になった。その意識をもって見ると、自分の体でさえ、何か全く別なものになったかの様に思える。 (この胸…。この胸を、伯扶様やわたし達の子供が触る事になるのね…。こんな風に…) そっと胸に手をやった姜は、これからの事を思い、思わず恍惚となった。 (いっ、いけないっ!わたしったら、こんな時に何考えてるの!) これから大事な儀礼があるというのに。そう思うと、思わず顔が赤くなった。 沐浴し、体を洗い清めた姜は、堂で舅・姑と向かいあう事になる。 既に六礼は終わったといえるのであるが、この時の儀礼もまた、なかなかに骨の折れるものである。大まかに流れをいうと、まず、礼物のやりとりやまつりごとがあり、それによって新婦の賢明さが確認された後、饗応を受け、退室となって終了するのである。これらがうまくいかなければ、今後、何かと不都合が生じるであろう。最悪の場合は、即離婚ともなりかねない。
21:左平(仮名) 2003/02/23(日) 22:24 「婦」という字は、「女」と「帚」から成り、「ほうきを持った女」という意味あいを持つ。そもそもは、神を祀る宗廟を清めるという重要な役割を担っていた様である。この頃には、そういう意味は失われていたものの、婦人が、家庭内においては重要な存在であった事は間違いない。単に、夫の快楽の相手というだけではないというのは、今も昔も同じである。 夫との関係は良いものとなろう。それだけに失敗は許されない。そう、緊張して臨んだ儀礼ではあったが、すんでみれば、そう大したものではなかった。 (良かった。お義父様もお義母様もお優しい方で) 十分に練習はしてきたものの、完璧にできたというわけではない。しかし、真摯に取り組んでいるさまを見て、二人とも大目に見てくれた様である。 自分の顔を見た時、舅がちょっと驚いた様であったが、特に何も言われなかった。あれは、何だったのだろうか?ちょっと気になったが、すぐに頭から消えた。 (さぁ、あとは…うふふ) この後は、お楽しみの、昨晩の続きである。あの人と、飽きるくらいに…。そう思うと、思わず顔がほころんだ。 「あなたぁ。さ…」 「あぁ。おいで」 「ハネム−ン」(=蜜月)という言葉がある。何でも、英国では、新婦が滋養に富んだ蜂蜜酒(ハニ−ワイン)を作り、それを一月にわたって新夫に飲ませるのだとか。滋養に富んだ酒を飲ませてする事と言えば… やはり、であろう。 そういう風習の有無は分からないが、この新婚夫婦もまた、そういう状態であったろう事は、想像に難くない。 それからしばらく経った、ある日の事である。
22:左平(仮名) 2003/03/02(日) 18:25 十一、 牛氏の邸宅に、数人の男達が訪れた。多くの戦場を踏んできたのであろうか。その顔つき・体つきは、精悍そのものであった。その中でも、ひときわ体格の大きい男が、門番に話しかけてきた。 「ご主人はおられるかな?」 「えっ? 失礼ですが、どちら様でしょうか。今日は、お客様が来られるとは聞いておりませんが…」 「おっと、これは失礼した。あらかじめ連絡しておくべきであったな。すまぬが、おられるのであったら、董卓、字仲潁が参ったと伝えて下さらぬか」 「はい…。しばしお待ちいただけますか?」 「なに、董郎中殿がお見えだと?」 董卓の急な来訪を聞き、牛朗は驚いた。一体何の用件であろうか。 (まぁ、姜殿の様子を見に来られたのであろうが…) 何も聞いてないから、はっきりしたところは分からない。ともあれ、来られたのであれば、無碍に追い返すわけにもいくまい。 「はい。いかがいたしましょうか」 「どうするも何も、董家と我が家とは、今や縁戚であるぞ。すぐにお通ししろ」 「はい」 「それと、酒肴も忘れるなよ」 「はい」 その時、牛輔は自室におり、一人書を読んでいた。読み始めてからだいぶ経つのであるが、まだ終わりそうにない。 (う−む…難しいな…。でも、理解しないと…) 数文字読んでは首をひねり、しばらくしてうなる。その繰り返しであった。なかなか頭に入らない。 この時代を生きた名族の嫡男であれば、基礎的な教養として五経(詩経、書経、易経、春秋、礼記。もともとは六経であったが、楽経は早くに亡失した)を読むのは当然の事であった。当然、彼もそのくらいの教養は積んでいる。その彼をして「難しい」と言わしめたもの。それは、兵書であった。 この当時、いくつかの兵書があった。有名なものに、「孫子」(この頃には「孫武兵法」「孫ピン【月賓】兵法」があった。現在、我々が「孫子」と呼んでいるのは、「孫武兵法」の方である)「呉子」「司馬法」「六韜」「三略」「尉繚子」「李衛公問対」がある。 董卓の娘婿となる以上、戦いに出る事も多かろう。それは、かねてより覚悟していたが、親迎の儀礼の時、彼に会った事で、その確信は深まった。 (戦いに出たとしても、恐らく武勇では役に立てまい。だとすれば、何で役に立てるか。あまり自信はないが…智をもってお役に立つよりほかないな) そう考えると、五経のみの知識では心もとない。戦場にあって役に立つ知識といえば、何と言っても兵書であろう。そう思って読み始めたのである。 必要に迫られての読書であるだけに、熱が入る。だが、実戦の経験はないだけに、どうしても不安が残るのも、また事実であった。 ところで、姜はどうしているのであろうか。彼女はというと、姑につき従い、婦人のすべき仕事(彼女たちは豪族の妻であるので、自身が炊事・洗濯などの家事をするわけではない。しかし、家人の仕事ぶりを監督したり、家の祭祀を行うという重要な役割がある)について学んでいるところである。 態度・もの覚えは、まずまずの様である。何より、嫌味がなく、素直であるのが良い。この分なら、良い婦人になれるであろう。 父母共に健在で、牛輔自身は無官であるのだから、今のところは何もする事はなさそうなものだが、そうもいかない。新婚夫婦だからといって、四六時中いちゃついているわけではないのである。
23:左平(仮名) 2003/03/02(日) 18:27 ふと気付くと、外が騒がしい。きりのいいところだし、ちと休むか。そう思った牛輔が部屋の外に出ると、家人達が忙しく立ち働いている。食事時でもないのに配膳の支度をしているのである。 「随分忙しそうにしてるが、何かあったのか?」 「あ、若様。実は、董郎中様がお見えなのです。で、酒肴の支度をする様に、との事なので」 「えっ!? 義父上が? で、いかがなさっておられる?」 「いや、今は殿とお話されております。どうも、大事なお話をされている様で…」 「そうか」 「また、何かあったらお呼びしますので」 「あぁ。分かったよ」 牛輔は、部屋に戻った。また読書を続けようとしたが、どうも落ち着かない。 (義父上は、何しに来られたのだろうか? 大事な話とは、一体何だろうか?) 牛朗と董卓は、向かい合って座っていた。体格は、董卓の方が大きいが、風格という点では、さしたる差はない様である。いや、この場に限っては、牛朗の方が堂々としているくらいである。 「ところで、いかなるご用件でしょうか?」 「えぇ。実はですな…」 董卓は口ごもった。豪放な彼らしくない態度である。 「はい。何でしょうか?」 「伯扶殿…」 「輔ですか?輔に、何か?」 「その…伯扶殿と姜を…我が別邸に移したいのです」 「はぁっ!? 一体、何をおっしゃっているのですか?」 牛朗は驚きを禁じ得なかった。いかに娘婿であるとはいえ、息子のいる人間が他家の者を手元に引き取りたいとは、一体どういうつもりなのであろうか。 「いや、驚かれるのはごもっともです。こちらの身勝手なお願いですからな」 「いや…その…」 牛朗には、わけが分からない。何と返事すれば良いのか。言葉が出てこない。 「我が家は、先年の戦の功により、弘農に移住する事になりました。それはご存知ですね」 「えぇ。存じております」 「ですが…。今の我が家は、武門です。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事がありましょう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのです」 「輔に、その耳目となってもらいたいという事ですかな?」 「そうです」 「ふむ…」 牛朗は、考え込んだ。董卓が、輔を高く評価しているのは喜ばしい。だが…。輔が、それを承知するであろうか。氏を変えるわけではないものの、この家を出て董卓の別邸に移るという事は、董氏の人間になれと言う様なものである。牛氏の嫡男としての資格を失うのではないか。そんな疑念をも与えかねない。 「こればかりは、私の一存では決めかねます。輔と姜殿に話した上、後日、返事させていただくというわけには参りませんか」 「分かりました。もともと、こちらからのお願いですからな」 「まぁ、堅い話はこのあたりにして。ところで、今日は、いかがなさいますか」 「えぇ。久しぶりに、姜の顔を見ていこうかなと」 「そうですか。お泊りになられますか?」 「よろしいのですか?」 「えぇ。では、さっそく支度させましょう」
24:左平(仮名) 2003/03/09(日) 21:48 十二、 その後、牛朗と董卓は、しばし談笑した。董卓にとっては、やはり隴西の方が気楽である様だ。ときおり、弘農の人間に対する愚痴もこぼれる。 「ははは…。まぁ、そうおっしゃられるな。もう一杯、いかがですかな?」 「えぇ。では、頂きます」 「しかし…。それならば、何故に弘農に移られたのですかな?」 「それはまぁ…。やはり、中央で高位を望もうとすれば、都の近くにいる方が何かと好都合ですからな」 「でしょうな」 「我が家は、代々の名族ではありませんからな。そちらと釣り合おうとすれば、多少の無理はやむを得ないのです」 「そういうものですか…」 「あら。父上ではありませんか」 そばを通りかかった姜が、声をかける。 「おっ、姜か。ほぅ…。しばらく見ぬ間に、また随分と女らしくなりよったな。伯扶殿に、たっぷりとかわいがってもらっておる様だな」 「もぅ、父上ったら。お義父様やお義母様もおられる所で、そんな事を言わないで下さい」 「ははは。これはすまんかったな。だが、当たっておろう」 「もぅ…」 姜がその場を離れると、また二人の話が続いた。 「ところで、一つお聞きしたい事があるのですが…」 「何でしょうか?」 「貴殿のご令室についてですが…」 「あぁ、瑠ですか。あれが、どうかしましたかな?」 「確か、羌族の族長の娘、と伺いましたが、間違いございませんね?」 「えぇ。…いかがなさいましたか?まさか、今になってこの婚儀を無かった事に、などとおっしゃるのではありますまいな」 「いやいや。その様な無礼な事はしませんよ。そうではなくて、ご令室のご家族について、お聞きしたいのです。これは、個人的な事です」 「はぁ…。まぁ、わしの知っている範囲でしたら何なりと」 「では…。まず、ご令室には、姉君がおられますかな?」 「いた、と聞いております。何でも、早くに亡くなったとか」 「その姉君は、漢人の男に恋し、子を成した。違いますかな?」 「えっ? 確かにそうですが、なぜその様な事をご存知なのですか?」 「その姉君の名は、琳、ですね?」 「たっ、確かに…」 董卓は、一瞬ぞっとした。別に内緒にしている事ではないが、かと言って、おおっぴらに話しているわけでもない。なぜそんな事まで知っているのであろうか。見当がつかない。 「驚かれましたか」 「あっ、当たり前です!我が家を探られたのですか?」 「そうではありません。こちらも驚きましたよ。姜殿の顔を見た時には」 「えっ?姜の顔を?」 「そうです。やはりそうでしたか…」 「おっしゃる事がよく分からぬのですが、どういう事です?」 「いやね。姜殿の顔を見た時、一瞬、琳と見紛うたのですよ。なるほど、伯母と姪でしたら、似てるわけですね…」 「伯母と姪?と、いう事は…」 「そうです。今は亡き我が妻・琳と貴殿のご令室・瑠殿とは、実の姉妹であろうかと」
25:左平(仮名) 2003/03/09(日) 21:50 「確かに、その通りの様ですな…。ここまで話が一致するとなれば、そうとしか考えられません。…と、なると…。伯扶殿と姜とは、従兄妹同士という事ですか」 「恐らく」 「こりゃまた…」 「まぁ、大した事ではありますまい。輔と姜殿は、姓が異なりますからな」 「それはそうですが…。名族・牛氏としてはそれでよろしいのですか?」 「えぇ。構いません」 「まぁ、それならそれでよろしいのですが…」 中国(及び朝鮮半島)には「同姓不婚」という原則がある。同じ姓(朝鮮の場合は、本貫【一族の始祖の出身地】も考慮する必要がある)の男女は結婚してはならないという事である。 一般的には、近親婚の禁止という意味でとらえられており、事実、だいたいの場合はそうなのであるが、時に、この様な事例も発生する。 現在の感覚でいうと、この場合も近親婚といえるのであるが、二人の姓が異なる為、問題にはならないのである。 翌日、董卓は帰っていった。彼が帰るのを見届けた牛朗は、さっそく牛輔・姜夫妻を自室に呼んだ。 父の表情は、いつもにも増して固い。義父との話は、思っていた以上に重要なものであった様だ。牛輔にはそう感じられた。だが、その内容までは、うかがい知る事はできない。 「父上。話とは、一体…」 「まぁ、そうせかせるでない。話は、二つある」 「二つ?」 「そうだ。その前に、姜に聞こう。そなたには、伯母上がおられたな。違うか?」 「はい。母上がまだ小さい頃に亡くなられたと聞いておりますが…」 「うむ。そして、その伯母上の名は、琳、ではないか?」 「はい…。ですが、なぜその事を?」 「実はな。琳は、輔の母なのだよ」 「えっ!? と、いう事は…」 「そうだ。そなた達は、血を分けた従兄妹同士という事になる」 全く予想もつかない話に、二人は茫然とした。では、自分達は近親婚をしたというのか…。
26:左平(仮名) 2003/03/16(日) 21:37 十三、 「おいおい。そう驚くなよ」 「おっ、驚かないわけがないでしょ! 従兄妹同士が交わったなどとは…。それでは、私達は禽獣以下という事ですか!」 「わっ、わたし、もぅ…」 二人とも、泣き顔になっている。こんな事が明るみになれば、人から何と言われるだろうか。その事を考えると、前途には絶望しかない。 「だから、驚くなと言っとるだろうが!よく考えろ。輔よ。そなたの姓は何だ?」 「牛です」 「では、姜の姓は?」 「董、ですが…」 「ほれ。二人は、姓が異なるであろうが」 「あっ…。そういえば…」 「孝恵皇帝(劉盈。劉邦の子で、前漢の二代皇帝)は、実の姪である張氏(恵帝の姉・魯元公主の娘)を皇后に迎えられたというし、孝武皇帝(劉徹。前漢の武帝)は、従兄妹である陳氏(陳氏の母・館陶公主は、武帝の父・景帝の姉)を皇后になさったではないか。その事で、何か非難されたか?」 「そっ、そういえばそうですね…」 「帝室においてもそうなのだ。ましてや、臣下たる我らの間でそういう事があっても不思議ではあるまい。姜が取り乱したのはまぁしょうがなかろう。しかしな。輔よ、そなたも一緒に慌ててはいかんな」 「はい…。気をつけます」 (いかんいかん。俺ももう結婚してるのだし、もっとしっかりしないと。…それにしても、父上はどうしてこうも落ち着いておられるのだ?) ちょっと引っかかるものはあったが、その話はそれっきりであった。まぁ、もう過ぎた事だ。 「で、もう一つの話だが…。こちらの方が本題なのだが…」 「はい」 いきなりあれほどの衝撃的な話を聞かされたのだ。もう、大抵の事には驚かない。 「董郎中殿がな、そなた達を別邸に迎えたいとおっしゃったのだ」 「はぁっ!?」 驚かないつもりであったが、やはり驚かざるを得なかった。董郎中殿は、なぜその様な事をおっしゃったのか? 確かに、先の話ほどの衝撃ではないものの、冷静に考えると、その意味はより重いものがある。 「何でもな。『我が家は、武門である。都を向き、朝廷に仕える一方で、今後も、西で戦う事があろう。その時、西の事を委細もらさず把握する為には、この地に我が耳目となる人間が必要なのだ』という事であった」 「私に、その耳目になれという事ですか?」 「そういう事だ」 「はぁ…」 「この件については、わしからは返事をしておらん。そなたと姜の気持ち次第だ」 「…分かりました。明日には、返事をいたします」 そう言うと、牛輔は席を立とうとした。その顔は、固いままであった。
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