下
小説 『牛氏』 第一部
3:左平(仮名) 2003/01/01(水) 00:34 この様な事情があった為、牛氏一族と周囲の人々との間には、常に緊張感が漂っていた。牛輔も、幼い時から否応なしにその事を意識させられていた。 周りの子供達と遊ぼうとしても、仲間に入れてもらえなかった。名門・牛氏の嫡男という事もあって、さすがに、いじめられるという事はなかったが、いつも冷めた目で見られている様な気がしてならなかった。その冷たい視線を避けようとすれば、一人、自室にこもるしかなかった。彼の心は、どこか満たされないままであった。 彼の心が満たされない理由は、この他にもう一つあった。物心がついた頃、彼には母親がいなかったのである。いや、いる事はいたのであるが、彼女は、実の母親ではなかった。 「私の母上はどちらにおられるのですか?」 「おまえの母上は、そこにおられるではないか」 父に向かって急にそういう事を話しかけ、父を困らせたりもしたらしい。 「父上。話とは、一体…」 「まぁ、そうせかすな。そこに座れ」 「はい」 父に促され、牛輔は席についた。 「実はな…。おまえに、縁談が来ているのだ」 「縁談、ですか…」 自分の人生の一大事だという割には、落ち着いたものであった。こう言うと、いかにも彼が冷静沈着であるかの様に思われるだろうが、そういうのとはちょっと違う。 古代中国においては、男子は、二十歳で加冠の儀を行い、成人したものとされる(二十歳の事を「弱冠」というのはこれに由来する)。成人したという事は、一人前の男であるから、当然妻帯してもよいものとされるわけである。古礼では、三十で娶るとされている様であるが、実際のところはもっと早かったであろう。 彼は、この時既に加冠の儀を終えていたから、こういう話があっても何の不思議もない。ましてや、嫡男である。もっと早くから話があっても良いくらいであった。 嫡男である自分は、うかつな事をしてはならない。牛輔は、家族内における自分の立場というものをよく理解している。それ故、この数年は、悶々とした日々を過ごしていた。 大族である牛氏の邸宅には、多くの召使たちが働いている。もちろん、その中には妙齢の女性もいる。主人が下女に手を出し、妾にしたり子を産ませたりという事は、古来からままある事である。しかし、彼には、それができなかった。してはならないと、自分を律していたのである。色っぽい下女に手を出したいという欲求に駆られながらも、今までずっとそれを抑えてきている。 (弟は、もう女というものを知っている様だ。なのに、私は…) 縁談については、本音では、大喜びである。これで、堂々と女を抱けるのだから。もちろん、父に向かってそんな態度をとる事はできないのであるが。 「それで…相手の方は、いかなるお方でしょうか」 「知りたいか」 「それはもう」 「相手は…先年の并州での戦いで大功を立てられた、董郎中(董卓。并州での戦いの後、羽林郎から郎中に任ぜられた)殿のご息女だ。名を、姜という。確か、十五、六といったところであったか」 「と、董郎中殿のご息女!?」 牛輔は、仰天した。想像だにしなかった相手である。
4:左平(仮名) 2003/01/04(土) 02:18 二、 牛輔が驚いたのも、無理はない。董卓なる人物と牛氏が縁戚になる事など、普通、考えもつかない事だったからである。その理由は、二つある。 一つは、牛氏が牛邯以来の名族であるのに対し、董氏には、そういう背景が全くない事である。董卓の父・董君雅(当時、名に二文字使う事は少ないので、君雅は字ではないかと思われる)は、最終官職でさえ潁川郡綸氏県の尉(県内の警察権を持つ)にすぎないという下級官吏であった。祖父以前の先祖については、全く分からない。漢王朝の、対西方の責任者ともいえる要職・護羌校尉(やや時代は下るが、三国時代においては涼州刺史と兼任であった)を出した牛氏とは、とうていつりあいがとれないのである。 もう一つは、董卓という人物が、当時の価値観とは大きくずれる人物であった事である。その振る舞いは、隴西の、心有る人々の顰蹙を買っていた。なにしろ、漢に対してしばしば叛乱を起こした羌族の族長たちと深い交友関係を持っていたのであるから。 しかし、董卓自身はその事を誇ってさえいた。今の彼があるのは、彼らのおかげなのであるから。彼らとの交友によって、董卓は出世のきっかけをつかんだのである。 董卓は、若い頃から血気盛んであり、郷里で無為に時を過ごす事を潔しとはしなかった。とはいえ、都に出て学問に励もうという気もなかった。史書に「有謀」とある様に、頭が悪いというわけではないのだが、人並み外れた膂力の持ち主である彼にとって、静かに学問に励むというのはどうも性に合わないのである。 その、若い血が騒ぐままに、各地を放浪した事があったのだが、その時に、羌族の族長たちと交友を結んだのである。 漢人として生まれ育ったとはいえ、董卓の気質は、礼教に凝り固まった漢のそれとは合わなかった。羌族との出会いは、そんな彼の心を和ませたのかも知れない。羌族の人々も、そんな彼の事を、好ましく思った様である。彼らは、たちまちに親しくなった。 旅を終えて郷里に戻った董卓は、一応は農耕に励んだものの、余り気乗りがしなかった。そんな頃、羌族の族長たちが、彼のもとを訪れた。董卓は、農作業に使う牛を殺し、その肉を振る舞った。この事が、彼らをいたく感動させた。なにしろ、当時の董卓は貧しく、その牛一頭しか飼っていなかったのである。いくら親しいとはいえ、かくも大事な財産を使ってもてなすというのは、並大抵の事ではない。 羌族は、元来は素朴な遊牧の民である。受けた恩義は必ず返す。彼らは、自らの牛馬を持ち寄り、千頭あまりを董卓に贈ったという。当時、牛馬の価値は非常に高かった(動力源でもあり、乗り物でもあり、食肉になり、皮革製品になり…。その用途は、現代のそれよりもはるかに広く、数頭でも一財産である)。それを千頭となれば、その価値はいかばかりであったろうか。人には、親切にするものである。 人間の社会というものには、少なからず矛盾というものが存在する。この時代も、例外ではない。何より礼教を重んずるとはいいながらも、そうではないところもまた多かったのである。 礼教という観点から見れば、董卓という人物は、お世辞にも立派な人物ではなかった。しかし彼は、父の代からは想像もつかないほど立身した。その背景にあったのは、彼自身の能力もさる事ながら、間違いなく、この時に羌族から贈られた牛馬によってもたらされた富の力によるものであったろう。 やがて、董卓は郡に出仕した。賊の取り締まりに活躍し、三公の掾(属官)に推挙されたともいう。 先代の桓帝の末年(桓帝が崩じたのは、永康元【西暦167】年なので、牛輔と董卓の娘の縁談が進みつつあったこの時より数年前)、董卓は羽林郎に任ぜられた。 羽林郎とは、隴西郡をはじめとする西北の六郡(隴西・漢陽・安定・北地・上郡・西河郡。なお、漢陽=天水)の良家の子弟を選んで任ぜられる郎官である。良家といっても、商人・工人・芸人などの職業を除く家という程度の事であるから、全員が名族の出というわけではないであろうが、れっきとした中央の官位であり、県長級の俸禄を得るという、なかなかの高位である。この当時、名族でない者がなるのは、相当珍しい事であった。
5:左平(仮名) 2003/01/04(土) 02:19 (ほう、あの男が羽林郎とはのぅ…) 董卓の立身は、郡内の人々を驚かせた。しかし、彼の活躍はなおも続くのである。 羽林郎に任ぜられてからほどなく、匈奴中郎将の張奐に従い、その軍の司馬として羌族との戦いに加わる事になった。董卓は、羌族の中に多くの知己を持っており、彼らの事を知り尽くしていた。その故の人事であろう。 羌族は、多くの部族に分かれている。彼も、全ての部族と親しくしたわけではない。戦う事については、別段後ろめたい思いをする事もなかった。 董卓の活躍もあって、この戦いは漢軍が勝利した。戦の後、張奐は、恩賞として絹九千匹(一匹=四丈=約9,2m)を彼に与えた。しかし、彼はそれを受け取らず、全て配下の者たちに分け与えたという。 【日本においても、似た様な例がある。平安時代の名将・源(八幡太郎)義家にまつわる話がそれである。彼は、東北で起こった大乱・後三年の役を鎮圧したものの、私的な戦であるとされた為、朝廷からの恩賞は出なかった。すると、彼は、自らの私財を割いて配下の者たちに恩賞を与えたという。義家といえば、雁の列の乱れから伏兵を察知したという逸話もあるから、漢籍の知識も相当あったと思われるが、董卓の、この話はどうであったろうか】 この一事により、ますます董卓の名は高まった。配下を思う心が篤く、また、私欲が薄い。この当時にあっては、彼は、まぎれもない名将であった。 この功績と名声により、彼は郎中に任ぜられた。それとともに、張奐の尽力により、一族と共に、弘農への移住を許されたのである。牛氏との縁談という話が持ち上がってきたのは、ちょうどそんな頃であった。 当時の縁談というものは、その時まで相手の顔も知らないままに進められる事が殆どであった。いや、名前さえも知らされなかったかも知れない。もちろん、当人の意志は全く反映されない事は言うまでもない。牛輔の場合も、そうであった。 相手が自分の意に沿わぬからといって、断る事などできるわけもない。ましてや、相手の父親は、あの董卓である。これからどうなる事やら。 「董郎中殿の方も、この話には乗り気でな」 父は、最後にさらりとそう付け加えた。その口ぶりからすると、父の方からこの縁談をもちかけたという事か。それを聞いた牛輔の心に緊張が走る。どうやら、この話からは逃れられそうにない。 あの董卓の娘。一体、どんな娘なのであろうか。それより何より、董卓が自分の岳父になるという事実をどう捉えればよいのか。 「そうですか」 そう答えるのがやっとであった。 「近く、納采の儀(結婚の六礼の一つ。男子側から結婚を申し込んだ後、礼物を女子の家に贈る)が行われる予定である。これから、何かと忙しくなるぞ」 「はい」 「話は、以上だ」 「はい。では、失礼します」 牛輔は席から立ち、退出した。 (董郎中殿の娘と…。どうしてまたそういう話に…) 彼の頭は、しばらく混乱したままだった。自分の居室に戻り、横になったものの、どうも落ち着かない。
6:左平(仮名) 2003/01/05(日) 23:52 三、 夜。天空には、月と星が輝いている。そして、地上には、一人それを見つめる男がいた。人並み外れた巨躯を持つその男の名は、董卓という。 一人夜空を見つめているからといって、別段、何か考えていたというわけではない。ただ、月が美しかったから、それを眺めつつ酒を呑んでいたのである。風は少し冷たいが、なに、大した事ではない。 「お父様。わたしの夫となられる方が決まったそうですね」 後ろから、声をかける者がいる。愛娘の、姜である。愛らしい顔つきといい、小柄な体つきといい、母親の瑠によく似ている。十五、六というと、まだまだ幼いと思われるだろうが、古代中国においては、女子は、十五歳で笄礼を行い、成人したものとされるから、もう結婚の事をいっても不思議はないのである。 【『韓非子』外儲説右下篇に、斉の桓公が「丈夫は二十にして室有り、婦人は十五にして嫁せよ(男子は二十歳で妻を娶れ。女子は、十五歳で嫁に行け)」と布告した、という話がある】 「あぁ、そうだよ」 振り返った董卓が、そう答える。戦場で敵と対峙する時の鬼気迫る姿からは想像もつかないほど、その顔は穏やかであった。平時だからという事もあるが、彼は、家庭愛が強いのである。特に、娘の姜には甘い。 「お相手は、どんな方ですの?」 少し甘えた口調で、父に尋ねる。そんな口ぶりも、母親に似ている。 「牛氏の嫡子で、名を輔、字を伯扶(この作品中での字:実際の字は不明)という。まぁ、隴西の牛氏といえば、なかなかの名門ではあるな」 「家の事ではございませんよ。わたしは、伯扶様の事を知りたいのです」 「あぁ、伯扶殿の事か。…まぁ、実のところを言うと、わしもよく知らぬのだ。真面目で、もの静かな青年という事だがな。まだ会った事はない。容貌は、なかなからしいな」 「もの静かな青年、ですか…」 姜は、少々戸惑いを覚えた。父とは全く性質の異なる人物らしい。どの様に接すれば良いのだろうか。その様子をみた董卓が、さりげなく尋ねる。 「不満か? 不満なら、無理せずとも良い。この話をなかった事にしても良いのだぞ」 もちろん、牛氏との縁談は、董卓にとっても望むところではある。一族と共に弘農に移住したとはいえ、郷里である隴西に影響力を残そうとすれば、その地の名族と結びつくのが最も良い方法なのであるから。しかし、姜の意に沿わぬのであれば、無理をする必要はない。彼は、本気でそう考えていた。 「いえ、不満というのではないのですが…。男の方の事はさっぱり分かりませんから、少し不安なんです」 「不安か。ふふっ、瑠が聞いたら何と言うかな?」 董卓は、少しからかう様に言った。 「お母様と一緒にしないで下さいよ。お母様の場合は、結婚前からお父様の事を知ってたし、好きだったそうじゃありませんか。お爺様に言われて牛馬を届けた際に、そのまま嫁いだって…。わたしは、伯扶様の事は何も分からないし、好きも嫌いもないし…」 「まぁな。わしも、あれには驚いたもんだぞ。羌族の女とは何と大胆なんだってな。どうだ、おまえも、納采の儀の前に伯扶殿の胸に飛び込んでみるか?」 「そんな! そんな事をして伯扶様に嫌われでもしたら、わたしは…」 姜は、声を詰まらせた。今にも泣き出しそうな顔をしている。 「冗談だよ。わしと瑠は特別だ」 董卓は、そうなだめた。 「まぁ、二人ともどうしたのです? まだ起きてたのですか?」 そう聞いてきたのは、正妻の瑠である。子供達は既に十代に達しているとはいえ、彼女が董卓のもとに嫁いできたのは、まだ十代の時であったから、年は、ようやく三十を少し過ぎたといったところである。 立身した董卓には既に側室がいるが、二人の夫婦仲は至って良い。彼は、膂力もさる事ながら、精力(性的なものばかりではない)にも相当なものがあり、数人の妻女を満足させる事ができたのである。
7:左平(仮名) 2003/01/05(日) 23:56 「おぉ、瑠か。どうだ、そなたも飲むか?」 「そう言われれば飲みますけど…。いいのですか?お仕事の方はいかがなさったのです?」 「あぁ、だいたい片付いてるし、明日は休みだ。構わんよ」 「じゃぁ…」 そう言うと、彼女は夫の横に座り、その体にもたれかかった。 「ねぇ…」 彼女は、甘えた声を出し、目を潤ませながら夫を見つめる。董卓の方も、まんざらでもない様である。 「あ…。わ、わたしは、もう寝ますね。おやすみなさ−い」 二人の様子を察したのか、姜は、さっさと自分の居室に入っていった。その動きは、どこかぎこちない。 「あら、あの子ったら。もう男女の事を意識してるのね」 「そりゃそうだよ。あいつも、もうすぐ嫁ぐんだからな」 「早いものですねぇ…。わたしがあなたのもとに嫁いでから、もうそんなに経つんですね。わたしも、年をとるはずです」 「まぁ、あの頃より多少年はとったが…。こっちの方は、まだまだ盛んだな」 そう言いながら、董卓は瑠の胸に手をやった。数人の子を育ててきた乳房は、嫁いできた頃よりも豊かになり、触り心地も良い。 「あんっ。もぅ…あなたったら…」 瑠は、酒もあってか、少し顔を赤くしている。肌は上気し、声には、何ともいえぬつやがある。その姿が、董卓をいたく興奮させるのである。 二人は、互いの帯を緩めた。衣がするりと落ち、二人の裸体があらわになった。二人は、もつれる様にその場に横たわった。董卓の手が、口が、瑠の体をくまなく愛撫すると、瑠の体につやが増し、呼吸が荒くなっていく。やがて二人が交わると、瑠の喜悦の声があがる。それは長々と続いた。 (お父様とお母様は、一体何をやってるのかしら) 床にもぐり込んだ姜ではあったが、聞こえてくる母の嬌声に、興奮を禁じ得なかった。それ自体は小さい頃からしばしば聞いてきたものであるが、自分の結婚が決まったとなると、なおさら意識させられる。 このくらいの年頃になると、そういうものに対する意識が鋭くなるものなのである。 (男女の事って、そんなにいいものなの?) 目がさえて、ちっとも眠れない。する事もないまま、姜は、自分の敏感なところにそっと手をやった。しばらく手をおき、その指先を見ると、かすかに湿っている。いつもと、何かが違う。 (結婚したら、伯扶様がわたしの体を…こういうところも…あぁ…) 眠気と妄想とが交錯する中で、姜は眠りに落ちていった。
8:左平(仮名) 2003/01/13(月) 21:06 四、 同じ頃。月を眺めつつ、酒を呑む男がもう一人いた。牛輔の父である。 (輔も、もうそういう年なんだな。月日の経つのは早いもんだ。あれから、もう二十年以上も経つのか…) そう感慨にふける彼の脳裏に、二十数年前の事が、鮮やかに思い起こされた。 その時−−彼は、一族とともに狩りに出ていた。夏の、暑い日であった。その日は、思ったほどの獲物は得られず、ひたすら野山を駆け回ったので、喉がからからに渇いていた。 (み、水は…) そう思いつつ野を進むうち、草むらが見えた。まわりより草が育っているところを見ると、近くに泉か川があるらしい。彼は、そちらに足を向けた。 思ったとおり、そこには泉があった。水は十分に清く、これなら飲めそうである。彼は、馬に水をやり草を与えるとともに、自分もその水を飲んだ。渇いた喉にとって、その水は実にうまいものであった。 ひと心地ついてみると、他の者からはぐれている事に気付いた。まぁ、もう子供でもないし、日も高い。慌てるほどの事ではない。 「さて、と…」 顔をあげた彼の目に、人の姿が映った。若い女性である。彼女もこの泉の水を飲んでいたところであった。 「あ…」 互いに初対面である。もう子供ではないが、かといって、異性を熟知するほどにはすれていない。二人は、ほぼ同時に顔を赤らめ、心もち下を向いた。 しばらくそんな状態が続いた。ようやく顔を上げ、勇気を振り絞って声をかけた。 「はっ、はじめまして! …お、お名前は?」 (なっ、何を言ってるんだ、俺は。初めて会う人に対してそう言うか?) 彼の頭の中は、ぐちゃぐちゃになっていた。相手は気を悪くしないだろうか。そんな不安が頭をかすめる。 「わっ、わたしは…。り、琳と申します…」 そう言った彼女は、手で口元を押さえ、うつむいたままである。男を目の前にして、恥じらっているのであろうか。少なくとも、気分を損ねたという事はなさそうである。少しほっとした彼は、気をとりなおして話しかけた。 「琳さんですか。いいお名前ですね。私の名は朗、牛朗と申します」 「朗さん、ですか…あの…」 「いかがなさいました?」 「あなたも…いまこの泉の水を飲まれたのですね?」 「はい…」 「では…あなたと…同じ水を…この唇が…」 そう言ったまま、彼女はなおもうつむいたままである。顔は、ますます赤くなっている。 そんな彼女に目をやったまま、彼も、動けなかった。 (きれいな人だなぁ…こんな人と一緒にいられたら…) 傍から見ると、呆けている様に見えたかも知れない。まさしく、一目惚れであった。 「お−いっ、朗、どこだ−っ」 沈黙は、その呼び声で破られた。ぐずぐずしていると、後で怒られそうだ。 (いけねっ。そう言えば、日も傾いてらぁ) 慌てて、彼は立ち上がった。彼女の姿をもうしばらく見ていたかったが…そうもいかない。
9:左平(仮名) 2003/01/13(月) 21:09 「では、琳さん。私は帰らないといけないので」 「あの…。朗さん」 「何でしょうか?」 「また…お会いする事はできませんか?」 「えっ? いや…その…」 意外な言葉であった。彼女の方も、自分に気があるのだろうか?だとすれば、願ってもない。 「そうだ、来月には、またここに来ると思います。その時に、ここで」 「はいっ!」 喜色を全身に表す彼女の顔が、輝いて見えた。その笑顔が、彼の脳裏に鮮やかに焼き付けられた。 それからの一ヶ月は、毎日が異様に長く感じられた。早く狩りの日が来ないものか、そればかりが待ち遠しかった。 「どうした、朗。最近、えらく落ち着きがないが」 そう聞いてくる者もあった。 「いや、次の狩りが楽しみで楽しみでたまらないんです」 「おかしなやつだな。こないだの狩りの時は、ちっとも楽しそうじゃなかったくせに」 「まぁ、あの時はあの時という事で」 彼は、そうとぼけるのであった。 そして、次の狩りの日が来た。その日は、まずまずの収獲であった。が、彼の目指すものは、そういうものではなかったのは言うまでもあるまい。 (琳さんは来てくれるだろうか) そう思いながら、記憶を辿りつつその泉に向かっていた。一月経っているので、草の生え具合も多少異なっている。が、この泉に間違いあるまい。 しばらく待っていたが、彼女の姿は見えない。 (やっぱり、そんな簡単に来てくれるわけがないか) そう、諦めかけたその時である。 草をかき分け、人影が現われた。忘れもしない、琳である。その後ろには、羊たちがついて来ている。こないだは気付かなかったが、そういえば、あの時も羊がいた様な…。 (羊を連れている…。琳さんは、ひょっとして羌族の女?) そんな疑問がわいてきたが、すぐに意識から消えた。何より、想い続けた人の姿が目の前にあるのだから。その姿は、やはり美しかった。彼は、自分の想いが強まっている事を感じた。 「お久しぶりです、琳さん。来てくださったのですね?」 「えぇ。…お会いできて、嬉しゅうございます」 そう言う彼女の瞳が、潤んでいる。そして、ゆっくりとこちらに近づいてきたかと思うと、いつの間にか、彼女の顔が目の前にあった。 「りっ、琳さん…」 体が、思う様に動かない。言葉を発しようとするが、然るべき言葉も出ないし、口も動かない。ただ…両腕を伸ばし、彼女の体をこちらに引き寄せる事を除いては。 二人の体が、密着した。牛朗が、琳を抱きしめたのである。 彼女の温もりが、息遣いが、匂いが、鼓動が伝わってくる。その全てが、彼の心を激しく躍らせる。いや、彼ばかりではない。彼女もまた、彼の全てに心を躍らせているのが分かる。 (このまま…こうしていたい…) 二人とも、同じ事を考えていた。
10:左平(仮名) 2003/01/19(日) 21:37 五、 「琳さん…」 「はい」 「私と…ずっとこうして頂けますか」 「それは…夫婦になろう、という事ですか?」 「…そうです…」 「わたしも…そうなりたいです。ですが…」 「ですが?」 「あなたは、隴西の牛氏の方ですよね?」 「えぇ…」 「わたしは、羌族の女です。それも、お分かりですか?」 「羊を連れていたから、何となくはそうかなと思いましたが…」 「あなた方隴西の牛氏と、わたし達羌族との事はご存知ですよね?」 「えぇ。承知しております。でも…この気持ちに嘘偽りはありません。あなたを知った以上、他の女と夫婦となる事は考えられません」 「わたしもです。どうしましょうか…」 「旬日(十日)、待っていただけませんか?」 「一体、どうなさるのですか?」 「何とか、一族の者と話をつけてみます。…旬日の後、またここで」 「はい」 二人にとっては、生涯で長い十日間となった。どちらの一族も、この結婚には大反対であったからである。その説得は、骨が折れるものとなった。 牛朗は、琳が羌族である事を隠しつつ話したのであるが、それでも困難であった。隴西の名門・牛氏としては、然るべき名家から妻を迎えるべきであるというのが当然とされていたからである。野で知り合った女など、どう見ても庶民の娘であろう。家格が合わぬと言われれば、それを論破するのは難しい。 琳の方は、なお困難であったろう。なにしろ、相手は漢人、それも牛氏の男である。羌族の敵と言っても過言ではない一族の男。どうしてそんな男と、と責め立てられたらしい。 しかし、障害が大きい故、想いはますます強くなっていく。そして、その日が来た。 結局、一族の説得はうまくいかなかった。琳の方はどうだったろうか。彼女を待ちながら、彼は、ある決心を固めていた。 琳が姿を見せた。いまひとつ、表情が冴えない。彼女の方も、説得は失敗したという事か。 「琳さん、いかがでしたか?」 「…」 言葉はなかった。 「そうですか…。こうなれば、非常の手段しかありますまい」 「非常の手段?」 「えぇ…。こうするのです!」 牛朗は、そう言うなり、いきなり琳を抱きしめた。そして、彼女が戸惑うのも構わず、強引に唇を押し当てた。初めは戸惑っていた琳であったが、すぐに受け入れた。 二人はしばらく抱き合っていた。 「ねぇ。さっきおっしゃった『非常の手段』っていうのは、一体…?」 「説得して認めてもらえないのなら、強引に認めさせようって事ですよ。私達がいま何をしたかは、分かるよね?」 「えぇ。朗さんったら、強引なんですもの」 そうは言いながらも、嬉しそうである。こうなる事は、彼女も望んでいたのだから。
11:左平(仮名) 2003/01/19(日) 21:38 「私達の関係がただならぬものとなれば、双方とも、追認するしかないはずです。あなたは既に男を知ってしまったし、私も、他家の女に手を出してしまった。あなたを私以外の男に嫁がせる事は難しいし、私も、あなた以外の女を妻に迎える事は難しい。そんな事をすれば、双方の家名は落ちてしまうでしょうから…」 「えぇ。そうなりますね」 「もちろん、危険な賭けなんだけど…他に考えつかなかった…」 「ねぇ、朗さん」 「どうしました?」 「行きましょ」 「どちらへ?」 「わたしの集落へ」 「いいですけど…どうなさるのです?」 「二人の仲をみんなに見てもらわないと」 それが何を意味するか。二人ののろけっぷりを見てもらうという様な、ほのぼのしたものではないという事は言うまでもない。 「そうですね」 下手すると、命がけである。だが、彼女とならば悔いる事はない。 二人は、同じ馬に乗って駆けた。 「あれがわたしの生まれ育った集落です」 「琳さん、いきますよ。…覚悟はよろしいですか? もぅ二度とここには戻れないかも知れないんですよ」 「構いません。あなたといられるのでしたら」 「琳さん…」 二人を乗せたまま、馬は集落に突入した。 「あっ、あれは…」 「琳さん! その男は一体…」 二人の姿を目にした人々は、口々にそう叫んだ。男女が同じ馬に乗るなど、漢人のみならず、羌族でも普通有り得ない事である。おまけに、男の方は誰も知らない。何故、琳とその男が同じ馬に? 「琳! おまえ…」 驚き戸惑う人々の中に、ひときわ堂々とした男が立っている。この集落の長であろうか。 「お父さま! わたしはこの方に嫁ぎます!」 (えっ!? 琳さんはここの族長の?) 牛朗は、少し驚いた。族長の娘となれば、彼女にかかった圧力は相当なものであったろう。それだけに、彼女の覚悟のほどがうかがえる。 (琳さん…) ますます、いとしさが募る。 「何を言っておるか! その男が何者であるか分かっておろう!」 「えぇ! でも…わたしたちは、もうそういう仲になったんです!」 「何と!」 それで、皆黙り込んだ。もう、二人を止める事はできない。 それを見届けると、二人は集落の外に駆けていった。その一部始終をじっと見つめる子供がいた事には、皆気付かなかった様である。 「朗さん、驚かれました?」 「まぁね。…まさか、琳さんが族長の娘さんだったなんてね」 「お気を悪くなさいましたか?」 「いえ。かえって、あなたへの想いが深まりましたよ。私の為にここまでしてくれるのかって」 「嬉しいっ」 琳がぐっと抱きついてくる。彼女の体温が、衣を通じて伝わるのを感じる。 「さぁっ。次は、私の番ですね」 二人は、そのままの勢いで、牛氏の邸宅になだれ込んだ。
12:左平(仮名) 2003/01/26(日) 00:43 六、 「あっ…!」 門を守る家人は、驚きを隠せなかった様で、しばらく動かなかった。二人は、馬から降りるとそのまま牛朗の居室に入り、もつれ合う様に倒れ込んだ。 牛朗は、男女の事については初めてである。おおよその事は知っているつもりであるが…。慌しく衣を脱ぐと、互いの体を愛撫し合う。 どうすれば、相手が悦んでくれるだろうか。試行錯誤しながらも興奮は募る。二人の呼吸は早くなり、体からは汗がにじみ出る。 (えっと…この先は…) 琳は、男を受け入れる態勢になりつつある様だ。自分のものも、もう張っている。さて、この先は… 現在では、義務教育の段階で性教育が為されるし、様々な媒体があるので、結婚する男女は、経験の有無にかかわらずその方法を(一応は)了知している。しかし、この当時には、そういうものは殆どない(前漢後期に春宮画【日本でいう春画。男女の性愛の様子を描いた画】の原型ができたらしいが、この当時、一般の豪族の家庭にあったかどうかは不明である)。 「朗さん」 「えっ?」 「これを…ここに…」 琳は、顔を赤らめつつ、朗のものに軽く触れると、自分のところを指し示す。 (そっか…。琳さんは、羌族の女だったな。羊の繁殖の様子を見てるから…) 牛朗は、変に納得した。 「じゃぁ…いくよ…」 「えぇ…うっ」 ついに、二人の体が繋がった。彼女も初めてなのか。琳の顔が、苦悶にゆがむ。 「琳さん、痛いの?」 「うん…ちょっと。でも、朗さんとなら…」 その表情と言葉がいとおしい。二人は肢体を絡め、初めてとは思えぬほどに激しく求め合った。 「はぁ…はぁ…」 事が終わり、けだるさと心地良さがないまぜになる中、二人はゆるゆると立ち上がった。ふと見ると、琳の腰に巻かれていた布に、血痕がついていた。 「これは…」 「これが…証です。わたしにとって、あなたが初めての男の人だという…」 「…」 二人の間にしばしの沈黙が流れる。これで、完全に退路は断たれたのである。 「朗! その女は一体…」 牛朗の父が居室に入って来た。その顔は上気し、今まで見た事もないほどに怒り狂っているのが分かる。普段の牛朗であれば、即座に叩頭して謝罪するところであるが、ここで引く事はできない。ここで引いてしまったら、琳を捨ててしまう事になる。 「父上! 私は…この女(ひと)を抱きました! この女との仲を認めて下さいっ!」 彼女を抱きしめつつ、そう叫んだ。初めて父に逆らったのである。 「何っ!」 「いかがなさいますか。…これを御覧下さい!」 そう言うと、琳の腰を指し示した。そこについている血痕こそ、二人の関係が既にただならぬものになった事を示す、何よりの証拠である。
上
前
次
1-
新
書
写
板
AA
設
索
小説 『牛氏』 第一部 http://gukko.net/i0ch/test/read.cgi/sangoku/1041348695/l50