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小説 『牛氏』 第一部
28:左平(仮名) 2003/03/23(日) 21:59 十四、 「あなた。もう遅いですよ。そろそろお休みにならないと」 既に寝支度を整えた姜が、床の中から心配そうに言う。いつもならば、寝支度が整ったとなると、飛びつく様に床に入り、自分を抱きしめるというのに。父が言い出した事で、夫が悩み苦しんでいるのであろうか。だとすれば、やりきれない。 「やはり、迷われているのですね」 「ん?」 「董氏の別邸に移るという事は、あなたが董氏の一員になる。少なくとも、世間はそうみなす。そういう事なんですよね」 「まぁ、そうであろうな」 「牛氏は、董氏よりも家格が上。その嫡男が、董氏の下風に立つのはいかがなものか。迷われるのも、無理はありません。…父は、いったんこうと決めたら後先考えずに行動するところがあります。難しいと分かれば無理はしませんから、そう気を使われる事はありませんよ」 「いや、その事については、迷ってはおらんよ。私は、董氏の別邸に移ろうと思う」 「えっ?なぜですか?」 「私が董氏の婿であるというのは事実だ。父上も反対していない以上、婿が義父に従うのは当然であろう。それに、そなたにとっても、ここよりも我が家の方が過ごしやすいはず。…我が母は、父上と結婚する為に家族から引き離されたという。母が若くして亡くなったのは、そのせいかも知れぬと父上はおっしゃっていた」 「でも…。わたしは、伯母上…いえ、お義母様と違って家族と引き離されたわけではありませんよ。本当に幸せです。それに体の方も、ほら、こんなに元気ですし」 確かに、姜の顔色は良く、病の気などみじんも感じさせない。 「まぁな。しかし…」 (んっ?) そう言いかけた牛輔の頭に、ふっとある事が浮かんだ。 (そういえば、私と姜が従兄妹ではないかという時に、なぜ父上はかくも冷静だったのだろうか?) 姓が異なるから世間にとやかく言われるものではないというが、血のつながりがあるかも知れないというのは事実である。にもかかわらず、父は、この事については一切問題視しなかった。問題ないというどころではない。むしろ、望ましいとさえ思っていたのではないか。そんな気がする。 では、なぜ望ましいと思ったのであろうか。 (私も、姜も、ともに母は羌族の娘だ。二人の母が姉妹だったというのは、さすがに意外であったろうが。…つまり、二人は羌族の血を引く者。二人の間に生まれるであろう子もまた、羌族の血を引く者となる…) (であれば、何にせよ、羌族とのつながりを否定する事はできない。我が牛氏は、代々羌族と対立してきたが、そうもいかなくなっているというわけだ。なにしろ、私自身、羌族の人間でもあるわけだから…) (そんな私が牛氏の跡目を継ぐ事になれば…。牛氏のあり方が、今までと大きく変わるという事になる。また、そうならざるを得ないだろう。弟が継いだのでは、そうはならないが) (父上は、そうなる事を見越して、あの様な事をおっしゃったのであろうか。そなたが牛氏のあり方を変えよ、という事なのか。私が董氏の別邸に移るのに反対しないというのも、そうせよという婉曲な意思表示なのか…?) (だとすれば、私は父と義父から、えらく期待されている事になるな…。そんなに期待されても、応えられるかどうか分からないってのに…) (まぁ、移る事自体はもう決めたから、返事はできる。その時にでも、父上に聞けばいいか) 自分の中で、一応の結論が出た。そうなると、急に気が軽くなった。
29:左平(仮名) 2003/03/23(日) 22:02 「姜。何か分かった様な気がするよ」 「何か、って何ですか?」 「まぁ、それはまたゆっくり話すよ。…明日からは、引越しの支度で何かと忙しくなるぞ」 「では、董氏の別邸に移られるのですね」 「あぁ。この部屋でそなたを抱くのも、もうあと少しだ」 そう言うが早いが、姜に抱きついた。 「もぅ、あなたったら。今度は、わたしの部屋でいっぱい抱いてくださるんでしょ」 「まぁな」 あとは、いつもの二人であった。 翌日−。 「で、輔よ。決まったか?」 「はい」 「ふむ。どうするつもりかな?」 「董氏の別邸に移る事にいたしました」 「そうか。ならば、その様にするがよい」 「はい」 父は、それ以上は何も言わなかった。顔を見ても、不満の色は感じられない。反対はしていない様だ。となれば、自分が推定した通りという事か。 「父上。一つお聞きしたい事がございます」 「何かな?」 「なにゆえ、私と姜が従兄妹かも知れぬという時に、父上はかくも冷静だったのですか?」 「なぜかって?そうさなぁ…」 「わしにも、よく分からぬのだ。ただ、不思議と驚かなかった。それだけだ」 「そうなのですか?私は、何か思われるところがあっての事と考えたのですが…」 「それは考え過ぎというものであろう。ともかく、二人の姓は異なるのだからな。ただな…」 「ただ?何でしょうか?」 「姜の母が羌族の女であるというのは事前に知っておった。そしてその事は、わし個人としては、むしろ望ましいとさえ思った。牛氏の当主としては、変な考えなのかも知れぬが…」 「…」 何となくではあるが、父の思いが分かってきた様な気がした。 父は、かつて羌族の娘を愛し、周囲の反対を押し切ってまで結婚した人だ。その結果として、今こうして自分がいる。 牛氏と羌族との関係がこのままでは、何かと問題になろう。どうして、敵の血を引く者が一族の中にいるのか、と。その事で、どこかから糾弾されるやも知れぬ。そうならない様、両者の関係を良好なものに変えたかったのだ。そしてそれは、かつて愛した人を弔う事でもある。 だが、牛氏の当主である以上、先祖の方針を変える事は難しい。そこで、董氏の婿でもある嫡男の自分に、その意思を託したのであろう…。 「父上。父上の思いが分かった様な気がします」 「そうか」 「父上は、牛氏と羌族との関係を良好なものにしたいとお考えなのではありませんか?そして、それができるのは、ともに羌族の血を引いた我が夫婦である、と」 「うぅむ…。そうかも知れぬな」 「私如き非才の者には重いやも知れませぬが…。父上の思いに応えられる様、精一杯努めます」 「そうか。その気持ちを忘れるなよ」 「はい!」
30:左平(仮名) 2003/03/30(日) 21:37 十五、 その日から、引越しの作業が始まった。牛氏にとっては、かつて羌族の叛乱の際に避難した時以来の、大規模な引越しであった。 なにしろ、姜を迎える際に持ち込まれた家財道具に加え、牛輔の身の回りの品、さらに、夫婦と共に移る家人達の持ち物もあるのだ。仕分けをし、車に積み込むだけでも一仕事である。 「これはこっち!それはあっちだ!それは…って、こりゃ持ってくもんじゃねぇだろうが!」 「あ−っ!それ、あたしの−!返してよ−!」 「これは…。こんなところにあったのか…」 「おい、ぐずぐずするな!さっさと運べ!後がつかえてるんだ!」 「へっ、へい!」 「まったく!今時の若いやつらは…」 作業を仕切る年長の家人が愚痴をこぼす。長らく牛輔の世話にあたってきた彼であるが、今回の引越しには同行しない。これが、牛輔の為にする最後の仕事である。 「まぁまぁ、そう怒るなよ。あいつらも、よその屋敷に移るってんで舞い上がってるんだろうからさ」 「若様、そうはおっしゃいますがね。あんなざまじゃ、牛氏の家人として恥ずかしいじゃありませんか。それにしても…。どうして若いのばかり選ばれたんですか?私ら年寄りはお嫌いですか?」 今回、牛輔夫妻に数人の家人が従う事になったが、その殆どは、牛輔と同年代の若者であった。牛氏と董氏とではしきたり等が違うだろうから、適応しやすい若者の方が良いと考えての判断である。また、若い主に年長の家人だと、守り役をつけられている様で、格好悪いという事もある。 「いや、そういうわけじゃないんだ。向こうには、董氏の家人がいるだろ?私は、いずれ牛氏を継ぐにしても、董氏の婿だ。婿がぞろぞろと家人を連れて来て、あまりでかい顔をするわけにはいかんだろ?」 「まぁ、そうなんですが…」 「そなた達の事を、嫌ったりするものか。…今まで、私の為によく働いてくれたな。感謝しておるよ。父上を、母上を、弟達を、よろしく頼むぞ」 「はい…」 「おいおい、泣くなよ。何も永久の別れというわけでもあるまいに。これから移る董氏の別邸というのは、この近くだ。来たくなったら、いつ来ても良いのだぞ」 「よろしいのですか?」 「あぁ」 全ての作業が終わったのは、数日後の事であった。 董氏の別邸には、親迎の儀礼の際に一度来ているものの、じっくりと内部を見たわけではない。あらためて見ると、想像以上に大きいのが分かる。 (別邸でこれだからな…) 特に豪奢なつくりというわけではないが、実用本位に作られたこの邸宅は、なかなか快適である。中でも、姜の居室は、女の寝起きする所らしく、こまやかな気配りが行き届いている。 (こういうところにも、義父上の人となりが表れているという事か…) こうして、新たな生活が始まった。 牛輔は、まだ牛氏の跡目を継いではいない。さすがに、子が生まれていない段階で跡を継ぐのは時期尚早という事で、父には現段階での隠居を思い留まってもらったのである。
31:左平(仮名) 2003/03/30(日) 21:39 とはいえ、ここでは間違いなく、彼は一家の主である。若い家人達の指揮をとり、家内を治めるのは、なかなか大変な仕事である。 (父上には、しばし思い留まって頂いて正解だったな) ちと情けないが、これで跡目を継いでいた日には、体がもたなかったかも知れない。 (とにかく、早く慣れないと…) いずれ、自分が跡目を継ぐのである。のんびりしてはいられない。それに、いずれ出仕するとなれば、学問や礼儀、それに武芸も身に付けておかなければならない。 自分も大変ではあるが、姜は、もっと大変であろう。婦人としての修練もそこそこに、主婦になったのであるから。自分はまだ無官であるから、男としての仕事はまだ僅かであるが、彼女は女として一通りの仕事をせねばならないのである。 「無理するなよ。俺は、そなたがいてくれるだけでいいんだから」 夜、彼女を抱きしめながら、そういたわってやるのがせいぜいである。 「そう言っていただけると嬉しいです…」 そう言う声が、どこか弱々しく感じられる。気のせいか?忙しくて疲れているのか?ならいいのだが、やはり心配である。 「そろそろ冷えてくるからな。俺が暖めてやるよ」 「はい…」 数日後の事である。 自室で書を読んでいると、何だか外が騒がしい。ふと見ると、家人達が慌しく走り回っている。 「若様!…いえ、お館様!たっ、大変です!」 「どうした!騒々しいな、何事だ!」 「そっ、それが…。奥方様が、気分が悪いとおっしゃって…」 「なっ、何っ!姜が!」 「いかがいたしましょうか」 「と、とにかく、一刻も早く診てもらえ!」 「はい!」 (やはり具合が悪いのか…) 「ふむふむ、ほぅほぅ…。なるほどな…」 「で、いかがですか」 「なに、心配ご無用。ご懐妊ですよ」 「か、懐妊!それは、間違いないでしょうね!」 「えぇ。間違いないです。ご気分が悪かったのは、つわりのせいですな。ま、奥方様は初産になられるのですから、お体には十分ご注意なさる様にして下さい」 姜が懐妊…。という事は、もう何ヶ月かで、自分は父親になるという事か。いずれこういう日が来るのは分かっていたが、まだ、いま一つ実感はわかない。 「姜、具合はどうだ?」 「あっ、あなた。すみません…心配させてしまって…」 「いいんだよ。ゆっくり養生するといい。そなたの体は、今やそなただけのものではないんだから。無理はするなよ」 「はい」 「しかし…。ここから赤子が出てくるというのが、何とも不思議なもんだなぁ…」 「そうですね…。わたしも、よく分からないです」 「不安か?」 「確かに不安ですが…。でも、嬉しいです。確かに、今、あなたとの子供がここにいるんですから」 「そうだな…」
32:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:16 十六、 その知らせは、ほどなく董卓のもとにも届けられた。まぎれもない吉報である。 「なに?姜が懐妊したとな?」 「はい。あと六、七ヶ月ほどでお産まれになるとの事です」 「そうか。来年には孫の顔を見られるか。伯扶め、真面目そうな顔をして、なかなかやりよるな」 そう言う董卓の顔は、ほころんでいた。無理もない。自分自身がまだ十分若いうちに、早々と孫の顔が見られるというのだから。当時に限らず、子孫が増えるのを喜ばぬ者はいない。 だが、一方で、気になる事もあった。娘婿である牛輔の力量については、まだ未確認のままなのである。果たして彼は、将として、また、自分の補佐役として、ふさわしい人物であろうか。 いずれ彼は牛氏の跡目を継ぐであろう。そうなってから万一の事があっては大変である。今のうちに、その力量を見極めておかないと、えらい事になりかねない。 (と、なると…。そろそろ、伯扶にも戦を経験してもらわぬとな。それも、今年のうちに) 董卓の顔から喜色が消え、鋭い表情となった。それは、紛れもなく、将としての顔であった。 董卓が牛輔邸を訪れたのは、それから間もなくの事であった。 「なに?義父上がお見えになったとな?」 「はい。ただ今、堂にてお待ちになっておられます」 「そうか…」 「分かった。すぐに堂に行く。酒肴を支度しておいてくれ。頃合いを見てお出しする様にな」 「はい。直ちに支度します」 (姜の懐妊を祝いに来られたのであろうが…。どうも、今回はそれだけではなさそうな気がする) よく分からないままではあったが、ともかく、服装を整え、義父の待つ堂に向かった。 堂では、董卓と姜が談笑していた。 「おぉ、伯扶殿か。姜が懐妊したと聞いてな、こうして祝いに参ったよ」 「はい…。それはかたじけないです」 牛輔は、うやうやしく拱揖の礼をとった。董卓からすると、娘婿のそういう態度には多少改まったものを感じないでもないが、まだ何度も会っているわけではないだけに、まぁ、こんなものであろう。 将として牛輔という人物を見ると、多少線の細さを感じないではないが、人としては悪い感じはしない。これなら、鍛えれば何とかなりそうである。 「まぁ、そう堅くならずともよい。…ところで、そなた、わしに何か聞きたい事があるのではないか?」 「は?」 「顔を見れば分かるよ。わしがここに来たのは、単に姜を祝いに来ただけではないと考えておろう?」 「はぁ…」 図星である。言い返し様もない。 「思った事がすぐ顔に出る様ではまだまだだが、まぁ、今はよかろう。そなたの思っている通りだよ」 「えっ!?」 「驚くでない。そなたにも分かっておろう」 「まぁ…。まだおぼろげではありますが…」 「なら、話が早い」 そう言うが、董卓は座り直した。父もそうだが、こういう姿勢をとった時は、だいたい真剣な話である。 さっきまで談笑していた姜も、その言わんとする事を察したのか、顔つきが変わった。さすがは董卓の娘である。その顔には、凛としたものが感じられる。
33:左平(仮名) 2003/04/06(日) 21:18 「季節は秋。そろそろ、羌族など遊牧の民が暴れだす頃だ。それは、そなたも知っておろう」 「はい」 羌族については、彼自身もよく分かっているつもりである。収穫の時期を狙って蜂起するという事は十分に考えられる。 「今の羌族には、鮮卑の檀石槐の様な大物はおらぬ。それゆえ、この地では、孝安皇帝や孝順皇帝の御世に起こった様な大乱は、そうそうあるまい。だが、彼らの叛乱は止まぬ」 「…」 その様に言われると、牛輔としては、黙り込むしかなかった。果てなく続く戦いという事か。そんな中で、自分は一体どう振る舞えば良いのだろうか。 もとの護羌校尉・段ケイ【ヒ+火+頁】は、褥で眠る事がないと言われている。辺境に身を置き、異民族との戦いに明け暮れる者の有り様とは、そういうものなのかも知れない。だが…。自分には、そうなる自信はない。義父は、自分にどこまで求めるのであろうか。 その様子に気付いたのか、董卓の口調は穏やかなものに変わった。 「そんなに深刻な顔をするでない。今は、我らがごちゃごちゃ考えててもしょうがない事だ。…近く、羌族の討伐を行う。それに、そなたも従軍してもらおう」 「はい」 否応も無い。既に予想していた事である。姜も、そういう覚悟はしていたのであろう。特に驚く様子は見られない。 邸内が、また慌しくなった。引越し、奥方の懐妊に続き、今度は主人の出征である。加えて、来年には長子の誕生もひかえている。 「やれやれ、忙しい事だな」 家人達は、そう微苦笑した。若者が多く、経験も乏しいだけに、手際は良くない。ただでさえ忙しいというのに、よくもまぁ次々といろんな事が起こるものだ。ただ、そうはぼやきつつも、彼らの表情は明るい。いずれも凶事ではないからだ。これで主人の名が上がれば、より高位に就く事もあるだろう。それは、一家の繁栄につながるのである。 牛氏としては、戦いに赴くのは、久しぶりの事である。年配の家人の中には、自分が従軍するかの様に興奮する者もいる。 「腕が鳴りますなぁ。わしがもう少し若ければ、若…いや、殿の為に手柄を挙げてみせますものを」 そんな周囲の喧騒の中、牛輔もまた、気持ちを昂ぶらせていた。
34:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:09 十七、 出立の日が来た。 真新しい戎衣(軍服)に身を包んだ牛輔の姿は、多少のぎこちなさを残してはいたものの、それなりに凛々しいものであった。 「あなた、行ってらっしゃい」 「あぁ。行って来るよ」 ちょっとどこかに外出するかの様な、何の変哲もないやりとりである。聞いただけでは、これから戦場に赴くとは思えない。 (何としても、生きて帰るぞ。子供の顔を見るまでは死ねない。これが永久の別れになってたまるか) いよいよ、戦いである。「今回の戦の相手は、羌族である。さして大規模なものではない」義父からはそう聞いてはいるものの、何が起こるか分からないのが戦場である。油断はならない。 「うむ。思っていたよりは似合うな」 董卓は、娘婿の姿をそう評した。今回は、さして難しい戦ではない。そんな思いが、こういう軽口になって出てくる。 (とにかく、伯扶に実戦を経験させておかんとな。あれには、いずれ、勝【董卓の嫡子。実際の名は不明】も補佐してもらう事になるのだからな) 今は、牛輔(及び牛氏の保有する兵力)を戦力としては見ていない。だが、羌族との戦はこれからも続く。次の世代を担う者を育てねばならぬのである。 もっとも、董卓がそこまで考えている事などは、牛輔には分かろうはずもない。 「義父上。『思っていたよりは』とはどういう事ですか」 つい、そんな不満が漏れる。 「いや、すまんすまん。細身のそなたの事だから、『衣に勝(た)えざるが如く』見えるのではないかと思ってしまってな。許せよ」 「私とて、少しは鍛えております。お気遣いは無用ですぞ」 「そうか。どうやら、揃った様だな。では、出発するぞ!」 「お−っ!!」 兵達から、喚声があがる。士気は、十分だ。 二人は、馬首を揃えて進んだ。戦場に着くまでは、強いて語る事もない。皆、無駄口をたたく事もなく、無言のまま行軍する。 戎衣を身にまとい、愛馬・赤兎馬にまたがった董卓には、何ともいえない威厳が漂っている。 (果たして、私は義父上の様になれるだろうか) 年齢・経験はともかく、体格・武勇、どれ一つとっても自分は義父には遠く及ばない。その冷厳な現実を、あらためて見せ付けられるのは辛い。 (いや、今は、眼前の戦いに集中する事だ) さまざまな思いが頭をよぎるが、牛輔もまた、無言のまま進む。 戦場が近付きつつある。董卓は、数騎を偵察に放つ事にした。 偵察に向かう者達が董卓の前に呼ばれた。彼らを見ると、実にさまざまである。 精悍な面構えをした、いかにも強そうな者もいれば、ひょろりとして、自分よりも弱そうな者もいる。騎馬の者もいれば、徒歩の者もいる。経験を積んだ老兵もいれば、若い新兵もいる。 「義父…、いえ、郎中殿」 牛輔は、「義父上」と言いかけて、慌てて言い直した。これから、戦である。私情を挟むのは禁物だ。 「これは一体…?」 「どうした?敵の様子を探るのは、戦いにおいては必須であろう?」 「いえ、偵察する事については全く異存はございませんが…。なぜこの様な者達を集められたのですか?」
35:左平(仮名) 2003/04/13(日) 20:12 「こいつらは、目が良い。それに、一人で戦うほど無謀ではないし、逃げ出すほどの腰抜けではない。それではいかんか?」 「いえ、そうではなくて…。彼らは、体格といい、経験といい、てんでばらばらではございませんか。それでは、報告にぶれが生じるのではありませんか?」 「ふむ。そなたの言う事にも、一理ある。だが、わしにはわしの理がある」 「そうですね。よろしかったら、教えて下さいませんか?」 「そうだな。後学の為にも、話しておこうか」 「そなた、『孫子』は読んだ事があるか?」 「はい。まだ、十分に理解したとまでは言えませんが…」 「まずは、読んでおれば良い。読んでおるのならば、『彼を知り己を知らば百戦して殆うからず』という言葉は知っておろう?」 「はい。存じております。ですが、その言葉がいかがしたのですか?」 「人とは、不思議なものよ」 董卓は、静かにそう言った。そう言う彼の姿は、普段の豪放な姿とはまた違うものがある。 (義父上に、この様な一面があるのか…) 武勇の人・董卓にこの様な思慮深さがあるとは、正直、意外であった。だが、郎中ともなれば、それ相当の修練を積んでいるもの。別段、不思議な事ではない。 「他人の事については、凡人でもそれなりに批評できるというもの。近頃、汝南の方にそういう輩がいるらしいな。確か、許子将(許劭。子将は字)とかいったか。まだ、ほんの若造だというのにな。…だが、こと自分の事になると、なかなかそうもいかぬ」 「確かに」 「たとえば、こいつをどう見る?」 そう言って董卓が指差したのは、精悍な面構えをした青年である。 「私には、逞しい男だと思われますが…」 「そなたにはそう見えるか。だが、わしには、まだまだひよっ子に見える」 「それはそうでしょう。郎中殿より逞しい男は、そうはおりませぬから」 お世辞ではない。事実、董卓の体格・膂力は、誰から見ても並外れたものであった。 「そこなのだ。同じものを見ても、見る者によってこうも違ってくる。…事実というものは、確かに一つしかない。しかし、一人が見たものは、あくまでも『その者が見た事実』に過ぎぬのだ。…何を言いたいか、分かるか?」 「はい。まだおぼろげにですが、郎中殿のおっしゃる事が分かってきました。様々な視点から物事を見る事で、『本当の』事実に近付こうというわけですね」 「そうだ。わしがこいつらを偵察に遣るのは、そういう意図からだ」 「そして、彼らの知らせを、将たる郎中殿が分析し、判断なさると」 「そういう事だ。もちろん、わしが的確な判断を下せるという前提があってこそなのだがな」 「そうですね」 「恐らく、ここ涼州までは来ぬであろうが…鮮卑にも注意せねばな。我らの兵力では、檀石槐には勝てぬ。まぁ、わしにとって怖いのはそれくらいだ。だが、気をつけぬとな。そなたに万一の事があったりすれば、姜に怒られてしまう」 「それは…」 こんなところで妻の名を出されるとは。何とも気恥ずかしい。 「では、行けっ!」 「はっ!」 董卓の号令のもと、数名が偵察に放たれた。
36:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:27 十八、 部隊は、戦いの地に近付きつつあった。既に、吹く風は冷たくなりつつある。冬が近いのである。 果てしなく広がる平原にあるのは、ただ、僅かな灌木と枯草ばかり。いかにも、荒涼とした風景である。 (なにゆえ、羌族の叛乱は止まぬのか) よくは分からないが、この風景に、その答えがある様に思われる。 董卓のもとに、鮮卑についての知らせが届いた。今のところ、これといった動きはないらしいので、直ちに涼州が脅威にさらされるという事はない。あとは、やがて眼前に見えるであろう、羌族のみである。 やがて、偵察に出ていた者達が帰ってきた。 「千は越えているかと思われます。なにぶん遠くからでしたのでよくは分かりませんが…。砂埃の立ちようからして、そう考えられます」 「いや、せいぜい五、六百といったところです。私は、確かにこの目で敵兵を見ました。間違いございません」 「多くは騎兵でした。かなりの精鋭かと思われます」 「将らしき者は見当たりませんでした。個々の敵は精鋭でも、まとまりは悪いはずです」 「この先には、なだらかな丘がある程度です」 予想通り、彼らの報告は、実に多種多様なものであった。一部、相反するものもある。 「ふむ。そうなると…」 董卓は、顔を上げ、天を仰いだ。天を見つめながら、彼は、報告を分析し、然るべき判断を下すのである。 しばらくその状態が続き、しばし目を閉じた後、かっと目を見開き、大声で叫んだ。 「皆の者! 戦いはすぐそこだぞ!」 兵達に、一斉に緊張が走る。董卓の脇にいた牛輔も、思わず体がびくっとした。 「敵はこの先数里! 数は数百!」 「隊列を整えよ! 小高い丘を目印に進め! 長兵、最前列へ! 弩兵はその後ろにつけ! 騎兵は後列につくのだ!」 ひとたび動き始めたかと思うと、次々と指示が下される。兵達の動きが、慌しくなった。だが、その動きに目立った乱れは見られない。皆、将の指示に従い的確に動いているのである。 その動作の見事さに、牛輔はしばしみとれていた。将たる者は、かくありたいものである。 やがて、小高い丘が見えた。ここを少し過ぎ、丘を背にする形で布陣を進めていく。陣形が整う頃、徐々にではあるが、敵の姿が見え始めた。 ほぼ、報告のとおりである。その数、数百といったところであろうか。こちらは千数百というところであるから、数の上では優勢である。その一方で、個々の武勇という点では羌族の方が上回るであろうから、あとは、戦い方次第である。 幸い、こちらの方が位置的には高みを占めている。突撃するにせよ、陣を構築するにせよ、見上げて戦うよりも見下ろして戦う方が何かとやり易いし、力学的にも有利である(例えばボ−ルを投げ下ろすのと投げ上げるのと、どちらがより速いだろうか?) 平原に、双方が対峙する形となった。双方の距離が百歩(一歩=約1,4m)余りまで詰まったその時、喚声とともに、羌族の騎兵が一斉に突撃を開始した。
37:左平(仮名) 2003/04/20(日) 20:30 乾燥したこの地では、少し動いただけでも砂埃が上がる。彼らの突撃を見ていると、なるほど、数百の敵が千以上に見えたのもうなづける。馬術ひとつとっても、遊牧の民である彼らの方が上である。 「長兵! 構え−っ! 弩兵! 矢をつがえよ!」 董卓の号令のもと、各々の兵士が動く。ほどなく、両者が激突した。 前列に並んだ長兵が、突進する敵に向かって一斉に戈を振り下ろした。単純な攻撃ではあるが、首筋に刃が突き刺されば直ちに致命傷となるし、これだけの重量物が頭に直撃したなら、死にはしなくても気絶する。これによって少なからぬ敵が打ち倒された。だが、多くはそれをかいくぐり、兵を蹴散らしていく。 騎兵と歩兵とでは、明らかに歩兵の方が分が悪い。騎兵の方が速いし、何より、練度が違うからである。 当時、鐙はまだ発明されていない。その為、馬を使う騎兵は、必ずそれ相当の訓練を積んでいる。それに対し、歩兵は、一般から集められた戦の素人である。こちらの歩兵が一度戈を振り下ろす間に、敵の騎兵は突撃をかけ何回も戟を振り回せるのである。 「郎中殿!このままでは!」 実戦は初めての牛輔にも、緊迫しているのが分かる。 「分かっておる! 撃て−っ!!」 直ちに、弩から次々に矢が放たれた。それは、単に敵を倒すだけではない。雨あられの様に矢を射掛ける事で敵と長兵との距離を開け、長兵による再度の攻撃を容易にするのである。敵の突進によって一度は乱れた長兵が、これにより、やや落ち着きを取り戻した。 一方で、長兵が最前列に立つ事で、弩兵が矢をつがえる為の時間を稼ぐ。長兵に多少の犠牲を強いるとはいえ、実に理に叶った配置といえる。 (さすがは義父上。これならば、勝利は確実だ…) 少し余裕を覚えた牛輔は、ふとある事に気付いた。風が、こちらから敵方に向かって吹いているのである。 (これは! あたりは平原だし、火をかければ…) 楽勝であろう。それに、こちらの犠牲者も少なくてすむはずである。 「郎中殿! 火を用いましょう! 今なら風向きもよろしいかと!」 「火か…。ならぬ!」 「えっ!? なぜでございますか?」 さっきの話しぶりからして、董卓は十分に兵法を心得ている。今こそ、火計を仕掛けるのに絶好の機会のはずである。 (なぜ、義父上は火計をなさらないのか?) 牛輔は、困惑した。
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